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Speak Low,Speak Raw:オーディオにおける寛容と正直について

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私はほんの少しのことで世界を変えられると、本当に思っています。私たちそれぞれが、ほんの少しだけ自分自身を変え、少しだけもっと親切に、もっと愛情を示し、もっと寛容になれたとしたら・・

レディ ガガ


自分の仕事に、自分の言葉に、そして友人に正直であれ。

ソロー




これから申し上げることは、あくまで個人的な考えである。

また特定のオーディオ雑誌の記事、

あるいはそれに関してネット上に出ている呟き、やりとりとは直接の関係はない。

もし、間接的に関係があったにしても、

それはこの事を書くきっかけになったに過ぎない。

これはずっと前から温めていた話なのだ。



「音は人なり」ということは、

オーディオをやっていると時々に痛感するところだ。

スピーカーから聞こえてくる音には、そのスピーカーを設計・製作した本人そのものが出ている部分があるし、アンプやプレーヤーを作った人の個性や、そのオーディオシステムのオーナーの嗜好も現れている。オーディオとは所詮、ヒトのつくりしものであり、それを創った人の感性の反映そのものである。

そして、人間の感性は共通するところこそあれ、一つとして同じものは存在しない。

これは自然の摂理である。

それらの中身が互いに相反し、相容れない場合も多かろう。

例えば、あるスピーカーシステムの出す音を聞いて、

ある人はとても好ましく思い、隣で聞いていた別な人は少なからず不快感を抱くなどということは普通に起こることである。

なにしろ人間の頭の中身は当人たちが想像する以上に異なっているのだ。

オーディオが異なった感じ方をする人間の脳で認識されるものである以上、

いわゆる音に対する価値観の対立は避けられない。

このようなオーディオにおける対立をどのように処理するか。

それはオーディオの根底に横たわる永遠の課題なのかもしれない。


再び「音は人なり」と言おう。

もしそうなら

今私が聞いているオーディオシステムの音が、私にとって不快である場合、

少なくとも幾分かは、そのシステムのオーナー、あるいはそのスピーカーシステムの製作者、あるいはその音を好む人々と私は意見が合わない、という仕儀になりかねない。

さらに進めば、彼らとは一緒にオーディオを愉しむことはできない間柄だということにもなりうる。お互い経験に培われた自らの感性に自信を持っているなら、さらにその断絶は深まるだろう。もちろん、お互いにそうと分かっていて、それを口に出さずにすれ違うこともできるが、感情的になってどちらかが相手を非難するまでに至ることもあろう。(これら二つの感性を持つ両人を仲介する立場の人が居たとしたら、甚だ迷惑だろう)


さあ、ここで、ひるがえって考えてみよう。

果たして、このようなオーディオの価値観の断絶を放っておいてなにかまれるだろうか?

本人どうしの直接のディスカッションのない、このような内的な争いもしくは無関心はいくら静かであったとしても、生産的な意味はどこにもないと私は思う。

昔は比較的広い年齢層、しかも今より多くの人々が日本でハイエンドオーディオを楽しんでおり、また多くの人の心にはゆとりがあったからか、並存する他の意見を持つ人たちと議論を愉しむ余裕もあった。

しかし今、この素晴らしいハイエンドオーディオの世界を嗜む人の数は日本では確実に減り、メンバーは高齢化し、新参する若い人は少なく、新陳代謝もなくなりつつある。

その狭まってゆくパイの中で価値観の断絶の亀裂が深まっている気配がある

(その断絶の一面が最近ハイエンドオーディオの界隈で少しばかり噂にのぼっている、冒頭に述べたあの出来事なのかもしれない)


もともとそれほど大きくなかったパイを奪い合うように

ハイエンドオーディオメーカーや代理店はオーディオ誌や評論家を使って自社の扱う製品の宣伝をし、異なる嗜好を持つ顧客たちを取りこんできた。だが、そのパイは小さくなってゆくだけでなく、嗜好の断絶によって、ひびわれて、さらに小さく粉々になってしまいそうに私には見える。

もう既に日本のハイエンドオーディオは成熟や爛熟を通り越して、とても小さく老いた市場となってきている。

それがさらにひび割れて粉々となり、アナログとデジタル、PCオーディオとディスクメディア、ヴィンテージオーディオと最新鋭のハイエンドオーディオなどとジャンルごとに別れて小さくなることは避けた方がいいと私は思う。

そのことでそれぞれの分野で顧客が減れば、機器は高価格化し、

さらに市場は狭くなることだろう。

得をする者はどこにも居ないのではないか。

今一度、オーディオには正解がないことを思い起こし、謙虚になるべき時かもしれない。自分の感性の引出しを増やすとき、

異なる価値観を容れるポケットを増やすときがきたのだろうか。

それとも、もう遅いか。


確かに最新鋭の金属製のエンクロージャー・振動板を持つスピーカーと、木目の美しい米松のエンクロージャーと紙の振動板を持つ古いスピーカーが並んで立っている光景を私は個人宅ではほとんど見たことがない。これは財力の問題もあるが、個人が幾つかの嗜好性を同時に持つことの難しさも物語っているだろう。

だがそれはできないことはないはずだ。それぞれ異なる音を出すシステムは、異なる音楽にマッチングを示すはずであり、幅広いジャンルの音楽を聞く人ならば、オーディオシステムを音楽ジャンルにより使い分けられる。

この頃は、小子化で人数の少なくなった異なる地域の学校が合併して一つの学校になったり、女子校と男子校が合併して共学になったりするのを見るが、毎年開かれるオーディオショウも異なるジャンルのオーディオが合併して大きなショウとしてやった方がいいという話は以前からある。外国ではヴィンテージオーディオと最新のハイエンドオーディオ、ヘッドホンオーディオが同時に近い会場でショウをやる場合あると聞く。日本でも異なる分野が互いに緩いリスペクトをもって連合して、オーディオ界を盛り上げてもいいのではないか


様々なオーディオ、様々な音楽に親和性を持ち、多様性とともに生きることが、これからのオーディオファイルやオーディオ評論家には必要となってくるはずだ。言い換えればオーディオを遂行する本人の趣味人としての幅の広さがオーディオの深さも決定するということだ。その意味でも「音は人なり」なのだ。オーディオにおける音の深さの少なくとも一部は、異なる感性・意見を受け入れる寛容の深さなのだろうと私は思う。



もう一つ別な話をしたい。

何年か前に、ある画期的なヘッドホンアンプが発表され、そのプロトタイプが代理店の試聴室で公開されたことがある。何人かのヘッドホンマニアがそれを聞きに行き様々な感想をもったが、そのうちの一人がオーディオ関係のSNSで、このアンプの音について、かなり否定的な見解を衝動的に書いた。厳しい表現が織り込まれたその感想文は、そのアンプの特殊な出自や価格などと相まって、その界隈ではちょっとした物議を醸すこととなった。

結局、それを書いた当人は謝罪し、それ以上の書き込みをやめた。

そのアンプは一定数売れたものの、一年ほどでディスコンになり、幻のアンプと化した。


SNSに、この感想文が出た時、代理店は投稿者を特定しクレームを述べたと聞く。また、この文章を読んだ第三者たちも、これは不快でやりすぎた表現だという意見が多かったと記憶している。それらを踏まえて書いた当人は謝罪し、それ以上の書き込みをやめたのだろう。


これについて当時の私はどう考えたのか。

それを読んで、まず第一にこういう不快な言葉の入った書きぶりには問題があり、書き込みは消去すべきだと思った。しかし、その次に心の中に巻き起こった第二の感想として、初めの嫌悪とは逆に、それほどの衝動を巻き起こすとは、大したサウンドを持つアンプだなという、機材本体にむしろ強い関心を覚えた。さらに、第三の感想として、こんな文章を書いた彼の愚直さとパッション自体は稀有なものであり、それはそれで奇貨として珍重すべきだとも考えた。

つまり、そのアンプの音にかえって関心を強く持つことになって、結局それを買い求めることになったし、彼のやり方自体は全否定だが、最後は自分も正直な情熱にはあやかりたいとすら思ったものだ。


今、ふりかえってあの時の混乱、コップの中の嵐について考えると、あの人はとても軽率であり、関係者に迷惑をかけたかもしれないと思う。これはほぼ救いようのない話だが、ひとつだけ取り柄があるとすれば、彼の言葉に嘘はなかったように見えたということだろう。とても未熟だが純粋な感情が文章に表れていた。

逆に言えば、今日、プロの評論家の書くオーディオ評論を読んでも、失礼ながら、あれに比べるとどうも嘘くさく聞こえる。完璧な製品などどこにもないはずなのに、褒め上げるだけでほとんど欠点を指摘しない。感情のこもった表現も見当たらない。

そういう論調からは彼らのオーディオに対する純粋な思いは伝わってこない。それは煎じ詰めれば、彼らが大抵、自分の本心に正直ではない文章を書いているように見えるからだということになる。


プロの評論家が書くものの多くが雑誌というメーカーの製品の宣伝が大半を占めるメディアに掲載されることや、日本のオーディオ誌がほとんど実際の測定値をもとに評論を進めないこと、格調高い文体で評論が書かれないこと、オーディオ文化全体を俯瞰するような高尚な議論がなされなくなってきたことなど、長らくオーディオ誌を読んできた側から見て、この分野には問題が散見される。しかしやはり私にとって一番大きな問題はそれらではない。

つまりオーディオ雑誌の論評に正直で率直な意見をほとんど見なくなったということが最も残念なのである

読者の多くは機材の音を聞いた評論家の本心の感想が知りたいのだが、

彼らが本心から言っているのかどうかを判断する材料がない。

もしあるとすれば、ほぼ唯一、メーカーやそこに忖度する編集部の意向に反して、あえて彼らが機器の音を批判する動きに出た時だろう。そういう機材の出音に対してのいつもと違うネガティブな評論を見たとき、読者は良かれ悪しかれ、この人は正直者なのだと安心するだろう。読者とは単純な者なのである。


素人がネット上に製品の評価を書くようになって久しいが、それが始まったころから、わざわざお金を払ってオーディオ雑誌を買うことが疑問視され始めたと思う。

(モノにもよるが)ネットを漁れば素人の評価がザクザク出て来る時世に、

雑誌に載っているオーディオ評論にもはや意味はあるのか?

オーディオ雑誌を読みながら、SNS上の素人の書き込みについて思い巡らすとき、

常に頭をもたげてくる疑問だ。

ところで、SNS上の評価の書き込みという素人の行為が定着した後、

そのような読者の疑問を払拭するためにオーディオ誌はなにか工夫をしただろうか?

いやむしろ、ますます忖度臭の強い、当たり障りのない記事に傾倒していっているような気がするのは私だけだろうか。

現代においてはメーカーや代理店から広告費を貰っている雑誌の内容は、オーディオ関係に限らず疑われている。その疑念を振り払えるのは経験豊かな評論家の視点で書かれた正直さを感じる文章である。玄人が書く評論は音を単純な良し悪しで語ったり、個人的な嗜好を押し付けるのであってはならないけれど、忖度抜きにした評論家個人のありのままの思いがほとばしっていて欲しいものだ。


だが、もしかすると、このような批判を受け入れる余裕はもはや日本のオーディオ業界には残っていないのかもしれない。それというのも、以前はある範囲内において批判的な意見を述べてもそれほど問題にならなかったが、今は違うからだ。

昔とは環境が変わったのだろう。

以前の日本のオーディオ界では、引退しつつある評論家のS氏や故人となったY氏、N氏、A氏など皆一癖ある飾り気ない意見を随所で述べていて、それは丁々発止の面白いディスカッションの出発点となっていた。もちろん彼らの文章にしがらみや忖度がなかったとは言わない。しかし評論家としてのプライドや文体の格調の高さはテキストのそこここに普遍的に漂い、幾分か混ぜ込まれた忖度の醜さを覆い隠していたものだ。このプライドや文体を裏打ちするのは、彼らの正直さ・率直さだったと私は思う。しかしもう、日本のハイエンドオーディオにそういう正直さを受け入れるゆとりはないかもしれない。

少しでも高く、そして多く、今のうちに機材を売らなけれならないという空気が拡がっているようで、その流れを遮るものには容赦がなさそうだ。

この状況が長引くにつれて、顧客であるオーディオファイル本人さえ、正直な評価が読める喜び、それを受け入れる寛容を忘れつつある。これは初心を忘れたと言ってもいいかもしれない。

それは老いというものの一つの形にすぎないらしいのだが・・・。


実は、私が本当に危ぶむのは無批判な評論そのものではない。

そういう個々の無批判な文章に対して

無批判になってしまった読み手である我々の態度である。

日本のオーディオ界隈はまだそこまで劣化あるいは老化していないと

信じたいがもはや空しい。

それは私自身がもう老いていつか消え去るのを待つだからだ。

今、日本のハイエンドオーディオ全体にまん延する、どこかヌルい危機感、

そのヌルさの正体はなにかと考えれば、

私の言う空しさの意味はさらに深く理解できよう。

あのヌルさとは恐らく自分たちは逃げ切ったという、

私のようなバブル経験者の狡(ずる)い安心感なのだ。



ここらで二つの話を統合して決着をつけよう。

現代の日本のハイエンドオーディオについて

自分なりに出来ることがあるとすれば、

オーディオについて寛容と正直さを取り戻そうとすることである。

それらは若い人がハイエンドオーディオに入って行きやすい素地を作るのに役立つが、今足りていない要素でもあると思う。例えばアニソンを差別しない寛容(アニソン好きがJAZZを差別しない寛容も含めて)とか、ネガティブな意見でも率直に述べることができる自由な空気あった方が良いということだ

これは対立中の二人が冷静で理知的なディスカッションを、大人としてやりきる基礎が出来ることをも意味する。

(謝る前に、そういう対談を雑誌でやりたいと持ちかけるぐらいのバイタリティがあってよかったのでは)


おそらく寛容がなければ正直さも発揮できないし、正直でなければ、寛容の意味の半減するということがある。

これらはセットで必要なのだ。

我らとそれに続く者たちが、

いまここにある断絶を越え、押し寄せる老化と縮小を超えるために。



この文の表題の前半、Speak Lowとはジャズが好きなオーディオファイルなら誰でも知っているスタンダードの一節であり曲名である。

ビリー ホリディからボズ スキャッグスまで多くのシンガーが歌っている有名曲だ。

この部分の意訳は「愛を囁いて」となるのだろうか。

詩全体の大意は、

時は過ぎ去ってゆくものだから、

早く私に愛を囁いてというものである

そして、聖書にもあるとおり愛とは寛容を指すものでもある。

ここで私は、時は過ぎ去ってゆくものだから、

今こそ私達は寛容にならなくてはならないという意味を込めている

さらに後半のSpeak RawRawには「生の」という意味以外にも

不作法とか不器用という意味もある。

これは多少不器用であっても、正直でありたいという思いを込めた。

Speak Low, Speak Rawと二つ並べて書いてもLRの違いしかないが、

これは単なる繰り返しではなく、意味するところは浅くはない。

題として決して出来がいいとは言えないが、

いきなり硬くて偉そうな表題を書いて始めるよりはいいだろう。

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最後に告白しよう。

私はボズ スキャッグスの歌うSpeak Lowを聞きながら、冒頭に述べた、オーディオ雑誌の記事、あるいはそれに関してネット上に出ている呟き、やり取りを読み、上記のようなことを考えるに至った。

それにしてもこの曲は、いいオーディオで聞くと、

なかなかいい歌だし、いいサウンドだ。

ハイエンドオーディオシステムで、こういう歌を美しく聞く趣味が、

いつまでも日本で続きますようにと思って、私はここまでを書いた。

あとは目立たないよう、

ネットの片隅に、この個人的な考えを、そっと置いておこう。

誰か奇特な人がこれを読んで、微笑(わら)って許してくれることを願いながら。


by pansakuu | 2018-06-23 20:01 | その他