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モノラルレコード、マルツィ、バッハ、スプーンそして蝉時雨:或る回想


「それがたとえ、全く大したオーディオになっていなくとも、
深く心に残る音となりえることを、日々の経験で我らは知っているのである。
オーディオはいつも音以外の様々な要素に助けられて鳴り立っているからである。例えば、移り変わる季節、昇っては沈む太陽と月、インテリア、部屋の匂い、一杯のコーヒーとそれに入れる砂糖の量、付け合せた一粒のチョコレート、着ている服の色、椅子の柔らかさ、目を通している手紙の言葉など。それら日常の中の些細な出来事は侮りがたい音楽再生のエッセンスになりうる。良かれ悪しかれ、オーディオはそれを聴く者のライフスタイル全てと関わりを持つものなのである。」
1990年の某日のメモより

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私には一年に何回か、オーディオというものにまるで感動しなくなる時期が来る。
これは期待して聞きに行って、あまりにもつまらない音ばかり聞かされた後に決まって起こる。

この前、出掛けた“祭り”は私にとっては、どうも寂しいイベントだった。初公開を期待していた、いくつかの重要なモデルが出てきていなかったし、既に発表済のモデルや、定番モデルの会場での出音もパッとしなかった。今回出てきたいくつかのイヤホンは、音質のうえで随分と進化したことは認めるが、まだハイエンドなヘッドホンにはまるで敵わない。イヤホンを聞いて満足するのは、まだ難しい。丸一日かけて、ほとんどのブースを回らせてもらったが、どこへ行っても、何だ、この程度か、という徒労感があった。

収穫なく帰ったあの日以来、
何を聞いてもオーディオとしてはつまらなく感じる日々が続く。
トキメキが足りない。
しかし、概して、こういう時は、音自体はともかく、音楽に纏わるエピソードとしては面白いアイテムに出会えるものだ。
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今朝、
私の目の前に三枚のレコードが差し出された。
このタッセルのジャケットには確かに見覚えがある。
ヨハンナ マルツィの弾いたバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」である。無論、モノラル録音のレコード。オリジナルは1950年代のEMIの盤である。だが、こちらは入手困難なオリジナル盤ではなく、復刻盤ならぬ復元盤だそうである。つまり可能な限り、このレコードの製作当時の機材を集めてレストアし、往時と同様に稼働させ、オリジナル盤を復元したものであり、最新の技術でマスターテープの情報を余すところなく吸い出そうとしたような、あるいは企画者のこの演奏に対する思い入れが強く入ったイコライジングを施したような、ありがちな復刻盤というものとは異なるらしい。
この盤のオーナーは、3枚組で十何万なんていうレコードを買うヤツは酔狂だ、などと自分のことを他人事みたいに吹聴しながら上機嫌である。
早速、自慢のスパイラルグルーヴの皿回しに乗っけて聞いてみようということになった。
グラハムのアームにつけられたカートリッジは最近発売されたばかりの日本製のモノラル専用のカートである。
私は例によって、クラシック音楽はあまり聞きたくない気分だったが、復元盤というところが引っかかった。どんな音がするのだろう?あの時聞いたオリジナルと比べてどう違うのか?

ちょうどオーナーに電話がかかってきた。
彼が席を外している間、私はターンテーブルの上で、針を落とされずに空回っている綺麗なレコードと鄙びたデザインのジャケットとを、代わる代わる見比べていた。
わざわざ活版印刷された克明なタイトルのアルファベットと、左端にあしらわれた柔らかなタッセルのイラストが、机の奥にしまいこまれているはずの小さな銀のスプーンと、それが私の手に落ちた経緯とを想い起こさせた。
まだ、鼓膜の外には、いかなる音も聞こえないのだが、
既に私の頭の中にだけは、あの夏の蝉時雨が微かに聞こえていた。


ある人を怒らせたせいで、私は真夏のひと月あまりの間、芦屋の親戚の家の離れの部屋に隠れていたことがある。そこは大きな中庭のある洋館のような家で、庭の隅にレンガ造りの離れ座敷があった。湿気が籠って居心地の悪い、窓が一つしかない暗い離れは、その家の主人が書斎に使っていたらしいが、私はその人の顔も覚えていない。かなり小さい頃に、その人に手を引かれて、庭を散歩していたと皆が言うのだが全く記憶にない。そこには私の知らないその人の遺したトーレンスのアナログプレーヤー、マランツのプリアンプとパワーアンプ、そしてアルテックのスピーカーが眠っていた。
当初は目の前のオーディオシステムは結線してあるのかどうかさえ不明であったし、またそれを調べたうえで、その家の女主人である老婦人に許可を取ってまで聞くような気分でもなかった。
私はまず、持ってきたガルシア マルケスの「族長の秋」を読みふけった。二回読んだが、それでも5日とはかからなった。あまりにもヒマだった。
クーラーもない蒸し暑い離れの部屋で窓を開け放つと、青空と入道雲が私を見下ろしていた。

来る日も来る日も、中庭の木々から蝉時雨が降り注いだ。
私はついに退屈に耐えかね、老婦人に許可を得て、アルテックを鳴らしてみることにした。
鳴らすにはレコードが必要である。その家にはパソコンはもちろん、テレビもなく、本もなかったが、ダンボール数箱分の古いレコードがあった。舞い上がる埃に窒息しそうになりながら、箱の中身を調べてみると古いモノラルのクラシック音楽のレコードばかりであった。

私はその頃、世の中の全てのものに食傷し、飽きたような気分であった。その勢いで、クラシック音楽という手垢の付いた譜面を辿る演奏など聞きたくもなかった。それが正しいとか間違っているとかではなく、とにかく、そういう気分だった。しかし、バッハの音楽だけは、なぜか許せるような気がした。私は英語を読むのも面倒だったので、とにかくBACHと書いてあるレコードを探した。

有った。
それが、ここで回っているヨハンナ マルツィの無伴奏のオリジナル盤だった。その頃は彼女の名前は知らなかったし、オリジナル盤の価値など知らなかった。BACHとタイトルにある音楽は、さしあたりそれしかなかったので、それをかけることにしただけであった。
このレコードについてはなんの予備知識もないが、まあ、いいだろう、これはつまらなくてもいいのだ。これはBGMで、退屈を紛らわせることが役目で、音も演奏もどうでもいい。
そう自分に言い聞かせ、まともに動くかどうかテストもしていないトーレンスに、それを乗っけてスイッチをいれた。ターンテーブルは、一応とどこおりなく回ってくれた。手の動きは慎重に、しかし心中では投げやりに私は針を落とした。

音が出た。

蝉時雨の中に、バッハが設計し、マルツィのバイオリンが紡ぎ出す形而上学のような旋律がゆっくりと、しかし確実に溶け込みはじめた。

この時に取ったメモを繰っていると、その時の光景を思い出せる。

私はクーラーのない薄暗い部屋の真ん中に一人座りのソファーを引き出して座っていた。隙だらけの格好で、滲みだらけの天井を見つめていた。私は大概のことに絶望したような気分だった。人間の抜け殻のようなものが、そこに座っていただけだった。あの年の夏は暑かった。真空管アンプの熱はなおさら部屋の気温を上げていた。流れ落ちる汗を拭う気も起らないまま、ボリュウムを上げて、マルツィの演奏に私は聞き入った。モノラルレコードが削り出す、ブロンズ像のような音像がスピーカーからせり出し、蝉時雨とブレンドされて、放心した私に覆いかぶさるように響いていた。アルテックが朗々と歌っていた。あの時の音は近かった。音場というものは、ほとんど感じられなかった。まるで手を伸ばせばマルツィの柔らかな首やしなやかな手に触れることができそうな場所で音を聞いている感覚であり、逆に録音時の部屋の広さや天井の高さなどというものは全く分からなかった。彼女の弓さばきが見えるという感じもなかった。ただ弦が擦れる接点とそれが響くバイオリンの胴の震えが見えていた。音の解像度も低かったし、ノイズも多く、歪みもあったけれど、サウンド全体としての満足度は不思議と高かったように思う。あれは目には決して見えないはずの音自体にダイレクトに迫る再生だったからだろうか。あの部屋でのレコードの演奏は精密なバーチャルリアリズムの世界ではなく、基底現実そのものを突きつけるもので、物理的に実在する、重過ぎぬ重さや熱いとは感じない熱を伴う波動に満ち溢れた音であった。再生音楽でありがら、イミテーションとしての嘘が見当たらなかった。今すぐにでも高いところから飛び降りてラクになりたいと願っている、一人の弱った男を打ちのめすのには、十分な実在感を伴う音だった。

マルツィは、私がその後に聞いた21世紀の凡百の無伴奏とは、異なる奏(かなで)を聞かせていた。現代のバイオリン弾きの歯切れよく、闊達で素早いやり方、技術も情熱も分かりやすく、そして時に過剰に演出されていたり、逆に機械のように淡白な弾き方とも異なっていた。
有名なシャコンヌの冒頭の、一聴してどこかダラッとしたような大らかな弾き方など、私にはかなり違和感があったが、これは時代の味わいであり、香りであると思い直したというか、思い過ごしたのが懐かしい。

バッハの書いた古文書を読み解くマルツィの筆致は大概は軽やかに、しかし時に厳かだった。音色に適度な芳醇さのある彼女のバイオリンの語り口は、あくまで典雅であった。あくまで高潔で、寛容に満ちていた。そして、やはり古風だった。この演奏と再生音のコンビネーションはバッハの作曲の素晴らしさを香り高く伝えるのに十分だった。
私は、その時、バッハという人に、世界はこんなに美しいのだから、まだ生きていた方がいいと言われたような気がしたことを告白する。
当時、私は弱くありたくはなかったし、弱った自分を認めたくなかった。それゆえに、あらゆる救いを求めなかった。しかし、その言葉はどう取り繕っても私にとっての救いとなった。

美しく作られた曲を美しく演奏し、その演奏を時を超え美しく再生する。この音楽体験の最後の部分を担うのがオーディオなのだが、その方法はひとつではないし、最新の方式が過去の方式を否定できるほど単純なものじゃないと、あの音を聞いていて分かった。それまで、モノラルレコードの再生などというものは過去の遺物であり、現代のオーディオにとっては否定すべき異物であるかのように思っていたが、それは間違いだった。

そうは言っても、ああいう古いモノラル録音のレコードを、ああいうヴィンテージのシステムで聴いて感動しようという時は、感性のモードを特殊なモードに切り替えなくてはならないのも確かであった。アナログ再生というのは古典的なお芝居のようなもので、その約束事にしたがったうえではじめて感動が得られるものだといった人がいたが、その通りである。ダイナミックレンジが狭いので、ちょっと大きな音が出ると出音が飽和してしまい、そこを誤魔化したみたいな音が瞬間的に出たりする。全体に微妙に歪んでいたり、バイオリンの音が遠かったり、背景のホワイトノイズが耳についたり。指摘すべきオーディオ的な瑕疵は多々あるのである。また、こういう音に色彩感があるという人がいるが、実はそれは水墨画で言う、墨に五彩ありという意味であり、つまり奏者の手錬手管に触発された聴き手の感性をもって音に色彩を付与せよということでしかないように思う。確かに音像の力強さ・太さや、楚々として清冽なバイオリンの擦れ音の味わいなどはモノラルレコードならではのものである。ただし、それは並み居る欠点を全て無視してから楽しめるものである。古いモノラルレコードを聞く時は、それらもひっくるめて味わいとして楽しめる心理状況に自分を持っていくことが必要な時なのである。とはいえ、その心境は単に寛容になるなどというものとは程遠いのは覚えておくべきだ。それはモノラルのオーディオというステレオとは別な拘りに執着するようになるだけのことである。オーディオはやはり拘りの塊であることには変わりはないのである。

事件が落着し、芦屋の家を出てよいという知らせが来るまでの4週間、私はほぼ毎日マルツィの無伴奏を汗をだらだら流しながら聞いて過ごしていた。他のいかなる音楽も受け付けなかった。

この家のただ一人の住人であった老婦人は私に気を使って、よくお茶に呼んでくれた。
居候の私は、Tシャツにジャケットを羽織り、クーラーのきいた居間に出てきて、小さなカップで砂糖をたっぷり入れたコーヒーをすすった。
こうして何もしないで離れに帰るだけでは申し訳ないと私は思い、持ってきたガルシア マルケスの本の中から、好きなシーンを選んで彼女に朗読してあげることにしていた。孤独な老婦人は大変喜んでいるように見えた。南米の独裁者である主人公が幼馴染の将軍を暗殺したりするくだりがなぜかウケがよかった。老婦人は耳は悪くなかったが、音楽には興味がなかった。一方、目が良く見えない方であり、細かい字などは読みたくても全く読めない状態であったから、この拙い朗読のサービスでさえ、彼女の退屈を紛らわせるには十分だったかもしれない。
ホテルのロビーのような広々とした居間で、毎日、私たちは二人きりで長い午後のお茶の時間を過ごした。ソファーの向こうには木と雑草が茫々に生い茂った手入れのされていない中庭がずっと見えていた。蝉時雨が降り注ぐ、その庭には夏そのものが繁茂しているように見えた。
「あなたの部屋から音楽が聞こえるので、主人が帰ってきたような気になりますよ」
彼女はそう言っていた。その言葉の時だけ、皺の奥に控えめに嵌め込まれた小さな目が輝いたような気がした。
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重たい防音ドアが、まさに重そうに開いた。
静寂は破られた。
オーナーの電話は終わったらしい。
彼は前置きもなくターンテーブルに駆け寄ると
迷うことなくアームリフターに指をかけ、
慎重に、そして無慈悲に、針を盤に降ろした。

最新のシステムと音響調整のなされた明るくて広々したリスニングルームで聞く、復元盤のヨハンナ マルツィの演奏は、あの時とは違っていた。それは、かつて芦屋の夜昼の区別がつかないような離れで、くたびれたソファーに座って私が聞いた音とは似ても似つかないものだった。おそらく、そんなはずはないのだが、私には演奏自体が確かに異なっているように聞こえた。ここで聞こえるのは悪い音ではなく、むしろかなりいい音だった。ノイズは少なく、歪みらしいものは極小、しかもマスターテープからの移行の過程で、復刻盤を作る側のエゴのようなものが載っていないと思わせる朴訥で素直な音だった。モノラル盤の良さである音像の立体的な張り出しも申し分なく、古い録音らしい、その時代特有の香りも高いものだ。にもかかわらず、その感動の段差の大きさに愕然とさせられた。片面を聞き終わっても、マルツィの演奏技術とレコードの造りの見事さ以外は、なにも感じなかった。それでいいじゃないかとオーナーは笑ったが、私は内心で狼狽していた。これだけの再生が出来ているのに、肝心のバッハの声が聞こえない。これは音が良すぎるからだろうか?

ロケハンに行った時にあった雲が、本番の撮影時には(当然)なくなっていたので、そこでの撮影をあきらめたという黒沢明監督の逸話があるが、今朝の再生では、その雲にあたるところの雰囲気が全く欠けていたので、音楽に没入できなかったのだろうと私は思っている。
実際、オーディオを聞く側の心理などというものはオーディオシステム自体にはどうすることもできないものだ。しかし、それは音楽を深く聴き込むという行為には深い影を落とすのだ、否応なく。違う場所、違う時代、違う心で音楽に向き合うのに、同じ感動を求めることはできないはずだ。その時に自分の置かれた立場や心理状況は勿論、周囲のインテリア、空気の温度や湿度、匂いなど何気ない物々さえも、十全の音楽再生の成立を危うくしかねないと知るべきなのだ。特にヴィンテージのモノラルレコードのように、それを聴くために心の準備を必要とするものはなおさらだろう。

私は失望と安堵が入り混じった気分で自分の部屋に帰り、これを書き始めた。
書き飽きると、探し出した小さな銀のスプーンを取り上げて、指でクルクル回した。
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とうとう、芦屋の家を出て、帰れることになったので、老婦人にお礼を述べに行った時のことである。
彼女は、私がお茶の時間に使っていたカップとスプーンを持ってきて、自分の歳を考えると、もう二度とお会いすることもないかもしれないので、記念に持って行ってくれと言った。私はこれだけ厄介になっておいて、なにかをもらって出てゆくのは気が引けた。それに、その日は朝から土砂降りの雨で荷物を増やすのも憚られた。しかし、ご厚意を無にするのもなにかと思い、移動中に嵩張り、かつ破損するやもしれないカップは辞退して、持ち運びやすく壊れないティースプーンだけを取り、レインコートの胸ポケットにしのばせたのである。

かくして、この銀のスプーンは私の手に落ちた。

スプーンに瓢げたような自分の顔を映しながら、あの頃を回想する。
老婦人は彼女自身の予想の通り、既にこの世の人ではなく、芦屋の家も取り壊されて今はない。
私が、あのマルツィのレコードの音を聞いたという直接の証拠はもうないが、このスプーンが間接的にその証になるだろうか?
あの時、カップを貰っておけばよかったのか?あの朝、雨さえ降っていなければ、そうなったかもしれない。今夜、あのカップを出してきてコーヒーでも焙れれば、あの思い出の中の音はさらに香り深いものになったろうか?
マルツィの無伴奏のデータならどこかにあるから、たまには聞いてみようか?
アンプはスタンバイできている。
だが、それは今日聞かされたレコードの二の舞になるのでは?

やっぱりなにも聞かず、アンプの灯は落としてしまおう。
表面上は沈黙と静寂を良しとしよう。
今はただ、あの暑苦しい部屋の中で、
なにかにすがるように必死で聞いたマルツィの無伴奏を、私の中に聞いていたい。
あの夏の蝉時雨とともに。
途切れることなく。

by pansakuu | 2013-05-29 22:34 | 音楽ソフト