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ヤマハ YH-5000SE フラッグシップヘッドフォンの私的インプレッション:進化の極み
生き残る種とは、最も強いものではない。
最も知的なものでもない。
それは、変化に最もよく適応したものである。
byダーウィン
Introduction:
そのヘッドフォンが発表されるという告知を見たのは、イベントの9日前だった。前振りのない突然の告知であった。
私はその日までプロジェクトが存在することを知らなかったし、
また、その告知の内容というのも楽器メーカーYAMAHA(ヤマハ)による未発表のフラッグシップヘッドホンをイベントで試聴できるというだけの話だった。YH-5000SEという型番はおろか、そもそも、それが製品化されるのかどうかすら不明なヘッドフォンについての告知であり、かなりフワッとした曖昧な話のように見えた。
確かに、その告知によって、本社が多種多様な楽器の生産で音楽芸術に貢献したり、関連会社が世界のモータースポーツにおいて名を挙げたりしているヤマハという大企業が、本格的にハイエンドヘッドフォンという分野に乗り出してくるらしいことまでは分かったが、その中身がどれほどのものかについては、まるで情報がなかった。過去にもこのような話を、ビクターやオンキョーなどから聞かされた経験があったものの、実物にあたってみると、ほぼ空振りに終わるようなケースもあったから、私は話半分に受け取って、それほど意識しないで居た。
当日は雨だった。台風が近づいていた。ヘッドフォン祭りが天候に恵まれないのはデフォみたいなものだが、そんな悪天候の日にはヘッドフォン界にとって節目となる製品が発表されることが多いような気がする。始まりはいつも雨、というのはオーディオの世界において、必ずしも洒落では片付けられない経験則なのである。
その日、私は開場直後に整理券を取りにヤマハのブースへまっすぐ向かった。そうしなければならないという、勘が働いたのかもしれない。
実際、危なかった。私が取れたのは残っていた最後の方の整理券であった。
ほぼラスイチというやつである。つまり、開場から約7分で試聴の全ての席が埋まったことになる。恐ろしい人気だ。有名企業とはいえ、ハイエンドヘッドフォンにおいて目立つほどの実績があるとは言えないヤマハの製品にこれだけの人が関心を持つとは・・・。コロナ禍のヘッドフォニアは気の利いた新製品によほど飢えているのか。それとも私と同じく、告知に添えられていた小さな写真に何らかの勘が働いたマニアが多かったのか。
したがって試聴までにたっぷりと時間があった。
私は会場のブースをひとつひとつ周り、
エンジニアさんたちの話を聞いたり、失礼な要望や献策を述べたりした。
今回のヘッドフォン祭りではハイエンドヘッドフォンは豊作で退屈はしなかった。Final D8000 pro Limitedは既存のFinal D8000 proのイヤーパッドの側頭部へのアタリの部分を和紙に変え、全体の塗装とパンチングメタルのメッキを変えただけの製品だと説明していたが、どうしてどうして、装着感はしっかり向上、音のグリップもイヤーパッドを改良した影響か良くなっていて、もともと高い完成度はさらに高まっていた。
またFocalの旗艦機Utopiaの改良版であるFocal Utopia SGも素晴らしい仕上がりを聞かせていた。初代のスピーカーのような濃厚な鳴りの良さはそのままに、欠点だったピーキーな音の雰囲気、アンプを選ぶ、あのクセっぽさがほぼ抜けていて、見ようによっては全方位的とも言える優等生に生まれ変わっていた。以前フライング的にレポートを書いたDan Clark Audioの密閉型のリファレンスSTEALTHも本格的に試聴できる状況だったし、音のバランス感覚に優れたAudezeの旗艦LCD5のディフュージョン機であるMM500も30万円台のヘッドフォンの中では図抜けたコストパフォーマンスであった。確かにDan Clark Audioの新型機、開放型のフラッグシップであるEXPANSEがイベントに間に合っていたら、この日の試聴にさらなる華を添えることとなっただろう。だが、そこらへんは9月中には店頭で試聴できるようになるとの情報があっただけ良しとすべきか。
ただし、ここまで聞けたハイエンドヘッドフォンの新製品のほとんどは全くの新製品ではなく、既存の定評ある製品の改良型であった。また今回聞きたくて聞けなかったEXPANSEにしても、そのデザインは同社のSTEALTHを踏襲する部分も多く、全く未知のものとは言えない。しかしヤマハのフラッグシップヘッドフォンに関しては、全く新規の、誰も知らない機材なのであった。
Exterior:
かなり昔のことだが、ヤマハの二輪部門が独立してできた会社であるヤマハ発動機が作ったF1エンジンを見たことがある。コンパクトで軽いエンジンだが600馬力以上を発生、地味なスペックだがフェラーリやマクラーレンを初めとする海千山千の老舗コンストラクターを相手に新参として立派な戦績を残した。また、ヤマハ発動機が世界トップの大企業トヨタのクルマに使われるエンジン開発を請け負っているという話もある。トヨタは自社にもノウハウがありながら、効率を重視してエンジン開発をヤマハに依頼しているらしい。例えばレクサスのスーパーカー、LFAに搭載されたV型10気筒DOHCエンジンはヤマハの手になるものである。ヤマハ発動機の本業であるバイクでもそうなのだが、ヤマハのエンジンはコンパクトで軽くても、出力が大きく精緻に動作して信頼性が高い。
このヘッドフォンの開発にエンジンのヤマハ発動機が関わっているとは思えないが、私が手にしたヤマハYH-5000SEのルックスや感触は、まさにそのエンジンのイメージに一致する。実際、YH-5000SEは他のハイエンドヘッドフォンより明らかにコンパクトで軽い。さらには後述するように音質においてもかなりの高性能を発揮する。そして、このヘッドフォンの形や仕上げ、色といった外観からはどうも楽器らしい雰囲気がしない。このメカメカしく精悍な外観からは、私を素晴らしいスピードで遠くへと連れて行ってくれるモータースポーツの香りをむしろ感じてしまう。軽い車体に強力なエンジンを乗せたスーパーカーのような印象は確かにある。
とはいえ、実際にこのヘッドフォンの企画・製造を手掛ける、ヤマハ本体については世界最大の総合楽器メーカーとしての側面が俄然大きい。あのベーゼンドルファーすら傘下に収める、ピアノ生産世界一の地位を50年近く誰にも譲っていないこの大企業にオーディオに関する独自のノウハウがないはずはない。それはYH-5000SEのサウンドに大きな影響を与えているのだろう。
ハイエンドヘッドフォンというと、やはり大きく重いものだというのが常識である。現代ハイエンドヘッドフォンの始祖と私が勝手に考えているHD800という製品は、厚みや重さはそれほどでもないが、当時としては巨大な口径を持つドライバーを搭載し、側頭部を広く覆う大きなハウジングを特徴としていた。そしてゼンハイザーの後を継ぐように現れたFinalやMEZE、HiFiman、Audeze、Focalなどのメーカーの製品でも、さらに大きなハウジングが見られるようになってきた。ついで重さについては、AudezeのLCD4やAbyssのAB126Phiなど、重量600g以上のリスナーの首の筋肉と骨を破壊しかねない重さを押し付けて来るケースは極端としても、400gを越えるハイエンドヘッドフォンは多数ある状況となっている。長時間のリスニングを連続して行うような場合に首と肩の筋トレを要求しそうなモノはザラなのだ。
ヤマハYH-5000SEは、まずハウジングがコンパクトである。マグネシウム製として軽さと剛性を両立させた複雑な形状のハウジングはハイエンドヘッドホンの中では異例に小さい。それは掌にすっぽりと隠れてしまう大きさである。私が扱ってきた高音質なヘッドフォンのほとんどは指をきちんと広げないと全体をつかむことができないものばかりだったのであるが、これは、なんなら人差し指と親指で摘(つま)めそうな気分があるほど小さく見えた。この小ささは内部の反響を小さくし、ハウジングの剛性を高めるという形で音にも効いているだろうが、それ以外に装着したときのリスナー自身のルックスを良くしてくれるのがいい。例えばMeze empyreanなどは装着感は最高だが、家族にナポレオンハットみたいだと言われたことがある。大きなヘッドホンは耳の横に張り出した奇妙な帽子のようで、リスナーが変な人に見えることがある。YH-5000SEにはそういうオタク的な外見の不様さがない。
そして軽い。320gしかない。この軽さこそはヤマハYH-5000SEの最大のポイントである。ハウジングのルックスがメカニカルにゴツゴツしているので重いのかと思いきや、持った途端に腕がスッと上がってしまうほど、予想外に軽く感じる。装着するとますます軽い。頭にピタリと吸いつく感じで、適度な側圧と相俟って装着(つけ)ていることを忘れそうになるかもしれない。これほど軽いので側圧を強くしなくてよいというメリットもありそうに思う。特に平面駆動型のヘッドフォンとして他社製品と比べた場合、異例に軽くできている。現代は音質面で平面駆動型のアドバンテージが知られており、高音質ヘッドフォンを開発する場合、この方式を採用するメーカーも多いが、構造上、他の方式に比べて重くなりやすいとされる。
私が現在メインで使っている平面駆動型のFinal D8000proは音質は文句なしだが、やはり重たく、装着感は最高とは言えない。音質のためとはいえ523gという重さは長時間のリスニングを苦痛なく繰り返すために筋トレが必要なレベルだと言う人までいる。一方、オーディオのやるのにスピーカーではなく、あえてハイエンドヘッドフォンを所有する目的として、静かだが、それだけにむしろ騒音にナーバスとなる、深夜における長時間のリスニングがある。これまで、そういったディープなリスニングは、ヘッドフォン自体の重量から来る筋肉の疲労により、人によっては苦行であった。
しかし、YH-5000SEの軽さはそこからヘッドフォニアをすっかり解放してくれそうなのである。それは音質とは直接関係ないことだが、ハイエンドヘッドフォンにおいて非常に重要な進化と考えられる。高音質を保ちながら軽量化・装着感の向上を進めることは、これまで技術的に困難であったが、ここをついに克服するメーカーが現れた。
もちろんヘッドフォンの世界においては、オーディオテクニカに重量270gのATH-ADX5000という最軽量の記録保持者がいる。だが、このヘッドホンのサイズはYH-5000SEよりは明らかに大きいと感じるし、装着感や音質が一世代前のものと私には思われるので、YH-5000SEとは直接は比較しにくい。というか、個人的な結論を言ってしまえばYH-5000SEの方がATH-ADX5000より音質的に上位の機材と私には聞こえる。またYH-5000SEは40万円から50万円の間で販売されるものなので、26万円のATH-ADX5000とはそもそも価格帯がかなり違うということもある。
YH-5000SEの外観には見どころが多い。
最近これほど見所が多いヘッドフォンに出会っていない。
これだけ軽いと盛り込む要素も最小限とされ寂しい作りになることもあるが、こいつは逆に馬鹿馬鹿しいほど作りが良く、物量投入も目覚ましい。
実物は部品点数が多いうえ、一つ一つに特殊な素材や仕上げが施されており、クオリティーを保持しつつ組み立てるのはさぞ困難だろう。
YH-5000SEはヤマハのグランドピアノを生産する国内工場において、
専門の社員が製造を担当する予定だという。国外工場ではクオリティコントロールが困難なのかもしれないし、賃金や為替の関係で国内に生産回帰する企業の動きを反映しているのかもしれない。
私がまず目をつけたのは、ハウジングを構成するマグネシウムの格子に張られている黒いメッシュである。これはよくある金属メッシュではなく、特殊な織り方をされた化学繊維である。いわゆる宇宙素材であり、極限の世界で人間の生命を護る宇宙服を作るための材料である。製造は困難だが強度が高く軽い。恐らく、やめた方がいいのだろうが、このメッシュを実際に指で押してみると弾力があって反発する。空気の圧を素通しするように設計されているのだろうか。この部分にこの素材をどうして使ってきたのかは素人にはわかりにくいが、これは普通のヘッドフォンではまず使われない素材であることは確かである。ヤマハのようなハイテク企業でなければこんなものを持ってくることはできないだろう。さらにその奥には、これまた特殊な織り、畳の織り方を適用したという圧延平織ステンレスフィルターが控えており、これで音抜けを調整している。解放型ヘッドホンでありながら、密閉型ヘッドホンの利点たる音の密度感をも適度に取り込みつつ、十分な開放感も得るために選択されたパーツだという。
ハウジングを掴んで、ヘッドバンドに連結するマグネシウム製のアームももちろんだが、そこに連なるスライダーの作りにも目を見張る。摺動部にクロームメッキが施され、他社製品より動きが滑らかになっている。Final D8000を初めとする、今迄のハイエンドヘッドフォンにはこういう部分への配慮がまだ足りなかったかもしれない。実際にヘッドホンをかぶってみるとスライダーが頭の大きさに合わせてスムーズに動いて柔らかく止まる。また、この部分はヤマハの過去の製品であるHP-1によく似ていることにも気づく。会社の伝統や製品の持続性を主張しようとする姿勢も見て取れる。
ヘッドバンドは一見すると一枚革の普通のモノようであったが、よく見るとそうではない。縁返しなどがあって立体的に縫製されており、頭頂部が痛くならないように柔らかさやハリが巧みに調整されている。
もっとも、頭頂部が痛くなる原因の多くはヘッドフォンの自重が大きすぎ、側圧のみではズリ落ちるのを防ぎきれないため頭頂部に負担がかかるためなので、ハイエンドヘッドフォンとしては自重がかなり軽い部類のYH-5000SEでは、この苦痛を味わうことは、そもそもなさそうだ。
そういえば以前、ある人がゼンハイザーのHD650の音を良くするために特別なイヤーパッドを開発しようと企画を始めたが、問題があり頓挫したの間近で見たことがある。立体縫製された理想のイヤーパッドは完成していたのだが、それを専門業者に発注しようとすると千個単位でしかうけつけてくれない。その資金が揃わず断念したのである。
こういうものを一つの製品に対して二種類も作って同梱できるのは、ある程度の資金力を持つ大企業だけである。
このヘッドフォンはリケーブルが当然だが可能である。
付属するヘッドフォンケーブル本体はSONYのMDR-Z1Rに使用されるキンバーケーブルのリケーブルによく似たブレイド構造のケーブルである。線体の外被の色はパープルがかかった灰色やメタリックブルーグレーが混在しており、ブラック仕上げのヘッドフォン本体との色彩的あるいは質感上でのマッチングが上手いと思った。これはメカニカルビューティーを引き立てる配色だ。こちらを見てしまうとSONYのリケーブルは少なくともその点では失敗しているかもしれないと思う。
なおキンバーに似たブレイド構造とは言っても、編み方はどうもキンバーのそれとは異なる、より複雑なもののようで、しなやかさや軽さも十分に確保されていた。
ケーブルのヘッドフォン側の端子は3.5mmモノラルであって特殊なものではなく、挿入してはめ込むだけのシンプルな構造である。Focal Utopiaで使われるような特殊端子ではないし、MDR-Z1RやD8000のような特別なロック方式も採用されていない。
なお、ヘッドフォンのジャック(差し込み口)を支えるパーツが、なぜかイエローのプラスチックブロックになっているのは面白い。このヘッドフォン全体はつや消しのブラックで仕上げられているのだが、ここだけ黄色いブロックが、わざとはめ込まれているとは。こういう部分からも、なにか只者でない雰囲気が漂う。
また、ケーブルのアンプ側の端子については3.5mmのステレオ端子と6.3mm標準ステレオアダプター、4.4mmのバランス端子が付属し、XLR4pin端子のケーブルは別売りのオプションとなる。このケーブルについては現時点で価格は不明である。
付属する端子の状況から見て、据え置きアンプ以外のDAPで聞かれることを十分イメージして設計されていると思われる。今回の試聴ではDAPを使っていないものの、実物を聞いた限り、DAPとの相性が悪いという感じは持っていない。
さて、このヘッドフォンには黒い金属製のヘッドホンスタンドまで付属する。ここまで記した以外のオプションの有無については不明だが、本体の他、イヤーパッド、ケーブル、スタンドも同梱すると結構な大きさの箱になりそうだ。ちなみにハイエンドヘッドフォンはよくある話、これら全てを収めるトランクなどがつくかどうかについては不明である。
部分的にゼンハイザーのHD800やHD700をどこか彷彿とさせるハウジングのデザイン、SONYのMDR-Z1Rのハウジングに用いられていたものを想起させる特殊な織り方をされた金属メッシュ、Focal UtopiaやFinal D8000などを思わせる立体縫製されたイヤーパッドなどがそうだ。スライダーもオーディオテクニカの製品にも類似があるような気がする。ヘッドフォンケーブルはSonyのMDR-Z1Rにオプションでついていたキンバーケーブルを思わせるブレイド構造を取っている。
だが、若い開発者の方と実物で確認しながら言葉を交わすうち、これはパクリでも偶然の一致でもなく、収斂進化らしいことに気づく。それぞれの機能を最高度に実現するための最善のデザイン・材質・構造を目指せば自然と類似した形に落ち着くということだ。結局、全体としては、このヘッドフォンはオリジナリティと用の美に富んだプロダクトに仕上がっていると分かった。
なおYH-5000SEの実物を目の前にし、手にするまでは当然これはプロトタイプだろうと私は思っていたが、それは誤りだったようだ。
本体のスキのない作りやオプションの完成度、すなわち二種類のイヤーパッドやオリジナルのリケーブル、ヘッドフォンスタンドまでキッチリ出来上がっていることを知れば、これはほとんど製品版としか思えなくなった。
そして肝心の音質についても、どうせプロトタイプ、という先入観は実際のリスニングよぅて見事に突き崩された。
The Sound:
今回のイベントでは、YH-5000SEは、普通のPCにUSBで結線されたREMのADI-2 DAC FSのヘッドフォンアウトにシングルエンド接続されていた。
この試聴環境において、特別なヘッドフォンアンプは用いられておらず、USBケーブルもごくありきたりなものであり、電源含めてハイエンドオーディオ的なギミックやドーピングは全くない。
ヘッドホンだけが異様な輝きを放つ試聴システムであると言える。
なお今回はヤマハのプリメインアンプのヘッドフォンアウトを通して、アナログレコードを聞く試聴も短時間だが行っている。
なおここでは本機の数値上のスペックとして再生帯域は5Hzから70kHzまで、インピーダンスは34Ω(@1KHz)と発表されていることも記しておく。数値を見る限り再生帯域はかなり広く、インピーダンスからは特段の鳴らしにくさは予想できないということだけ言っておく。
音が出た途端に音楽がスッと頭の中に素直に入ってきて軽く驚く。
聞き易い!
一聴して極めてナチュラルでクセのない現代的なサウンドである。
音像の実在と、それらの位置する空間の広さが、自然の聞こえ方にごく近い遠近法により、バランスよく提示される視覚的なサウンドでもある。
まず、かなりワイドレンジなヘッドフォンサウンドであると思う。
高域・低域とも良く伸びたサウンドで、帯域バランスも均等であることが特徴だ。音のクセはかなり少ないというかほぼ検知できない。ライバルのD8000のやや低域に豊かな量感を持たせた特徴的なサウンドとは明らかに異なる。特に、低域のインパクトが強すぎないため、とても聞き味がよく、いつまでも聞いていられるような気がした。
高域、中域、低域ともほぼ同じ量感、質感で統一され、他と比べて強調されている帯域は存在しない。また全帯域にわたりスピード感が揃い、どの帯域でも音の解像度が高い。音像の輪郭はやや淡く、音像は綺麗な透明感を伴っていている。サウンド全体の色彩感は鮮やかであるが、濃厚と言いうるほどに色彩の密度が高いことはない。ここでの音像の描写は、やや淡泊だが類例があまりないほど細かいものであり、まるでHの鉛筆と水彩で描かれた精緻な細密画のようだ。
またこのシステムで聞くYH-5000Eのサウンドでは音場がかなり広々と確保されており、その広いサウンドステージの中に音像はピタリと定位して揺るがない。
音像の重なりがあっても整然と分離し、その重なりをリスナーに分かりやすく提示する。
総じてクセが少ないため、むしろ無個性とさえ思われそうなサウンドだが、非常に優秀であり、欠点を指摘することが難しい。
このヘッドフォンはイヤーパッドが二種類付属しており、それを交換することで音調を変えることができる。シープスキンを用いたレザーメッシュのイヤーパッドはスッキリとキレが良く高解像度で、小気味よくビートを刻むような音を聞かせる。それに対してベロア地のパッドは柔らかくまろやかな音調が前面に出てきて、メロディの流れが良い。
このようなチューニングによる変化量の大きさはプロオーディオのそれではなく、まさにコンシューマーオーディオの真骨頂であろう。
YH-5000Eの音作りについて開発者の方に話を聞くとモニタースピーカーのサウンドのような遊びがなく、無駄な音を出さないプロ向けの音作りではなく、やはり完全にコンシューマー向けの音楽を楽しませる音作りをしているとのことだった。
とはいえ、非常に冷静で音像を詳しく検査するような厳しい聞き方もできるほど、微細な音に対する忠実度の高いサウンドであることは特筆したい。かなり細かく音が見えるので、音のテクスチャーの描き分け、音の色彩感の微妙な変化に対する追従性が他社の同クラスのヘッドフォンと比べかなり高いようだ。このようなヘッドフォンは音の拡大鏡として機能することを運命づけられているが、その方面での高性能ぶりも強調しておきたい。
ところで、このYAMAHA YH-5000SEをアナログシステムでも試聴できた。私個人はConstellation audioのPerseusのような、もっとダイナミックでSNの高い単体のフォノイコライザーを用いたヘッドフォンリスニングを楽しんでいたこともあり、今回のこの試聴には、その部分での不満はあった。ヘッドフォンとは多かれ少なかれ音の拡大鏡であり、コンシュマー用のスピーカーなどの、細部はそこそこにして大局をスケール感豊かにリスナーに提示することを目的とした機材とは違う。スピーカーを相手にするために作られたプリメインアンプにビルトインされたフォノイコライザーとヘッドフォンアンプは、このようなヘッドフォンのリスニングには適切ではない。
それでもやはり、アナログ特有の音のスムーズな流れや、しなやかさをYH-5000SEが非常に上手く捉えて聞かせるのは感心した。またアナログレコードが持つ躍動感がダイナミックな表現も十分に聞かせることも確認できた。
そう遠くない将来にアナログレコードのヘッドフォンリスニングを再開しようと考えていたところなので、これはよい参考になった。
それにしてもYH-5000SEのリスニングに有る、このライトでありながら深い没入感はどうだろう。ブライトになりすぎない音の明るさと陰影の両立。流麗で瑞々しいメロディと弾力があってキレの良いリズムの融合。これは音の明るい軽みと陰影に満ちた深みが一つになった新しい音が生み出す没入感である。これほど新しいサウンドが生み出された背景にはやはりYH-5000SEの重量の小ささ、物理的な軽さが影響しているはずだ。この装着感は聞く者の心理に少なからず明るさをもたらす。たとえYH-5000SEの新開発のドライバーやハウジングが持つ音の素性が光だけでなく影の部分を強く聞かせるものであっても、そちらに強く引っ張られることはないだろう。このようなヘッドフォンサウンドはなかなか聞けないものだろう。
YH-5000Eが仮に45万円ほどの価格で発売されるとすると、上の価格帯にはHi-Fiman SUSVARA(66万)やAudeze LCD5(60万)、Focal UtopiaSG(60万)、Dan Clark audio STEALTH(63万)やExpance(3999ドル、国内価格未定)があり、同等あるいはすぐ下の価格帯にはFinal D8000系(無印、pro、pro Limited、各39万)、MEZE Empyrean(39万)、Audeze MM500(30万)などがある。(なお、さらに下の価格帯にはSennheiserのHD800sを含め多くのヘッドフォンがひしめいているわけだが、あえてそこには言及しない。私の個人的な意見では、そのレンジの製品にはさっき挙げたハイエンドヘッドフォンたちを越える音のクオリティを持つものはほぼないからだ。)さすれば、YH-5000SEのさしあたりのライバルはFinal D8000系ということになるが、これらを比較すると甲乙つけがたい。総合的には、これらはほぼ同レベルの音質と私は見るのだが、低域をどう考えるかで選択が分かれるだろう。低域がよりスリムでハイスピードであって欲しいと望む方にはYH-5000SEを自信を持ってお薦めしたいし、低域の量感を十分に確保したいならD8000だろう。また、とにかく長時間のリスニングで首が疲れるのは困るが、音質は最高なヘッドフォンを求めるという方には、何を差し置いてもYH-5000SEをお薦めしたい。ちなみに、D8000系やYH-5000SEは国産ということで他より安価なだけであり、60万円台のSUSVARAやLCD5、STEALTHが高価だからといって、音質上で国産品よりアドバンテージがあるわけではないのは明言しておきたい。つまり、ここで挙げたヘッドフォン群は、価格を除いて考えれば、音の個性や装着感の差こそあれ、事実上ほぼ横一線で並んでいるというのが私のイメージである。繰り返しになるが、重要なのは、それらの中でYH-5000SEには万人向けの優れた音質と軽さの両立という他にはない特徴があることだ。
音質としてはかなり進化し、突き詰められてきたと感じられるハイエンドヘッドフォンの世界であるが、唯一足りない要素であった軽さという部分がここで補完された。ヤマハYH-5000SEはその意味で、現時点でのヘッドフォンオーディオの進化の極みと言っていいだろう。
Summary:
これほど素晴らしいヘッドフォンを企画開発した人々は、よほど手練れでベテランのオーディオエンジニアに違いないと思っていたが、この先入観も間違っていた。YH-5000SEについては、今まで私が扱ってきたヘッドフォンに関係したエンジニアさん達、直接会って話すあるいはメール・電話等で間接的にコミュニケーションを取ってきた多くの方々の中では、最も若い人たちが手掛けている印象であった。このヘッドフォンの作りと音はそれこそ海千山千のオーディオエンジニア達が、自身ありったけの知識と経験を絞り込んでやっと得られるような成果であり、企画から六年もの時間をかけたとはいえ、若い彼らに突然これだけのものが作れたことを偶然に過ぎないと片付けたくなる誰かの気分もわかるというものだ。ただ私は、ヤマハの企業哲学・フィロソフィーによるバックアップは密かに効いているのではないかと勘繰っている。このヘッドフォンには今迄のハイエンドヘッドフォンになかった雰囲気がある。外観においてはモータースポーツ、音については絶妙で現代的なバランス感覚があるが、それらはこのヤマハという企業のDNAの深いところにコードされていたものの発露なのかもしれない。とにかくそれくらいしか、このヘッドフォン、ヤマハYH-5000SEの見事さを説明する言葉が浮かばない。
私がよく使うハイエンドヘッドフォンという言葉は2009年のHD800の出現から始まっているが、もうあの時代の名機はクラシックなヘッドフォンとして認識されつつあり、今はFinal D8000系などに代表される、さらにワイドレンジで高解像度な高性能ヘッドフォンが出現、活躍している。これらのヘッドフォンはハイエンドイヤホンともスピーカーとも異なる、独自のオーディオ観を持つ世界を形成し、発展を続けている。
なぜこの領域に彼らが興味をもって参入してきたのか、その経緯は一般人である私には知る由もない。だが結果として、ヤマハは突然にヘッドフォンの世界の最先端にある製品を作り上げた。
このヘッドフォンが、このままの形で発売され、家庭おいても所定の性能をトラブルなく持続的に発揮できるとしたら、YH-5000SEはその軽さと音質によぅて現代における究極のヘッドフォンの称号を欲しいままにすることだろう。なお、今回は叶わなかったが、YH-5000SEをバランス接続し、より高度な能力を持つヘッドフォンアンプを使ったリスニングによって、その潜在能力をさらに測ることは必要だ。今回の試聴のみでは、このヘッドフォンのポテンシャルの半分も引き出せていないのではと私は勝手に推測している。
こうして私はイヤホンの世界と同じく
ヘッドフォンの世界にも着実な進化が起こっていることを確認した。かつてはオルタナティブものと捉えられてきた、このようなオーディオ機器の進化は都市における個人の生活様式の変化が要求したものであるし、最近はコロナ禍とも深いつながりを持っているようにも思える。
一方で現在のハイエンドオーディオは、かつての栄光を失いつつあり、スピーカーという大きなメインストリームは堅持しつつも、社会状況の変化に、より上手く適応する可能性を秘めた、ヘッドフォンやイヤホンという小さなオーディオツールの台頭を必要としている。生き残るのはどちらかなどという、的外れでくだらない議論はさておき、このたびのYH-5000SEの登場により、ハイエンドオーディオにおけるヘッドフォンの立場はますます強固になり、出揃ってきた他社の新型機とともに華々しい多様性をも手に入れることになる。それは確かだ。
私は、スピーカーオーディオに関しては今はあまり良い時代とは思っておらず、その将来を憂い、悲観的に見ている。欲しいスピーカーはあまりにも高価過ぎて手に入らないか、自分の生活のスタイルやスケールとあまりにもかけ離れている。そのかわり、イヤホンやヘッドフォンを使うオーディオに関しては、未だかつてないほど良い時代に出くわした幸せを感じている。
そしてこのYH-5000SEとの出会いは、この幸せがさらに進化してゆくのではないかという楽観的な予感を私に与える。
オーディオはどこから来て、どこへ行くのか。
悲観と楽観が入り混じった不思議な未来が全貌を現しつつある。
CROSS POINT XP-DIC/USB SELハイエンドUSBケーブルの私的インプレッション:雨の鼓動
「追いつけない・・・・よくぞここまで仕上げたものだ。」
湾岸ミッドナイトより
Introduction:
東京の雨が好きだ。
雨の日はコーヒーが旨い。
そして何故か、
どんな音楽を聞いても好みの音で鳴ってくれることが多い。
ずっとオーディオをやっていて、
この東京の雨の日の空気のような、
日本の大都会に独特の湿り気や匂いを帯びた空気を
実在感のある生々しいサウンドの中に感じられないものか、
あれこれと思い巡らせていたことがある。
そういう望み、
大きくはないのだが簡単には叶(かな)いそうにもない特殊な願望というやつは、往々にしてひょんなことから満たされるものだ。
昨日、試聴した或るUSBケーブルのサウンドは
不意打ちのように私を襲った。
多少荒っぽくはあったが、突然に望みは聞き届けられた。
そんなことは夢の中でだけ起こりうることだと考えていた私が迂闊(うかつ)だった。
最近、ストリーミングで音楽を聞くのだが、
TIDAL、Qobuz、Spotify、Amazon music HDどれを取っても
今のところあまり音は良くない。
足りないからである。
音に実体感というか密度というか厚みが足りない。
TIDALなどはMQAエンコード配信までやっているが、
まだそこをカバーできていない。
ストリーミングのマスターを作るときになにか問題でもあるのだろうか?
MQAでは帯域バランスが整った綺麗な音になるだけで、
音にしっかり身が入っているとも思えない。
皮は旨いが餡(あん)がほとんど入ってないタイ焼きみたいな音だ。
ストリーミングだから仕方ないのか。
MQAをやたらと持ち上げる人も多いが
私は未だに好みの問題に過ぎないと切り捨てている。
(MQAについては若者に賛同者がすくなく、老人のオーディオマニアにばかりウケているような気がする。個人的にはいつかMQAは他の優位性のある規格にとって変わられるものだろうとまだ思っている。結局残るのはMQAやハイレゾなんかの音質を誇る少数派ではなく、圧倒的メジャーである基底データ、普通の16bit 44.1kHzのファイルだけなのだろう。これを常に安定して、いい音で再生できればMQAだ、ハイレゾだなどと洒落る必要はなくなるはずだ。)
一方、様々な試聴の中で
CD再生の音質上での優位が際立って感じられることは特筆したくなる。
定評のあるシルバーディスクプレヤー、例えばEsoteric Grandioso P1X+D1XなんかでCDを再生すると普通の16bit 44.1kHzの情報であっても、音の密度の濃さ、音の色彩感の美しさ、重心の低さ、そこから来る安定感や低域の沈み込みの深さなどが存分に感じられる。
D1X単体にPCからUSB経由でデータを送り込んだ時にも
それらが全く聞こえなくはないが、CDをかけた時とは比べ物にならないほど薄味で音の基盤が不安定だと思えるときがある。
一般的にCDトランスポートからの入力とUSB入力の両方を受け付けるDACで両者の音質を比較すると、きちんとした機材を適切にセッティングすれば、ほぼ必ずCDトランスポートからのデジタル入力を通したサウンドが総合的には優れている。
またTAIKO Audioのスペシャルなオーディオ用PCを用いた試聴などを通して、USB入力の場合はPCに格納されたデータをシンプルに再生するのが最も音が良く、その次にDELAのN1Z等を用いたネットワークを経由しての再生音がいいのも分かってきた。(ただしネットワーク再生の場合は音を良くしようとするとあまりも複雑かつ物入りであり、それは大きなマイナス要素となる。)TIDAL等のストリーミング再生は便利さや音源の数では、他の方式に比べ圧倒的に有利だが、
音質となると何をしてもまだ最下位である。
CD再生の行く末がドライブメカの供給の先行き不透明によって不安を抱える中で代わって未来を託すべきストリーミングの音がこんなでは困る。
ストリーミングを導入した時には、
プールだけで泳いでいた人が、
いきなり穏やかな海で泳ぐことを許された日のように
勇んで莫大な音源の海へと泳ぎ出すわけだが、
まず、あまりにも楽曲が多くてむしろ戸惑い、
そのあとしばらくして
実は音にそれほど説得力のないことに気づいて立ち止まる。
(そう気付かなかった人は幸せだからそっとしておこう。)
場合によってはストリーミングを契約したまま、
ストリーミングばかり聞くのはやめて、
またCDやLPの固形メディアに中心軸を戻す人もいる。
私などはそういう類の人間、つまりどこか古くさいが充実した音に親しみを感じているオーディオファイルなのだろう。
なぜ音の良さについて定評あるトランスポートで再生するCDの音>PC内のデータ>ネットワーク経由のデータの音>ストリーミングの音となるのか、
いろいろな理由が考えられる。
ここでそれをじっくりあげつらっても良いが、
それよりも単純に私の見つけた、
さしあたりの解決策を示した方が楽である。
昨日試聴して、不意打ちをくらったCROSS POINT XP-DIC/USB SELというUSBケーブルを通してストリーミングデータを再生するのが今のところ最も簡単で確実な解決法である。
Exterior:
聞けば分かる、とはよく言ったものだ。
この警句と取るべきオーディオの決まり文句は、
ここにあるUSBケーブルのためにあるようなものだ。
偶然か必然か、今回取り上げるCROSS POINT XP-DIC/USB SELは、
これほどハイエンドオーディオのポイントを鋭く突いた音でありながら、
何とも平凡で素っ気ない外観なのである。
普通のパソコンにも挿されていそうな金メッキされたUSB端子と
黒いカーボン含有と思(おぼ)しきメッシュと細めでしなやかな線体、それだけである。
ブランドロゴさえない。
ないない尽くしで何もないのが、かえって特徴的とさえ言えるだろう。
このケーブルを見ても、
それを通した場合の音質については何も情報は得られない。
オーディオに詳しくなければ、
それは当たり前のように思うだろうが、そうではない。
ハイエンドオーディオで高い評価を得ているケーブルの外観というのは、
大概はある程度、音の良さを暗示していることが多い。
端子のギラギラした黄金の輝きや
その意味ありげな形状、線体の感触や重み、
適所に配されたブランドロゴなど、
ハイエンドケーブルを見慣れた者なら、
そのケーブルの正確な価格や音の素性を知らなくても、
なんとなくプライスタグと性能を高く見積もらざるをえない外見というものを覚えている。
しかしCrossPointのケーブル群の外観はそんな推測を許さない。
XP-DIC/USB SELの見てくれは、
明らかに1mで45万円のケーブルのそれではない。
これはどう見ても、どこを触っても、ごく普通の比較的安価で、
どこか手作り感の抜けないUSBケーブルである。
1m・1000円であっても予想より高いと言う人がいるかもしれない。
こうなるとかえって、偽物は作りにくいだろう。
音でしか本物か偽物かを判断できないからだ。
そしてそれが可能であることに私は驚きを禁じ得ない。
とにかくこういうハイエンドケーブルは珍しい。
では、このケーブルの音の良さはどこから来るのか。
導体の純度、その表面の仕上げ、
あるいは導体の配置の仕方や被覆の材質などといった、
ハイエンドケーブルでよくあるウリのポイントについてはもちろん吟味はされている。今作ではCross pointとしてはケーブル線体そのものを
専業メーカーの既製の線材の中から選ぶのではなく、
理想を求め、わがままをいっぱい盛り込んで
Cross pointオリジナルの特注品としたようである。
ただ私の見るところ、そこは出音にそれほど強く影響していない気がする。
やはり、このメーカーが他のメーカーと異なるのは
ハンダと端子のメッキにこだわり、
長い年月をかけてその技術を磨いてきた点ということになるだろう。
主宰であるN氏の話は他のオーディオメーカーではあまり聞かない内容ばかりである。
ハンダの超がつく厳格な選別や特殊な金メッキ
あるいはCNT複合銀メッキを施工する際の苦労話などは
Crosspointの独自性を強く意識させる。
企業秘密に属する部分が多いので詳しくは差し控えるが、
随分面白いケーブル作りだと私はいつも感心している。
そして、それらはどれも外観に現れてこない要素になる。
凄いケーブルなのに外観がそっけないのは、
N氏本人の特異な趣味以外にそこにも原因がある。
このUSBケーブルにCross pointが施した工程をザックリまとめると、
他社から調達した標準的なUSBケーブル用端子のメッキを剥離してCrosspoint独自の金メッキをかけ直し、その端子と特注した4芯構造の線材をCrosspoint内で選別した最高音質のハンダで結合するということになるらしい。
これらの施工は、私が以前レポートを書いたCrosspointのUSBケーブルXP-DIC/USB EN SEとの比較の中で捉えると分かりやすいかもしれない。
つまり線材を特注することによって
以前に比べ導体の断面積・表面積の増加、絶縁被覆材の純度の改良が達成され、加えて前モデルの端子と比べてメッキの高品質化・面積の増加も図られ、
そこにダメ押として最新仕様のハンダを適用することで最終的に音が決まる。
こうなるとケーブルの音質は
全く異なる上位モデルへのそれへと変貌していることになりそうだ。
ここで施された新たな音質向上策は特殊な部分を多く含むゆえ、
価格が20万円近くアップし、
Jorma Reference USBと同じ価格帯に来るにもかかわらず、
外観は以前のモデルとほとんど変わらないという
なんとも不思議な結果となっている。
この外見では真贋はもちろん新旧を区別することすら難しいが、
ここにあるUSBケーブルついては
音そのものが他のUSBケーブルあるいは以前の同社のモデルからは隔絶しており、ほぼ一聴で判別できるほどの差がある。
まことに、聞けば分かるとはよく言ったものだ。
The Sound:
音像というものをまず強く意識させるのが、
CROSS POINT XP-DIC/USB SELの音である。
音像が描けて初めて空間が描けるのだ。
これは恐らくとても基本的なオーディオのセオリーなのだが、
意外と現代のオーディオ機器の開発者には意識されていないことかもしれない。これはシステムの最上流にあるデジタルケーブルの一種でしかないが、これ一本でストリーミングの再生に求めていた高密度な音像描写が得られる。
実際、このような強い音像は他では滅多に聞けないものだ。
特に空間性をより優先して意識しがちな現代の海外製のハイエンドUSBケーブルとの比較ではあからさまにそう想える。
このCross point のケーブルを通すと
音像が指し示す実物がそこにあるという感覚が色濃く、
身の回りに実際に存在するキーボードのボタンの感触やコーヒーの匂いやパンケーキの食感と同じように聞こえて来る音楽に実在感がありありとする。
この音像の現れ方は、私が以前インプレッションを書いた前モデル(というか下位モデルか)XP-DIC/USB EN SEよりずっと顕著であり、現在そちらを使っていて満足している方は是非ともバージョンアップを検討すべきだ。
このCross point の最高級USBケーブルの音質的な主題は
オーディオにおける音像とは何か、
そして音像の周囲にある空間とはどうあるべきかを再定義することである。
Cross pointが、音像そのものの質感描写を高めるのみならず、
音場を支配する空気の質感の描写までも
今までになく充実させることに執念を燃やした結果、生まれた機材である。
音像の表面のテクスチャーの描き方、例えば磨かれた金属の表面のような光輝くイメージや、粗くてザクザクとした木の肌を想起させるような手触りなどをリアルに再現するケーブルはこれまでも体験してきたが、音像を取り囲んでいる空間の湿度や温度、ざわついているのか静まり返っているのかなどの、空間の手ざわりとでも呼ぶべき情報を耳を通して掴むことができるものはほとんどなかった。
このケーブルの解釈では、オーディオにおける空間性とは、温度感を伴った香りのようなものであり、耳や目や触覚で感じる何かではなく、鼻腔の奥にあるセンサーで測ることのできるような雰囲気そのものである。
この特異な音響空間の解釈は、東京の雨の日の空気、あの日本の大都会に独特の湿り気や匂いを帯びた空気を、実在感のある生々しい感覚で再生できる根拠となっている。
聴覚を通して、このような感覚を呼び覚ませるケーブルを私は他に知らない。
また、このケーブルを通すと、音の重さ、軽さが非常にはっきりとしたメリハリをもって表現されるようになる。風呂場で子供の水鉄砲を手に取った時の軽さとハワイの射撃場で偶然手にしたリボルバーの重量感の差のようなものを、音を通して、あるいは耳を通して知ることが可能になる。それが金属的な重さなのか、あるいはプラスチックの重さなのかさえ何となく伝わってくるのである。
これは信号をこのケーブルを通すことで、低域の沈み込みや量感の出方が的確かつ際限のないものとなった結果であろう。
こうしてみると、優れたオーディオ機器、優れたハイエンドケーブルは聴感を通して、聴感以外の感覚を刺激することが可能であることが明らかになる。
それはただ私が空想を逞(たくま)しくしているだけだとする向きもあろう。
しかし、そういう空想を触発できること自体、並みのケーブルにはかなわないことなのだから、その実力は認めるべきだと私は言いたい。
私は昔、田舎に住んでいた。
家から少し離れたところに森があり、そこは原生林だった。
人の手が全く加わっていない森だ。
子供のころ、よくそこへ一人で出かけて行って昆虫(むし)をとって喜んでいた。雨上がりの夏の朝、暗いうちから起きて、
クワガタを探しにその森に入った。
森は静かで霧が立ち込めていた。
その日はクワガタはいなかった。
森の中のある場所に、いつも虫を探す大木がそびえていたのだが、そこにあるウロや樹液が出ていそうな場所をあたってみたが、虫はなぜかいない。霧のせいか。
私はあきらめきれず、大木の上の方に登ってそこの様子を確かめてみたくなり、木の肌に強く手をかけてその大木を抱えるようにして登り始めた。
その時、木の樹皮の表面の荒々しい触感や湿り気、匂い、その木自体の確固たる量感、揺ぎ無い存在感みたいなものが次々に私の内部に伝わってきて、不思議な驚きに包まれた。
それは極めて生(なま)な感覚であって、人間がこれ以上ダイレクトに感じることのできない、介在物が全くなく五感が全身で働いている状況だった。
まるで裸の一人の人間が森の中で木に登っているような感触があった。
私はこのケーブルを通して音楽を聞くときに、
この時の裸の感覚や虫を取れずに空しく引き上げた午前の空気が克明に甦ってきたこと告白したい。
さらにまた、このケーブルが呼び覚ます、別な感情もある。
このケーブルを通して音を聞いていると、
私の中に戻ってくるものがあるのだ。
最近の様々なオーディオを取り巻く環境の変化やオーディオそれ自体の変化の中で、自分が失いかけていたオーディオに対するモチベーションが戻ってくるのだ。
生々しい音楽の実像を自分のオーディオの中に求め得ようとする動機、
オーディオを始めた頃に持っていたあの胸騒ぎにも似た情熱が再び湧き上がってくる。
このケーブルに特徴的とも言える完璧なる低域のインパクトがオーディオファイルの魂に直接響き、眠っていた情熱を覚醒させるらしい。
そして、このケーブルを通すとサウンドが一気にスピードに乗ってくるのも面白い。これは初めて知る加速だ。
強靱かつ空気抵抗の少ない剛性の高いシャーシに乗ったハイパワーエンジンに引っ張られるスーパーカーをドライブしているような感触だ。
この重みをもったスピード感を耳を通して聞いていると、小賢(こざか)しい理屈は飛んでゆく。PCという、元来オーディオそのものとは無縁な電子機器が内包する、凝り固まった常識や複雑な約束事に縛られない、純粋にオーディオ的な発想が大きなアドバンテージを築いている。
確かに、どこを持って満足とするのか、なにを持って終わりとするのか。
オーディオにもその問題はつきまとう。
ストリーミングの配信側が高音質だと言うのだし、
実際聞いても聞きづらいなんてことはないサウンドなのだから、
素直に聞いて、素直に喜んで、ここで終わりと思っていれば済むはずなのだが、そこで終われないのがオーディオファイルの性(さが)というものではないのか。
ここで引くわけにはいかない。
もっといい音があるはずだと求め続ける。
足掻き続ける。
とどのつまり、
我々オーディオファイルは自分の使うオーディオ機器に
他の身の回りにある他の機械たちにはない何かを求めているのかもしれない。
魂と呼ばれる存在、生命のコアであり、かけがえのないその存在が
機械の中、あるいはそれを通して再生される音楽の中に宿っていることを確認したいのかもしれない。
このケーブルを通して得られる低域は生命力に溢れ、
まるで生き物の鼓動のように私には聞こえることがある。
そういう感覚は本来、機械に宿るはずのない魂の存在を私に暗示する。
こうして聞くとJormaやNordost、シュンヤッタなどのハイエンドケーブルは、音像と同じくらい、あるいはそれ以上に空間性の描写にも重きを置くが、
それではストリーミングの欠点を覆す再生はできないことが分かる。
Cross pointというメーカー、やはり求めるものが違う。
そして慣れ合わない。
何を言われても我が道を征くだけの強い心がなければ、
このようなサウンドは生まれないだろう。
それだけにこの音は強すぎると敬遠する向きもあろう。
現代のオーディオの流れから孤立する危険も承知だ。
だが今という時代、あらゆることを淡泊に処理してしまうクールな時代にこそ、こういうサウンドが必要なのだろう。
聞きなれた音楽も昨日出たばかりの新譜も全てが等しく初めて聞く、
初めて触れるような感動を与えてくれる。
これは自分が常に未知のなにかに触れていることを
私に強く意識させる音なのである。
かくして、
このUSBケーブルを通して
生命の鼓動のようなサウンドを聞いていると、
気分が高揚してくるのを抑えるのが難しい。
高揚のあげくなのか、
ハイエンドオーディオには安心感などというものは、
本当はないほうがいいとさえ思い始める。
オーディオにはもっと危うい、
38cmウーファーを飛ばしてナンボみたいなヤバい雰囲気も必要なのに、
年寄りは古いやり方にしがみつき、
若い者は平明でアノニマス(無名性)な、
のっぺらぼうなオーディオを好んでいて、
今はどうにもつまらない時代だなどと考え始める。
俺はあんなキレイな音ばかりが欲しいわけじゃない。
俺はもっとヤバい奴じゃなかったのか。
オーディオの冒険者、突破者として生きたかったんじゃないか。
時代に流され行き着いてみれば、
こんなに平穏無事で野心もなく、
手持ちの財産に相応のオーディオに、こじんまりと片付いている。
もっと深く、もっと遠くへと手を伸ばすはずじゃなかったのか。
結局、俺たちはこれで良かったのか?
脈絡の追えない独り言を私は私の心の中でつぶやく。
実は、このUSBケーブルと同じ設計で作られた、インターコネクトケーブル(XLRケーブル)もCross point様から借りて試聴している。
こちらも、このUSBケーブルと類似した効果、
いや正直に言えばより高度な音像表現が得られる興味深いケーブルなのであるが、さらに高価であり、またその効果もやや強すぎる気分もあり、
万人に勧めることはできないモノだと思うので、ここではあえて詳しく紹介しない。(興味のある方はCross pointに問い合わせてみるとよい。この話に興味をもつほどの人なら、その音を聞いて損はしないだろう。)
とにかくシステムの中にUSBケーブルの使いどころがあるなら、
より安価でインターコネクトを導入した場合とほぼ同等の効果が得られる、
こちらのUSBケーブルの導入を先にすることを私としてはお勧めしたい。
Conclusion:
上奉書屋の時代から、
現在の万策堂時代までのブログをざっと読んでいただくと分かるが、
様々な音楽を、いろいろなオーディオ機器を聞き、
オーディオを作る側でもなく売る側でもなく、
オーディオを買い使いこなす側として試行錯誤してきた。
ここ30年を振り返ると世の中全体もそうだが、
オーディオの世界も本当にいろいろなことが起こり、
いろいろな製品やメーカーが生まれ消えていった。
とにかく、いろいろあった。
その「いろいろ」の後で、
今、カネはいくらでもあるから、
どんなケーブルでも買っていいよと言われても、
100万円オーバーの超高額ケーブルにはまず手を出さないと思う。
とにかく、やみくもに高価なものの中には見掛け倒しというか、
比べればはるかに安価なものでも十分に代用可能だと思われるものもあるし、
そもそも「優れた音」というよりは、
ただ「変わった音」と言った方がより正確なモノも混じっている。
それにもっと根本的な話をすれば、
ひとりの人間には、耳と呼ばれる二つの小さな感覚器とそこから来る信号を解析する小さな脳の領域が与えられているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。外見的な規模、その金額、そして音質に関して、
やたらと大袈裟なオーディオシステムというものは、
我々の肉体に備わった、
ささやかな聴音システムにはオーバーであるとしか思えない場合がある。
ただ、未来のデジタルオーディオにおいて主流になってゆくであろうストリーミングには、ハイエンドオーディオとしては足りない要素が未だに多くあり、
それを補完するためには特別な能力のあるDACなりアンプなりケーブルなりが必要であることは徐々に明らかになってきている。
そのような特殊な補完能力を持つ機材は稀であるし、
仮にあってもそれなりに高価にならざるをえないだろう。
つまりこの音質上の問題は容易には解決できそうもなく、
もっと将来に解決される課題だろうと私は先送りしていた。
だがそれは迂闊だった。
期せずして、この課題をシンプルに、そして効果的に、
しかも相応のアンプやDACを買うよりは
安価に解決できるUSBケーブルが登場した。
この、なんの変哲もない外見だが、
1mで45万円もするUSBケーブルを眺めていると、
ハイエンドオーディオなど実は愚かなものではないかと思えてくる瞬間がある。お金を払って良くなるものといえばせいぜい音だけなのだ。
酔狂もいいところである。
だがもうやめられない。
ハイエンドオーディオの奥底に秘められた甘い毒を味わってしまったからだ。
さらに言えばその魔のような甘い毒に誘われ、
様々なオーディオの修羅場を何度もくぐってしまったからだ。
もう後戻りはできない。
この外観からなにも感じられないケーブルの奥深くから湧き出てくる
鼓動のような低域の響きこそ、
オーディオの魔であり、甘い毒そのものだ。
たった一本のUSBケーブルでも、それだけのものを宿す。
それを知り、自分のものとすること。
これが私にとってのオーディオの真髄なのかもしれない。
また雨が降り始めた。
夕方には止むという話だが・・・。
もしそのとおりに雨が上がったら、
いつものように
コーヒー片手に私はベランダへ出ることだろう。
暑苦しく湿った夏の雨後の空気を吸い込みながら、
久しぶりに胸が騒いだ、
奇妙だが素晴らしい、あのケーブルのことを考えるだろう。
ヘッドフォン プリアンプを求めて:Accuphase C3900とEsoteric Grandioso C1Xを試す
古今、物事を革新するものは多くはその道の素人である。
by 司馬 遼太郎
Introduction:
あれは2017年の真夏のことである。
私はSennheiser HE1という機材を買おうかと真剣に悩んでいた。
このHE1というのはDAC、アンプ、そしてこのシステムのために特別に設計・製造された専用のヘッドフォンとが統合されたオーディオシステムで、開発元のゼンハイザーは世界一高価で世界一贅沢なヘッドフォン システムを謳っていた。確かに、その外観にはひとめ見ただけで心躍らされる何かがあった。
その姿はまさに夢のヘッドフォンオーディオの具現化のように私には見えた。
あれからまだ5年しか経っていないはずなのに、
あの頃の憧れと悩みは、自分にとってずっと昔の出来事、子供のころの心の動きのようにおぼろげなものとなってしまった。
あれは実売価格が約600万円もする、桁外れなシステムであった。
しかし当時、そのサウンドを何度聞いても価格と音質のバランスに納得できなかった。最高の材質とデザインとオーディオへの情熱を昂ぶらせるギミックを備えた、外観のイメージの素晴らしさにも関わらず、音自体にはやや失望した。いくら考えても、この程度の音で、この価格は高すぎると断ぜざるをえなかったのである。
富豪向けの製品の中には見掛け倒しなものもあると知ったわけだ。
今日(こんにち)、あれを聞き直せば、猶更そう感じるに違いない。
それくらい、ヘッドフォンオーディオという分野は急速に進化している。
MSB Reference HPA、これは最近改称してDynamic HPAと呼ぶことにしたらしいのだが、このヘッドフォンアンプに相応しいデジタルボリュウムを備えたDAC(MSBやdcsなどの製品)を結線し、好みのハイエンドフォンで音楽を聞くという方式が、現代においては最も音が良いヘッドフォンリスニングだと私は考える。
もはやHE-1をいかに強化しようと、この境地には達することはないだろう。
まあ確かに、このような大規模なヘッドフォンシステムの合計金額は600万円を越えてくるから、その意味では音がより良いのは当たり前であるとも言えるのだが・・・。
だがそうは言っても、このようなヘッドフォンアンプ、つまりボリュウムをオミットしたヘッドフォンパワーアンプという新しい方式が、オーディオ界の中でのヘッドフォンの立ち位置を刷新したこと、これが画期的であるという事実に変わりはない。
それは単なる音の良さに対するもの以上の称賛を、この方式に与える根拠になりうる。
こうして、HE1のような、全ての要素が一台に統合されたシステムでは、いくら中身と外見を豪華にしようともサウンドの満足度に限界があることが分かってきている。
(とはいえWarwickのBravuraなどは気にはなるが・・・。)
では次の一手は?
自分のヘッドフォンシステムに何をすべきかと朝夕、思案に明け暮れたあげく、これ以上の音質を目指すなら、専用のプリアンプをシステムに加えるしかないと私は思い立った。
すなわち、DACのデジタルボリュウムを使わず、
スピーカーを用いるハイエンドオーディオシステム並みに、
プリアンプとパワーアンプをセパレートした本格的なヘッドフォンシステムを構築する。この結論自体はMSB Reference Headhone amp(MSB Ref HPA)が自分の部屋に来た時からの自然な流れと言えるだろう。
スピーカーをアンプで鳴らす場合の一般的な話として、プリとパワーが一体化したプリメインアンプでは、パワーアンプ部の大電流が、プリ部で扱う微弱でデリケートな信号電圧に影響を及ぼすことが避けられない。
またプリメインアンプでは、一つの電源トランスからプリ部とパワー部両方の電源を取ることが多いので、パワー部で起こされる電源の負荷の変化がプリ部に影響を与える。
このような弊害を避ける目的でスピーカーオーディオではプリとパワーを分けるセパレート構成のアンプが普及しているが、この構成をヘッドフォンアンプにも適用しようというのである。それは恐らく理にかなっている。
しかし、ここでひとつ、熟考すべきことがある。
周知のことだが、このヘッドフォンアンプのメーカーであるMSBはDACからダイレクトにMSB Ref HPAにつないだ時のサウンドが最良だと謳っているのである。メーカーの方ではプリアンプなどいらんと言うのだ。
これをどう考えるか?
私にも言いたいことはある。
そのようなプリアンプを省略したミニマルでダイレクトなシステムにあるデメリットも知っていると。
第一に、そのようなシステムには、デジタルボリュウムを持たない、CDプレーヤーやDAC、フォノイコライザーをつないで聞くことができない。今のシステムでは、アナログレコードや他社製のデジタル機材を通して聞くべき多様な音源を、この優れたヘッドフォンシステムで聞くことは難しい。dcs Bartok+にはアナログ入力がないからである。
第二には、より高精度なボリュウム調節、または左右の音量バランスの精密な調整やゲインの上げ下げの自由度も、優れたプリアンプを使った方が有利である。精度の高いヘッドフォンリスニングを目指す者にとって、そこは外せないメリットだ。
音の拡大鏡たるヘッドフォンシステムにおいては、スピーカーオーディオよりもさらに高精度なボリュウム調節が望まれる。
勿論、dcs BartokやMSBの現行のDACに装備されたデジタルボリュウムは最新のものであって、ひと昔前の粗い造りで音質的な評価の低かったものとは比べ物にならないほど高性能なものである。実際に使ってみても、並みのプリアンプを介するくらいなら、DACにビルトインされたデジタルボリュウムをそのまま使った方が結果は良いし大幅に安上がりだ。これは最近テストしたLINN KLIMAX DSM/3でも感じたことだ。
ただ、現代最高レベルのプリアンプを挟むとなると話は違ってくる。
DACからの信号を優れたプリアンプに通すと、さらに一段のSNの高まりやチャンネルセパレーションの改善によるサウンドステージの広がりや優れた音楽性が現れることは、スピーカーオーディオで何度となく体験済みである。
これまでスピーカーオーディオシステムで体験してきた、MarkLevinson No.32L、No.52、Jeff Rowland Criterion, Corus+PSU、Ayre KX-R twenty、EAR912、Viola Cadenza, FM255,FM268、CHprecision L1などのプリアンプ群のサウンドは、頭の固いプリアンプ否定派であっても抗しがたい魅力を持つ。
ただ、これら海外製のプリアンプの秀作たちを眺めると、音質以外の条件で問題がある。発表されてから10年以上リニューアルされていないものもあれば、発売以来、値上げを繰り返して性能と価格のバランスを欠いた法外な価格となっているもの、すでに生産停止になっているもの、将来にわたるメーカーの存続がはっきりしていないものが含まれている。またそこに使用されている技術やパーツも2020年において最新の内容とは思えぬものも少なくない。さらに現在の半導体をはじめとするパーツの供給不足から、メンテナンスや故障後の修理に不安がある製品が大半である。
さらには昨今の円安も、機材の選択に影響してくる。
こうなると海外製のプリアンプを新品で買う気分にはならないのが現状ではないか。
そういう諸々の条件から、ここに挙げた海外製のプリアンプを自分のシステムに無理に組み入れる気にはなれない。まずは国産のハイエンドプリアンプを、というのが私の基本的な方針であった。
多数のプリアンプを検討してみた結果、とりあえず候補は二つに絞られていった。
Accuphase C3900とEsoteric Grandioso C1xである。
なお、この時点で国産アンプの雄の一角を占めていたLuxmanの製品は除外されていたことは残念だった。10年以上前になるが、あのメーカーのプリアンプC1000fには世話になった。しかし、今聞くとどうも音の古さが否めない。そして現行のラックスマンの機材となると、サウンドの方向性が定まらない感じで、あえて使う意味がなさそうに思われた。TADのC600なども同様で、迷いつつも候補からは外している。むろん優れてはいるのだが、音に若干の粗さを感じて今回はパスしている。
候補として残ったAccuphase C3900は日本を代表する老舗ハイエンドオーディオメーカーの旗艦機の最新版であり、伝統を踏まえつつも新しいオーディオセンスを随所にちりばめたサウンドは候補たちの中でも殊更に好ましく思われた。現代のハイエンドオーディオの旗艦機としてはやや抑え気味とも取れる価格も魅力である。
またEsoteric Grandioso C1xについては、アンプメーカーとしてはアキュフェーズほどのキャリアはないが、徹底した物量投入でかつてないほどの高音質を目指した前のめりの姿勢に大きな可能性を感じた。
ここまで絞り込んでから働きかけてみると、有難いことに、両機を自宅でヘッドフォンシステムに組み込んで試聴できることになった。
私は試聴の前日からオーディオラックを組み替え、機材を上げ下ろし、セッティングの場所を空けて、彼らの到着を待った。
Exterior:
・Accuphase C3900の外観について:
まずAccuphase C3900の大箱が届いた。
別電源を持たない単一のシャーシだが、ズッシリと重く、セッティングは慎重に行う。
フットは円柱形の平らな接地面を持つものが四隅に4個ということで、鋭いスパイクではなく、4つ足で普通に座りもいいから、難しくはない。
だが、ラックの組み替えを含め、試聴機の置き方にはいつも気を使うので疲れる。シャンパンゴールドのフロントパネル、透き通ったガラスのディスプレイ窓、美しいウッド仕上げのキャビネットの組み合わせはクラシカルな高級家具のようである。この壮麗な眺めはセッティングの疲れを忘れさせる。昭和の高級家電の趣きを今に伝えるこの風貌はノスタルジックであり、時代は移っても変わらないなにかがあることを主張しているかのようだ。
特にこれほど立派なウッドキャビネットの採用は今となってはむしろ個性的と取れるほど珍しい気がする。
私の中では伝統的なアキュフェーズのサウンドの特徴として、高域の僅かな硬さというか甲高い響きがあり、そこが高域だけでなく全域のサウンドイメージに影響して、音像に明瞭な輪郭を与えているように思うのだが、もし、このウッドキャビネットをEsotericのように堅固な金属製の箱に改めたら、もっと堅くて甲高い音になるのだろうか。つまり、このウッドの採用はもともとやや甲高い高域の響きを幾分柔らかくするためなのだろうか。このキャビネットを見ていると、いつもここら辺が気になる。そういえば、知人でアキュフェーズのプリアンプのキャビネットを取り払い、回路を剥き出しにしたままドライブして、適度な音の硬さと開放感が両立した音を求めた人もいた。このキャビネットはコスメティックな意味だけではなく、音質への影響も大きいだろう。
フロントパネルにあるスイッチを押して電源を入れるとオレンジのデジタル表示が窓の奥で目覚める。滑らかに動くが適度な粘りのあるボリュウムノブの感触を確かめながら、そのデジタル表示が細かなステップで上がってゆくのを確かめる。聴感上はほぼ無段階にスムースに音量が変化する。ギャングエラーとは無縁のC3900のボリュウムは完璧であり、すこぶるよく出来ている。ノブ自体の表面は梨地仕上げで触り心地も最高である。これら極上の感触は世代を継いで改良に改良を、洗練に洗練を重ねた成果である。
このアンプのひとつの長所は、iphoneを含めたリモコンやタッチパネルなどの現代的なインターフェイスに頼らないで、アンプの全機能の操作が可能なことである。フロントパネル内のスイッチやノブだけでC3900の操作はほぼ完結できる。例えば後で紹介するGrandioso C1xについてはリモコンがないとゲインなど一部の機能の設定ができないのとは違う。私の経験ではリモコンというものはハイエンドオーディオ用のしっかりとした造りのものであっても10年を待たずにどこかのボタンが効かなくなったりすることはある。iphoneやipadにアプリを入れてリモコンにする手もあるが、これもアップルがOSを変えるたびに新しいアプリを更新する必要も考えられる。そんなことを繰り返すうちに古い機材に対応しなくなる可能性もなくはない。
またConstellation audioのアンプなどでは、経年劣化がありうるタッチパネルから全ての機能をコントロールするのだが、このタッチパネルというものは長い目で見ると信用できない。外観をスッキリさせてデザインを整理するのには貢献するが、5年もたたないうちによく押していた場所が劣化して凹んだままになり、機能のオンオフができなくなったりしたことがある。
C3900ではフロントパネルのボタンを押すと、中央のポケットが大きく開いて、小さなボタンやノブが現れ、左右のバランスやゲイン調整を直接コントロールできる。これらの操作系はいつも確実に動作し経年劣化にも強い、「クラシック」なスイッチやダイヤルである。最近はこういうタイプの操作ができる機材は少なくなってきているが、これは機材全体の寿命にも関係する話だと思うので要注意である。アンプ本体の機能は正常でも、その機能をコントロールするインターフェイスが壊れたり、なくなったりすれば、操作が出来ない。操作が十分できないアンプは、その操作できない機能が、部分的かつ重要なものでなかったとしても、その価値は大きく目減りしてしまう。C3900は設計上、経年変化に強く、そのような心配がない。
スイッチをいれて演奏を始めるとC3900は少し熱くなる。トップパネルには大きな通気口が開いており、そこを触ると触れないほどではないが、それなりに放熱がある、これは大音量を出している状態で電源部に触れてもアンプ本体に触っても常にほぼ全く熱を感じなかったC1xとは随分違う。両者とも工夫を凝らしたボリュウム回路を実装するが、その技術の中身は異なるものであろうことが想像できる。
またC3900にはヘッドフォンマニアにとって外せない一つの側面がある。
このプリアンプには高性能なヘッドフォンアンプがビルトインされており、フロントにあるシングルエンドヘッドフォンアウトからそのサウンドを聞くことができる。
このクラスのアンプで、ヘッドフォンアウトを持つものは珍しい。もしあっても大概はC3900のような本格的なヘッドフォンアンプを介しているわけではない。このアキュフェーズ自慢のバランス型AAVAボリュウムを備えたヘッドフォンアンプがどのような音を奏でるのか。私は大いに期待していた。
音質の評価の前にひとつだけ苦言を。XLR端子のピンアサインの件。
世界的にはほぼ1:Commonで2ホット、3コールドとなっているが、アキュフェーズの機材は 2コールド、3ホットである。この場合位相回転について考慮しなくてはならず、少なからず面倒である。こうする意味はどこにあるのか?
他社製の機材と合わせるときに必ず耳で検討しなくてはならないのは面倒であるから、早めに世界標準に合わせて欲しい。
ちなみ今回は位相回転がないように繋いだ機器の位相を変えている。
・Esoteric Grandioso C1xの外観について:
さて、しばらくしてEsoteric Grandioso C1xが到着する。
こちらはかなり大きな箱二つに分けて梱包されており、移動だけでもC3900よりさらに大変である。
開封してみると、筐体ひとつひとつはそう大柄とも言えないが、ほぼ標準フルサイズのシャーシであり、MarkLevunson No.32LやJeff RowlandのCriterionのように、やや薄型というわけでもなく、高さもそこそこある。セッティングに際しては電源部の箱が重くて参った。この大きさにしてはかなり重い。これには立派なトランスがいくつも並んで入っている。無理をすれば腰を痛める可能性もありそうなヤバい重さであった。
フットは4点であるが工夫されている。スパイクと受けが一体化しており、持ち上げてもそれらが分離せず、スパイク受けが接地面に取り残されないようになっており、セッティングしやすいのである。これは最近のEsotericの機材に共通した親切な設計だろう。
フロントパネルはステージカーテンの襞の形を意識した曲面を大胆に取り入れたデザインであるうえ、シャーシは角が丸められており、その固い材質にも関わらず柔らかな雰囲気が漂う。また角がないせいで、置いた時の威圧感も少なくなっている。銀色のアルミの質感と相まって、このアンプの形にはとても現代的な印象があり、クラシカルなアキュフェーズの外観とは異なる趣味の産物である。またフロントパネルに光を当てた時に襞のデザインが醸し出す陰影の美しさは、音を出していない時も、私にその存在をアピールしてくる。そのアピールの仕方もアキュフェーズにある、いわばフルボディな重厚さの強調とは違う。どこか軽やかでクールな印象をまとっている。そして、それはC1xのサウンドにも通じるイメージなのかもしれない。
Esotericは、機材の外観に関して、ここ最近、伝統的な日本のハイエンドオーディオ機器のデザインの文法に必ずしもこだわらず、より自由に自分らしさを打ち出しているようである。
オーディオ機器というのはサウンドが大事で、デザインは二の次というのは、なかば常識である。だが、その機材をずっとシステムに加えておきたくなる理由というのは、意外にそれをずっと眺めていたいと思させるようなデザインの良さであったりする。音はいくら良くても慣れてしまったり、早晩飽きるものだとも言えるが、機材の魅力として音以外に唯一無二のデザインの良さもあれば、そう簡単には手放せないものだ。
ハイエンドオーディオにとってデザインというものはとても大事な要素なのである。
C1xの尋常でないフロントパネルの厚みからも分かるのだが、このアンプの筐体の造りの豪華さ、綿密さは他のメーカーのプリアンプではあまり見られないものだ。重量級のパワーアンプ並みの、堅固で重厚な造りである。厚いボトムパネルにスリットを入れたり、天板をあえて固定しない設計としたりする、斬新な構造上のアイデアを、筐体の造りよりは回路技術が重視されがちなプリアンプにおいて積極的に採用しているメーカーは少ない。振動を適切に制御し、求める響きを得るためのメイカニカルなアイデアを十分に盛り込もうとする姿勢はCDプレーヤーを作り続ける中で得た経験が利いているのだろう。
こうしてみると老舗アキュフェーズのC3900のウッドキャビネットには驚くような造りは認められないのに、アンプについては比較的新参のEsoteric C1xのシャーシにはこれまでプリアンプのシャーシでは考えられなかったような仕掛けがなされている。この対比がどこから来るものなのか、音の違いも含めて考えると面白い。
アンプに灯を入れて、実際に操作してみると、先代のC1でもそうだったが、ボリュウムの動きの緻密さ・滑らかさにまたしても驚かされる。ノブの回転に抵抗がほとんどなく、非常に気持ち良く、しかも極めて細かくボリュウム調節ができる。調節のステップは0.1dBという数字だけ見ると不要とさえ感じるレベルである。そんなに細かな調整が必要と思ったことはなかったけれど、実際、意外にこのステップの細かさは重要なことと思われた。例えばボリュウムをかなり下げて小さな音で聞く時や、逆に普段よりずっと大きな音で聞く場合は、丁度良い音量にピタリと決めるのが難しいのだが、これなら上手くいく。非常に狭いスイートスポットをズバリ突くような気持ちよさがある。またヘッドフォンでは音のディテールにフォーカスして聴取することも多く、目的の音が一番よく聞こえるところに精密にレベルを合わせられる、痒い所に手が届く感覚がある。
例えばAyreのKX-Rなどではこの調節のステップがかなり粗く、丁度いい音量に収まらぬ場合もあって、使い手に多少の妥協が求められる。そんな妥協のストレスから解放されることがどれほどオーディオにとって気持ちの良いことなのか、これはC1xのような機材を実際に使ってみないことには分からぬことである。
C1xは日本製のプリアンプとしては例外的な規模を持つ大作であり、その強力な別筐体の電源部の構成は目を引く。たかがプリアンプ、つまりボリュウム調節と入力のセレクターしかない機械に大袈裟ではないかと怪訝に思いほどだ。
電源ケーブルの段階から左右のチャンネルを分けているので、C1x一台につき電源ケーブルは2本も必要だし、電源部からアンプ部へ至る専用のケーブルも2本必要になる。電源部の中には大きなトランスが左右2個ずつ、計4個内蔵されており、大き目のコンデンサーも30個以上搭載されている。これでもかという物量投入が織り成す内部の景観は、まるで高出力・弩級のパワーアンプの中身でも見ているかのようだ。これはまさに規格外のプリアンプである。アキュフェーズのように、プリアンプとはこういうものだという「わきまえ」のような固定観念が長いアンプ造りの伝統の中で出来上がっている会社内ではなかなか通らない企画なのかもしれない。
その他、アンプの外観の些末な部分、表示のフォントがアキュフェーズよりも大きいことや、電源が投入されていることを示す電源部正面のLEDも直接光が目に入らないような、間接的な光らせ方をしていることなど、デザインの細部もC3900との違いを際立たせるが、それはあくまでも外観の違いでしかない。
やはりサウンドの内容の圧倒的な差異に今回の比較試聴では驚かされたと告白すべきだろう。聞く前から音の違いがあるのは分かっているつもりだったし、価格差があることも認識していたが、これほどとは思っていなかった。
The Sound:
・Accuphase C3900のサウンドについて:
先に来たAccuphase C3900から聞き始める。
今回試聴したシステムは私の知る限り世界中だれもやっていない構成である。
まずRossini Clockを入れたdcs Bartok+(PCをJorma Reference USBを介して接続、またCHORDのCodaとはトランスペアレントのReference AES-EBUを2本でデュアル接続している)を送り出しとする。今回はBartok+のデジタルボリュウムをパスしC3900にJorma ORIGO XLRでバランス接続している。(このケーブルはそう遠くない将来にCrosspointのXLRケーブルで置き換えるつもりである。そのための試聴も済ませている。)そしてC3900からMSB Reference HPA(Dynamic HPA)に同じXLRケーブルで信号を送り、そこからFinal D8000proでサウンドを取り出している。
くだんのSennheiser HE-1よりずっと大規模で高価な構成になっているが、そもそもあの頃はこのような構成すら考えつかなかった。システムとして随分と進歩したなと思いながら音に聞き入った。
驚くほど音のディテールに優れた、最新鋭のオーディオであり、音の態度としては幾分スクエアでお硬い、日本的な真面目さが売りのハイファイサウンドというのが第一印象である。
ここでの音の細部の出方というのは、まるでドイツの、非常に鮮やかにしかも細密に描かれた静物画を眺めるようだ。音の細部がクッキリと、まるで意識的に拡大したかのように浮かび上がる。微視的な音の取り扱いが巧みである。
これを聞くと、やはりBartokのデジタルボリュウムを介することで、ある程度は音をロスしていたらしいと知る。予想以上にC3900はSNが良い。
C3900を通すと、今まで聞こえていたのだが、聞く者の関心を際立っては惹かなかった音が、音楽の中で小さいながらも生き生きと躍動している様子が、それを本当に肉眼で直接見ているかのように聞こえてくる。これはあらゆる音に敏感に反応し、それら全てに明確な存在感を与えるアキュフェーズのアンプの真骨頂なのだろう。
MSBのヘッドフォンアンプを使うだけでも、かなり細かい音を拾えるようになるのだが、優れたプリアンプを加えることで、まだまだこんなに音があると、耳だけでなく頭でも深く理解することができるようになる。
弱い音が強い音や静寂に隠されて聞こえていなかったことを思い知る、
アキュフェーズ天性の真面目さに説得され理解するオーディオとも言える。
私は最新のアキュフェーズのサウンドをヘッドフォンを介して噛みしめ、咀嚼し、飲み込む。
そんな試聴である。
低域の伸びはもちろんだが、やはり高域の硬質感をともなう独特の高まりは、ここではやや特徴的に感じられる。この幾分硬めの音像は音場の中に極めて明快に提示されており、その背後の見通しはとても良い、音像、音場ともに明瞭であり疑問を差し挟む余地がない。この明らかさ、公明正大なサウンドはアキュフェーズの伝統だろう。昔、C290Vという同社のプリアンプを大喜びで使っていたころが懐かしい。あのころよりも音はキリッと締まっていながらも、豊かな色彩感が加わっており、また音にボディがタップリと感じられてもいて嬉しい。昔のアキュフェーズのサウンドに比べて、緩さはないが音にさらなるゆとりが生まれている。
まあ、折り目正しい音である。
自由なアドリブの連続で構成されるJAZZよりもやはり譜面音楽、クラシックの演奏に向いている。サー クリフォード カーゾンのモーツァルトのピアノコンチェルトなどを聴いているとヘッドフォンも随分使えるようになったなあと感慨に浸ることができる。なんともそれらしく音が整う。
安くないシステムだが、スピーカーを買うことを考えると随分コストパフォーマンスはいいし、深夜でもこの音でクラシックが楽しめてしまう。
素晴らしい。
さて、次はフロントにあるシングルエンドヘッドフォンアウトにD8000proをつないで聞いてみる。
期待以上に音はいい。
アンプにオマケみたいについているアウトから聞こえる音とは、にわかには信じがたい。
かなりの本格派というか、dcs Bartok+に備え付けのヘッドフォンアウトよりはひとつ上のサウンドであるし、Re Leaf E1xのDACをパスして純粋なヘッドフォンアンプとして使ったものよりも上かもしれない。
優れた特性を誇るオリジナルのボリュウム機構を通したサウンドにはやはり格別な意味があるようだ。
音質の傾向としてはRe Leaf E1xに近い、ハイスピードで明確なサウンドであるが、あれよりも、やや音場が広く、音数も多い。ボリュウムの調節もさらにスムーズだし、音を小さくしても大きくしても全く安定して同じ調子で音が出る。だが音の求心力、音楽に引き込む力はRe Leaf E1xに僅かに分があるかもしれない。音楽性についてはRe Leafの方があると思う。
普通のヘッドフォンアウトマニアで、私のようにヘッドフォンオーディオに限りなく高い理想を求めるのでなければC3900のヘッドフォンアウトの音質は十分すぎるほど優れている。アキュフェーズのオーナーのほとんどは、少なくとも恒常的には、この端子を使っていないのだろうが、是非にも活用されたい。あらゆるヘッドフォンを目覚ましく鳴らすだけの実力は持っている。
こうしてC3900だけを聞いていれば、C3900を買うことに決めて終わることもできただろうと思う。これはとてもよく出来たアンプだ。それは疑いない。
ただこれを上回るプリアンプが同じく日本製で存在することを、C3900を聞いた後に知ることになる。
・Esoteric Grandioso C1Xのサウンドについて:
Accuphase C3900を数日聞き込んで満足して返した後、Esoteric Grandioso C1Xをセッティングして聞き始めた。
この時のシステム構成は前述したヘッドフォンオーディオシステムのC3900の部分を単純にC1xに置き換えただけである。
十分なヒートアップが済む前から、
予想以上に目覚ましい音が出てきて言葉が出ない。
当初は唸るぐらいしか私には能がなかった。
二機は同じような機能を持つプリアンプで、しかも同じく日本製の旗艦機なのだが、これほどの性能の差があるとは・・・。これは物量投入の差もあるし、オーディオのセンスの差というか、プリアンプにどれくらいの能力を要求するかの差であろうが、いずれにしろC1xには価格差を補って余りある、密やかだが凄まじい音の良さを感じた。結論から言えばC1xは高価だがコストパフォーマンスはC3900よりも優れているかもしれない。また海外のより高価なプリアンプ(Bouledr3000シリーズなど)と比べれば尚更コストパフォーマンスは高い。海外製でこの実力を持つ機材は日本では600万円~1000万円オーバーのプライスタグがつくはずである。
音の背景の静粛性と未体験の莫大なる音場の広がり、押しつけがましくないがピシッと確かな定位の良さ、ヘッドフォンオーディオでは体験したことのない、ヘッドフォンの性能限界を試すが如きダイナミックレンジの大きさ、音に癖の少なさとともにピカイチの透明感があること、音のテクスチャーの表現の多彩さ、鋭くキレがある音でありながら、音の立ち上がりと立ち下りに柔らかさも存分に感じる音調など、私の気にしているどの要素においてもC1XはC3900を圧倒してきた。
たぶん、聴感で判断できる音響特性に関しては、いままで聞いたものの中で最高のプリアンプのひとつではないだろうか。そのスペックは非の打ちどころがなく、完璧すぎてつまらないほどだ。
特にSNの良さとチャンネルセパレーションの高さに関しては抜きん出て素晴らしい。これほど静かで広大な音場がヘッドフォンオーディオに持ち込まれたことは過去にあるまい。C3900でも十二分に満足するレベルだったが、C1xはさらなる高みへと達している
これはそもそもスピーカーというもっと大規模な発音システムを鳴らす目的で作られた機材なのだが、それをあえてヘッドフォンで愉しむということに何故か無理がない。
これはとても贅沢な遊びだとしか私には思えなくなっている。
それはひとえに、ペアのたるMSBのヘッドフォンパワーアンプの格の高さがC1xに見合ったものだからだと思う。
楽音が溢れかえるように聞こえてくる。
Accuphase C3900でも音が氾濫するように、聞きようによってはまるで情報の嵐のように聞こえるのだが、さらに音数は増え、スケールが大きくなっており、局地的な嵐よりもっと巨大な気象現象、まるで大型の台風のようなイメージが沸き起こることもある。
また音の時系列、前後関係はC3900より一層深く認識できる。
音どうしにより整然とした順序、上下、左右、前後の位置関係があることが発見できるようになる。Accuphaseでも、それら音どうしの関係性は十分に明確になっていたのだが、なにかそこに人工的な強調があって、自然な音とは捉えづらくなってしまうところがあった。また非常に微視的であり、音楽全体が見えにくい雰囲気もなくはなかった。特に微視的に音を捉える部分はアキュフェーズ流の音のまとめ方の重要な側面であり、そのファンにとっては、設計者の代替わりで変わりゆくアキュフェーズのサウンドの中でも変わらずに残っている部分なのかもしれない。
一方、C1xではそこが非常に上手く、人工的な、微妙にわざとらしい雰囲気が感じられない素直な表現となっており、時々本当に生音を現場で直接聞いているような感覚に陥る。またC3900では音の前後関係の描写がやや綺麗さにこだわるあまり、表面的に過ぎるようなところもあったが、C1xではそこはあくまで精密かつ自然な描写で完結している。このようなアンプによる音の細部の印象の違いは、恐らくC3900のサウンドの芯にある微妙な音の硬さと、C1xのサウンドの中心を成す、不思議にほぐれた音の柔らかさとの対比から来るものかもしれない。
柔よく剛を制す。
この言葉が頭をよぎる。
一応、前モデルであるC1との違いは書いておくべきだろう。
一言で言えC1にさらなる静けさとさらなる音場の広がりを加えたものがC1xと考えて良い。この2点についてかなり改善されている。C1xを聞くとC1ほもう聞けないと言って買い替えた人を知ってるが、気持ちは分かる。それから音の高低のグラデーションのきめ細かさが増したところや若干だが音の色彩感が派手になったとかも変化だと思う。とにかくC1xはC1の進化系であり、買い替えられるなら買い替えない理由がない。
なるほど、これはほとんど奇跡のようなヘッドフォンサウンドである。
素で聞いて、そのまんまで十分な凄みがあるのだが、それを強調しないばかりか、音の諸条件を変えても、その凄みを安定して・持続して出せる。
音量の高低で音調の変化が全くと言ってよいほどないのにも驚く。
特にどんな大音量にしてもうるさい音に全くならない。音が決して荒れない。さらにどんなジャンルの音楽をかけても常に安定して再生できるのにも感心する。アキュフェーズでもこの種の安定性を感じたが、さらにもっとスタビリティが高い。これは電源部の余裕によるところが大きいだろう。
そして、この安定感に幾分かの斬新ささえ加味するところがC1xの素晴らしいところだ。
何百回となく試聴に使ってきて、もう新しい聞き方はできそうにないと感じていたドナルド フェイゲンのナイトフライの冒頭曲 I.G.Yを真新しく、しかももっとも曲想に沿った形で軽やかで清々しく、あくまでオープンに鳴らした才能には恐れ入る。
こうして、優れた機材に出会ったときのルーティンがまた繰り返される。
聞きなれた曲をC1xを通して聴いて、そう来たかとか、
その手があったかとかいう感動が多くある。
また、このアンプ、出力レベル(ゲイン)は=18dB~+18dBまで変えられる。この出力レベルをどのように設定するかで、音のキャラクターを若干だが変化させられる。
マイナス方向に動かすと空間表現が強く現れ、プラス方向に動かすと音像が顕在化し音は力強さを増す。
様々なコントロールの仕方が可能である。
プリアンプ一つでこれだけヘッドフォンの出音を変えられるのか・・・。
この一日目の試聴ではいつまでも機材の傍を離れがたく、
気付くと20時間ぶっ通しで聞いていた。
(さすがに疲れてその後10時間ほど眠った。)
二日目からは冷静になって試聴し直すことにした。
アラ探しもしつつ、普段あまり聞かないアルバムを含めてじっくりと聞くモードに入る。
電源を入れっぱなしにしていたので回路に電気がよく回ってきたのだろうか、音は一日目に比べてさらに充実してきた。
特に広大な音場内に点在する音像の遠近感の表現がなかなか凄まじい。こういうスペイシーなサウンドがヘッドホンでも有り得るのだなと感心する。
ここにあるシステムを聞いていると、いろいろな余計な感慨も出る。例えばSennheiser HD800は発売当初から音場が広いと言われ続けているのだが、あれはどちらかというと音像が耳から遠くに定位しているだけだった。
音像には遠近の区別がこれほどあり、今までのシステムではそれを十分に提示しきれていなかったことが露わになる。
また、このサウンドの表に出ている精密さや広大さだけでなく、その奥にある優しさが宝であるとも気付かされる。非常に聞き味が良くスムーズなサウンドにはリスナーの気分に寄り添うような配慮が感じられる。音楽を浄化するような清らかな音調が随所に現れ、私を癒してくれる。
このアンプのサウンドに弱点があるとすれば、音の厚みの無さを挙げる人は居るだろう。
このサウンドは一言で言って、透明感があまりにも高い。
だがそれは欠点だろうか?
少なくとも私にとって、このアンプの持つ透明感でしか表現できない音の景色があるのは事実だ。しかもこのアンプの持つ音の透明さは実は幾重にも重ねられた薄い色彩の集まりであり、それら一枚一枚が見事に透き通っているために薄く聞こえるだけで、レイヤーの重なりとしては実際、かなりの厚さを持っているようにも聞こえる。
このサウンドに厚みがないというのは、やや表面的な試聴の感想だろう。
ここで語られる欠点とやらを別な言い方をするなら、C1xはオーディオに音楽性を深く求める向きにはやはり薦めにくいということかもしれない。
こうして聞くとC1xの音というのは、確かに豊かな音楽性、例の熱く高密度な音像のひしめき合いと濃厚な色彩のうねりで形成されるコッテリした音の世界、あるいは北欧の冬の森を思わせるような冴え冴えとしたハイスピードな音調、クールな温度感で統一されたサウンドなどを期待すれば外れるものだろう。ここでは荒れ狂う夜の海の底知れぬ深みや、流れ落ちる濁流のダイナミズムを積極的にフォローしないかわりに、透明度が高くても膨大な水量を感じる深い湖が見える。
深夜の盛り場に漂う熟女たちの妖艶な情を想起させる表現に、さらなる深みを与えるサウンドはないが、突き抜けるように青い空の下を全速で駆けてゆく少女の足取りのような、軽やかで爽やかで素直な表現がここにはある。
とにかく巧みな脚色感・演出、いわば美しい偏りはC1xに少ない。それは最近のEsotericのサウンドの傾向だと片付けることもできなくはない話だ。だが現代では、芸術全体の傾向としても、こういった無味無臭の雰囲気が求められているし、私も求めている。私個人に関して言えば、もう飽きるほど個性的なサウンドに浸ってきた後であり、演出の少なさというものは間違いなく重要なセールスポイントになりうる。
これほどに精確な音像と広大な音場がプリアンプを加えただけで得られるなら、音楽性を多少失うことを問題視する気分にはなりにくいというのが、正直な感想である。
2年間ほどだが毎日、どこへ行くにもM型ライカを首からぶら下げて歩いていた時期がある。だが、今は手元にライカはない。
ある日、気がついたからだ。
ライカで撮った写真は、私の写真というより、ライカの写真という部分が大きいということ。
確かにライカのカメラとレンズのあまりにも見事な組み合わせは、何でもない風景に面白みや深み、意外な立派さなどの意味を与えてくれる。しかしそれは私の意図を越えた素晴らしさであるがゆえに、私自身とは関わりが逆に薄くなる。私が私らしい写真を撮るには、ライカは向いていないことに気付いたわけである。
それ以来、私はライカに手を触れていない。
実際、まるで写真界におけるライカのような強烈な音の存在感を備えた機材がオーディオにもある。それらはその音の個性でオーディオファイルを魅了してやまないし、他の機材を聞いて評価するときの評価基準ともなりうる。
だがそれを組み込んだシステムではオーナーの存在は逆に薄くなりがちだと思う。ひと昔前のGOLDMUNDやMarkLevinsonなどの一度気に入ったら逃れられないような癖の強さで魅了する機材には、そのメーカーの個性を強く感じる反面、オーナーの顔が見えにくいという欠点も感じてきた。
C1xは様々な機材とペアリングしたり、スピーカーシステムのみならず、ヘッドフォンオーディオシステムにも組み込むことで、オーナーが意図したサウンドを実体化させるのに大きな寄与があるものだろう。
この個性の少なさ、あるいは他者の存在を邪魔しない個性と表現すべきかも知れないC1xの才能は、過去にない自分だけのサウンドを高度に構築するうえで大きな役割を果たすに違いない。
とはいえ、
もうそんな御託など、どうでもよい。
C1xとMSB Reference HPAという挑戦的かつ革新的な組み合わせでヘッドフォンをドライブしていると、そうした小賢しい理屈は飛ぶ。
モアパワー、モアトルクと求め続けた究極のチューニングカーのアクセルを踏み込むように、私は滑らかにボリュウムを回してゆく。
聞いたことのない透明感と清々しい空気感に満ちた世界が視界いっぱいに広がり、なにかが突破され新しい世界に突入したことを知る。
この瞬間のためにオーディオ続けていることを改めて確認する一瞬がここにある。
Summary:
ハイエンドを極めようという方向性を持っているとはいえ、
たかがヘッドフォンオーディオにこんなにも大袈裟なプリアンプを合わせることに意味はあるのかという疑問はずっと私の頭にはあった。
しかし実際にやってみると、やはりこのクラスのプリアンプが私には必要だと分かった。
あるレベル以上の音質を求めるならば、やはり不可欠な要素だったのである。
これほどの音のステップアップがあるにもかかわらず、世界でこのような革新的な構成を試している人はとても少ない。ヘッドフォンには、これほどの可能性がまだ残っているのに、そしてその可能性を追求できる時代になっているのに、ほとんど誰もその事実に気づいていない。
MSBのヘッドフォンパワーアンプを初めて聞いて、この構成の生み出すサウンドの意味を知った後は、その時、実際に使っていたマス工房のModel406、(このブログの視点から見れば、至高のプリメインヘッドフォンアンプという分類になるのだが)、それですらどこか小さな存在に見えてきた。
しかし、そのシステム構成にEsoteric Grandioso C1xを加えると、さらにもっと深く広い音への熟成されていったのである。ここでの音は今まで聞いた中で純粋に音質の良さという点では最も印象に残るヘッドフォンサウンドであり、C1xを返して何週間もたった今でも、その余韻が頭の中に渦巻いている。
音楽性がこれほど控えめなサウンドで、音楽性という演出が生み出す感動が大幅に間引かれているはずなのに、これほど高いレベルで私の魂に感応するなにかがあるのは不思議である。
しかもそれはアンプメーカーとしては比較的新しいメーカーの製品なのである。こうなると全く別な傾向、アキュフェーズ以外で定評のある老舗のプリアンプを使ったらどんな感じになるのか興味も出てくる。プリアンプをあえてヴィンテージのMarkLevinson LNP2LやCelloに替えたり、昔のGoldmundのMimesisシリーズに替えたりしたらどうなるのだろう。Ovtaveやマッキントッシュのプリ、Jeff RowlandのCriterion、CHprecision L1を使って得られるサウンドはどんなものになるのだろう。
またNakamichiやStuderのレストア済みのカセットデッキやNAGRAのオープンリールデッキを、このプリアンプを通してヘッドフォンで聴いたらどのような音で聞こえるのだろうか。
LINNのCD12やメトロノームの最新型のCDプレーヤーAQWO、CHprecisionのプレーヤー、Weiss MEDEA OP1-BP, Studer A730などのデジタルプレーヤーを試すこともできる。
さらに別な試みとして、SNの高い現代最新鋭のフォノイコライザーやターンテーブル、アームを揃えれば、ヘッドフォンで新しいアナログオーディオを愉しむこともできるだろう。
プリアンプがあれば、これらのアイデアを同時並行で切り替えながら実現させることが可能となる。
また、もう一台のMSBのヘッドフォンアンプを買ってモノラル使いすることも不可能ではない。
そしてMSBで出している静電型ヘッドフォン専用のヘッドフォンパワーアンプを試してみたい気分も出てくる。
妄想は限りなく広がってゆき、興味は尽きない。。
まあ、そうは言ってもこれはとてもマズいことだとも思っている。
今回の試聴はヘッドフォンオーディオにおいても適切な物量投入は音質を単純に良くするだけなら最も有効な手段であることを、またしても証明してしまったからだ。
このままではオーディオが結局、金持ちだけしかいない、アンバランスで多様性の少ない、醜悪な趣味に落ち込んでしまう。
オーディオに良かれと思ってやっていることだが、結局オーディオを袋小路に追い込んでいるようなところがある。
この苦境からの脱却には、高価な機材を、スペックではなくセンスの良さでもって追い抜かす比較的安価なオーディオ機器が必要なのだろう。
かつてのLINNのブラックボックスシリーズなどは、その最たるものなのだろうが、もうあんな機材を現代にリバイバルしても意味はなさそうだ。あのシリーズはとっくの昔に完結しており、何を言っても結局は過去の栄光の遺物である。そんなものを墓から呼び出して躍らせてもどうにもならない。今日(こんにち)の巨大で重たく、仰々しいハイエンドオーディオを、現代的なセンスの冴えで駆逐しそうなのは、小型だがすこぶる音の良いポータブルデジタルオーディオプレーヤー、ポータブルアンプとリケーブルされたハイエンドイヤホンの組み合わせではないかと思う。秋葉原のeイヤホンでこの方面の頂点の機材たちを半日かけて聞いてみれば、もはや時代が大きく動いてしまったことを実感するだろう。
ただ、私個人は、スピーカーを使ったハイエンドオーディオの手法を、それらよりもっと大きく取り入れながら、この世界を掘り下げて行きたい。イヤフォン方面は若い人たちに任せておけばよい。既にスピーカーオーディオでいろいろと知ってしまった私は別な路線、もっと強くハイエンドオーディオの深奥を感じられる場所へ下りてゆきたいのだ。それこそが私らしいハイエンドヘッドフォンなのである。
2017年の夏に私の心に吹き荒れていた熱狂的なヘッドフォンへの憧れは、
5年の時を経て、私の胸の中に再び甦りつつある。
それは私がSennheiser HE1という機材に求めていた夢のようなサウンドが、ここへきてようやく手に入りそうな気配だからだ。
しかも、このサウンドを手に入れるきっかけとなったヘッドフォンアンプのセパレート化に効果を認めているのは私だけではないらしい。
この前、或る有名な方が書いているオーディオブログの最新版を読んでいたら、STAX SR-X9000の試聴のくだりで、STAX T8000ヘッドフォンアンプは本体のボリュウムをバイパスし、ヘッドフォンパワーアンプとして使った方が音は良いということが書かれてあった。そこには、この方式は理にかなっているという表現もあった。さらに、これは以前からマニアの間では時々言われてきたことらしいことも記されていた。自分よりずっと深くオーディオを知っている人さえ、このシステム構成に意義を認めているというのは私にとっては愉快な話であり、またこの説の信ぴょう性の高めてるとも思われた。
旅にたとえるなら、
互いに見知らぬ二人の旅人が、全く違った道を、全く違った方法で歩いてきて、同じ終着点にたどり着いてしまったような感じだろうか。
全てを満たす完全なオーディオは存在しない。
結局、ひとりひとりのオーディオファイルが、自分のシステムに課す様々な条件の下で最善を尽くした結果が、その人にとっての最高のサウンドとなる
そしてオーディオは極めて個人的な趣味であり、その答えはオーディオファイルひとりひとりの心の中にしかない。
私はオーディオについてだけはずっと、自分の心に正直であり続けてきたつもりだ。
だが、その正直を続けるには自分の金銭的限界、感性の限界、オーディオの常識の限界を超えることを必要とした。
そのような古いオーディオの常識のひとつが、ヘッドフォンごときのためにプリとパワーを分けたようなアンプは作る必要はないという暗黙の縛りだった。
この常識を破ること、しかも超本格的に、そこまでやらなくてもいいだろ、と言われそうなくらいの勢いで破壊したのが今回の、素人の酔狂のような試聴だったが、そこでまんまと見事なブレークスルーを得た。
まるで大きな賭けに勝ったかのように、
私は至極、気を良くしている。
そして例のごとく、
後先(あとさき)のことをまるで考えなくなってしまっている。
かくして私はEsoteric Grandioso C1xをヘッドフォンのためにオーダーし、
我がオーディオの浪費と革新の歴史に新たなるページを拓くことにした。
Dan Clark Audio STEALTH についての私的な断章:静寂の声
どこから話し始めたらよいものだろうか。
ジョン ル・カレの遺作の単行本を、
行きつけの喫茶店で読み終えた話からというのはどうだろう。
なにしろ、そのヘッドフォンを聞くに至った、
込み入った経緯を詳しく話すのは億劫(おっくう)だから、
そこらへんは大胆に飛ばしてしまいたいのだ。
その店というのは、台東区・三筋のカフェである。
東京という都会はさまざまに異なる色を持つ街の集合体であり、
三筋はそういう東京の欠片のひとつのような街である。
そこには小さな事務所や町工場も点在するが、
大概は普通の住宅やマンションから成るこの界隈というのは
一日中ひっそりとしている。
そうそう、鳥越神社があるあのあたりだ。
そんな静かな街中をテクテク歩いて目的の店の前に立つわけだが、
このカフェには一目で分かるような表札は全くない。
歩道の脇に店は立っているが、窓さえ通りの側には開いていない。
知らない人はそこに旨い珈琲を飲ませる喫茶店があるとは気付くまい。
正面から少し影になった所に古びた木の扉があり、
その脇の壁に注意を向けると
手のひらほどの大きさの錆びついた小さな板が目に入る。
そこにはその表札よりも随分小さな文字で控えめに店名が書かれている。
だが、これを見つけたところで、これが喫茶店の入り口なのかどうか、
知識とか情報がなければ分かりはしないだろう。
店名はマスターの名前そのものなので、民家の表札と勘違いされそうだ。
扉を開けて中に入ると、広くて少しほの暗い一階になる。ここはコーヒーの焙煎機やキャッシャーがある部屋で、客席は二階にある。
珈琲の飲むには古びた階段に靴音を響かせながら上に昇り、古い材で作られたもう一つのドアを開ける必要がある。
ひと昔前のバーのように薄暗い部屋に横たわる一枚板のカウンターの前に、いつものように席を取る。磨かれた電球がまっすぐ、天井から下がっている。壁が少し奥まっているところには小さな抽象彫刻がかかっている。カウンターの向こうの壁には一輪挿しの薔薇が見える。
店の中にある全てのものがマスターの感性で選び抜かれたもので、全体がまるでひとつの静物画のようだ。
ブレンドコーヒーをいつものように注文すると、
マスターの見事な所作でネルドリップで抽出が始まる。
また静かになる。
私はル・カレのスパイ小説を開き、最後の部分を読み始める。
或る段落が途切れたあたりで、
ふと目を上げ、私はストーリーを離れる。
そして昨日聞いた、あのヘッドフォンについて思いと考えを巡らせてみる。
昨日のヘッドフォンを製造しているDan Clark Audio(DCA)、以前はMr Speakerという名前の会社で、その名前の頃から米国の新進ヘッドフォンメーカーとしてマニアには知られた存在だった。これまでいくつかのモデルを市場に送り出しており、
そのほとんどを私は試聴している。だが、今まで私はその音に一度たりともピンと来たことがなかった。少なくとも今回の試聴までは他のメーカーの製品を買わず、このヘッドフォンを敢えて買う理由が見いだせていなかった。だが今回聞いたSTEALTHについては、これまでDCAに適用してきた経験則は当てはまらなかった。
まず外観の雰囲気からしてどこか異なるのである。
ハウジングの造りやデザインが微妙に異なるのだ。
耳介に合わせた多少細長いハウジングの形こそ、以前のモデルを踏襲しているのだが。このハウジングはこれまでと異なり薄いカーボンのパネルをモザイクのように組み合わせて形作られており、中央には窪みがある。旧来のDCAの密閉型ヘッドフォンの外装はスポーツカーの車体のようなカラフルなグロス塗装で、滑らかな局面で構成されたハウジングが特徴的であって、こういう黒い多面体というデザインではなかった。
皮革製のヘッドバンドに赤糸で刺繍した菱形のパターンがあったりするのもDCAとしては新しいのではないか。
とにかく、なにか今までとは異なる要素が、このヘッドフォンに組み込まれたことは間違いなさそうに見えた。ただそれはそう見えただけ、言うなれば「香り」だけであって、明確にここがこう変化して全く変わってしまったと断じるほどのものではない。少なくとも外観についてそう直感したという程度だ。ただこういう直感的に伝わる外観の微妙な変化が、肝心のサウンドでの大きな変化につながる序章のようなものであることは、私の経験上で少なくない。
それは、まるで今読み進めているル・カレの小説に散りばめられた伏線のようにも見えた。
優れたオーディオ機器の試聴とは、スリリングで知的な小説を読み進めながらその途中にある伏線を自分なりに回収してゆく作業にも似ている。
このヘッドホンの外観のひとつの特徴として、ヘッドバンドとドライバーのハウジングをつなぐヒンジが自由関節のように動くよう設計されていることがある。うまくするとコンパクトに折りたたんで携帯できるような配慮がなされている。
しかし私の見るところ、そして聞くところ、このヘッドフォンは外で聞けるポータブルなDAPなんかでは十分にドライブできる代物は思えない。
やはり据え置きの環境、十分なパワーやゲインのある、大型のヘッドホンアンプでドライブする必要があると思われた。つまりちょっと鳴らしにくい特別なヘッドフォンなのである。こうなると、携帯に便利な折り畳み機構には特段の意味は無さそうにも思える。
ヘッドバンドは頭頂部をある程度カバーするような面積があり、本体はDCAの他のオープンタイプのモデルに比べると重いが、体感としてはそれほど重たく感じない。Empyreanほど良くはないにしても装着感自体は悪くない。側圧も耳の横が痛くなるほど強くもなく、頭を傾ければすぐにズレてくるほど弱くもなく適正かと。イヤーパッドもソフトで、数日使ったかぎりでは負担にならなかった。スライダーがなく、ヒンジの動きの自由度で様々な頭の形に合わせる、DCA独自の仕組みもこの装着感の良さに貢献しているだろう。
とはいえ、このヘッドフォンのハイライトはドライバーを収めたハウジングの内部にあるのだから、外観や装着感の話など、そこそこで良いのかもしれない。なにしろこのヘッドフォンは世界ではじめて音響メタマテリアルを使用したヘッドフォンなのである。
STEALTHは密閉型でありながら平面磁界式のヘッドフォンである。平面磁界式は密閉型にすると定在波の発生が盛大すぎて、その音の良さが殺されてしまいがちだから、多くは開封型である。そこを敢えて外界の音を遮断できる密閉型で通すために音響メタマテリアルを採用したのである。このメタマテリアルとは目的とする特性を得るために、全く新たに人造された自然界にない素材という意味らしいが、その実物は複雑な形に成形された多孔質であり、ハウジングの中ではドライバーと耳の間に置かれ、超高域から低域にかけて発生する定在波を吸収しているという。だが実際、ハウジングを耳側からのぞき込んでも、そのメタマテリアルとやらはその影すら見えない。どうやらこの新素材の存在を感じるには視覚ではなく聴覚を用いる他はなさそうだ。
このヘッドホンはMSB Premier HPAあるいはdcs Bartok+のヘッドホンアウトで計2回、試聴している。バランスリケーブル可能で専用のケーブルも併売されているが、今回の試聴には間に合わなかったのでシングルエンドのみで聞いている。
音質云々を述べる前に私が気づいたこととしては、これは能率がやや低いという点である。アンプのゲインを上げるとか、送り出しのデジタルプレーヤーの出力レベルを高くするとかしないと、十分な音量が取れない場合があった。逆に言えば、そこをクリアできるシステムであれば、今迄聞いたことのないようなサウンドが手に入る。
カフェは静かだった。
ここで昨日聞いたあの音を想起する前に、
私は干し柿に自家製のチョコレートをたっぷりと合わせたデザートをナイフで切り、フォークで口に入れ、ゆっくりと珈琲を含んだ。
日本柿の果肉の控えめだが深い甘みと
ヘーゼルナッツを少し混ぜたチョコレートの香ばしさ、
そして珈琲の複雑な苦みが一体となった味が口中に溢れた。
この季節だけ、このカフェでだけ味わえる味覚が
この場の空気から沁み込む静けさに支配されていた私の脳髄に滴った。
その時、人生に起こるあらゆることに、
ここにある静寂のようなものが、
多かれ少なかれ必要になるということに思い至った。
忙しい日常の中で珈琲を飲みながら沈思黙考する時間。
音楽を聴きながら音と音の狭間に落とし込まれた静寂を感じる瞬間。
それらは数学におけるゼロという数字の存在にも似ている。
物理における真空といっても良い。
文学においてそれは行間と取られるなにかだろうし、
絵画においては余白と考えることもできる。
これらはどれも人間にとって有意味なものが寄って立つための、
つかみどころのない基盤となる無のマトリックスなのだ。
このSTEALTHというヘッドフォンのサウンドの主役は音ではなく、
その間を充たすマトリックスとしての静寂である。
このヘッドフォンは音響機器でありながら静寂を聞くという側面が大きいと感じる。
この態度は言うまでもなくヘッドフォンオーディオ、いやオーディオにおいて初めて採用されたナノマテリアルの威力によるものだろう。私が見るところ、このヘッドフォンの構成で他と明確に異なる部分はそこのみと言ってもいいくらいだから。
このヘッドホンの音場はノイズ、あるいは余分な音、ハウジング内の音の反響により発生してしまう付帯音と言えるようなものを飲み込んで消し去ってしまうようなアクティブな静粛性を持っている。
音場というのは元来パッシブな存在であって、音を能動的、積極的に制御する権限をもたない。音波は音場のキャパシティに合わせて拡がれるだけ拡がってゆき、壁に当たれば無造作に跳ね返って、後から来た音波と干渉しあい、その結果、音楽全体の印象は思いもしなかった方向へ変わっていってしまう。音場自体はなすすべもなくその変化を受け入れることでオーディオが鳴り立つ場合が多いと思う。
しかしこのSTEALTHでは音場が半ば強制的に静寂を作り出すような素振りを見せる。ナノマテリアルが音楽再生に好ましくない音を選んで吸い込んでいるかのようだ。
結果、音像は極限まで削ぎ落され、ヘッドホンの世界では例がないほど純粋かつ精確な形で音場の中に定位することになる。
これほど無駄のない正確さを強調できるサウンドは他にはない。
このヘッドホンは密閉型である。
したがってヘッドフォンオーディオに慣れた者なら、音場の広さは優れた開封型のヘッドフォンには劣るはずという無意識の前提をもって聞き始めることになる。
確かに普通の意味で音場が広いとは感じない音である。
しかし、このヘッドフォンにしかない独特の音の広がり方があり、
音場が狭いとは感じられないのがとても興味深く、何より新鮮に聞こえる。
ここにある程度の空気の柔らかさを保ちながら、透徹した見通しの良さをも合わせ持つ音場には、奥行や前後の広がりを感じると言うよりは真っ暗で広さも奥行も全く分からない闇のような静寂が広がっている。音場の闇が深すぎて、それを通常の音響空間としては認知できないほどに感じられることすらある。
この莫大な闇のような音場の中に光を放ちながら点在する、大小の音像が見えていて、その位置関係によって音場がそこにあることを間接的に知るようなイメージがここにはある。
つまりこのヘッドフォンの音場は開放型ヘッドホンのそれとは全く異なるのみならず、既存の密閉型ヘッドフォンの音場のあり方とも随分異なるのである。
これは外界からの音響的干渉が遮断されていながら、内部ではその壁に音波が当たって跳ね返ることよる反響による干渉も起こらない巨大な地下空洞のような空間であり、
今までにない三次元的な音の広がりの感覚を呼び起こずものだ。
これは視覚と合わせたVRの音響システムに使うと、さらに面白いかもしれない。
以前、洞窟探検家の手記を読んだ。
辺境にある洞窟の奥に拡がるという広大な地下空洞の話だ。
地下空洞があまりにも巨大すぎると、こちらで発した音の反響は全く帰って来ず、サーチライトを振り回しても、その光が空洞の壁に当たる前に減衰してしまって、広さが分からない。見えるのは手近にある地面くらいで、時計を見て夜でないのを確認してから見上げると、星も月もないうえ、完全に無風であることから、ここがオープンな空間ではなく地下空洞と認識できるという。
私の想像に過ぎないが、そんな地下空洞の中に座って音楽を聴いているとこんな感じになるのではないだろうか。
まわりの闇から浮き上がるように光る音像は、
柔らかでありながらディテールが立っており、非常に精彩である。
静寂感が勝っているせいで、音楽の運び・流れはいつになく冷静で、躍動感が削ぎ落されたかように大人しく聞こえる。完全なる無風状態というか、いくら音楽が激しく動き、カラフルに輝いても、周囲の静寂は全く影響を受けず、それらの余韻を完全に吸収してしまう。
かといって音楽を正確にトレースすることのみに徹したドライなモニター調にはなっていないのも面白い。冷静な音楽性とでも表現すべきなのか、このヘッドフォンにしかない音楽に込められた感興の表現法があるような気がする。
音の温度感が低く、なにか音の湿度のようなもの、音に触れたときの湿り気のようなものを実に克明に伝えてくるのが特徴とも言える。この湿度にある音触という感覚も初めてで何というサウンドだろうと試聴中何度も空を仰いだものだ。こんな不思議な音のテクスチャーもナノマテリアルの採用と関連があるのだろう。
このヘッドフォンのダイナミックレンジは極度に広いものとは言えないが、微小な音の再生には長けている。ただ、セッティングによって大きな音が出にくい場合があった。
実際は大きい音が出せないわけではない。
つまりアンプや送り出しに音量調整に幅が必要なのである。具体的にはDACの出力レベルやヘッドフォンアンプのゲインを高く設定できる機材の方が、このヘッドフォンを有効に活用しやすいということだ。
たとえば今回はMSBのPremierヘッドフォンアンプでも試聴しているが、この場合送り出しのデジタルプレーヤーのゲインをいっぱいに上げないと十分な音量が確保できない楽曲があった。そうでもしないと必要な音圧が得られないのである。これは決してドライブしやすいヘッドフォンではないという気がする。ただこれを十分にドライブできるセッティングさえできれば、ここにしかない世界が楽しめるし、実際自分が保有しているdcs BartokとMSB Reference HPAならば満足いくドライブが楽しめるであろうということもだいたい分かった。
これは確かにやや突飛な音なのかもしれない。
こういう音は他にはない。
しかし万人にウケるサウンドを得ることのみがオーディオの目的になってはならないと私は考えている。できるかぎり多くのクライアントを喜ばせるために最大公約数のようなオーディオを作るのもの良いが、そのサウンドが分かる人だけに分かればいいという唯我独尊の尖ったサウンドを作り出す特権もハイエンドオーディオにはあるべきだ。
STEALTHのサウンドは誰にでもウケるものではありえない。だが、この音をずっと探していた、この音でなくてはならない、これしか受け付けない、そういう人が必ず居る音だ。
ブログをずっとやってきて、
最近思うのは個々の機材を取り上げて、音がいいとか悪いとか言っているうちはまだまだで、もっと大きく構えて、オーディオという趣味を考え、実行し、楽しまなくちゃならないということだ。それは具体的にはオーディオシステムのあり方やその音の方向性に自分の生き方をどこまでも濃く投影してゆこうとする努力をすることだと思う。
結局、ここに取り上げたSEALTH自体の音がいいかどうかなんてことは、本当は枝葉末節なことであり、それよりもこのサウンドが、それを聞くひとの個性、ひいては生き方の方向性にぴったり沿うものかどうかが重要なのである。
Electric Music for Loudspeakers Vol.2というアルバムは私の最近のヘビーロテーションである。Audio Unionで売り始めたCDだが、今買うと24bit 192kHzのデータが入ったボーナスDVDがついている。これをJorma USB referenceを介してSTEALTHで聞くと面白い。このデータの中身は最新の電子音楽のコンピレーションアルバムである。それだけならよくあるものなのだが、他と異なるのはハイエンドなオーディオシステムで鳴らして映えるように、高音質を徹底的に追求している点である。特にこのボーナスの24bit 192kHzのデータのサウンドは秀逸である。このような打ち込み音楽のサウンドにはそもそも実際に楽器を置いて演奏するスタジオや会場がないため、そこでの音場というものは常に音場(仮)とでも表現すべき、かりそめの存在であるが、このヘッドホンで聞くと、大きな静寂による三次元的な広がりが与えられ独特のリアリティが生まれる。キレのいい静けさとでも言おうか。
よくある企画モノのCD、あまり有名でないミュージシャンの演奏をライブ感豊かに高音質録音しましたとかいう、オーディオファイル向けのミニアルバムに聞かれるような、あの鮮烈だけど、どこか腰が引けてマンネリ化したサウンドとは一味も二味も違った世界。
特に大音量で聞くと、昔のJAZZやクラシックの優秀録音を聴いている限りは決して味わえないオーディオ的な快感が得られる。(私だけかもしれないが)
このサウンドを聞けば聞くほど、
私はこのヘッドフォンで聞くべきものは静寂ではないかという気がしてくる。
これほど静寂が雄弁で饒舌に感じられる矛盾。
静寂が歌っているかのようだ。
普段私が使っているヘッドフォン、Brise audioのYATONO Ultimate HPでリケーブルしたFinal D8000proと比較すると、この特別なヘッドフォンの低域の量感は控え目でビートへの反応性もわずかに遅いかもしれない。だが、それらを補ってあまりある、STEALTH特有の不思議な静けさ、音像の輝きに心打たれる。
このヘッドフォンを通すと音楽全体のイメージがD8000とはかなり違ってきこえる場合もままある。音の前後関係が変わって聞こえるのがそれだ。
STEALTHでは主旋律をやっているボーカルやピアノがD8000よりもポッと前にでて、その主張を強くする場面が時に明確に表れる。
こういう場面でのSTEALTHの音の迫真性はSTAX SR-X9000で聞けるような、なんの介在物のない生々しさとはまた違ったもので、周囲の静寂によって整えられていながら、それ自体は生気に満ち満ちた音像として私の前に立ち現れる。こんなサウンドスケープがヘッドフォンから見えるとは信じられない。
世界最高峰を目指したという、法外に高額な機材はもう無用の長物、あるいは富豪が自己顕示欲を満足させるためだけに存在するものだと、知れ渡ってしまっているのに、音質とは関係ない社会的・業界構造的な問題のために、そんなものの開発に汲々とせざるえないオーディオ、技術力はあってもそれを間違った方向に使っているハイエンドオーディオ。それはそれとして仕方なく進めるとしても、富豪オーディオとはまた別なジャンルの機材、もう少し安価だがそれらに負けず劣らず高音質な機材も十分に開発しなくては、オーディオという趣味が、この先もたないことは目に見えているだろうに。
そんな世界とは微妙に距離を置いているヘッドフォンオーディオ界隈には、多くの人に受け入れやすい八方美人なサウンドをとは別に、興味を惹かれる個性派サウンドも続々と登場している。
まさにその方向性での開発の成果か、ナンバーワンよりはオンリーワンを目指したと思えるSTEALTHの音は私に心に刺さる。
このたぐいのサウンドを最初に体験したのはMarkLevinsonのNo.32Lを聞いた時だろう。このアンプは後に実際に買って、自分のリスニングルームで長年使うことになったものだ。
このアンプの音の出方というのは音一つ一つに力を与えるだけではなく、背景のノイズを極限まで減らして、未だ聞こえていなかった音の全貌を浮き彫りにするものだった。
そこにはまるで海辺に連なる大岩の水に隠れて見えていなかった部分が、潮が引いて見えるようになったかのような驚きがあった。
アンプ系ではその後もジェフローランドのいくつかのプリアンプでもそのような静寂の威力を感じた。
特にCriterionについてはあるオーディオサウンドにおいて静寂の部分をどこまで増やすことができるのか、その限界に挑戦したような積極性があったように思う。
(ただ、私の経験ではCriterionは発売当初と現在とではやや音質傾向が異なるように思われる。ここでは発売当初の個体のサウンドについて述べている。)
これはオーディオというのは音そのものを聞くのが常識であるが、静寂を聞くという観点からのアプローチも可能だということを示した好例であった。
溢れかえるような静寂の中でも音楽が成立するかどうかを試しているようなところが、これらのサウンドにはあったのである。
そこでは音が不思議な柔らかさや純粋さを発揮していたのだが、
その感触がそっくり、このSTEALTHのサウンドから聞こえるような気がした。
これらのアンプのサウンドを初めて聞いた時とよく似た種類の密やかな感動がSTEALTHのサウンドの中核にあることはまことに不思議なのだが、このような突飛な相似に無上の喜びを見いだせることもまたオーディオの経験を重ねる愉しみだ。
さらにスピーカーに関しても近いイメージを持つものがある。
例えば私が最も長い間使っていたスピーカーとしてウィルソンオーディオのSystem6があるが、この銘機のサウンドを初めて聞いたときの忘れがたい印象は、このSTEALTHのサウンドと重なる部分が大きい。
このスピーカーを初めて聞いたとき、流れていたのは音楽ではなく、FMラジオのエアチェックであった。坂本竜一の番組で、彼があの少し舌足らずな独特の語り口でパーソナリティをやっているのが聞こえていた。System6はその声の周囲にまとわりついている様々なノイズを握りつぶすかのように消し去り、純粋な坂本竜一の声だけを私の耳に届けていた。
あのスピーカーサウンドの持つ静粛性とそこから生まれる極めてキレの良い音像に私は一瞬でノックアウトされたわけだが、あの時の感動がこのSTEALTHを聞いたとき、鮮やかに蘇ってきた。
スピーカーを使ったハイエンドオーディオに次々と新星が生まれ、それぞれが個性を主張していた30年くらい前と同じようだ状況がヘッドフォンオーディオにやや控えめながら起こっていると私は考える。その中でも音の中身でかなり個性的な部類、私の中では最右翼と目されるのがこのDCAのSTEALTHなのである。
ごく最近、B&Wの最新型のスピーカー群、特にフラッグシップモデルを時間をかけて聞く機会があったのだが、正直全く感動しなかった。確かに極めて優秀だが、500万円のスピーカーが持つべき強さや主張に欠けている。以前から、このメーカーのスピーカーはつまらない音だと感じることがままあったけれど、今回はそれを特に強く感じた。現代のハイエンドオーディオにおいて、一流のメーカーの旗艦機としては高い部類にあるとは言えないのだろうが、真の意味で発展したとは思えず、音の傾向が多少変わっただけのようで、随分と失望させられた。
そんな調子で、スピーカーを使うハイエンドオーディオにほとんど新味を感じなくなってしまった私にとって、残された興味はこのようなヘッドフォンたちだけなのだ。
私は本を閉じた。
込み入ったストーリーの結末を噛み締め、
そのいかにも英国風の語り口と全体の流れを振り返りつつ、
僅かに椀に残っていた珈琲の全てを舌の上に垂らし、味わった。
依然としてカフェは静かなままである。
この部屋の灰色の壁は音を吸い込み、静寂を吐き出している。
この不可思議な呼吸が生み出す寂とした空気は、
私がSTEALTHのサウンドの背後に見出したものに似ているような気がする。
こうして日本の現代の喫茶文化とヘッドフォンオーディオの先端部に
意外な相同性を発見することも、
私個人の愉快にしかならないだろうが、
私の、人知れず追及してきたオーディオの旅が行き着いた果てのひとつ、
そこに立てられた一枚のドアが、
静けさに包まれたカフェのドアだったという結末は
この文章をここまで読んだ物好きな誰かに、
こっそり教えてあげてもいいような気がしてきた。
ジョン ル・カレの小説にあるように、
そして今もニュースが報じているように
世界はずつと前から陰謀や暴力、そして絶望に満ちている。
しかし今日得たいくつかの結末は、
この恐るべき世界にも希望がないわけではないことを私に語り掛けてくる。
私はついに席を立ち、勘定を済ませた。
いつものように
素晴らしいコーヒータイムを貰った礼を述べてから外へ出ると、
暗い昼下がりは、いつのまにか夜の入り口となっていた。
私は新しい闇の中へと歩き始めた。
Audeze CRBN そして STAX SR-X9000 静電型ヘッドフォンの私的インプレッション:強さの定義
「聞け、そして喜べ」
By エボニー マウ
(アベンジャーズ インフニィティウォーより)
Introduction:
ここへきてコロナ禍が終息すると睨んだわけでもないのだろうが、
堰を切ったようにハイエンドヘッドフォンの旗艦機の発表が相次いでいる。
Dan Clark AudioのSTEALTH、MEZEのElite、AudezeのLCD5、Audeze CRBN、そしてSTAXのSR-X1000と来ている。
まだ噂に過ぎないようだがFocal UTOPIA2の発表も間近だという話も聞いている。またケーブルの分野でもBrise Audioが音質のみを追求したというフラッグシップヘッドフィンケーブルを発表したばかりである。(使ってみると、これはなかなか良い。)
さらにヘッドフォンアンプ系にも新しい高級機としてMSB premier Headphone Ampの日本での発売アナウンスが来ている。
ここ数か月でハイエンドヘッドフォン界隈は大分、賑やかになってきていて、良い意味で驚くような体験が多くなっている。
問題はこれらのヘッドフォンを実際に試聴する場所が日本にほとんどないということだ。最近まで代理店が日本になかったり、あるいは代理店があっても、これらの40万円オーバーのヘッドホンの売れ行きを疑問視しているということがある。彼らは日本というクラシックなスピーカーオーディオがいまだ幅を利かせている地域での売れ行きに不安を感じていて、国内に持ち込むことをためらっているということらしい。
例えばT+AのSolitare PやSolitare P-SEについては日本にT+Aの代理店があるのに、一向にそれらが入ってくる気配はない。海外でのこれらのヘッドフォンの評価は高いものがあるにもかかわらず、である。真面目な日本の代理店の担当者はこんなもの誰が買うんだろうという見方をしているのだろう。
Dan Clark AudioのSTEALTHにしてもメタマテリアルという新素材を採用した野心的な密閉型ヘッドフォンであり、海外での評価もこれまた高い。また日本語の文章で実際の音質以外の部分についての詳しい紹介もあった。にも関わらず、いまだ代理店がこの旗艦ヘッドホンの導入に動くという話は正式には聞けていない。
このコロナ禍が終息したという確信がない状況では、ヘッドフォン祭りやポタフェスなど開けそうもなく、商社がこれらの高級機を導入する決心をしても大々的に宣伝する場がありそうにないからというのもあるのだろう。
こうなればヘッドフォニアは、これらをひとつひとつ、試聴するために自腹で海外から輸入するしか手はないのかもしれないと思っていた矢先、私はSR-X9000、Meze Eliteに続きAudeze CRBN(Carbon の略)を偶然、試聴することができた。
このCRBNについては、貧弱な試聴環境、それこそSR-X9000の試聴時よりは随分シンプルな送り出しとアンプだったのにも関わらず、その場で大きなオーディオ的満足が得られた。何よりその音は私のオーディオの感性と波長が合うようだった。
相次ぐフラッグシップの発表の中でもCRBNはひとつ注目すべき製品ではないか。私はそう思い始めた。
そして私には、その試聴の後にもCRBNをさらに時間をかけて聞く機会があり、もっと理解を深めることができた。
私はとうとうCRBNを一台予約した。
私には自分史上では最も強いヘッドフォンとしてFinal D8000あるいはD8000proつまりD8000系があり、これをここ数年ずっと手元に置き続けてきた。このヘッドフォンの持つ低域の量感とスピードの両立は他のハイエンドヘッドフォンはおろか、どんなに優れたスピーカーでもなかなかマネのできないものだからだ。低域というのは音楽の土台であり、これなくしては音楽は砂上の楼閣になってしまいかねない、オーディオでは重要な要素だ。
今回、インプレッションを書くCRBNでは、再生帯域全体に及ぶ独特のタッチの滑らかさ・豊かさ、SNの高さに加えて、静電型ヘッドフォンとしてはブレークスルーと言って差し支えないほどの低域の再生能力、そしてそれに伴って極めて自然な音のスケール感を達成しており、それでいて音全体のバランスもいい。
そして音以外にも本体重量がこのクラスではおそらく最も軽く、体の負担が軽いということも特筆できる。(D8000系は重いのが最大の欠点である。)
こうしてCRBNは私の中でD8000系とは別の、もう一つの特異点を形成し始めている。
突如として私の目の前に現れた、このAUDEZEの傑作について、こうしてレポートを書くことが出来るのを私は純粋に嬉しく思っているが、超多忙なうえ、また才能の欠如があり、このレポートの執筆はいつも以上に難航した。
なお、今回は実際に予約を入れたCRBNを中心に記載していくが、こちらも既に二回試聴して購入を検討しているSTAX のSR-X9000と比較しながら話を進めることにもしている。(この比較検討も執筆の難しさに拍車をかけた。)
これらは同じく静電式であり、両者ともその方式でのブレークスルーを謳う最新の機材で、同じアンプで試聴できて、奇しくもほぼ同時期に発売されていることも相俟って、比べずには居られなかったものだが、どちらも随分と複雑な側面をもつ機材であり、文章での表現が難しかった。
とにかく今回は難しかった。
正直に気に入らないところを書かなければならないと思ったからだ。
Exterior:
よもや、よもやである。
ハイエンドヘッドフォンにおいて現在、最も強力なサウンドのひとつを、突然そんな場所で聞くとは思いもよらなかった。
2021年の初秋の晴れた日、私は或る試聴会に行ったのだが、そこで担当者の方に是非聞いて欲しいものがあると言われ、奥に通された。
そこではAUDEZE CRBNがSTAXのドライバーに結線され、鳴っていた。
全く予想していなかったので多少は戸惑ったものの、これを聞かずに帰るなどという選択肢はあろうはずもない。時間の許す限り、私はそこにとどまって音を確認し続けた。
音を聞く前にゆっくりとCRBN本体を眺める。
外観は普通というか、それほど賞賛するほどのことはない。
デザインは可もなく不可もないピアノブラックカラーのオーソドックスなヘッドフォンといった感じで、それほど美しいとも思わなかった。
ただ、聞く前から、なにか只者ではないオーラは感じていた。
黒光りする楕円形のハウジングには造りは一見して堅実、ヘッドバンドやそれに連なる可動部品についても各部品がしっかりと結合され、動くべきところは遊びなく的確に動くように作られた印象である。外から見ると金属部品も多いがハウジングの側面などはプラスチックで高級感はそこそこというところ。脆弱そうなパーツはないのだが、金属加工の巧みさを感じるような極端に精度の高いパーツも使われていない。ただしCRBNという名前はCarbonの略であることは忘れてはならないだろう。つまり内部の材質としてカーボンが多様されており、これはヘッドフォン本体の軽量化と音の制動にかなり影響する。またこの材質の多用は贅沢であると同時に価格を引き上げる要因ともなる。
開封型のヘッドフォンなのでハウジングは側面を除いて広くメッシュが覆っているのが目につく。この複雑なメッシュのパターンは音の抜け方に微妙だが確実な影響を与えているのだろう。単なるデザインではない。なお、このメッシュはかなり目がつんでいるのでSR-X9000と違って中を透かしてみることはできない。ハウジング内では空気の流れや音の反射が考慮された設計となっているというが、それを視覚的に確認することはできない。
だが、この昔のゼンハイザーの静電型ヘッドフォン・オルフェウスを彷彿とさせる楕円形のハウジングは、内部では音の反射について単純な円型のものとは違った音質を生むことは想像にかたくない。耳をすっぽりと覆う意味でもこの形がおそらくよいのだが、それだけでこの形を採用したのではないと思う。
同社のLCD5と比べてもハウジングは大きく、振動板がかなり大型の楕円形になっているが、振動版の形が完全に円形をしているSX-R9000とは異なっている。
これらの外見だけ見ても同じ静電型とはいえSR-X9000とは違った音になりそうな予感がある。
イヤーパッドの質も音に間違いなく影響がある。
CRBNのイヤーパッドは合成皮革のようで、押すとそれなりに反発がある。当たりは柔らかく装着感は良い。耳の周囲をすっぽりと包み込んでおり、オープン型でありながら外部の音は聞こえにくい。対するSX-R9000のイヤーパッドはシープスキンらしいが押しても反発が弱い。少しクタッとしているようだ。実際、CRBNの側圧の方が強めで、明らかにやや緩めのSX-R9000とは対照的だ。
CRBNのヘッドホンケーブルは固定式でリケーブルはできない。黒い密な織りのカーボンメッシュに覆われたケーブルの線体はやや硬めであるが、取り回しはまあまあというところだ。このケーブルをよく触ってみたのだが、LCD5などで採用されているキンバーケーブルのようなヘリックスケーブルとは違って単線のようにも見えた。これについては手元に来た際にもう少し調べてみよう。
CRBNはデザインとしてMEZEのフラッグシップELITEのような装着に効く特別な構造は取っていないので、装着感自体は普通であると言いたいところだが、40万円より上のクラスのヘッドフォンとしては、あまりにも重さを感じないので驚きそして喜んでしまう。このヘッドホンのかぶり心地は良い。聞けば本体の重さは300gであり、例えばSennheiser HD800sよりも70gも軽い。ちなみに同時に発売される同社のLCDシリーズの最新型LCD5は420gである。こちらは先代LCD4よりはかなり軽くなってはいるが、CRBNほどではない。そしてライバルであるSR-X9000は432gあり、こちらもより重い。そsれからMEZE Eliteも430g。やはりCRBNは軽さが際立つ。私が普段使うFinal D8000proは523gだからかなり大きな差がある。
一方のSTAX SR-X9000のデザインはまるで測定器のようでCRBNよりもさらに愛想がない。ただ逆にシンプルなだけにメカニカルな美しさは強く感じる。自重はCRBNほど軽くないが、側圧が強くないためか負担にはなりにくい。ただ側圧が十分でないのでちょっと油断すると頭からズリ落ちやすいのは良くない。
SR-X9000のパーツはほとんどが金属を精密に削り出したもので、それらのすり合わせも隙がない。関節の滑らかな動きはボールベアリングが仕込んであるのかと思うほどだ。これほどの精密な造りがCRBNでは見えてこない。
ただ、このSX-R9000がヘッドバンド以外、ヘッドバンドとイヤーパッド以外はほとんど金属部品で構成されていることは必ずしも音質の良さを保証しない。対照のCRBNには金属はもとよりカーボンファイバー、プラスチック(ポリ塩化ビフェニル)、皮革なども用いられており、かなり異なる響き方、つまり固有振動数をもつ物質の複合体であることが分かっている。このような複合的な素材の採用はお互いに好ましくない響きを打ち消し合う効果を生み出すことがあり、音質的には良い結果を生みやすい。
やはり実際に聞くまではどちらが良いのか分からない。
CRBNとは対照的にSR-X9000の内部構造は外からでもなんとなく見える。SR-X9000の内部にはSTAXの基幹技術である大型金属メッシュ電極が正確にセットされているのが見て取れる。つまりヘッドフォンのキモである、この部分にまで金属製を貫いている。
一方CRBNではこの部分はカーボンの薄膜でできており、STAXと真っ向から対立するかのようにメタルレス構造、金属を用いないことのメリットを謳っている。
ここに私は静電型ヘッドフォンを巡る技術と技術のぶつかり合いを見る。
想えばこれまで、静電型ヘッドホンとして既に様々なメーカーから多くの製品が出てきており、新出するたびに、その技術的優位を主張してきた。ここ10年だけ見てもSTAX SR009を筆頭にMrSpekerのVOCEやSonoma acoustics のModel ONE、Koss ESP/95X、Hifi man Jade2そしてshangri laなどが発表されたが、ほとんどのメーカーの製品が結局は私の中でも世間でも大きな盛り上がりを見せず、記憶に残らないままに時に流されてゆくばかりだったように思う。つまり、この分野ではどのメーカーも老舗のSTAXの牙城をなかなか崩せていないのである。やはり技術的にSTAXの製品は優れているのだ。
だが実際にハイエンドスピーカーを長く聞いてきた経験豊かなオーディオファイルに言わせれば、STAXのヘッドフォンにも問題はある。低域の量感の表現が不得意だったり、他社の一般的なヘッドフォンに比べてやや故障率が高かったり、大音量で不安定だったり、ヘッドホンの能力に対して専用ドライバーの性能が追いついていないなど、静電型ヘッドホンとして改良が望まれるポイントも残っている。なによりその問題点が時々発表される新製品において根本的に解決されてこなかったのは困ったことだ。これは長年の間、宿題が提出されていない状況と同じである。私が最初にSR-X9000を聞いたとき、その音にピンと来なかったのは、彼らがこれらの宿題にまともに答えず、逆に今迄持ってきた自分の長所をさらに前進させるにとどまったことが最大の要因だった。
なおSR-X9000については、リケーブルできるのも利点のひとつである。これは静電型としてはやや珍しいフュチャーではないか。これが可能であれば様々なケーブルメーカーのケーブルの持音質を楽しむことができる可能性が広がる。その点でリケーブルができないCRBNは自由度は低い。
ただ、STAXが純正で採用する平らなケーブルを超えるリケーブルなどあるのだろうか。この純正ケーブルはHD650dmaaなどでも使ったことがあるが、形がユニークなわりには、かなりニュートラルな音質であり、これを音質のうえで凌ぐことは容易ではなかろう。最近YATONOを出して意気軒昂なBrise audioなどがこのリケーブルに挑戦するかもしれないが、その動きは注視していきたい。
さて、ここで静電型ヘッドフォンをドライブするのに必要な専用アンプ・ドライバーについて差し当たりの私見を述べたい。
STAXは純正のヘッドフォンアンプ(ドライバーとも呼んでいる)をいくつか発売しており、純正ペアでの動作を保証している。この組み合わせで使う限りは故障は少なく、故障しても(私の経験ではヘッドフォンの片チャンネルが突然聞こえなくなるというものだが)普通に修理してもらえる。(お金は結構かかるが対応は親切であり、修理のあと左右の聞こえが変わるなど不具合はない。)
他方、Headamp audioやHiFimanなどでもSTAX用のジャックのついた静電型ヘッドフォン用のアンプを発売しており、こちらの方がSTAXのアンプよりも音が良いという評価は海外を中心に根強いものがある。ただこのような非純正アンプはSTAXに言わせるとヘッドフォンの故障を誘発しやすくお勧めできないとのことだ。
一方CRBNには対応するAudeze製の純正のアンプはない。なので黒のブルーハワイがよく組み合わせとして選ばれているが、リニアチューブオーディオのZ10Eなどでデモされている場合もある。
私はCRBNの試聴では一貫してSTAXのドライバーを用いているが、聞いているかぎりSTAXの最高級モデルであるSRM-T8000を持ってきても、これが最上の選択かどうか自信がない。Re Leaf E1やマス工房のModel406、MSBのリファレンスヘッドフォンアンプを使ってきた立場からはSTAX純正よりも、素で音が良いと思われるBlue Hawaii SEですら頼りない印象があるほどなのだから当然である。
この状況でCRBNあるいはSR-X9000を最高にしかし安全にドライブしたいと思ったとき、我々はいったいどんなアンプを選べばよいのか。これはまるで分からないというのが正直なところだ。特にできる限りの高音質を求めるという立場ではそうだ。例えばMSBのアンプが作り出すヘッドフォンサウンドに触れていると、既存のアンプの音質の未熟さを感じるが、静電型ヘッドフォン用のアンプについては殊更に強く音質上の不満を感じる。
既存のアンプをCRBNやSR-X9000のような高いポテンシャルのあるヘッドフォンを鳴らし切るという用途に耐えるものとしては、私は認めない。
結局、この分野にはまだ究極の存在はないのかもしれないと思う。
(これから先もほぼ聞けそうにないMSBのあのアンプだけは除くが・・・・)
これもまた静電型ヘッドフォンにまつわる宿題のひとつである。
今はただ、最も音質が良くポテンシャルの高いアンプを探しても無駄に終わる公算が高いと見て、最も安全なアンプを選ぶべきだろうと私は考える。それなら迷わない。私はSTAXのアンプを選ぼう。音にどこかリミッターがかかったような感じはあるが、それはヘッドフォンを壊さないという安全性の証でもあるのだ。
ここでCRBNを鳴らし切っているかは疑問があるけれど、そつなく、安全にCRBNをドライブするという意味では、STAX SRM-700s/tあたりで十分であると思う。
円安でインフレの昨今であるが、現時点での売価の話もざっとしておこう。
CRBNは米国では4500ドルでそのまま日本円になおすと51万円ほどである。日本では正規代理店を通して66万円という表示価格であるが、値引きはあるので、60万円を少し切るぐらいの実売と考えてよい。
SR-X9000は日本では実売63万円ほどであるが、米国価格となると6200ドルでそのまま日本円に直すと71万円ほどである。
こうして検討するとCRBNはSR-X9000よりも安い。特に米国ではかなり安いように思われる。
これら2機の音質以外の部分の違いを私なりにまとめると、
機材としての造りは明らかにSR-X9000が上だが、本体重量は文句なしにCRBNが軽い。
リケーブルが可能という意味ではSR-X9000の方に発展性があるし、メーカー純正ドライバーもあるのでアンプ選びもやや楽だが、現在の状況ではCRBNと比して大きなアドバンテージとは言い切れない。そしてCRBNはSR-X9000よりも少しだが確実に安価となり、海外ではさらにその差は大きい。
さて音質はどうだろう。
The Sound:
STAXのドライバーに結線されたCRBNは出音の流れや質感が非常にシルキーであり、その聞き味は私が今迄聞いた全てのヘッドホンの中で最高のものと感じた。
もちろん私にとっては、という限定付きだが、このまま何日もずっと聞いていられそうなほど、頭の奥からサラサラとエンドルフィンが分泌されるサウンドであった。
とにかくこのサウンドの流れ方は私の心の深いところに流れている意識の流れと同期しているかのようにシックリと来るのである。これは個人的な感覚に過ぎないと言えばそれまでだが、オーディオ機材を選ぶうえで最も重要なことかもしれない。
音の聞き味自体はヘッドホンでもスピーカーでも、まずは振動版の材質に依存し、次にその動作原理に、そして最終的にはドライバーを格納するハウジングの材質や作り方に依存する。ここではやはり振動版がカーボンであるということが一番に影響しているような気がする。この音の滑らかさはシルク=絹の肌触りと表現するよりも、さらにスムーズな印象であり抵抗感や摩擦がほぼない。今まで聞いていた音に潤滑油をさして動きが良くなったような印象を受ける。またこの音場の静けさや音の余計な暴れを抑制した制動感もこのカーボンという材質に由来するものではないかと思われる。
なお、この聞き味の良さについては、価格が40万円を越えるヘッドホンとして特段のレベルにある、本体の軽さも影響しているかもしれない。体への負担が少ない開放型ヘッドフォンの音はヌケが良く、気持ちよく聞こえる可能性はある。オーディオテクニカのライトウェイトオープン型ヘッドフォンの極致ATH-ADX5000などがそうだ。MEZE Eliteの大型ヘッドバンドなどに見られる装着感を良くするための特別な工夫なしでも得られる、絶対的なコンフォートは、私にこのヘッドホンの導入を即決させた大きな要素となっている。
ただ、この滑らかなCRBNのサウンドは今迄の静電型ヘッドホンの特徴である繊細な音調とはやや趣きを異にするものであるのは言わなくてはならない。
静電型として代表的なSTAXのヘッドホン群のもつ優しげな肌理の細かさには柔らかい産毛を、触れるともなく撫でるような感覚があり、それが心地よい刺激となって耳の奥へ届いていた。この傾向はSR-X9000ではさらに顕著となっている。しかしCRBNにおいてはこのような幾分か刺激的な感覚は鳴りを潜めている。
CRBNではむしろ磨かれて黒光りする金属の表面を夜の闇の中で撫でるような、やや冷たく硬質な触感がある。SR-X9000には最上質のコットンの肌ざわりがあって、そこに肌理(きめ)の感触を残すのだが、CRBNでは音の表面はさらに入念に磨かれてもう繊維という感触がなくなり、鏡面仕上げされた金属に触れているような気分にまで突き詰められている。どちらが好みなのかは個人個人で分かれるところだろうが私はどちらも愛してしまった。これらは立派に並び立つ、全く違った音触を持つヘッドフォンなのである。
CRBNのもう一つの特徴として聴感上のSNが高く、音場が静かであるということが挙げられる。またその音場の広がりはやや大きく感じられ、スケール感が良く出てくる。この広がりはいわゆる自然物を即座に思わせるレベルではないにしても人工のサウンドとは俄かには思えない節があった。例えば音場の広さを感じるヘッドフォンとしてHD800などがあるが、あのヘッドフォンは音像を耳からやや遠くに配置して音場の広さを感じさせるタイプなのだが、CRBNは音像は耳の近くに感じられるのに音場の広がりを感じる。これは聴感上のSNの高さ、音場の静けさがヘッドホンとして一段上であることや、ハウジング内部での音の反射、空気の流れのコントロールの巧みさが寄与していると思われる。
また、CRBNにはSTAXのヘッドホン・イヤースピーカーに代表されるような静電型らしさ、すなわち過剰なほどの透明感もあるのだが、その副産物として私がネガティブな要素と感じる、意図的と感じられるほどの色彩感の淡さが少ない。音の色彩感がビビッドに表出しており、STAXの淡泊さと一線を画す。
さらにCRBNはヘッドホンとしては、というエクスキューズなしでワイドレンジであり、高域も素直に伸び、中域は色彩感豊かで厚みや陰影、温度感に溢れている。低域には適度の量感ともにスピードがあり、尾を引いてもたつく気配はない。特にこの静電型ヘッドホンとしての低域の改善は目覚ましい。
特に低域についてはFinal D8000ほどではないにしても輪郭だけでなく量感や温度感がきちんと追えるレベルまで表出させる。ここにあるのは静電型で初めて聞こえる低域であり、D8000のようなインパクトこそないが、いくらか荒々しささえ感じて頼もしい。
ただし、これによってむしろ音の雰囲気は普通のヘッドホンに近くなってくる。この変化は人によっては静電型らしい繊細な音が失われたと感じる部分でもあろうから、難しい側面かもしれない。低域に敢えて手をつけないことでSTAXファンの心をつかんだとさえ思われるSR-X9000とは対照的な音、いわば低域というタブーに踏み込んだ静電型として評価は分かれることだろう。
私は素直に宿題を返したことにして評価することにしているが・・・。
そして、CRBNの音のスピード感は適正で自然な印象もある。対照のSTAX SR-X9000は音が速すぎると言った方がいたが、私も少々スピード感が強調され過ぎると思う場面がある。遊びのないシビアなサウンド、早急にすぎる音であり、私個人はリスニングには向かないと感じることがあった。ただ、このあり得ないとさえ思わせるスピードの速さはヘッドフォンサウンドに新しい1ページを加えたことは間違いない。いや今迄聞いたあらゆるスピーカーサウンドを想起したとしても、これほど速い音はあるまい。これを手に入れるため、大枚をはたくという人がいるのは理解できる。
CRBNは音量を絞っても上げてもサウンド全体がゆるぎなく安定している。また今のところ、大音量再生を持続させても音に苦しそうな兆候が聞こえてこない。これはSR-X9000を含む他のヘッドホンにはあまりないことであり、これも静電型としては特筆すべき特徴だと思う。
私の経験ではSTAXのヘッドフォンは大音量を長時間出し続けること自体、音質うんぬん以前に不得意であるというか故障の原因になりうると私個人は考えている。個人的にしばらく使っていたSR009Sだと、あるレベルを越える音量、例えば大音量に比較的強いFinal D8000proで大き目だなと思うくらいの音量を30分続けて出しただけでも、振動板にかなりストレスがかかっているらしい音が聞こえた。時々パチパチ言ったり、音が微妙に歪んでいるようであつた。そして、そういう手荒な使い方が度重なると、挙句の果て片方だけ聞こえなくなる。もちろんそんなSTAXにしてみれば荒い使い方をした私の落ち度なのだが、静電型だからといって、遠慮しながら使いたくない私にとってCRBNは静電型らしくない能力を有しているようだ。
ただこれはSR009sと同じく自宅で長期間使ってみないと確かなことは言えないだろう。
そういう意味でもまずは予約してみた次第なのである。
これは述べる意味があることか分からないが、面白い話として、LCD5とCRBNは計測した周波数特性がよく似ているという海外からの情報がある。そこにどういう意図があるのか分からないが、これがAudezeが求めるサウンドということのだろうか。ただCRBNとLCD5を同時に試聴したかぎりは同じ音とは感じなかった、LCD5はLCD4の改良型であり、LCD4を現代的なスマートなサウンドに作り変えたものであると感じた。CRBNは静電型の新たなブレークスルー、新たな音質基準を打ち立てることを狙ったものであり、パイオニアであり、先立つモデルが存在しないという意味で壱号機なのである。周波数特性などあてにはならない。
もっとも、その比較試聴の場ではLCD5がMSBの新鋭アンプにつながれて音出しされていたのに対して、CRBNがSTAXの昔のアンプに繋がれていたからということもあるだろう。こういう時にSTAXアンプの非力を私は痛感するのだった。嗚呼、もっといいアンプがあったなら・・・。
せっかく自宅でも試聴させてもらえたこともあるので、
失礼は承知のうえで、SR-X9000について正直な見解を述べておきたい。
先ほども書いたが、このヘッドフォンはカバーしている帯域内では、今迄の常識ではありえないほど速いスピードでは楽音の変化に応答することができるのは素晴らしい。当社比すなわちSR009sと比してもかなり高速である。この超ハイスピードサウンドがこのヘッドフォンの最大の持ち味であると私は思う。介在する電気的仕掛けがほとんどないのではないかと思わせるほど、もうスピードというよりは瞬間移動しているとさえ思わせる革新的なサウンドである。本当にシャープで生々しい音質である。カバーしている帯域においては音に脚色がほとんどなく、音楽性は全く感じられない。音像に厚みはなく、透明感が常に勝る。音色は淡く、濃厚な描写を得意としない。音の温度感はほとんど感じない。熱くも寒くもない音というよりは、温度感を表現することは、一種の脚色になると考えて好ましく思っていないような音だ。
絵でいうと3Hぐらいの鉛筆で正確に描かれた細密画を見ているかのようだ。
極めて繊細なタッチを持ちつつ、容赦ないほど正直なサウンドだが、色がなく、透き通るようだ。
このヘッドホンは大音量ではなく中音量あるいは小音量で実力を発揮する。
私の感覚だと普通よりやや小さい音量で聞いていると良い音に聞こえるのだが、音量を上げると繊細さが勝って力強さに欠けることもある。
そうなるとグリップが欲しいところでスッと力を抜いてしまうような弱さが時々顔をのぞかせる。
確かに高域は明るく伸びており、解像度は高い。澄み切っており、とても綺麗である。
また中域はややブライトで陰影や密度感がない。情報量はかなり多いが音像どうしの遠近や分離がやや不足するようで、平板に聞こえることもある。立体感が不足していると感じるのだ。これらの特徴はこの静電型ヘッドフォンにありがちなの低域の表現の脆弱性に起因するところが大きいのだろう。
低域については(あくまで私の意見にすぎないが)、できたとしてもその輪郭がたどれるだけである。このヘッドホンは低域の音像のエッジは十分に描写できるが、前にも述べたようにその厚みや密度、温度感、なにより量感を伝えない。
これはSTAXのヘッドホン全般にそうであり、このメーカーにとっては特段珍しいこともない。実際にSR009sを自分の部屋で使っていながら、このブログで今迄一度も文章化しなかったのほ、自分の力ではこの低域では音作り全体を総合的に評価し表現することができないと思ったからだ。私はSTAXの最新かつ最高値の旗艦機において、この低域の宿題が解決されることを強く期待していたが、SR-X9000においても残念ながらほぼ解決されないまま残されているように思う。
私は大型スピーカーを駆使するスピーカーオーディオの世界からヘッドフォンの世界に入ってきた。ヘッドフォンにハマる前には、大型のダブルウーファーの放射する、いわゆる本物のロー(低域)を出すことに腐心し、数々の失敗と糠(ぬか)喜びを体験してきた時期がある。この経験が私のオーディオ観の大きな部分を占めているので、低域にはこだわりを捨てきれないのだろう。
特に量感の描写は低域を知るためには必要不可欠と考えられるが、それが普通のもっと安価なヘッドホンよりもできていない。解像度だけで低域を描き出すことは難しい。オーディオによる音楽再生や実際に楽器を演奏するライブ、特に現代のライブ録音の再生において、本物のLowを知ることができるというのは大事なことだと思っているが、少なくともSTAXのみを使っているかぎりそれを知ることは困難だと思う。
もちろん低域の取り扱いはヘッドホン全般にわたる課題であり、スピーカーにおいても永遠の課題であるが、STAXは現在この問題をどう考えているのか私には分からない。
SX-R9000のサウンドは昔、スタジオで聞かせてもらった、まだマスタリングをしていないナマっぽいテープの音に印象が似ている。音はやや粗削りだが、その分余計に強さを感じて新鮮だ。他のヘッドホンで聞くと、そのヘッドホン特有の音作りが多かれ少なかれあって、リミッター、コンプレッサー、イコライザーをかけて聞き易いように音を作っているものだが、このヘッドホンにはそれがない。しかもそれは中域と高域のみに限定された話だというのが特殊である。これは低域はほぼないような音だと私個人は思うことがある。音楽の土台に突然大きな空白が開いていて、そこだけなはっきり見えなくなっているよう聞こえる場合があるのだ。この聞こえ方は私には違和感がある。
低域というものはこのヘッドフォンに限らず、多くのヘッドホンについて多かれ少なかれ共通の課題なのだから程度の差でしかないという人もいるのだろうが、それにしてもこの価格のヘッドホンとして個人的に許せないほど、スパッと思い切りよく低域を省略しているように聞こえている。
私の耳ではCRBNのサウンドはやや細めのピラミッド型で、それなりに低域が安定した音だが、SR-X9000の方はは逆三角形型である。SR-X9000のサウンドは低域に行くにしたがって量感も質感も解像度も少しづつ弱くなってゆくが逆に高域に向かって聞いていくと情報量や躍動感、スピードが増してきて驚かされるという個性的な音だと思う。
ただし、低域がほぼないということが、すごくおかしく聞こえないような音にはなっているので、聞けないほどの嫌悪感は抱かせないのは良い。むしろこの唯一無二の音を探ってみたい興味も湧いてくる側面もある。
そんなこんなで、SX-R9000とは私個人にとって評価が難しいヘッドホンである。
別な言い方をするとSX-R9000音は全体としては万人にウケる音を狙って上手にまとめたサウンドというよりは、技術的にやりたい部分をやりたい放題にやって、結果として出来上がった音をお好きな方はどうぞ、といった感じで、本当に作為がないサウンドだと思う。音作りは個人的には巧みとは思わないのだが、その作為のなさがいいのである。ヘッドホン本体も造りもそういう雰囲気がある。そう考えると好感が持てる。
抽象的な視点から話をすればSR-X9000はドキュメンタリーを聞かせるヘッドフォンであり、CRBNは事実を忠実に追いつつもそこに耳当たりの良いフィクションを絶妙に織り込んだサウンドを聞かせるヘッドフォンであると言えそうだ。高域と中域に限るとはいえ、これほど生々しいドキュメンタリーに徹したSR-X9000のサウンドは唯一無二であり、それと比較すればCRBNのサウンド自体は今迄各社から出てきた製品の音と、その基本姿勢で大差ないものだから、SR-X9000ほど存在価値はないと言うこともできる。しかし、それも間違いだ。CRBNのサウンドにある独特の音色や音触、音の流れ方というのもまた、今迄ヘッドフォンでもスピーカーでも聞いたことのない種類のものであり、またそのような個性的なサウンドにありがちな、何等かのアンバランスがほとんど聞かれないことも、SR-X9000と同等の価値を認める根拠となるのではないか。
どちらもヘッドフォンも完璧な存在ではないが、それを使ってしか聞けないサウンドがあってどちらか一方のみを買うとなれば、悩みは尽きない。
音質についてまとめよう。
CRBNの音は刺激感が少なくバランスの取れた、聞き味の良いサウンドであり、いままで静電型が不得意としていた低域や、大音量で不安定になったりする欠点について、ある程度対処ができている。しかし、その音質改良の副作用なのか静電型特有の美点である、音の繊細さを幾分か失ってしまったため、STAX以外の既存の他社製ヘッドフォンとの差別化がやや困難になってしまったが、私にはそれでも十分に新しい音と聞こえる。
他方、STAX SR-X9000の音は非情なほど生々しくハイスピードなサウンドであり、今までのヘッドホンではなしえないほど忠実度が高く繊細な音像描写が極めて魅力的であるが、低域の量感や温度感の描写が未だに不得手であり、厳密な見方をすれば帯域のバランスの良くない音という面もある。STAXサウンドの長所を大きく進化させることができた反面、惜しいことに静電型ヘッドフォンの欠点を補完するという宿題を解決できなかった製品と私個人は考えている。
こうして見ると、完全無欠のヘッドホンは、まだこの世界には存在しないようだ。しかし確かに唯一無二と認められるヘッドホンならば、いくつでも併存しうることを今回の比較試聴で感じた。
Conclusion:
私は聞く音楽ソースの手前(例えば昨日はマカヤ マクレイヴンのデサイファリング メッセージを買ったが)、ある程度の大音量で低域を安定して出しっぱなしにできるヘッドホンを必要としている人間なので、そしてなによりCRBNのサウンドとオーディオマインドの深い部分で波長が合ったので、結果的にCRBNを予約し、とりあえずSR-X9000はパスした。またCRBNはその軽さとの兼ね合いでいうとハイエンドヘッドホンと言える製品の中で最も軽いと言われるオーディオテクニカのATH-ADX5000の270gに迫る300gという重量も私の背中を強く押す要素となった。
ただ、SR009sのようにSR-X9000を一定期間、リスニングルームに招き入れて試用するという時期は来ることだろう。私のような新しもの好きが良く言えば唯一無二、悪く言えば唯我独尊のSR-X9000の個性派サウンドに対して、ただ黙って傍観者に徹しているわけにもいかないだろうから。
もちろん低域についてはこれくらいで十分だし、STAXの繊細感や透明感が好きでそれを極めたいというヘッドフォンリスナーも多くいるはずで、そういう向きにはCRBNよりも強く勧められるヘッドフォンであることは間違いない。
ところで、
我ら真剣なヘッドフォニアという者は、
自らの直感で選んだ一機のヘッドフォンと対峙して、その音を聞くとき、
いったい何をもって、そのヘッドホンの評価を決めるものだろうか。
最も重視される音質の要素とはなにか。
解像度、帯域バランス、定位、ダイナミックレンジ、SN、歪みの少なさ、高域の伸び、地を這う低域の量感か、中域の躍動感、はたまた音楽性か。またはその全てを総合するのか。
そのヘッドホンにできうる限り高い音質レベルを求めるとしたら、
いったい何があることをもって、
それを自分にとって最強のヘッドフォンとして認めるのだろうか。
今回、AUDEZE CRBNとSTAX SR-X9000を独断と偏見をもって比較して来たが、
ここではとどのつまり、ヘッドフォンとしての強さの定義とはなにか?ということが問題となっていたような気もする。
私はこの問いの答えとして、具体的な音質の要素をひとつだけ挙げたことは一度もないと思っているし、また意外にも各要素をミックスした総合的な検討に完全にゆだねていると断言したつもりもない。
やはりこれは、私の音を聞いたときの自分の中に流れているオーディオの波長のようなものとシンクロするかどうかが一番重要な基準ではないか。
つまり自分のオーディオに関する経験の中で培(つちか)ってきた美意識にどこまで深く合致するかが最強のサウンドの定義の中心にある。
音の要素に多少の足りない部分があったり、装着感が幾分他よりも劣っていてもこのディープな一体感さえあれば、全ての欠点を忘れることもあながち不可能ではない。
今聞いているヘッドホンの音質のついて1億の言葉を並べようとも、ここで言う一体感というのは意識の及ばない場所にもかかっているのだから、それを文言で表現することは難しい。日本人である私がなぜ日本製のSR-X9000ではなく、米国製でしかも信頼性が高いのか低いのかよく分からないCRBNを選ぶのか、あるいは私以外のオーディオファイルが、なぜCRBNを脇に置いて、SR-X9000推しに突き進むなんてことがありえるのか、その真相はそれぞれの心の深い場所にあって、人はもちろん本人にも詳しくはわからないのだ。
しかし、だからオーディオは分からないものだと見限る、あるいは一人で孤独を囲うべきではなく、むしろますますそこにのめり込んで、見知らぬ人々の自分と異なる意見に耳を傾けていけるかどうかが、オーディオが今以上に深まるか、あるいは自分の今のレベルに低回するかを分ける分岐点になるのではないかと考えている。
もう随分と長い間オーディオマニアをやってきているが、オーディオ業界はここ30年間で今が一番大変な時ではないだろうか。ハイエンドオーディオのマンネリ化、高齢化にスーパーインフレ、そこにコロナ禍と来ている。
そういう今だからこそ、オーディオをより深めたいと私は願う。乱世・末世こそチャンスであり、新しい時代への移行の芽を孕んでいると思うからだ。
SR-X9000とCRBNが提起する複雑な対立軸をじっと見つめていると、今いる場所よりもっと深いヘッドフォンオーディオの境地が朧(おぼろ)げにみえてくるような気がする。
これらふたつのヘッドホンは、それぞれ一聴して分かるほどはっきりと他と区別できる、今までにない音の世界を持っている。
それがゆえに、ヘッドフォニアにどちらを選択するかの葛藤をもたらし、
その葛藤を通して自らのオーディオを見つめ直させる機材である。
これらを実際に聞きながら、
どちらのサウンドに自分がより深く共感できるのかを真剣に探ることは、
自分の中に新たな自分を発見する契機となるだろう。
そして、ここで取り上げた静電型に限らず、
新しく、そして優れたヘッドホンがいくつもある時が、今である。
多いに聞き、多いに喜び、そして悩むべき時が来た。