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HANNL Mera ELB Eco 24V レコードクリーナーの私的レビュー:ヤヌスの顔

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ある程度以上に複雑な物事には、
ほぼ例外なく、Janusの顔のような二面性というものが
影のように付き纏っている。
そういうことを、何をやるにしても常に忘れないことである。
桐村 純 (発明家)



Introduction

最近、あまり聞かなくなりましたが、電線病という業界用語がありますよね。
要するにオーディオ用のケーブルをとっかえひっかえして、音が変わったことを喜ぶという習性、オーディオという趣味の中の一つの態度を指す言葉だと私は解釈しています。
病気かどうかまでは分からないのですが、私にもそういうことを嬉々としてやっていた時期がありました。あの頃は随分と散財したものです。しかし、アナログオーディオを本格的に再開した折に、オーディオシステムから出てくる音というものの中には、どんな高価なケーブルをもってしても変えられない部分があり、むしろそちらの方が、オーディオという趣味のコアに近いらしいと知ったわけです。ケーブルは電気信号が流れる経路であり、それ自体が、信号を積極的に発生することはない。一方、デジタルオーデイオではCD,SACD,あるいはデータそのもの、アナログオーディオではレコードが音の源泉です。当たり前ですが、ケーブルがいくら良くても、源泉から出てくる情報の質が悪ければ、話にならない。特にアナログオーディオではデジタル以上にメディアの質、すなわちレコードの質に再生結果が左右されます。それは、どのような耳にも如実に分かるレベルであることも多いのです。アナログオーディオを再起動してからというもの、システムの入り口の質で音の質が決まるという部分に、私は注目するようになりました。
不遜にも、ケーブルで音が変わるという部分については、その変化のバリエーションを知り尽くしたかのような錯覚を私は抱いていますが、散財の額からして、そして試した製品の数からして、この錯覚は完全に錯覚のみとも言い切れないでしょう。また、近頃はもう高級ケーブルのレビュー合戦も一頃に比べれば随分と下火になった気もします。(一部ではひっそり盛り上がってるようですけど)メーカーさん達の方も出来ることはやり尽した感が否めないですね。あの頃の、猫も杓子も電線病みたいなブームは去ったようにも見えます。
とにかく、私個人は、もうケーブルは十分に聴きました。別なこともやりたいのです。もっと音の源泉に近いところ、というより音の源泉そのものを良くしたい。

ところで、
目をつけているオーディオ機材があって、それを買うか買わないかの判断は、私の場合、その音質によって決めます。しかし、それを売らないで長期に渡り、持ち続けるかどうかは、ルックスや使い勝手がいいかどうかも重要となるのです。音なんてものは、よほどのものでない限り、早晩、飽きることは避けられません。(無論、よっぽどのものは別ですけどね。)実際、ずっと使っている機材はコンパクトで美しいデザインをまとっていることが多いものです。
例えば、デジタルをほとんど使わない今でもKLIMAX DSは、なかなか売る気になれません。このDSについては、音はそれなりなのですが、ルックスが良くコンパクトなところが気に入っています。こんなに美しく、小さくて邪魔にならず、しかもこれほど洗練された音を聞かせるデジタル機材はあるでしょうか?少なくとも現時点では、私は知りません。
結局、音の面でも形の面でも揺るがない美しさを持つモノだけが手元に残ってゆくようですね。

ここまで段落を分けて書いた二つの話をつなげる機材の話をこれから書こうと思います。
それは、レコードを完璧にクリーニングすること、それだけに特化した美しい機材のお話です。そして、その結末は、オーディオ機器の外観と音質という二面性、まるで異国の神のようなイメージを持つオーディオの哲学的側面にタッチする話でもあります。


Exterior and feeling

ドイツ製のHANNL Mera ELB Eco 24V 洗浄吸引式レコードクリーナー(以降HANNLと略)は重厚に黒光りするエクステリアを与えられた機材です。これは、“フォルムは機能から生まれる”と言う箴言がピッタリのアイテムです。
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HANNLをざっと眺めると、黒い厚手のアクリルで組まれた筐体と、鏡面仕上げされた銀色、あるいはヘアラインの仕上げのあるマットブラックの3本のアーム、ターンテーブルの真ん中のウエイトが目に入ります。全体にミラーシルバーとピアノブラックのツートンカラーで、艶のあるルックスです。特にローリングブラシのアームがピッカピカで格好が良いです。さらに、ターンテーブルのセンターに置く、レコードを重さで固定する事とレーベルシールの保護する役割を兼ねた丸い銀色のウエイトも目立ちます。このどっしりとした重みのある部品には吸着式固定パックという名前がついていますが、これがクリーナー全体の美しさを際立たせるようです。この部品の底部には大きなスウェーデン製の吸着リングが取り巻き、レコードにピタリと密着します。洗浄液が溢れても、レーベルに被害が及ばない仕組みです。
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専用のダストカバーをつけて眺めますと、機材は一つのまとまりとなってボリュウムもあり、その存在感は小さくない。安物のアナログターンテーブルなどよりも、エレガントで精密な印象であり、見栄えがいいです。オーディオアクセサリーというジャンルに入る機材ですが、これをアクセサリーと呼ぶのは憚られます。実物を前にするとグッと来るものがあります。上部に出ているローリングブラシ、洗浄液吸引アーム、平ブラシアームの材質は金属を多用して耐久性が期待できそうですし、工作精度も高い。全体の重さは17kgもあり、なかなか重厚であります。

このHANNLの形は無理やりデザインされたものではなく、レコードをオールインワンで完璧にクリーニングするということを追求して自然とデザインされた面が大きいと思いますが、それだけでは説明しきれない道具としての美しさが滲み出ているようにも思います。
とにかく、ただのレコードクリーナーに、過剰なほどしっかりした造りと立派な形を与えたドイツ人の発想には恐れ入るしかありません。こういうモノは日本人のエンジニアは作らないでしょう。どうあっても、こじんまり、スッキリして平均的かつ姑息なデザイン、造り、発想に終始してしまう。日本のオーディオメーカーのダメなところです。

基本的な操作切り替えはフロントパネルのダイヤルを回したり、押したりして行います。(CH Precisonのプレーヤーの操作系みたい)また、ターンテーブルの回転速度もダイヤルで無段階に調節できます。ブラシで洗う時は比較的速く、洗浄液を吸引する時はゆっくりと回るのが望ましいので、この回転速度調節機構がついていることは、高度な洗浄を行うには重要なのです。
基本的なHANNLの洗浄動作としましては、レコードの上に洗浄液を垂らし、回転させながら伸ばし、盤面で攪拌してダストを浮かせて取り除いたうえで、液ごと残らずバキュームで吸い取る、ということで要約できそうです。この中では、レコードの表面で洗浄液を攪拌することと、残った液を残さず、強力に吸引するという動きが重要でしょう。この二つの動作を行えるクリーナーは他にないようです。
実機において、回転する各部の動作は確実で危なっかしさがない。細かな部品まで吟味され、堅牢なので信頼性が高いようです。モータートルクは力強く、アナログプレーヤーのモーターのようにひっそり遠慮がちに回る感じではありません。工作機械のモーターのようです。そうであっても動きが大雑把で、かえってレコードにキズをつけてしまうようなところもないし、指を挟めてケガをしそうな動作もない。吸引力もかなり強いので、まったく液の残りはありません。ただし、ターンテーブルの回転自体はほとんど無音に近いのですが、吸引時は小型の掃除機くらいの吸引音が出てしまいます。前のモデルおよび他社のバキュームクリーナーよりは静かなので、一応は良しとします。

このHANNLでクリーニングしたレコードの盤面の性状は、シャンプーやリンスのテレビコマーシャルに出てくる、注意深く手入れされた長く黒い女性の髪のようです。若い日本女性の真っ直ぐな黒髪を同心円状に正確に配列させたような感じです。最も短い言葉で言えば「艶々」という状態。ただ、このクリーナーが取り除こうとしているのは主に目に見えない小さな汚れ、レコードのグルーヴに付着するマイクロダストですから、見てくれがキレイに見えているだけでは意味がなさそう。

なお、このHANNLの欠点はいくつかあります。
まず、タンク内の洗浄液の残量が外から確認できない。タンクのフタを開けて(このフタも緩いので困る)、中を見ても洗浄液がどれくらい入っているのかよく分からない。マニュアルでは作業時は常に四分の一以上、液が入っているべきとされていますが、タンクの中が暗くて見えにくい。そこで私はフタを開け、液を注ぐ口から棒を入れて、大体のタンクの深さを測っておきました。以後はその棒をタンクの中に入れてから抜き、棒がどこまで液で濡れているかを確認しまして、残量を測っています。こんなことをしなくても、残量が分かればいいのに。

また、多くの動作が結局はマニュアル動作であり、全自動からは程遠いのも欠点。長くなりますが、洗浄時の具体的な操作を大雑把に辿ってみるとそれは分かると思います。
タンクに洗浄液が入り、電源も入った状態で、まず、レコードをセットし、ラベル面保護のウエイトを置く。ローリングブラシと平らブラシも自分の手でセットし、ダイヤルを回してプラッターを回転させる。次にダイヤルをプッシュして洗浄液をレコードの上にたらす。そのまま何回転かしたら、ダイヤルを回して逆回転させ、さらに何回転かさせる。終わったらローリングブラシと平らブラシを自分の手でよけて、吸引アームをセット、ダイヤルを回して吸引する。ここでは放置しておくと自動的に逆回転してくれるので、3分弱でほぼ完全に洗浄液を吸い取りきる。最後にラベル面保護のウエイトを外してレコードを慎重に取り出す。これで一通り終わりです。さらに乾かす必要はなく、吸引が完全に終わった時点でクリーニングした面は針を落とすことができます。こうして何回も手を動かして、やっと片面のクリーニングが終わります。片面の洗浄にかかる時間は5分くらい。最短の時間で済ませたいなら、この間はHANNLの前を離れないで作業することになってしまいます。実際やってみると、自分の手や目を使って行う、これらの作業は、レコードを洗って、綺麗な音で音楽を聞きたいという意思がないとできない水準の面倒臭さがあります。

この作業の中では、ローリングブラシの高さを丁度よく決めるところが特に難しい。回転するブラシの先がレコードに接触するか、しないかぐらいの位置に、目で見ながら高さ調節をして固定するのですが、結構、上下の調節の動きが固くてやりにくいうえ、つくか・つかないかという加減が目視では微妙です。私の研究では、ここで上手くすれば、水滴をわずかにしかハネさせることなく、十分なクリーニングの効果が得られますが、結構難しい。

さらに、吸引時の音は深夜に作業するにはちょっとウルサいとか、専用の洗浄液が高いとか(500ml,5000円)、ブラシには簡単なメンテナンスが必要なこと、液を吸引しすぎると静電気が起こること、吸引ブラシに貼ってあるフェルトが何回も吸引をやっているうちに濡れてきて、レコードから放す時に微かな水跡をレコードに付けてしまうことがあるなど、細かい不満もあります。特にターンテーブルシートがやや安っぽく、ホコリがつきやすいことは困ります。クリーニングした面を裏返し、クリーニングする際に、裏返した洗浄済の面にマイクロダストが付着してしまうと意味がないです。これについては、作業中はスマホのタッチパネルを掃除するコロコロでホコリを取り、使わないときは専用のダストカーバーをかぶせ、ホコリが落ちて来ないようにすることで対策としています。また、水跡を残さないためには、その都度キムワイプ等で余分な液を吸引ノズルから拭き取っておくこと。しかし、これらはマニュアルにない余分な作業であり、全く面倒でしかありません。

ここまでの所見のまとめとしては、とにかく外見はよく出来ていて、動作も確実ですが、実際の洗浄作業はそれほど楽なものでも、楽しいものでもないという所でしょうか。これで、音質向上がソコソコというレベルであれば、高価なだけであまり顧みられない機材になってしまう可能性もありますが、そうはならないところが凄い。洗浄効果自体はかなり素晴らしいものなのです。


Sound effect 

HANNL Mera ELB Eco 24V レコードクリーナーでクリーニングしたレコードを手持ちのシステムでかけてみますと、場合によってはドキッとするほどいい音で音楽が鳴ってくれる。そんな時は高揚した気分になって、音質を左右するカギは、常に意外なところに落っこっているものだなと再確認する。この掃除屋の実力を侮ってはならないのです。

とは言うものの、幻想を抱いてはいけません。一回でもクリーニングすればパチパチノイズが完全に消えるなんてことはない。大幅に減るだけです。完全にはなくならない。でも完全になくならなくても、大幅に減るだけで随分と清々(すがすが)しい音楽体験ができます。古いレコードでは、それこそ天と地ほどの差があります。HANNLで洗浄すると、明らかに見通しがよくなり、サウンドステージは格段に広く感じられます。音質を云々する土俵が違ってしまったかのようです。アナログレコードはCDに比べてチャンネルセパレーションが悪く、音がスピーカーとスピーカーの間に凝集するような振る舞いを聞かせることがありますが、洗浄後はスカーッと音場が左右に広くなって、実はこうだったのかと大変驚かされる場合があります。

今まで、クリーニングをしていない古いレコードでは、ノイズを聞いているのか、音楽を聞いているのか分からなくなることもありましたが、HANNLのおかげで常に音楽だけを、しかも音楽の本当の姿だけを味わうことが夢ではなくなりました。古い盤を安心して聞けるようになったのです。
クリーニングしていない古いレコードを聞くということは、場合によってはパチパチ、ガサガサのノイズの間から音楽を覗き見ているような状態です。そのままでは聴くに堪えない音かもしれない。こんな状態のレコードをノイズレス・クリーンなデジタルファイルの音に馴れきった若い人たちに聞かせて、どうだ!いい音だろう、これが分からないヤツは、まだまだ修行が足りん、というような態度を取る方を見たことがあります。
そうです、そういう言動をしそうな方は、消費税増税前に、ヴィンテージのアンプやスピーカーに投資するのもいいですが、むしろ、このHANNLを早めに購入した方がいいかもしれません。ああいう埃っぽい音は、本来のレコードの音ではなかったのだとHANNLは教えてくれます。パチパチノイズの大半がなくなるだけで、古いアナログレコードは、これほど現代的なサウンドソースになりえるのです。

パチパチノイズが減ること以外にもいくつもの音質的メリットがHANNLのクリーニングには含まれています。
このHANNLでの音質の違いの一つは、レコードの溝に針を落とした直後から聞こえはじめます。歌い出し、弾き始めの瞬間に違いがあります。音が始まる瞬間の直前の静寂が感じ取れるのです。そこからなんの断絶もなく音楽が始まる様がなんともスムーズです。なぜ、この変化があるのか、上手く説明できませんが、やはりノイズが減ったということと無関係ではないでしょう。
そして、次に驚くのはダイナミックレンジが明らかに拡大し、伸び伸びと音楽が鳴るということです。音の細かいところが聞こえやすくなるのは勿論ですが、全ての音の音量が上がったような印象を受けます。パチパチノイズは当然減少するので、大音量で聞き易くなるのは当たり前ですが、そんなことをしなくても、音が自然と大きくなり安定したような印象を受けます。大きくなった音像はふやけたような、締りのないものなってしまうことは無くて、むしろハリが良くなり、鮮度が高く感じられます。音全体に瑞々しさが倍加するような印象です。さらに、音の立ちあがり・立下りにストレスを感じさせないのが、アナログオーディオの特徴ですが、この長所も一段と強化されてきます。
私の感性では、音質に関してHANNLを使って悪くなるところは皆無です。

ただ、アナログオーディオにもいろいろな派閥があり、むしろナローレンジで見通しが悪く、パチパチノイズが盛大に乗るのが味わいだと信じて疑わない方もいます。私は、オーディオ界では有名な或る人にレコードは絶対に洗ってはいけないと真顔で言われたことがあります。その人は今でも、そう言い続けているようですが、HANNLを知ったうえで言うなら、それも見識でしょう。その道を往くと決めた方はHANNLなんぞを買わん方がよろしい。Air force oneもConstellationのPerseusも聞く必要はありますまい。私の目指す世界、HANNLが与えてくれる世界は彼らの居場所とは違います。こういう棲む世界の違いについて、いつも書くのですが、それは、なかなか超えられない壁です。同じアナログファンでも、分かりあえないことがあるなんて、傍から見ていると、どうも変なのですが。

このクリーナーの効果の凄さを実感する瞬間は、上記の如く、音を聞いている時に有るのは勿論ですが、クリーニングした直後のレコードで片面終わって針を上げた時にも訪れるのです。それというのも、クリーニング直後は針先に目に見えるゴミがついていたことが、ほとんど無いのです。当たり前のように思う方もおられるかもしれませんが、これは凄いこと。例えば10年以上前にリリースされた盤をHANNL以外の手持ちのクリーナーで何回洗って回してみても、必ず多少のゴミが針に付着してしまうことは経験済みです。HANNLの場合、回している途中に盤面に落ちてきたと思われる大き目の糸屑のようなものがついていることが時にありますが、それ以外にゴミが溝に残っていると肉眼的に分かった経験がほぼ無いです。トリモチ式のクリーナーで針先を触っても、なにもくっついていないように見えることがほとんど。また、洗浄後は静電気も起こりにくくなっているようです。洗浄後にレコード袋がレコードにくっつきにくくなっているのです。これは埃をレコードに寄せ付けにくくする要因でしょう。
とにかく、他のクリーナーでは、ここまで徹底的にダストを取れはしない。古いポップスやJAZZのレコードをかけると、一回、普通のクリーナーでクリーニングしても、針により溝からダストが盛大に抉り出されてきて、それが針に付着、針の自由な動きを妨げ、音を曇らせてしまいますし、針の寿命も縮まる。HANNLを導入して有り難いのは、音もさることながら、針の寿命が、かなり延びたらしいということなのです。


Summary

HANNL Mera ELB Eco 24V レコードクリーナーは、先進的なアナログオーディオを極めようというベクトルにあって、あるレベル以上の音を出したいと願うなら、ほぼ必須のアイテムでしょう。余人をもって成しえない音質向上があると私は思います。多分、これは言い過ぎではない。実際に自分の部屋で自作のクリーニング用ターンテーブルや、他社のクリーナー機材と比較しながらHANNLを使ってみると、それは、たちまち露わになる事です。例えば、数日前までここに置いていた、V社の安価なバキューム式クリーナーも悪くはなかった。でも、それは、このローリングブラシ付きのHANNLの敵ではないのです。細かい欠点こそ有るが、それはもう、この音に接してみれば気になりません。
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発売当初より、このHANNLは高価であり、現在は80万円弱という、レコードクリーナーとしては、ほとんど有り得ないようなプライスタグがついています。私が簡易なクリーナで最も優秀と思うRKC Premium Mk2の100倍近い価格。しかも近々に円安による値上げがあり、消費税も上がるという始末です。良い音も、美しいルックスもどんどん遠くなる気配です。しかし、まだ今のところは値段に見合った効果があるアイテムだと私個人は思いますし、ただのレコードクリーナーの外観に、これほど所有欲を満たしてもらえたのは嬉しい誤算でした。
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(追記として、2014年秋に日本に輸入されるようになった新しい超音波クリーニングマシンKlaudio CLN-LP200について、私の知り得るところを簡単に付記しておきます。このクリーナーについてはHANNLよりも良い所はいくつもあります。まず普通の水を使うので、専用液が必要なHANNLの10分の1以下のコストでクリーニングできます。両面を一度にクリーニングできるので、かかる時間は半分。出来上がったらすぐ聞ける状態であることは、HANNLと同じです。しかもレコードは基本的に差し込んで、ボタンを押し、出来上がりのブザーが鳴るのを待つだけと、はるかに簡単。HANNLのローリングブラシのように水滴もハネる恐れもありません。また10インチ盤、EPなどにも対応するアダプターが出る予定もあり。重いので移動用の取っ手までついてます。本体価格もHANNL Mera ELB Eco 24Vよりも20万円ほど安い。こうなるといい事ずくめかと思うのですが、ひとつだけ問題が。私は一枚だけ某所で洗ったものを聞いただけなのですが、肝心のクリーニングの効果が、明らかにHANNLと違うような印象でした。これは私だけの意見ではなく、私の知り合いで両方のクリーナーを試した方に、それとなく聞いてみると、ほぼ同意見でした。簡単に言えば、HANNLによるダイナミックレンジの拡大などのノイズの低減以外の音質向上がないのです。HANNL専用の洗浄液に含まれる界面活性剤の威力ではないか、という方がいますが、この違いが具体的にどこから来るのか分かりません。
ここでの結論としては、音質向上について深くこだわらないで、多くのレコードを安く、ピカピカにしたいなら、Klaudio CLN-LP200をお薦めします。これでも多くの方にとっては十分過ぎるクリーナーですから。しかし、音質を追求するならHANNLだと思います。)

繰り返しになりますが、正直、単なるレコードクリーナーに、これほどの能力とエクステリアを与えたドイツ人のセンスに敬服します。この製品の存在は、アナログオーディオという趣味が、その内部で複雑に分岐しつつあるオーディオという趣味全体の中で、最も深みをもったジャンルであることに裏付けを与えているようです。この深みは、アナログレコードという素晴らしいサウンドソースへの愛の深さそのものです。このような深さは今、再編されつつある、否、もしかすると見えないところで暴力的な革命のように破壊されつつあるかもしれないデジタルオーディオには、未だ備わっていないのです。
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この美しく、しかも素晴らしく大袈裟なHANNLにクリーニングされた艶々と黒光りするレコードの音を聞いていると、オーディオというものに古代ローマのヤヌス神のようなエキゾティックな二面性があることを、私は思わずにはいられません。そうなのです。入り口の守り神であり、全ての行いの始まりを司る神である、二つの顔を持つヤヌスを、私は想い起します。オーディオという趣味に使われる機器には全て、広い意味で使い勝手なども含めた外観という側面と音質という側面、つまり二面性があり、機材全体としての出来の良し悪しは、それらの間にある危ういバランスで決まるところがあると考えます。

音の入り口の部分において、ともすれば矛盾しがちな二面性が一つの機械として結実して出来た、このレコードクリーナー。そこに私は厳(おごそ)かな神の顔を垣間見るのです。そして、その厳かな神像の台座にぶら下がる、これまた厳かなプライスタグの数字に青い吐息をついたりもするわけです。

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# by pansakuu | 2014-02-25 23:05 | オーディオ機器

CHORD Hugo 高性能モバイルDACの私的インプレッション: I meet Hugo


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人生はからくりに満ちている。
日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、
私たちは出会うことがない。
その根源的な悲しみは、
言いかえれば、
人と人とが出会う限りない不思議さに通じている。

星野 道夫(写真家)



Introduction

あの大雪の日、
私はHugoに出会った。
もう、認めなければなるまい。
とうとう、これだけの音質を持ち運べる時代になったことを。
もう、静観してはいられなかった。
私はキーボードを10本の指で叩き始めた。

モバイルのDACつきのヘッドホンアンプとか、ヘッドホンアウトがあるDACというもの(違いはどこ?)を沢山聞いてきたし、デジタルオーディオプレーヤーも様々なものを試してきたが、この場で特別に取り上げる気分にさせるような傑作は、今まで一つもなかった。

これらの製品の共通点は、多かれ少なかれ妥協の産物ということであった。価格やサイズ・重さ、電源、パソコンへの接続等が制約として、音質の首を絞めている。というか、絞めまくっている。こんな送り出しの音ばかり聞いていては、イヤホンの音質がいくら良くなっても無意味だろうと、一人で腹を立てたことがある。アニソンの音質が多少悪くても、DAP(デジタルオーディオプレーヤー)の出音が良ければ、もう少しは救われるはずだと思ったりもした。これらのモバイルオーディオ製品は、音質のために、ほとんど際限なく贅沢に製品の仕様を決められるような、ハイエンドオーディオのプロダクツとは、開発の方向性そのものが違うと、ずっと感じてきた。歩きながら、あるいは電車の中でうとうとしながら、あるいは公園のベンチで日差しを浴びながら音楽を聞くために、どれだけ多くの音質的ファクターを犠牲にしなくてはならないのか。技術は進歩しているのに、これが大衆のため音質のスタンダードなのか。いつも、そう思って、DAPを嘆きながら聞いていた、渋い顔で。面白そうな新製品が出るたびに、すっ飛んで行って真っ先に聞いているのだが、聴いた後の捨て台詞は常に「この程度か」。

昨日、Hugoとほぼ同時に聞いたAK240でさえそう思えた。これだけでは、まだまだ薄い音だと思う。随分と音質も使い勝手も改良され高級化されて、DAPとしては、ZX1など比較にならないほど良いものだ。しかし、いかんせんハイエンドオーディオの据え置きのプレーヤーから出てくる音と一対一で比べると、それこそ比較にならないほど情けない音である。そう、比較する相手がおかしい。200万円オーバーのSACDプレーヤーやDSと比べるようなものでは、そもそもない。しかし、私の場合、自分が普段親しんでいる音がそういうものばかりなので、そういう比べ方になるのが避けられない。AK240はポータブル機材の音の上限を押し上げたのは確かだが、わざわざ私が買うほどの音とは思えなかった。(早まったか?)

ところで、
いつも思うのだが、そもそも、ある種のデジタル機材のジャンルにおいて最高の音質を狙っていながら、他のメーカーから供給されるDACチップを使うこと、そして、そこから出てくる音に疑問を感じないのだろうか?このプレーヤーのキーデバイスであるチップの音は、本当に自分たちが求める音そのものなのか?エンジニアさんたちは、そういう疑問を持たないのかと疑う。AK240のサウンドは、かなり器用、要領が良くて利口、そして素直な音だが、まだ自分の音というレベルのものを出しているとは思えなかった。主張の感じられないオーディオは私の心には響かない。

しかし、Hugoは違った。
Hugoは私のオーディオマインドを充たす、
初めての持ち運びを前提としたデジタルオーディオ機器なのである。


Exterior and feeling

感覚的に、大きさは文庫本あるいはCDケースよりやや大きいぐらい、厚さは二枚組のCDケースくらいだろうか。132×97×23mmの、銀色のビーズショット仕上げで削り出しのアルミ製の筐体である。CHORDの製品らしく、筐体に丸い覗き窓の穴が開けられ、レンズが嵌め込まれている。その奥には例の如く回路基板上にLEDが並んで光っているが、バッテリー残量、デジタル入力ソースの選択、クロスフィールドフィルタの状況を表す。また、レンズではないが白いプラスチックの嵌め込まれた丸窓も別に開いていて、これは裏表にある。これは入力されるサンプリング周波数を色で表すための窓であるが、同時にブルートゥースの電波を通すための穴でもあるらしい。ボリュウムは半透明のホイールのような形状で筐体の表の中央にある。こちらもボリュウムを上げたり下げたりすると青、緑、赤と色が変化する。色の変化を利用したカラフルな表示方法が面白い。
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片方の側面には入力の切り替えボタン、SDとHDで分けられた2つのUSB入力端子、電源スイッチ、充電ポートがある。反対側の側面には6.3mm一つと3.5mm一つのヘッドホンジャックとRCAアンバランスアナログ出力、RCAデジタル入力、Optical TOS link入力がある。CHORDの製品らしく端子類は混んだ配置になっており、場合によっては、お互いにぶつかったりするのではと心配になる。(今回はRCAアナログアウトとRCAデジタル入力、光デジタル入力は試していない。)
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この筐体側面には3本の溝が入っている。これはiPhoneなどをゴムベルトでHugoに固定する際にゴムベルトが滑らないようにするための溝らしい。細かい配慮があるのは嬉しい。また大きく刻印されたHugoのロゴの書体もいい。もし可能ならブラック仕上げのHugoでゴールドのロゴのモデルを出して貰えると嬉しい。ゴージャスな精悍さがこのDACのイメージに加味されるであろう。

Hugoは384kHz/32bitのPCMハイレゾデータ、DSD128/1bitのデータに対応することを掲げているが、こういう数字自体はあまり意味がないと思っている。それはPCオーディオをある程度、長くやれば分かることである。大きな数字で飾られた大きなデータで音楽を聞くことは、安心感があるが、実際の音楽的感動とはリンクしない。音の良さというより、ただの音の違いでしかない場合も多々見受けられる。音の良さの本質はこういう数値とは別なところにあるのである。

電源はリチウムイオン電池であり、4時間でフル充電となり、8~12時間の連続再生時間を確保する。再生時間に幅があるのはハイレゾデータなどの大きなデータを処理すると、より大きなエネルギー消費になることが関係しているようである。こういうところでもハイレゾは特に有利とは言えないと思う。

Hugoは全体にとてもコンパクトにまとめられており、またアルミの引き抜き材を活用する、多くのポータブル機材よりも堅牢に出来ているように見える。どこへでも一緒に持ち運べるという意味のWherever you goという、この製品のキャッチフレーズの中のyou goを取ったらしい、Hugoというネーミングに相応しい仕上がりである。

ただ、CHORDらしく、あるいは試作機だからか、この入出力がなんなのかという表示、印刷にしろ、刻印にしろ、なにもない。さらに、いくつかのイヤホンのL字のミニプラグはこのHugoに挿し込めないものがあることが分かった。ヘッドホンジャックの周囲を丸く彫り込んで、コネクターを取り付けてあるのだが、この部分が小さすぎる。加えて、RCAアナログ出力端子についても、接続できないRCA端子が若干ありそうだ。さらに加えてOptical TOS link入力も入らない場合があるようだ。ハイエンドなCHORDのDACやアンプでも、端子が混んでいて、取り付けられないケーブルがあるなどの欠点があったので、またかというところだ。こういう部分は改良の余地があると思う。

なお、このHugoのデジタルインターフェイスなどの詳細については、著名なS氏のHPやメーカーのHPを見れば分かるわけで、私のような素人が、ここで受売りを書き連ねてもしかたないと思うのであえて書かない。我々はスペックを使うのではないし、聞くのでもない。素人が実物に触れ、聞いてどういう印象を持ったかということを、ここでは大事にしている。


The sound 
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堂に入った、立派なものである。これほどの音質がこの大きさで、しかも20万円台で手に入るとは夢のようである。ここ10年間で発売されたポータブルのデジタル機材で最も音が良い。80万円くらいまでの据え置きのDACで、このレベルの音を出せるものさえ、ごく限られているだろう。Hugoの20万円台の価格というのはあまりにもバーゲンプライスである。このDACの能力からして50万円でも決して高いとは思えない。音にはアクにならない程度の絶妙な個性があり、CHORD独自の音の主張が巧みなサジ加減で盛り込まれている。

今回、HugoはiPhoneをデジタルトランスポートとして、主にPCMのハイレゾデータをEdition8とHD800で聞いた。今回のポタ研の入場者は大雪のため、やや少なく、比較的、時間をかけてHugoを占有することができた。

ヘッドホンで聞くHugoのサウンドは、伸びやかでクリアーでありながら、力強さを含んだ音、一本の芯の通ったしっかりした音である。輪郭はCHORDらしくクッキリとしているが、隈撮りが強過ぎてキツイ音ではない。むしろ柔らかさ、滑らかさなど、ダイヤモンドエッジとは正反対の側面も強く感じさせる。初期のCHORDのDACに感じたギラギラした感じではなく、より洗練された音だ。音の温度感はクールであるが、冷たすぎはしない。電源がコンセントからではなく、ノイズがもともと少ないリチウム電池であること、DACと内臓のヘッドホンアンプへの電源の取り方を工夫していることなどからか、ノイズがかなり低く、ダイナミックレンジが広く取れているように感じた。

これは今までのモバイルデジタルプレーヤーからは全く聞けなかった音のレベルである。私が聞いてきたポータブルのDAPにはいつも音の存在感や力強さが不足していた。複雑なドライバー構成を持つ、素性の異なるイヤホンを適切にドライブできるという能力だけでなく、音楽に秘められた演奏者や作曲者の内的な衝動を訴えるだけの表現の余裕がまるで感じられなかった。Hugoはより高い価格帯の据え置きDACを超える性能を持たされた結果、その音楽表現の余裕・ゆとりを確保するに至っている。様々な音楽をそれらしく表現できる懐の深さのようなものが感じられる。これだけ小さい回路規模でバッテリー駆動となると、こじんまりした音になりがちなのだが、雄大とは言わないまでも、十分なスケールが得られている。
クリアーでありながら、力強い音、一本、芯の通った頼りになる音というのは、CHORDの機材に伝統的に備わる音、英国製、独逸製の機材に見られることの多い特徴なのだが、そこのところも見事に音に出ている。しかもそれが、個性として出しゃばりすぎす、丁度良い塩梅で耳に届くところが素晴らしい。
HugoはCHORDの主力製品QBD76に比肩しうる技術を小さな箱に詰め込んだDACである。とても優秀なA級動作のヘッドホンアンプをDAC部に最短距離で結合させた構成であり、DAC部、ヘッドホンアンプ部とも特筆すべきクオリティを持つようだ。ヘッドホンの振動版をきっちりと掴んで、的確にしかも余力をもってドライブしているように感じられ、大いに感心させられた。

Hugoに搭載されたザイリンクスのフィールド プログラマブル ゲートアレイを用いたCHORDオリジナルのDACのサウンドは、前作のQBD76よりも、さらにブラッシュアップされたのではないかと思わせるほど、完成度の高い音であった。放射される音のエネルギーはQBD76が勝るが、洗練された大人の雰囲気、聞きやすさはHugoも引けを取らない。
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このような他社のチップに頼らず、自前のDACを作るメーカーは音に一家言あり、他のメーカーとは違う音が出せる。MPS-5はその例だが、この音の違いにカネを払う価値を見出す私なのである。
そうは言っても、世界中探しても、DACを動かすためのプログラムを自社で書いて、走らせることのできるオーディオメーカーはかなり少ない。現在活動しているメーカーとしては、Playback designs、Weiss、EMM Labs、dcs、そしてこのCHORDあたりだろうが、全てハイエンドの機材を開発するメーカーであり、モバイルデジタル機材に出てきたのは今のところCHORDだけである。

装備されたデジタルボリュウムの出来も良い。絞るとビット落ちして情報量が寂しくなるようなことがない。昔、Wadia860というCDプレーヤーを内蔵のデジタルボリュウムを使って、プリアンプなしで聞いていたが、あの頃のデジタルボリュウムとは隔世の感がある。しかも、こんなに小さいのである。

そして、私個人は、Hugoの音のまとめ方はLINN Sondek CD12に似ているとも思った。この心地良い音の密度、芯の有る弾力感があの名機を彷彿とさせる。
私にはCD12を使い継いだ経験がある。だから、あのCDプレーヤーの素晴らしさについては熟知しているつもりだ。しかし最後のCD12が私のもとを去って5年ほど経った今、このCD12に似た音を持つDACの出音を聞いてみると、懐かしさではなく、むしろ不意打ちの新鮮さを感じた。デジタルオーディオに関してはKlimax DSやMAN301やオーレンダー、スフォルツァート等の機材を用いたPCオーディオでの楽音の再生に親しんでいながら、漠然とした不満を抱え、その埋め合わせをアナログオーディオに求めている人間が、である。CHORDのDACは、あの耐えられない音の薄さ、存在の軽さを駆逐しつつある。音に密度の高さ、独特の濃厚な香りが微かにだが、明らかに感じられる。これは、どこか食い足りないPCオーディオ系のサウンドに一石を投じるものだろう。音響空間に綺麗に音の粒子が拡がるのではなく、芯のある明確な音像を結ぶのである。

個人的な印象ではHugoはEdition8で聞くよりも、HD800で堂々と聞いた方がよいと思われた。それは、このDACの出音に、それなりのスケール感があるため、そしてHD800を丁度よくドライブできるくらいのパワーがあるためである。ハウジングの小ささや、振動版の広さ、材質の癖などから、ややチマチマした音という印象のあるEdition8には、もしかするとオーバークオリティなDACかもしれない。AK240のクオリティを十分に受け止められるイヤホンがかなり限られるように、それを上回るサウンドを持つHugoのクオリティに見合うのは、やはり最強のヘッドホン群であるべきだ。あの場で、Edition5でのHugoのパフォーマンスをチェックし忘れたのが悔やまれてならない。アイツは、値段はともかく、音は一級なのだから。


Summary

だいたい、今までがおかしかった。
これだけ、移動中に音楽を聞く人が多くなって、これだけ多くの関連製品が出現、息長くブームが続いているにも関わらず、音の大元であるデジタルプレーヤーに、まともなサウンドを出せるもの、私のオーディオマインド・高音質を求める心、欲求を満たすものがほとんどなかった。本格的なハイエンドオーディオ製品と見なしうるような音質を持つ送り出しが、ほぼ出なかったのである。Hugoは私にとってはモバイルオーディオのブレイクスルーであり、これこそオーディオマニアならスルーすることのできない製品であると思う。

Hugoの出音に織り込まれたCHORDらしい音の側面にチラホラと開発者の顔が見える。ジョン・フランクス氏、ロバート・ワッツ氏の横顔。
自分のメインの機材であるConstellation audio Perseusを聞くたびに、私はジョン カールという鬼才の横顔を見るともなく見る気がする。こうして開発者の横顔が見えるような機材は良い機材だというオーディオの習慣を再確認する日々なのだが、このHugoは、ポータブルのデジタル機材で初めてエンジニアの顔がはっきりと見えるモノだった。出音にデザインに使い勝手に、そして価格設定にまで、Hugo全体がChordのエンジニアの性格や力を全世界に示しているような気がする。これは実は人と人との出会いに近い。Hugoを手にして、これを聞く人は、Hugoを介して、Hugoを造ったエンジニアに出会うのである。それはポータブルオーディオを進化させた或る英国人との出会いである。

オーディオの機材が良いものであればあるほど、その出会いはモノを介しているにも関わらず、直接の人と人との出会いに近づく。こういう自分にとって良い機材との出会いをいくつも重ねていけるどうかが、その人のオーディオの深化の度合いを決めてゆく。

このインプレを読んで興味持った方は、是非とも、どうにか都合をつけてHugoに会いに行っていただきたい。そして彼の言葉である音質に耳を傾けてほしい。もし貴方にオーディオマインドというものがあるなら、これを聞いて後悔はしないはずだ。
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私のように、なるべく多くのオーディオ機材に接することを事とする者であっても、
所詮は素人であるから、聞くこともなく、すれ違ってしまう機器の方が圧倒的に多くなるのは仕方がない。
こうして日々、生活していても目を合わす機会もなく、言葉を交わすこともなく、
ただ、自分の傍らを過ぎてゆくだけの多くの人々がいるのと同じようなものである。
しかし人は、そういうすれ違いの中で、自分にとって特別な人と出会うのではないか。
それは、あれだけ多くの人達と 日々すれ違っていることを考えると不思議なことなのかもしれない。

私はこうしてHugoと出会った。
もちろん、彼に出会ったことが、私のオーディオライフに何をもたらすのかは、まだ分からない。
しかし、その不思議な幸せが特別な人との出会いのように
深く深く、私の心に沁みこんだことだけは、自分で、よく分かっているつもりである。

# by pansakuu | 2014-02-12 22:32 | オーディオ機器

Magico Q3の私的インプレッション:音を観る

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火星の風景と起伏は、私たちに象形文字のような解釈を促して、
その根源へと立ち戻らせる。マリネリス峡谷、ノアキス大陸、オリンポス山、
イアニ・カオス、メリディアニ平原、ジェミナ岬、アサバスカ峡谷、
これまでみたこともないような風景によって記憶がゆさぶられ、
私たちは想像の世界への扉を開く。
MARS 序文より



Introduction

昨日は
勝手知ったる他人の家の、
がらんとしたリビングルームで終日、ある写真集を見つめていた。
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これは、リビングのローテーブルの上に誰かが置いた本にすぎない。だが、たまたま手に取って開いてみたところ驚かされ、見入ってしまったのである。フランスの出版社が企画したもので “MARS”という題名の写真集である。火星周回軌道上にあるアメリカの探査機MROが超高解像度カメラで、Marsすなわち火星の表面地形を撮影したデータをもとに企画された本だ。この探査プロジェクトで得られた、地球を監視する偵察衛星のそれと同レベルの、数万の画像データがNASAジェット推進研究所にはあるのだそうだ。これらを厳選し、非常に質感の高い印刷技術で分厚い一冊にまとめたものである。日本では青幻社が版権を取って出版している。モノクロームの圧倒的な高解像度映像(satellite image)が錚々と並んでおり、瞠目させられる。この写真が捉えているのは、宇宙に遍在する超越的な“何か”が創造した地球とは別な惑星、千変万化する地形で覆われた火星という惑星の表面の地形だが、その映像には、どこまでも細部に視線が入りこんでゆくことにより生まれる、圧倒的な視覚の快楽があるように見える。
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目を上げると、実に控えめな音量で鳴っているMagicoのスピーカー、Q3を擁するオーディオシステムが目に映る。dcsの一体型SACDプレーヤーにSoulution700シリーズのプリ、ステレオパワーという、ここのオーナーらしい、なかなか乙な組み合わせであるが、その真価はこのボリュウムレベルでは分からないという感じだ。この部屋は広くデッドなので、ますます大人しく聞こえるようだ。なお、この部屋にシステムのオーナーは居ない。彼は廊下を隔てた向こうの広間で新年パーティの真っ最中であって接客に忙しい。英語も中国語もまともに離せない日本人一人が、こっそり会場を抜け出し、自慢の機材を勝手に鳴らしていることは知っているが、それに付き合っている暇はないのである。

上奉書屋を名乗っていたころ、MagicoのQ1をレビューもしたし、YGのスピーカーについて書くときなどは、このQ3そのものを引き合いにも出した。MagicoのQシリーズ中でも見慣れ、聞き慣れた今さら感はあるのに、そういえば、独立したレビューを書くほどのインスピレーションが今日まで与えられなかったのは何故か?そして今、この瞬間、美しい写真集を見つめながら、このサウンドに接していると、なにか思い当るふしがある。なにか手応えがある。スラスラと言葉が出てきそうな予感がある。

さて、宴はたけなわなれど、彼らは一向、私を呼びに来る気配はない。それならば、と重たい写真集を一旦閉じ、首に巻かれた黒い蝶ネクタイを解き捨て、アイボリーのエコーネスに座り直した私である。これでMagicoの中核モデルであるQ3と腰を据えて対峙する格好になった。Soulution720のボリュウムをグイッと上げ、視覚と聴覚の門をいっぱいに開いて、ケーラーカルテットの奏でる、バッハのフーガの技法に集中することとした。


Exterior and feeling

このスピーカーのバッフルの曲面を眺めていると、その独特の艶消しの黒から成る表面の質感は、ブラックホールという天体の奥にあるという超高密度物質を、いつものように連想させた。何にしろ、これは非日常的な質感なのである。まるで光を吸い込んでいるような反射の少ない均一な表面。この表面の質感と重々しいスピーカーの形態全体の印象から思い浮かぶのは全ての音を吸い込むような静寂だ。ブラックホールに吸い込まれた物事は、もう二度と、こちら側の宇宙には出現しないため、ブラックホールからの情報はゼロとなる。このエンクロージャーそのものからは音響情報が全く出てこないという意味で、まるでブラックホールのようだ。このエンクロージャーはその内部から音を外に漏らさないし、自身も鳴かない。まるで吸い込むように全てを重みと硬さで握りつぶすのである。単純に重たい金属の厚板を強固に組んで箱を作るのではなく、内部に多数の金属の柱や梁を巡らせて、それらをビスで締めるというのがMagicoのスピーカーの特色である。エンクロージャーの6面を内部へ引き込むように締め込んでいるイメージ。
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とはいえ、そもそもエンクロージャーの中には空気が入っているので、音がその空気の中を伝わること、その空気の振動やバネのような特性が振動板の動きに影響を与えることは避けられない。確かに、これほど美しく重装備なスピーカーの箱は以前には存在しなかった。だが、これほど完成されたエンクロージャーでも、内部に空気が入っているかぎりは完全ではありえない。では、エンクロージャーの中を真空に保ち、内部の空気がバネのように働き、振動板の動作に味付けしてしまうのを避けることができるだろうか。いや、そうなると振動板が外気圧の影響を受けて、へこんでしまうので無理だろう。やはり完全なスピーカーを作ることは困難だ。結局、理想にどこまで近づくかを競うだけなのである。だからエンクロージャーをむしろ積極的に鳴かせて音作りをしたり、ポートで音をチューンしたりするなど様々なアイデアが生きたスピーカーが併存できるし、それを選ぶ側は選択肢が多くて楽しい。不完全さは、愉快なバリエーションを生む源泉なのである。
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スピーカーユニットは自社開発のもので優秀なのだろうが、YGのモノほど、新味はない。トウィーターはプレス成型されたベリリウム、その他のユニットの振動板はロハセルをナノテックカーボンという素材でサンドイッチした極めて軽いものである。素材はともかく、その構造のアイデアはいくつかのハイエンドスピーカーで既に認められるものでやや陳腐である。これらを結ぶネットワークにも高度な設計技術と高品質パーツが奢られているのは無論だが、これらの側面にも、さして新しさは感じない。やはりこのアルミニウムの板を内部から締め込んだエンクロージャーがこのスピーカーの要であり、特徴であることはどうしようもない。まあ、強いて言えばベリリウムトウィーターは悪くない。JMラボのものよりも、いっそう存在感を主張しすぎない、黒子に徹する姿勢のあるユニットであり、このスピーカーの穏便さ、主張の少なさを演出するのに一役買っている。YGのトウィーターより私は好きだ。もし、これがダイヤモンドであったら全く印象は違って、もっと派手な音になったに違いない。
なお、このトウィーターには保護具は一切ないらしい。
私がこのスピーカーを買わないでいるのも、そこに最大の理由がある。
お邪魔している白亜の邸宅はゲストハウスのようなもので、オーナーの住処は別である。彼の家族はここにはいないから、ベリリウムトウィーターを凹ませようとする悪戯者を心配する必要はない。


The sound 

オーディオの習慣として、機材の姿はその音に相似することが少なくないが、Q3はその例の一つ。Q3は無駄な音を出さない。そのエンクロージャーのルックスの通りに吸い込んでしまう。そしてQ3のサウンドは軽くない。その重量の如く、少々重たいのである。ややあっさりした、とてもクリアーな音という側面もあるが、反面、音の中身は詰まっていると感じることもある。このスピーカーのシンプルでスマートなルックスに漂う、武器のような、ただならぬ感じがサウンドに反映されたかのようだ。

また、Q3は、モノを目で見るように、物音を、そして音楽を聞くという能力において最も進化したスピーカーのひとつだと思う。この上のQ7等になると、もうそういう視覚的な要素だけでは到底語り尽くせない、スケール感や実体感などの別な要素が出張ってきてしまうので、全方向性、八方美人になって、むしろ音の方向性がはっきりしなくなる気がする。音を見るように聞くという意識を超えるわけだ。Q7のような隔絶した凄味は大抵のオーディオファイルの手に余るもので、リビングにあっても使い方に困るだろう。Q3の、Magicoのコンセプトに沿った音の纏まりの良さは私の知る多くのスピーカーの中でも抜きん出ており、同社の上位モデルあるいは他社のさらに高価なモデルと比較して、コストパフォーマンスを抜きにしてもかなり優れたものと賞賛できる。以前、このスピーカーが450万円と聞かされた時はちょっと驚いた。600万円でも全くおかしくないサウンドが得られていたからだ。このスピーカーはハイエンドスピーカーの中では、かなりコストパフォーマンスが高い。

音を見るといってもいろいろな見え方がある。このスピーカーは離れて見る。かぶりつきで、という態度はない。音楽の中に入り込んで見るのではなく、やや離れたところから観察するということである。「観る」あるいは「観じる」という言葉が似合う。Q3の音は決して一線を越えて張り出さない。どのようなスピーカーも縦横無尽に躍らせることができると私が信じるパワフルなSoulution710をもってしても、この程度の音の飛び散り方にとどまる。経験的にはどんなパワーアンプを持ってきても、この癖は抜けないのではないか。やはり、リスナーに迫らないことを徹底的に躾けられたスピーカーなのだろう。

とはいえ、Soulution710のお蔭で、このスピーカーに不足しがちな力強さが一応は加わった。日本で聞いていたQ3の印象は大人しく、慎みが強く感じられ、どうも元気がない感じであった。聞き疲れが皆無な反面、いつも心の隅に物足りなさが残ったものである。何とダゴスティーノのMomentum monoをもってしても、私の憂いは完全には消えなかったのである。だが、ここではSoulutionのアンプのおかげで、若干にしても活力が増し、明らかに良くなった。スピーカーが絶えず歌っている。高らかに音楽を謳い上げているとまではいかないけれど。この特色ある控えめな印象は未だ残るが、これくらいはスピーカーの個性として残しておきたいと思える範疇だ。また、このスピーカーの別な個性としては、帯域全体にわたる暖かさではないかと思う。ポカポカする感じではないが、金属的な冷たさがまるでない。これは高域のキンキンする感じを巧妙に抑え込んだベリリウムトゥィーターの成せる技だろう。

それにしても、このスピーカーの持つディテール表現の緻密さは、大概のハイエンドスピーカーが嫉妬してしまうほどのものだ。
これは昔のウィルソンのスピーカーを聞く時に感じた、検聴という言葉がぴったりの余裕のない出音とは思えない。あれは音を“観察する”のではなく“監察する”に近い。以前所有したWilson audio System6の音楽へのまなざしは厳しかった。
Q3はもっと、リスナーをリラックスさせるというか、神経質に細部を際立たせ過ぎないふしがある。現代ではこういうやりすぎを巧妙に避ける態度を自然な音とか称していることが多い。幾千幾万もあると思われる音の粒子と、それらが結合して形成する、それらを倍乗したほど豊かなディテールであっても、スッと何の抵抗もなく、心の襞に吸収されていく。Q3は決して情報の消化不良を起こさせない。

このスピーカーは私にとって良い意味で「木を観て森を観ない」スピーカーである。大概の常識では森の全体像がまず見えた方がいいと思うものだが、ここでは、敢えてそういう態度を放棄しているかに見える。そうでもしないと、行けない境地があると主張しているかのようだ。経験上では、そういう態度はとかく押し付けがましく、煩く、耳に痛く感じられるものだが、そういうネガティブな要素を、この音の慎み深さによって見事に中和させたサウンドとなっているのが面白い。
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嗚呼、ヴァイオリンの弦が震え、細い筋肉のような紡錘型になってブレる様が目に見えるように聞こえる。その次の瞬間、眼瞼のウラに、さっき見た火星のオリンポス山、太陽系最大の火山の斜面の荒々しい肌理が閃く。この音はあのモノクロ写真に近い。カラフルな派手さがない。だが、その分、どこまでも微細な明暗のコントラストも、どんなに微妙な白黒のグラデーションも克明に描く用意がある。Q3と居ると、音楽のディテールひとつひとつが私に語りかけてくる。その言葉にならない言葉にじっと耳を傾けるように私は音楽を観る。まるで高解像度のモノクロ写真を見せられて、その画質に感動した時のように音楽を観る。こうして鮮烈に心に焼き付けられる音の印象の数々は折り重なって、予想もしなかった、新たな音楽の像を形造っていく。

いままで経験した日本でのリスニングでは、Q3における高、中、低の各帯域というのは、振動板の材質を極力揃えて、バラバラに鳴る感じを避けている努力は感じるが、目的の達成度は今一歩と感じるときもあった。これは低域が透徹してクリアーな反面、若干スレンダー、あるいはというより動きが若干悪いが故に、繊細かつ豊かな中域の存在感が微妙に突出しているせいであろうと勝手に考えていた。しかし、Soulution710の強力な駆動力は、振動板の軽さの割には、やや鈍重かもしれない2発のウーファを激しく突き動かし、人が変わったような統一感をこのスピーカーの出音に持たせている。やはりこの辺はアンプ次第なのだと痛感する。こうなると各帯域はほとんどシームレスにつながり、音全体はさらにフラットな印象で凸凹が少ないものに感じられる。

言うまでもなくQ3においては各楽器の定位はかなり明確であるが、他の同じクラスのハイエンドスピーカーよりも、俯瞰的な場所から定位を評価せよという、スピーカーからの要請があるように聞こえる。Magico Qシリーズ全般に有る、音像とリスナーとの間に横たわる遠い距離感が、定位の感じ方を他のスピーカーと微妙に異なるものにしているのだ。各楽器の位置関係はセッテイングにもよるが、ほとんどのスピーカーでは多かれ少なかれ重層的であり、互いに重なる部分が有るものだ。しかし、Q3を初めとするQシリーズではほぼ完全に分離して聞こえてくる。こういう意味でも、演奏場が見えるような聞こえ方だ。それでいてAvaronのスピーカーを上手く鳴らした時のような、触れると掴めそうな音像が立体的に定位するというものでもない。Q3の立体音像はスピーカーにかなり近づいても、まだ遠くて掴めないように思われる。スピーカーににじり寄っても、まるで逃げ水のように音像の位置が下がってゆくように聞こえる奇妙な感覚が、かなり近寄らないかぎりは持続するような気がする。極端に音離れが良いと、どこから音が鳴っているのか逆に見当がつきにくく、音像との距離感がむしろ掴みづらいことがあるが、これはその極端な例なのだろうか。とにかく、この距離感には独特のものがある。

先ほど「木を観て森を観ない」と言ったが、このサウンドは、森から一定の距離を取ったうえで、森の木全てを細部まで見つめ、その過程で森全体を観ようとしているということなのだろう。そうだとすると「森を観ない」と一概に決めつけることはできないかもしれない。Q3は音楽のあらまし、骨格を把握するのを第一義とする昔風なスピーカーの有り方をとっくに否定しているようだ。また、Q3は、一部のハイエンドなヘッドホンオーディオのように、音に近づいて、拡大鏡で細部を調べるだけで満足するのでもない。音楽全体をできるだけ細かく、少し離れた場所から観るという手法がQ3の取る方法なのである。


Summary

私には、音楽というものが過去という手の届かない場所にある星々のような存在に思えることがある。音楽再生とは見方によっては、音楽という惑星を写し取った写真を眺めるようなところもある。それは極めてスタティックなオーディオの捉え方であり、これほど静的な見方は動的な音楽を評するにはそぐわないという意見もある。しかし、何歩譲っても、そういう見方でなければ見えてこない側面があることだけは忘れたくない。Q3はその考えに賛同してくれるスピーカーなのだろう。
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一つの音楽が一つの惑星だとしたら、衛星に載せたり、高い山の頂上に据えたりした望遠鏡、つまり超高精細な画像を得ることができる優れたレンズと撮像素子の組み合わせでスキャンしてみたい。そういう願望が私にはある。それよりも、さらに進んで火星にロケットで飛んで行って、その大地に立てば?もちろん、その感慨は格別のものがあろう。しかし、それには途轍もない財力と私には耐え切れないほど厳しい訓練が必要だろうし、たとえどういう準備をしたとしても、極めて危険だろう。すなわち、危害が及ばない高みから見物したいものがあり、そういう気分や性格というものが人間というものにはあるものである。

スピーカーに頭をつっこんで聞くがごとき、音楽の怒涛の迫りはノーサンキューだが、少し距離を置いても、一粒残らず音の要素を観じ取りたいと切望するひとのため、Qシリーズはある。中でもQ3は、ここで取り上げた音を観る、音を観じるという立場に、最も傍近くより添うスピーカーであろう。

そうこう思い巡らすうちに
バッハの未完の大曲は急に途切れた。
何年過ぎても同じだ。
この曲の譜面を変えたり、付け加えたりすることは、
どのような演奏者にもできない。
うわべはともかく、誰もそれを心から許さない。
だからクラシック音楽は嫌いだ。
自由が少ない。

間髪を入れず、
音の背景にあった静寂が、このがらんとしたリビングを支配しようとするが、
廊下を隔てた会場から漏れる喧騒が微かに耳をくすぐりもする。
静寂の支配領域を辺境から、ちらりちらりと覗うようだ。
私はそんな静寂と喧騒の小競り合いには関わらず、再び大きな写真集を開く。
砂丘の襞、切り立った崖の影、烈風に削り取られた岩々が綾なす文様・・・
火星の無人の大地のディテールひとつひとつが私に語りかけてくる。
その言葉にならない言葉にじっと耳を傾けるように私は火星を観る。
その行為は視覚の一つの極であり、
そこに生じる脳の快楽は、
常に秘められていながら、時に度外れなほど心地よい。
一種のやましさすら感じさせるほどに。

Q3が聴かせる音楽の圧倒的なディテールの発現の仕方というのは、
この火星探査機が送ってきた高精細画像の細部の見せ方と
全く相似しているように思えた。
際限なく細かな大地の凹凸に関心を払うように、
いかに小さな音の抑揚にも反応し、的確に表現する。
そのために卓越した能力を備えた道具、Q3がヒトにもたらす快楽にヒトは溺れる。
素直に、悲しいほど素直に。
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それにしても、
この快を禁じる法律も道徳もないのに、この後ろめたさは何なのだ?
見てはいけないものを観るように、
他人に見えていないものを自分だけが観ているという揺るぎない自信、
他人に聞こえていないディテールを、
試聴者である自分だけが
はっきりと聞いているという優越、いや、愉悦が
そういう疾しさ(やましさ)へと、つながってゆくのだろうか。

今、密かに気付く。
実は、
この微かな後ろめたさ、疾しさこそ、
ハイエンドオーディオの奥の奥に隠蔽された
蜜のような滋味の一つではあるまいかと。

まるでソファーの上に投げ出した黒い蝶ネクタイのように、さりげなく、
オーディオというものを
耳が死ぬまでやめられない理由が
こんなところにも転がっていた。

# by pansakuu | 2014-02-09 00:04 | オーディオ機器

Fitear silenceの私的レビュー:休耳の価値は

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弓も弦を掛けたままでは緩んでしまう  たまには弦をはずすのも良いことじゃ
    横山光輝作  三国志 5 徐州の謀略戦より


あえて音を聞かない。
この事について、
あえて、この場で書く意味を見出すのに
しばらくの時間と休息にも似た熟考が必要だった。
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銀座の須山補聴器で型を取り、こしらえてもらったのはカスタムIEMではない。
Fitear silence(フィットイアー サイレンス) イヤープラグ、ただの耳栓である。
とはいっても私個人の耳に合わせて作ったカスタムイヤープラグである。
なんだかんだで20000円近くかかる代物だ。
こんなものがなぜ必要と思ったのかって?
外から来る音を極力聞かない時間を増やしたいと思ったからだ。
オーディオをより良く味わうため、あえて音を聞かない。
一見矛盾するようだが、
実際にやってみるとそこには意外な効果と発見があるものだ。

ヘッドホンを本格的にはじめた数年前から、
耳の健康な聞こえを維持するのが簡単でなくなった。
耳もとで長時間、大音量でドカドカやられると、やはり耳は疲れるのである。
私の経験では、スピーカーオーディオよりも
ヘッドホンオーディオの方が耳を傷めやすいような気がする。
(イヤホンに至っては、ほぼ確実に大音量だと耳を傷める。
使い方を誤ると必ず取り返しのつかない難聴になるので注意して使った方がいい)
長い時間、大きな音でヘッドホンを試していると小さな音が聞こえにくくなる。
これは同様の音量をスピーカーで聞いた時よりも顕著だと思う。
音のエネルギーに逃げ場がなく、全てのエネルギーを耳だけで受けるからだろうか?
スピーカーだと大音量は体全体で受けるところがあり、
耳に届くまでに、そのエネルギーを幾分和らげてくれるように思うことがある。
もしかするとヘッドホンというものは使い方を間違えると、
スピーカーよりも耳の健康に悪影響を及ぼしやすいのかもしれない。
とにかく、ヘッドホンを突っ込んで追求していると聴覚システム全体がくたびれてしまう現象、
これは避けられないようだ。
私の場合、計測しても、ヘッドホンをやる前より聴力が落ちたというエビデンスはないのだが
、やはりヘッドホンをへヴィに使った次の朝はスピーカーの聞こえが確かに良くない気がする。
いつもの聞こえ方に比べて、精彩を欠くというか、アンプとスピーカーの目覚め方を勘案しても、
これゃねーなと思うほど、鈍い音に聞こえることがある。
音の経路のどこが疲労しているのか分からないが、どこかがくたびれている印象である。
実際のオーディオシステムとは目の前の機材だけで完結するのではなく、
私の外耳と内耳、そして脳を含めてのオーディオシステムなのである。
聴覚がくたびれていてはいい音で音楽を聞くことはできない。

こういう朝はFitear silenceを装着し、ステレオサウンドのバックナンバーでもめくりつつ、
そのまま二度寝した方がよい。
ほぼ無音状態のまま3時間ほどして、ようように目覚めたら、
おもむろにFitear サイレンスを耳からひっこ抜く。
すると、聞こえてくる小さな音の見通しはクリアとなり、
さわやかにひろがる大気の暗騒音が感じられるようになる。
気のせいか?ともかく、さっきの音楽を聞いて見ると、これはなかなか聞こえがいい。
システムのどこかが微調整されてわずかだが確実に聞き易くなったかのようだ。
もちろん、前の夜にヘッドホンを外して寝る前にFitear silenceを耳にねじ込んでから寝てもよい。
同じかそれ以上の効果が起きたときから得られるだろう。
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外観は子供が悪戯で造ったカラー粘土細工みたいなものである。
知らない人にはなにがなんだか分からない。これは色つきのウルトラソフトシリコン製である。
耳介の一部の形、外耳の入り口の形、その二つの関係する角度。
これらが正確に左右で分けて型取られている。この耳栓はねじ込むように装着し、
ねじを抜くように若干回しながら抜く。そのための指かけの部分が外側についている。
私のものは右が赤色、左が青色であるが、これは注文時に選べる。
また左右をつなぐ細いコードも注文できる。左右をバラバラにしてなくさないためのものだ。
納期は2~3週間。出来上がったものは専用のタッパーに入って送られてくる。
銀座で取った耳型は須山さんのところで保管してくださる。
カスタムIEMを作る気になればいつでも注文可能な状態になっているのは、
無意味なのだが、どこか心強い。
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さて具体的な遮音の状況はどうか?
現在様々な耳栓が市販されている。大半は可塑性があり弾力があるものだが、
多くは小さな穴が無数に開いたスポンジのようなもの、多孔質である。
これらに比べると穴のほとんど開いていないように見える、このFitear サイレンスの遮音性は断然高い。
このイヤープラグは気密性が高いのである。
他の耳栓よりも外耳の内の空気と外界の空気を遮断する能力が高い。
こうなると、基本的に耳孔を通して伝わってくる音はほぼ皆無ではないか。
ただ、頭蓋骨を伝わってくる音は遮断できないので、外の音が全く聞こえないということはない。
耳を澄ますというか、外界の音に意識を集中すると、多少大き目の音は聞こえる。
顔の近くで普通にしゃべれば、聞き取りにくいが、何を言っているかは聞こえる。
遠くの音や小さい音は全く聞こえなくなるし、大きな音もかなり小さな音としてしか聞こえない。
他の耳栓だと、遠くの音や小さい音も意識を集中すればちゃんと聞こえてしまう。
これは大きな違いかもしれない。
オーダーメイドだけあって、耳の形に添うようなフィット感はさすがである。
この装着感も他の耳栓では得られないだが、耳の皮膚に対する圧迫や負担は無いわけではない。
普通の耳栓より重たく、大きなものなのでやはり耳栓をしている感じというのはハッキリある。
耳栓をしたまま寝返りをうったりしてみる。頭をどう動かそうと外れる心配は全くない。
ただ、耳を下にするとFitear silenceの先が僅かに枕に当たるので圧迫感は増すので、
これはよろしくない。しかし、この先の少し飛び出た部分に指をかけて抜く必要があるので、
ここを削ることはできない。
Fitear silenceは現在最も優れた耳栓だが、欠点がないわけではないのである。
なお、現代では耳栓の他にヘッドホンで遮音する、
あるいはヘッドホンの中で外界から来る音の逆相の音を出して積極的に音を打ち消すというシステムもあるが、これらは少し大掛かりなうえ、気密性も低く、寝返りをうったりして頭位を変換すると外れやすい。
これらと比べてもFitear silenceの静粛性、装着の安定性はやはり優れている。

耳という感覚器はバトーの目のように24時間目覚めている。
聴覚という眠らない感覚の入り口を強制的にほぼ完全閉鎖して聴覚システム全体を休める。
それがFitear silenceの役目だ。まるで眼瞼を閉じるようにブラックアウトに近い音景が得られる。

しかし、ここには意外な沈黙の価値がある。
つまり下界からの音を大幅に遮断すると、自分の内部から出る音を相対的に多く聞くことになる。自分が普段ずぅっーと聞いているのに、ほとんど意識に上せていない多くの内的な音に気付かされる。我々の聴覚はいかに多くの音を無意識に切り捨てていたのかということを知ることに価値があると思う。自分の心臓の音が実によく聞こえるのである。体を動かすと皮膚と衣類が触れ合う音、筋肉を包む筋膜が擦れる音、潤滑された関節軟骨が微かに軋む音が聞こえるのはもちろんだが、じっとしていても心臓の音は微かだが、どうしても聞こえる。これは耳孔を解放した状態だと、いくら耳を澄ましてもなぜか聞こえない。通常の心拍数であれば、まず聞き取れない。これはこの世に生下する前から常時聞き続けている音なので、聴覚システムの高次機能がこの音を聞こえなくしているのだろうか。だが耳栓をすると心拍は聞こえるようになる。心音の多くは、いくつかの心臓弁が同時に開閉するときの弁尖の接触音、血液が拍出されるとき血管壁に当たりながら流れる音なのだろうと推測するが、小さな音ながら、こんなにハッキリしているので、なぜ普段は聞こえないのかと不思議である。いや、実は聞こえているのであろう。空気のように当たり前になりすぎた存在なので意識していないだけなのだ。耳栓をして音の聞こえ方が大幅に変わった時だけ、意識の向く方向が変わるので聞こえてくるのだろう。

それにしても呆れる。
現実として、大きな音とは言えないが、こんなに確かな音をいつも背景にしながら、
オーディオ機器の出す音を評価しているのである。
また、この音はいわばビートなので、外界から来る音楽が持つビートが心拍のビートに近いかどうか、同調するかどうかで、音楽に対する印象も大きく変わるだろうことも想像にかたくない。さらにこの心音というものには、個人差があるはずである。心臓の大きさや心筋の厚さ、心室・心房の広さ、刺激伝導系や弁の状況は個人によって全く異なるので、心音は一つとして同じものはない。結局、我々は完全に無音の環境に身を置くことはできないし、万人が常時聞いているはずの心音は微妙に違うものを聞いているのである。
全ての音楽が、実際は微かな心音をかぶせて聞いているもので、心音自体が千差万別であるとしたら、ひとつの音楽を全く同時に、全く同じポジションで聞いていても、全く同じく聞こえることはないだろうと思う。この見地から見ても、音楽や音質の評価にばらつきが出ることは仕方のないことなのかもしれない。

あえて音を聞かない。
そういう、いわば反オーディオ的な行為から得られるのは
望外の聴覚的安らぎだけではない。
そこから得られるトリビアルな発見は、
生きている人間が音を聴くという行為に隠された
不思議な側面さえ私に悟らせてくれるようである。

# by pansakuu | 2014-01-18 20:15 | その他

MEWON SS006の 私的インプレッション:      偏屈のススメ


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「大丈夫だ、まだ、褒められないから」
北大路 魯山人


Introduction

今、フランス人時計師フランソワ ポール ジュルヌ氏の書いた日本向けのプロモーションと思われる本が手元にある。「偏屈のすすめ。」という妙な題名の本(幻冬社刊、2013年)である。
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これを読むとフランソワ ポール ジュルヌという、本名まんまのブランド名で高級時計を作って売る、この巨匠は、”偏屈”と言えるほど頑固で個性的な人間であることが分かる。また、この本を読み進めていくと、この人の時計に対する姿勢が私のオーディオに対する姿勢と類似した部分があることにも気付く。不埒にも。

先日、私のむさ苦しいリビングでレコードを聞いた人から、
「貴方の出している音は素晴らしく個性的だ」と告げられた。
自分の音に関して言って欲しいことを、やっと言って貰えて少々嬉しかった。
私はオーディオの常道を大きく逸脱しない範囲で、他のオーディオファイルと全く違う音を出したいと思って努力してきた。どうせこんな狭い部屋の、こんな狭いスペースだけでオーディオをやっているのだから、出てくる音にはおのずと限界がある。そうなると低域の解像度がどうとか、中域の濃厚さがどうとか、高域の質感がとか、音の広がりがとか、そういう音質評価の一般項目というのは実はさほど重要じゃない。そういう枝葉の話で褒められても貶されても、なにかを変える気は起きない。第一、仮にそんな気分になっても、この状況と自分の怠惰の組み合わせではどうしようもないだろうし。ただ、全体の印象として、こういう音はあまり聞いたことがないが、これはこれで悪くない音だと思う、とだけ言って貰えれば至極満足だ。逆にいい意味であっても、凄く普遍的なバランスの音ですね、とか言われると困る。偏屈な音と言われて喜び、他人と同じ音を自分が出していると思うだけで憂鬱になる変な私がここにいる。

私は自分が買いたいと思う機材や音楽ソフトを試聴する目的でしか他人のリスニングルームに出掛けたことがない。社交のため、あるいはその人の機材の使いこなしや、その人の音づくりの巧みさを知り、参考にするためにわざわざ他人の家にまで出向くことがない。しかし、時には本来の目的を忘れることもある。
以前、ある人のヘッドホンシステムの音を聞かせてもらった時がそうだ。一聴して初めて接するような個性を備えた音で、その人の人となりがダイレクトに私の耳に飛び込んでくるような感覚で聞けて感銘を受けた。

私は、そのサウンドを作り上げた、エンジニアなりオーディオファイルなりの個性が強く感じられる体験を常に求める。LogifullのDACやG ride audioのヘッドホンアンプ、Zellatonのスピーカー、First wattのアンプやAudio Noteの製品群などを好んで取り上げてきたのは、私の勝手な思い込みにしても、そういう「他とは違う音」を目指しているからに他ならない。何をやるにしても他人(ひと)と同じじゃ面白くないじゃないか。
なにかに惚れ込んで自分だけの道をかたくなに歩もうとする姿勢を”偏屈”と呼ぶとすれば、私が求める音にはそういう要素が多少なりとも入っているべきだと思う。

現代のオーディオ全般についてそうなのだが、良い意味での個性的な音を出せる製品にナカナカ出会わない。特にヘッドホン関係がそうだし、スピーカーオーディオに関しても然りである。
そんな諦めの日々の中で、偶然に個性的なスピーカーの実物に出くわした。
MEWON SS006という知る人のみぞ知るスピーカーである。
超弩級の単体ツィーターでコアなオーディオマニア達から絶対的な支持を得ている日本のメーカー、ミューオンの手によるスピーカーである。記憶の薄れないうちに、その姿と音の有り様について簡単にでも書き留めておきたく思う。


Exterior and feeling

さほど大柄ではないが、いぶし銀のような精彩を放つ、落ち着いた雰囲気のあるスピーカーである。だが、このスピーカーの写真はWeb上には、まともな写真がほとんど転がっていない。メーカーのHPも見当たらない。今時、そんなオーディオメーカーがあるのかと驚くほどだ。ブツの姿を見たい方は2013年秋188号のステレオサウンドを買って、348ページを見て頂ければよい。これではなんだか不便なブログになってしまっているが、今回は偏屈のススメという話なので、まあいいだろう。
気を取り直してこのスピーカーのエクステリアを言葉によって描いてみよう。

3つの発音ユニットから成る2.5ウェイのスピーカーである。高さは約1mで幅30cm、奥行は35cmと床の占有面積は小さく、置きやすそうなものである。音を含めても、セッテイングに特別な困難は無いスピーカーだと思う。このメーカーの主力製品である単体のスーパーツィーターについては、製作者の方が直々に出張してきてセッテイングを調整をしてくれるサービスがあると聞いたが、こちらのスピーカーでも、そんな有り難いことがあるのだろうか。もしそうだとしたら、これはますます素晴らしいスピーカーだと思える。

まずは、目玉である大きなリボン型ツィーターである。単体ではペアで100万円以上となるスーパーツィータユニットを贅沢に実装しているのが、このスピーカーの最大の特徴である。厚い額縁のような枠の真ん中に縦型に配置されているプリーツの入ったリボンは薄い箔であり、衝撃や風に大変弱い。一方、このメーカーでは今まで演奏中にリボンを守るための特別な保護具のようなものを施さなかった。私にとってはそれがこのメーカーの製品を買わない一つの理由であった。実際、何かの拍子に間違って触れてしまった結果、あるいは窓を開けて風が吹いたらめくれてしまい、修理になったという話も聞いた。それでもこの単体のツィーターの音の良さに惚れ込んでいるマニアは少なくない。私も、以前取り上げたある高級スピーカーについて、ここの会社のリボンツィーターを加えることで音響上の不満点がほぼ完全に消滅することを確認した。音の良さは認めるがなにか保護をしてくれないと・・・・。だが、今回の製品では有り難いことに粗いネットがリボンのすぐ前に張られており、保護の役割を果たしている。これは家族に子供がいる方などにとっては嬉しい防護策である。

次に目に飛び込むのはウーファーを縁どる厚々としたリングであろう。このB2の鉛筆で塗りつぶしたような渋い銀色をしたリングは、ウッドコーンから前方に出る音波を微妙にチューニングする役目が有るらしいが、音響的に具体的にどう変わっているのかはよく分からない。だが、デザインとして、コーンの中央にある鋭いフェイズプラグと丸くボリュームのある縁取りの対比が面白い。ウーファーのコーンはウッドコーンだと言われているが見かけはとてもそうは見えない。なにか黒っぽい物質が塗布されており、音響的にチューンされているようだ。ダンプされているのだろうか。なお、これらのユニットはエンクロージャーの背面の板まで届く長いボルトを使ってエンクロージャーに強固に固定されているらしい。

なるほど、後に回ると多くのネジの頭が見える。正面や側面からは全く見えない、これらのネジの分布が、このスピーカーのエンクロージャーがツィーター部とウーファー部の二室に分かれているらしいことも教えてくれる。リアには小さなバスレフポートが上下に二つ開いていて、それぞれツィーター部とウーファー部に割り当てられているようだ。そしてリアの一番下にシングルワイヤリングのスピーカーバインディングポストがある。私はシングルワイヤリングのスピーカーが好きだ。アンプの接続の仕方がシンプルで悩まなくていいからだ。そして、その隣にトグルスイッチがある。これはツィーターの再生領域を100Hzだけ低域方向に拡張したり、戻したりするための切り替えスイッチである。これはこのスピーカーの最大の特徴の一つであり、実際に使ってみると100Hz拡張のON /OFFで音の佇まいや動きはかなり変わってしまうことが分かる。

エンクロージャーは艶消しの、やや赤みがかったウッドの突板で仕上げられたMDFで造られているので、それなりの鳴きはある。Magicoのスピーカーのようにガチガチのエンクロージャーではない。フットは四足であり、金属製の逆さコーンの形をしているが、尖ったコーンをエンクロージャ側で受けるのではなく、コーンの先はネジで固定する方式である。

また、このスピーカーの形全体のバランスとしては、一番上についているリボンツィーターの存在感が大きく、頭の方が重たいような印象を受けるかもしれない。だが、ウーファーの周囲のリングにもそれなりに量感があるので上手くバランスが取れているように思う。


The sound 

やはり他では聞けない格別のものがある。それは断言する。
特にツィーターの再生領域を100Hz下に拡張したワイドと言われるモードに切り替えた時、そこには滅多に聴けない素晴らしく個性的なサウンドが展開する。今回のレビューはそのモードでのインプレッションから得られたものである。このレビューのため、異なる場所で二回、このスピーカーを聞かせていただいた。大変有難かった。

個性的な音とは言うものの、このスピーカーは冒頭に掲げたようなショッキングな言葉を吐く輩ではない。北大路 魯山人のような、容易に褒めることができないほど強烈な個性が、このスピーカーの出音の中で猛威を奮っているわけではない。このスピーカーの出音は少なくとも表面上、もっと穏便である。おっとりして奥深い。パッと聞いた印象は現代の典型的なハイエンドスピーカー、例えばダイアモンドツィーターを装備したいくつかの海外製モデルと比べれば、情報量がそれほど多くない古風なサウンドに聞こえる。ワイドレンジを前面に押し出した印象は無く、解像感を常に求め、スピードを重視する最近のシャープなスピーカーたちとは異なる、なにやら地味な出音のスピーカーである。しかし、その方向性にありがちな耳当たりがいい懐古趣味的なサウンドとは違った部分が、聴き込むにつれ次第に明らかになってきて驚く。
実はこのスピーカーのサウンドにおいては、演奏の気配成分、あるいはアンビエンス、演奏の背景にある暗騒音、空気の対流音などの描写が実に克明なのである。この音の背景にあたる部分の聞こえ方は他のスピーカーにはほぼないもので、強いて言えば、ミューオンの単体ツィーターを付加したマルチアンプシステムからしか聞こえてこないものだと思う。
まずは楽音の余韻、反響音が背景に溶け込む消え際の鮮やかさが意識されるところから始まる。次に演奏会場の空気の動きや広さを感じる。そして空気の粒子感というか香りというか、あるいは土地柄、時代なのか、録音会場の固有の響きの雰囲気を微かに感じる。ここでは多くの他のスピーカーでは望みにくい微細な背景情報が一層彫りを深めてリスナーに提示される。主題となるメロディやリズム、演奏自体が依って立つ背景全体に精細な陰影が与えられると、耳慣れたDiscに隠されていた情報が露わとなり、結果として音楽の景観が大きく変わった印象を受ける。音楽が活性化されたというか、実に生き生きとしていて好ましくなる。なお、この変化は一聴でズバリと知覚できるものではなく、求めて聴き込んでいく過程で次第に明らかになってゆくものであり、その意味では奥ゆかしい変化である。

このMEWON SS006の出音全体の触感は練られたシルクのように柔らかかつ滑らかさであり、視覚に置き換えるならば鈍い光沢を感じさせるものである。キラキラした派手さはない。また、音には適度な湿度が常に感じられ、人の声は決して乾かず、しっとりとしている。音の立ち上がりと立ち下りは急峻ではなく、現代的なスピード感を優先した音ではない。キリキリと音像を締めて、明確に提示するつもりはないらしい。このサウンドを表すにはタイトの反対、やや緩いという表現が適切だと思う。この絶妙な緩やかさは、独自の聴き味の良さへとつながる。このスピーカーを通してゆったりと流れる音に身を委ねるとデジタルを送り出しにしていてもアナログレコードらしく感じるほどだ。このスピーカーはレイドバックできる安楽さが売りの一つである。今までスピーカーの試聴において「緩さ」というものが、これほど気持ちよく感じられたことはあまりない。

帯域別に見ると、このスピーカーにおけるハイライトは間違いなく高域、中高域ということになるだろう。これはこのMEWON SS006のパーツごとのコスト配分を反映したものとも言えるかもしれない。このコワモテとも言える強力なリボンツィーターにかけたコストはスピーカーの価格280万円の半分以上を占めるだろう。
とにかく今回の試聴では優れたリボンツィーターが予想以上に実体的、立体的でスケール感のある高域描写が可能とすることを思い知らされた。今まで通常のスピーカーに搭載可能なツィーターの中で最も優れたものはダイヤモンドツィーターと私は思っていたが、それは間違いであった。

出音が高域にかかる楽器として、シンバルがあるのだが、このスピーカーにおいてはシンバルを叩くスティックあるいは手の動き、シンバル自体が叩かれて震え、唸り、揺らぎ輝く様がリアルな音像としてリスナーに迫る。この高域の音像はとても立体的で力強い輪郭をもっており、私が慣れ親しんだスイスのPIEGAのリボンツィーターのような繊細で儚い(はかない)氷雪の影のような淡さとは全く別種の美を持つ。
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また音のスケール感をアップするという意味でも影響があるように聞こえる。高域に雄大な左右上下の広さ、奥行が与えられ伸び伸びとした表現が許されるようになる。こうして音像感と音場感が巧みに両立した高域が出来上がってくる。

これほどの中身のある高域ともなると、このスピーカーにおいては、中域や、低域はこの優れた高域に追随することを運命づけられてしまうようだ。
中域はウェットでマイルドな味わいであり、また濃厚でもある。陰影のコントラストが強めであるが、色彩感は少ない。昔のモノクロームの写真のように、陰影は克明ではあるが、細部の描写が省略されるきらいがある。だが、むしろ、このような控えめな中域の落ち着きにより、リスナーは高域の描写に集中できるとも言える。
低域は中域にも増して地味な第一印象である。ゆったりとして先を急がない。熟練のドラマーが前に出ないでしっかりとバックでリズムを取るような、裏方に徹する低域である。だが、古いスピーカーによくある、膨らんでややモッサリした低音とは思わない。ビートを素早く刻む音楽をかけても、十分に追随し、ドラムが弾むような感じをしっかり聞かせる。また、このクラスのスピーカーに必要なボリューム感を確保した厚い低域であるため、音の底辺の支えが弱いという印象にならない。
そのまま、突っ込んで聞いていくと、どこか尋常でない低域の表情が炙り出されて来るのに気づく。これは低域そのものが変化したのではなく、浸透力のある高域の音が、まるで低域を取り巻くように滲みこんできて、低域を微かに、しかし識別可能な程度にくっきりと浮き彫りにしているようなイメージがある。これは他のスーパーツィータ―やリボンツィーターではほとんど感じない変化だ。しかし、これは低域の本質が変わったのではなく、周囲から持ち上げられて変わったというものなので、低域そのものの変化として記すのはやや憚られる。

本機においては、中域や低域の振る舞いは、常に高域のリボンツィーターを引き立て、さらには影響を受けるような立ち位置において認められるものであり、その意味で設計者がこのスピーカーを作るにあたって、高域と中域・低域のマッチングを取ることに如何に腐心したか、苦労の跡が聴いて取れる。このように突出した能力を持つ独自のユニットをある帯域にだけ使うことは、音のまとめを大変難しくするのだが、MEWON SS006はその綱渡りを辛うじて渡り切ったものと見える。

それにしても、この高域の描写力は素晴らしい。多少おどけてみせるなら「高域番長」と仇名を付けたくなるほど、このスピーカーは印象的な高域を聴かせる。TANNOY、ELAC、Kit-Hitなどからアンビエントを付加するスーパーツィーターが発売され、これらを試聴した経験からも、高域の変化は出音全体の変化へとつながってゆくことは承知の上だ。だが、それらの体験を踏まえてもMEWONのツィーターは別格であり、その想像以上の影響力は他社のモデルとは、比べものにもならない。改めて価格のヒエラルキーが出音のグレードのヒエラルキーであることを確認した。

なお、ノーマルポジション、つまりツィーターの再生領域を高域側に引き上げるモードでは個性の部分がグッと抑えられ、至極普通のトールボーイスピーカーの音のバランス、プロポーションに近いと聞こえる。真っ当と言えばそうなのだが、これでは他のスピーカーと差別化されないと思う。


Summary
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件(くだん)のフランス人時計師フランソワ ポール ジュルヌ氏は、「誰もやらないことに、喜びを感じる」と言う。他の人と同じことをやるのはものすごく居心地が悪く感じるそうだ。
オーディオにおいては、私もそうだ。

MEWON SS006というスピーカーを見て聞いていると、これは自分に向いていると思う。
このサウンドセンスは他にはない。このスピーカーがあれば、ほとんどのオーディオファイルが聴いたことのない音が必ず得られるだろう。
エレガントで落ち着いたルックスであり、大きさも手頃、セッティングにもそれほど煩さはなく、あからさまに導入を躊躇させるような難点は見当たらない。能率も92dBと低くはなく、シングルワイヤリングということで、ワイヤリングの選択枝も少ないので気楽だ。この分だと適切なアンプを上流に据え、音がこなれてくれば更に素晴らしい音で鳴ってくれるに違いない。

私は良い音を出す機材を見つけると、その音と機材の価格のバランス、あるいは同種の機器との価格の比較について、いつも考えている。Perseusのように絶対値が高価でも、これほど素晴らしく自分の感性に寄り添う音ならば安いと思えるものもあるし、最新のYGのスピーカーのように出音がかなり良くても、他の同レベルの音を出せるスピーカーとの比較から考えて、あまりに値段が高すぎると感じることもある。このMEWONのスピーカーについては価格と音のバランスがちょうど良いところにあり、他の同等の実力を持つスピーカーと比較しても高価とは思えず、私の中では大変に好ましい。

個性的でどこか偏屈ささえ感じるスピーカーなのだが、
整理して考えれば意外と次に買うスピーカーとしての条件を
満たしているように思えた。

偏屈のススメという言い様は確かに奇妙だ。
しかし、それが清く正しく実践されるなら、
そこから生れ出る“唯一無二”という得難い美徳が、
マニアの心を静かに満たしてくれる。
MEWON SS00は、そう確信できるスピーカーだ。

こんな美しき偏屈との邂逅を追い求め、
飽きず、そして懲りず、
趣味の荒野を往く我らこそ、
実に偏屈そのものなのかも知れんな。
今、ふと思った。

# by pansakuu | 2013-11-23 23:51

Qualia & Company INDIGO MonoBlock Phono Amplifierの私的インプレッション:進化した恐竜

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「時計の針は戻らない。 だが、自らの手で進めることはできる。」
碇ゲンドウ


Introduction

そこからは、
この莫大なTOKYOというメトロポリスの全てが見渡せるような気がした。

いや、もっと高く、見晴しよい場所も東京の中にはいくらもあるはずなのだが、その部屋にセッティングされた機材の放つ気配は、そういう目移りを許さないほどに、この部屋の雰囲気を特別なものとしていた。ここがオーディオ世界のおいて最も天に近い場所であるかのような自信に満ちた空気が漂っていたのである。出番を静かに待つアンプたちには、未踏の音への予感が滲んでいた。音が出ていなくてもそうであったくらいである。ひとたび音出しをすれば、排他的とも言えるほどに豪華なサウンドで、24階のガラス張りの部屋は溢れ返った。
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異様なほどの精鋭感を漂わせる筐体を纏うアンプ群やヘッドホン出力を装備するDACで私に期待を抱かせてきたQualia&Companyの遅すぎた日本デビューである。それは、その目指す高みに相応しい場所が選ばれた。彼らはPeninsula Tokyoの24階を指定した。その部屋の音響的な特性の良し悪しはさておき、下界で行われているインターナショナルオーディオショウ(IAS)が小さく見えるという意味では、画一化され、陳腐化した現代のオーディオを脱却し、究極の高みを目指すQualia&Companyの先鋭の姿勢に似つかわしく思われた。
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このデビューイベントのパブリックな告知は当日の二日ほど前であった。随分と急であり、イベント自体も午前中から夕方までたった半日という短さであった。本来は招待客のみのプライベートなイベントだったのかもしれない。そんなこともあり、日本製でありながら、日本での知名度が高くないQualia&Companyのお披露目に足を運んだ人々は多くはなかったようだ。IASの中日というのも微妙なタイミングか。IASはいつも初日に人出が最高になり、あとはダラ下がりなのである。

日程の取り方も告知内容も十分とは言えないけれど、諸々の事情で日本の販売店でのデモの機会が限られるやもしれぬQualia&Companyの機材を聞ける数少ないチャンスである。その日の仕事をキャンセルして私はPeninsulaへ出掛けた。

専用の直通エレベーターを出て薄暗いエントランスで要件を述べると、ガラス張りの広間へと案内された。見回してみると、まだまだ空席がある。有名な評論家の方が講演されていても席の埋まり方は7割ほどであった。これはオーディオショウの込み方として理想ではないか。重いドアを力を込めて開けて、中に入ってみても評論家講演となれば寿司詰めの立ち見、音は勿論、機材の外見もなにも分からないIASよりよほど良い。座って聞いているとホテルの方がドリンクをサーブしてくれるし、うしろには軽めのスナックがズラリと並んでいた。こういうサービス、製品の価格に見合う乙なサービスもIASでは思い出にない。実は国際フォーラムの部屋では飲食禁止なのだろうか?いい音が出ていれば、それでいいと言い切れるほど、オーディオは単純な趣味ではない。その場の雰囲気は大事にしたいものだ。

確かに参加人数はそれほどでなかったが、多くの観客の方々のオーディオへの入れ込み様と財力の大きさは、なんとなく見て取れた。会場に微かに漂う香水の種類、靴のブランド、メガネのデザイン、服装の仕立てや生地の質は様々であって、老若男女が音楽に耳を傾けていたけれど、大多数にハイエンドオーディオ機器を躊躇なく即金で買ってしまいそうな金銭的なゆとりが感じられた。また、楽音の変化やリズムに反応する表情の変化からは、オーディオに対する熱情も感じた。幅広い年収層、冷やかし半分の若者グループから私のような窓際プアオーディオ実践者、ベテランのスーパーマニアまで色々と来ているようなIASよりは、客層が絞られていたかもしれない。告知の小ささは、結局は客をえり分ける効果があったのだろう。

この会での私の目当てはESSのチップを採った380万円のDAC with USBとモノラル構成のフォノイコライザーINDIGO MonoBlock Phono Amplifierの二つであったが、ここで私が述べるのはINDIGO MonoBlock Phono Amplifierについてのみである。以前に少し言及した覚えもある例のDAC with USBについてはあえて書かない。その理由はご想像にお任せする。
(写真はAVcat様、メーカー様のHPから拝借しました。)


Exterior and feeling

さて、INDIGO MonoBlock Phono Amplifierを前にして私は先ず何をしたか。まず、このオーバーな筐体とその大規模な構成に呆れ返ったのである。遥かにコンパクトで、もっとスマートな機材が幅を利かせている時代に、あえてこういう大掛かりなオーディオマシーンで勝負しようという心意気は買いたいが、個人的にはさしあたり置き場所に困るかもしれないと思った。そして次には、その外観の美しさに感服したものである。この銀色に光る筐体の巧妙な面取りや冷たくも細やかな手触りに五感が絡め捕られてゆくのを感じた。これは素直に美しいとしか言えない3つの箱である。

このフォノイコライザーは左右別の筐体に格納された回路部と電源部から成る3筐体構成を取る。これほど大規模なコンストラクションは久々に見たような気がする。過去にはこのようなオーディオ浪漫を追いかけた機材をしばしば見かけたものだが、そういうものを造ろうという機運はハイエンドオーディオのステージから徐々に姿を消しつつあるように思う。i phoneのようにミニマルなデザインと大きさだが、極めて多機能で便利、かつ音のクォリティの高い製品、例えばDevialetのアンプなんかと比べると、これはまるで恐竜のように大きく、かさ張って重たいものだ。
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回路を天板から釣り下げる二つの筐体は、大部分が一つの大きなアルミインゴットから削り出されており、これは鉄製の底板とリアパネル、そして本体の3ピース構造である。アンバランスの信号伝送を基本とする回路は求める音質を得るためプリアンプと同様に立体的に配線されており、二階建ての構造を取っているようだ。これらの回路は複雑な形に刳り貫かれたアルミの塊の中にまるで嵌め込まれるようにマウントされている。電源部はアルミ塊からの刳り貫き構造ではなく、Chikumaのタップのようにアルミの板を高精度に組み付けて作られた箱であり、こちらは回路部よりもわずかに小さい。中には5基ものトランスが鎮座しており、かなり贅沢な電源仕様となっている。3つの筐体の足は重量のある金属のスパイクによる4つ足であることは共通している。この足は比較的大きくボリュウムもあり、しっかりとした設置を約束するように見える。さらに、これらの筐体は金属製の蛇腹のホースのような専用ケーブルで連結され機能する。このケーブルはコネクターのシェルも特製らしく、音質に十分に配慮した作りであり、シールド効果、防振効果が高そうに見えるが、他のメーカーでは類するものを見たことが無い。

フロントパネルには星座のような形があしらわれたプレートがあり、電源を入れると青く光るようになっている。プレートの両脇には波のような装飾的な面取りがあり、それがサイドパネルへと続いてゆくのだが、このコーナーのデザインのシャープさ、なかなか忘れがたい。この製品全体のイメージ、いやもしかするとこのブランドのイメージを決定している、金属の量感と質感は、大袈裟でなく、むせかえるほどのものがある。日本刀の表面に見られる青みがかった銀色、全然透明ではないのに何故か透明感を感じる金属の肌合いが、INDIGO MonoBlock Phono Amplifier全体を覆い尽くしている。この機材の表面全体が発する金属的なオーラは、システムの周囲に強烈に放射され、見る者を圧倒する。そのオーラは筐体の持つ予想以上の厚み、重みにより裏付けされて、ますます確固たるものと感じられる。
フォノイコライザーのみならず、プリアンプ、パワーアンプ、DAC全てが同様のデザイン、質感であり、これらが揃い踏みした時の冷たい威圧感は、部屋の空気を一変させるに足る。
外観だけを見ても、本当の所有感をオーナーに与えられる機材は、特に日本製では少なくなったようだが、どっこい生きていたらしい。

この外観全体の印象や内部構造はLyraが出していたフォノイコライザーアンプや、スキャンテックが扱っていたConnoiseurのアンプを想い起させる。これらの過去の機材とQualia&Companyは無関係ではないのだろう。こうして、どこか見覚えのある筐体のデザインや回路の姿を眺めていると、決して大きな熱ではないにしろ、いつまでも消えることなく燃え続けるオーディオへの執念と情熱の火照りを感じるのは偶然ではあるまい。飽きず懲りず、連綿と続くハイエンドオーディオの一系譜に結ばれた結節点が、このINDIGO MonoBlock Phono Amplifierなのだろう。


The sound 

無理解と馴れ合いを拒絶した壮大なサウンドを聴かせるフォノである。
その構成や価格から考えて、究極的あるいは絶対的な音質上のアドバンテージを目指したものであろうが、その目論見はこのフォノに関しては成功していると言わざるを得ない。

まずはサウンドのスケールが圧倒的である。これほど広々と深々と鳴るアナログサウンドは知らなかった。音は全く薄まらないまま、どこまでも広がってゆくようだ。いままでのアナログオーディオにはなんらかのリミッターがかかっていたのではと思わせるほど音の拡散範囲が大きい。サウンドステージという言葉はステージには必ず両脇に袖があるわけだから、これほどの拡がりを表現するのに似つかわしくないように思う。これは音の地平線のようなもの、サウンドホライズンとでも表現するのだろうか。とにかく今回は音の視界が切れる場所がないようなアナログ再生が出来ていた。これは左右の回路を格納する筐体を二つに分け、それら自体をこの上なく強固かつシールド性の高いものとして、分離電源も左右に分けた結果だろう。もちろんプレーヤーやカートリッジのチャンネルセパレーションや、録音の良さも考慮しなくてはならないはずだが、様々なアナログ機材の出音を聞いた経験からは、有り得ないほど左右のチャンネルのセパレーションが良くなっているように聞こえた。この部分は従来からのアナログオーディオの最大の弱点であったのだが、見事に克服されているようだ。ここに明らかなアナログオーディオの進化の跡が垣間見えた。

こうして音の広がり具合は大変に良いのと同時に、実体感の豊富な音がズンと前に出てくるのも特徴である。一般にはサウンドステージが大きく開けると、音は奥に引っ込まないまでも、ある一線を越えて前には出なくなることが多い。また音の感触はホログラフィックでやや薄まった印象となりやすい。だがINDIGO MonoBlock Phono Amplifierでは全くその逆の展開となる。時に強烈とも言えそうなパンチのあるベースの弾け具合や、深みのある妖艶さをたたえた女声が、その音場の広さにも関わらずカラフルかつビビッドに脳裏に映る。音の強弱、明暗、冷熱のコントラストも明確。薄っぺらさとは無縁の揺るぎない音像が正確に定位し、安心して聞いていられる音である。これらの要素はアナログらしい滑らかな音の流れと相まって、聞いたことない不思議な音世界を現出させる。

音のスピード感はかなり速い。鋭く立ち上がり、たちまち消え去る音で、必要以上に尾を引くような呑気な挙動は見せない。音の細部にわたる描写にも隙はない。いわゆる音の視覚的な“解像度”は十二分に高く感じる。細かな気配成分もはっきりと聞かせ、豪勢な、と言いたくなるほどに情報量が多い。むしろ、なにもかもはっきりしすぎて、デリカシーがないようなところさえある。ただ、この明快な細密描写は、Perseusの例のように、SNが従来よりも遥かに上がったために実現したとは思えない。これはどんな些細な一音一音にさえ無視し難い重み、力が与えられたために起こる現象ではないかと思わせる。つまりノイズ特性では手元のPerseusやSoulutionのフォノには一歩及ばないように思えるし、逆に言えば末梢までパンパンに詰め込まれたような音の緊満感が素晴らしいとも思えるのである。

もちろん、アナログ特有の単純な構造から来ると思われる、鮮度の高い音がダイレクトに鼓膜を震わせる快感、音の活性感が生きた音でもある。ハイエンドアナログでは、高性能を求めるあまり、アナログの美点をかえって失う例もあるのだが、このようなアナログに対する愛情を履き違えていないサウンドを聴くと、設計者の深い見識に感心させられる。やりすぎてダメになることを巧妙に避けているように聞こえるのだ。これは、デジタルソースがある音楽であっても、あえてLPを買ってターンテーブルを回すことの意味を痛感できるサウンドになっていると思う。

このシステムの帯域ごとの印象を一口に言えば、緩みのまるでない低域の見事な制動力、デリカシーにやや欠けるが動かしがたい存在感を主張する中域、時々鋭く空間を切り裂くような派手さを隠す強い高域ということになろうか。また、音の透明感はノイズの多寡に関係なくかなり高度なものであり、この透明感により音の濃厚さがドロッとしたアクの強さへとつながって行かないところが特徴的であるし、好感の持てるところである。また温度感の点では、こういう純粋なオーディオへの情熱から盛り沢山な内容になった機材にありがちな熱い音ではなく、ややクールあるいはニュートラルな人肌の暖かさと聞けた。
ただ、音の硬さが気になることはあった。音のアタックがしばしばハードに感じられ、フワリと来る音が少ない。これはエージングで解決するのか、それとも強固な筐体構造によるところなのか。

これは音を探るにつれて様々な側面が明るみになる機材である。視点を変えれば変えただけ、特筆すべき新たな音の特徴が見られるフォノで、本当に盛り沢山な音、豪華な音である。比較的シンプルな聞き味の製品が多いフォノというジャンル中で、このサウンドは独自の方向性を示しており、スケール感などの点では明らかに先進的でもある。この試聴では、多くの音の要素が目まぐるしく乱舞しつつ現れては消え、実体感のある音楽を形成・提示し、私を打ちのめした。確かに、価格を無視したとしても、この内容の豊富さと強さは格別であり、誰にでも付き合える音ではない。強烈なオーディオを求める固い意思がオーナーには必要かもしれない。馴れ合いでは付き合えない音だし、このサウンドを理解しなければ、ただ疲れる音だと感じる方もおられるかもしれない。結局、そこのところはオーディオにおける心地良い疲労を愛せるか愛せないかという分岐点になるのだろう。

所有するConstellation audioのPerseusと単純に比較するのは価格的にどうだろう。なにせ250万円の高低差がある。しかし、意外や、音質については(手前味噌かもしれないが)音の力強さやスケールの大きさ以外ではPerseusは一歩も引いていないように思われた。特に音の質感表現については基本的な柔軟さや感触の多彩さ、洗練を極めたデリカシーのある音の表現の絶妙さなどの点で明らかにPerseusの方に分があると思われたし、ノイズの低さについても一定のアドバンテージを感じた。今回の試聴でも改めてPerseusの高次元でのコストパフォーマンスの良さが証明されたことになる。なおINDIGO MonoBlock Phono AmplifierはMCカートリッジ専用であり、また入力インピーダンスは固定式で、カートリッジはかなり選ばなくてはならない。対応の幅が広いPerseusに比して、そういう意味でも劣る。
ただし、この固定インピーダンスは、一般的なフォノとの考え方の違いの表れでもある。
つまり、カートリッジにフォノのインピーダンスを合わせるのではなく、フォノの回路に最も適したインピーダンスを設定すべき、という考え方でもって、固定式を選んでいるらしいのである。
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今回は自社設計のアームを装備したスパイラルグルーブのターンテーブル、INDIGO Line Amplifier、INDIGO MonoBlock Power Amplifier、B&W 800Diamondがシステムとして組み合わされ、音を出していた。Qualia&Company INDIGOラインが勢揃いしているためか、少なくともアナログ再生時には、全体に音の足並みが揃った印象であり、降ろし立ての機材にありがちな音の荒さは幸い目立たなかったように思う。また、今回の試聴では高価な同社製DACとの送り出しの入れ替えがあったので、初めて聴くシステムではあったがフォノの音を的確に捉えられて良かった。
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振り返って考えると、このINDIGO MonoBlock Phono Amplifierの音質は、様々な意味で保守的になり、ジリジリと衰退する日本のハイエンドオーディオ界を、空の高みから睥睨(へいげい)するかのようなサウンドにも思える。発表された場所に影響されたせいか、そういうイメージは、今も拭い去れない。表現はともあれ、これはやはり先進的かつ孤高のフォノであることは間違いない。そして、600万円というプライスタグを納得させる性能と個性を兼ね備えた素晴らしい出来栄えであることにも間違いはない。


Summary

オーディオの大問題として、アナログか、デジタルかという議論は尽きないが、もしその論議をする人々がAir force ONEやこのINDIGO MonoBlock Phono Amplifier、Perseusなどの最新最強のアナログコンポーネントを聞かずに言い争っているなら、それは明らかに時代遅れだろう。これらの超弩級のシステムの実力は従来のアナログオーディオの概念を逸脱した部分が多く、少なくとも部分的には似て非なるものに変貌しているからだ。とはいえ、このレベルのアナログ機材をじっくり試聴できる場所も機会も実はほとんど用意されていないのが現状であり、多くのオーディオファイルは、このレベルのアナログサウンドについては全くのvirginであるはず。惜しいことだ。確かに、以前のアナログオーディオのサウンドと最新のデジタルサウンドは比較対象にはならなかったとは思う。しかし時代は変わった。INDIGO MonoBlock Phono Amplifierが提示する膨大な世界の前には、デジタルオーディオの音質面の優位性は既に危うい。それは、今回のイベントの中で行われていた、同じシステムにおいて、送り出しのみデジタルとアナログをかけ替える試聴でも明らかだった。デジタルとアナログは異なるものなので、同じ土俵で比較すべきでないという常套句、アナログ支持派の逃げ口上は、こうなればもう必要ないかもしれない。
また、このサウンドの素晴らしさはデジタルオーディオに対してだけではなく、保守的なアナログ再生へのプレッシャーとしても作用するだろう(と勝手に想う)。ノイズや歪みをむしろ愛でるかのような骨董品的な音の味わい、オリジナル盤の希少性、メディアの視覚的な大きさが生むビジュアル的な存在感。そういうオーディオの音質そのものの優秀性とは少々ズレた部分にウエイトをかけすぎたアナログ再生へのアンチテーゼが、ここにある(とあくまで勝手に想う。)私はそういう保守的なオーディオのマンネリズムとノスタルジーを尊敬しつつも常に避けてきたが、近頃、私の方針に添ったアナログ関係のプロダクションが増えてきた事に密かに(そして、ますます勝手に)驚いている。

恐竜時代の最後に現れて、恐竜の滅亡後に地表を席巻した哺乳類の先祖たち、それはネズミのような小さな生き物だったらしい。恐竜の足元で走り回るそれらの小動物のイメージは、PCオーディオのお手軽DACや薄い筐体をまとったオールインワンのアンプのイメージに重なる。絶滅しつつある恐竜を見上げる彼らの目には次の時代が確かに見えている。
しかしながら、それを見下ろす恐竜たちが今すぐ滅び去るワケではない。

INDIGO MonoBlock Phono Amplifierは確かに恐竜だ。だが、進化した恐竜だ。これはハイエンドオーディオに今も残る超弩級の伝統を受け継ぐモノであるが、過去のオーディオを離脱し新しいオーディオの世界を拓くモノでもある。彼が紡ぎだす音模様はまるでひとつのストーリーのように聞こえた。それは幻のような過去の伝説ではなく、リアルなドキュメンタリーように、現在進行形のサウンドとして我が耳に響いた。それはまた一つの驚きであった。
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この莫大なTOKYOを見遥かすホテルの一室で、
思いがけず、私は知った。
“終わり”はまだ始まったばかり、
パーティはこれからなのだと。

# by pansakuu | 2013-11-10 09:15 | オーディオ機器

ULTRASONE edition5 を聞いた5分間について


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「まず食ってみなければ、旨いかどうか分からない。」
by 万策堂



5分間で人は何を感じられるだろうか。
しかも、それは1分ごとに寸断された5分間である。

私は27個目の台風に煽られた雨を突いて、徹夜明けの職場から青山へと向かう地下鉄の中で何かを期待していたことは認めよう。では何を?ULTRASONE edition5が最大の気がかりだったのは事実である。ただし、不安だった。いままでeditionシリーズはおろかULTRASONEのヘッドホン全般の音を私はいいと思ったことがない。あの強靭な高域と低域が耳を刺し、私を否応なく疲れさせるからだ。耳奥に何かを訴えかけるエモーションを、ヘッドホンアンプの性質とはまるで関係なく付加するヘッドホン界の雄ULTRASONE editionシリーズには敬意は払えども、この使い切れない高域の金属っぽい痛さに辟易し、私は敬遠してきた。これまた強烈な音の持ち主GEM-1とedition9を合わせてみたこともあるが、私は10分もたなかった。
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エージング?私はエージングで、この癖が完全にとれたedition9をまだ聞いたことはない。その馴らし運転の成果はいずこに聞こえるのか?私は知らない。それはオーナー様たちの脳内にのみあるのか。
「edition9は我慢のヘッドフォン」というのは名言とは思うが・・・。

とはいえ、最近のヘッドホン界、お手軽なモノが横行しすぎやしないかとも思う。ヘッドホン自体の音質の飛躍的な向上や音の個性の差別化、装着感の改善はまるで感じない。強力なドライブ力や、ずば抜けて優秀な特性・音楽性を持つハイエンドヘッドホンアンプも、新製品としては、ここ一年ほとんど聞かなかった。高価格帯のヘッドホンもアンプも結局固定化してしまったように思える。特に据え置き派はつまらない日々を送ることを強要されているようだ。この退屈の一因はもちろん、HD800、TH900、SR009、T1などの定番のハイエンドヘッドホンに新しい機種が追加されないこと、それらに関するハイエンドリケーブルなど新たな話題が巻き起こらないことにある。edition9の如き、アクは強くても夢があり、実力もある、そういうヘッドホンが新しいオーディオを切り拓くことを私は渇望していた。

当然、私は並んだ。
ULTRASONE edition5をひとり一分間試聴できるという列に私は並んだ。
時間を置いて5回並び、5回聞いてみた。
聞けたのは計5分だけ。5回聞くのに間を入れたので、夕方近くまでかかった。
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なお、祭りのほぼ全てのブースを回ったが、私にとって他に面白いモノはほとんどなく、凄いと思えるモノはさらになかった。ヘッドホン祭りのレベルが落ちたのではなく、ヘッドホンオーディオは今、中価格帯、低価格帯のラインを充実させる時期にあたるのだと自分を納得させながら歩き回っていた。今回新たに頂点を目指したヘッドホンオーディオを展示しようとして、それなりにサマになっていたのは結局ULTRASONEだけだったように見えた。

言うまでもなく、edition5の外観や付属品、材質や内部構造については私がいつものようにクドクド書かなくても、いくつかの公式なブログが詳しく教えてくれるはずだ。そんな面倒な手間は他の方々に任せ、私はedition5の音とそれを取り巻く事々について、自分が思ったことのみをストレートに書きたい。
(なお画像等はフジヤ様から頂いております。素晴らしいイベントを有難うございます。)

以下の断章はインプレッションとは言えまい。
モノを聞いた時間があまりにも短すぎる。
話にならない。
これは思いつきの羅列に過ぎない。
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ついに、自分の耳で長時間聞いていられそうなeditionシリーズに出会えた。
辻 仁成という作家は、後に妻となる中山美穂さんに初めて会ったとき、「やっと会えたね」と言ったらしい。初対面の人にそう言ったのである。
私もいろいろと憧れ、試し、空振りしてきたeditionシリーズの中で初聴のモノとしてのedition5に「やっと会えたね」という言葉をかけたくなったことを告白する。
つまり、やっとエージングについて語らずに、耳にそこそこ刺さらないeditionの音が聞けたというのが第一印象なのである。確かにまだ刺さりがなくなったわけではない。まだ金属的な質感が残るが、私の記憶の中のeditionシリーズ刺さり方とはかなり異なる印象を持った。マイルドな高域とはお世辞にも言えないが、キレ良く伸びて心地よく感じられることもある、ぐらいは言ってしまっていい音であり、私は本当に安堵した。
これはハウジングの多くの部分に木を使ったこと、それも地中に埋没し、経年変化で硬化した特殊な木を使用した成果だろうか。このチューニングはこのメーカーで今までなかったものでもないが、Editionシリーズとしては、今までで一番大きな変化であるように思う。埋もれ木細工は日本にもあり、独特の木目と色合い、普通の木では得られない硬さゆえ珍しがられるのだが、このような銘木をオーディオに使う、しかもコスメティツクのみならず、積極的に音響的なチューニングとして使うとは面白いアイデアである。邪道なのだが、このウッドの部分を他のブライヤーウッドやローズウッド、紫檀、フィンランドバーチの集成材などに勝手に置き換えることができるとしたらさらに面白い。音もルックスも大きく変わるだろう。

中域は透き通って、見晴しもよく細かい音を隅々まで存分に聞かせる。音を分解して聞かせる能力の高さはこのメーカーらしさが横溢していてニヤリとさせる。ここでの音の粒立ちの良さは現行のヘッドホンの中では随一だし、ホーンスピーカーのように短い距離ながら音をポンポン飛ばすような活きの良さはULTRASONEらしい。ここでも高域と同じく若干カンカンいう感じは残るが、これこそエージングで消えてくれるだろうと期待できる範疇。楽音の動きに対するレスポンスの良さも格別。TH900よりも音の動きは闊達かもしれない。スローな古典的なJAZZでのタメを効かせたベテランミュージシャンのボーカルよりは、アニソンで声優さんたちが弾ける瞬間を楽しむのに、この音作りは向いている。
私個人としては、こんなつまらんハイレゾデータではなく、CDのリッピングデータでいいからOASISのTIME FILES・・・を通しで聞きたくなった。

低域は今までのeditionシリーズより深く、安定していてedition12のように空振りしない。しっかりしたグリップを確保する。量感はやはりそこそこで、手持ちのTH900のふくよかさには至らない。そうは言ってもここらへんはeditionシリーズの成長の跡を見るところだ。edition9の高域は勿論、低域も刺さって痛かったのだが、今回は全然そう感じない。楽音の変化に対する反応もやはり早く、スピード感と彫りの深さのある低域が迫る。この低域はeditionシリーズ中では最も深々としている。もちろん、相応の送り出しとヘッドホンアンプとのペアでという条件つきだが。そういう意味では、(私の印象では)このヘッドホンと釣り合って十分に鳴らせるポータブルアンプは今の市場にはなさそうだ。この低域の変化は一層深く、柔らかくなったエチオピアンシープスキンのイヤーカップと無関係でもないだろう。また、このイヤーカップの改良による、この装着感の良さは、低域への影響のみならず、全体の聞き味の向上に少なからず影響しているはず。

S-Logic EXの威力か、確かに以前よりも音像の在り方がスピーカーオーディオに起こるステレオフォニックに近く感じられ、飛び出しを伴っている。音の輪郭はeditionシリーズで回を重ねるごとに淡く、滑らかで自然な形に変化しているようだったが、ここでは、あのedition9での、サバイバルナイフというよりは手斧で成形されたような荒い音のエッジは完全に消えた。スムーズと言うべき音の輪郭が今日は得られている。
音場の広がりというのは、密閉型としては標準的でしかない。TH900より若干狭く感じたし、HD800やedition12などの開放型とは比べものにならぬ。ただこれはヘッドホンアンプやソースの質の影響を受けやすいと思うので、何を組み合わせるのかに拠る部分が大きいのでは。評価は保留してもいい。だがやはり、空間表現力が、現在のハイエンドヘッドホン全般の中で高い部類とは言いにくい。

全体のバランスでは、常にドンシャリ感が付きまとうeditionシリーズだが、これも今回は随分フラットになったようだ。とはいえTH900のようなファットな中低域にコアがあるバランスになったのではなく、やはり高域と低域にハイライトを感じる。しかしedition5のどこか金属的ながら濃密かつ分解能の高い中域も試聴中、常に主張を繰り返していた気がする。全体に洗練されたeditionだが、洗練されすぎてはいないのである。これはどこかが尖ったULTRASONEの本来の音のイメージから外れていない。HD800のように客観的に取り澄ましたところはない。また逆にedition9のように強烈に意識を音楽へ集中することを強要するのでもない。そこはあくまでマイルドではある。だが、edition9に私が認めてきたギラギラした音の輝き、あの力の片鱗、あの栄光のような輝きの片鱗をedition5が随所に垣間見せたのは嬉しい発見だった。

全てを忘れて没頭し、計5分間で聞けた音質についての情報はこれだけである。
このサウンドを聞いて思い出すのは、どんな料理もスイーツも、つまみ食いでもいいから、まずは食ってみなければ、旨いかどうか分からないものだということ。これはオーディオでも同じらしい。
今日は、やっとそれなりにいい音が聞けたと思った。たった5分間だけだが。

ここでさらに、
外観や使い勝手などについて詳しくは書かないにしろ、気付いたことを補足するとしたら、やはり掛け心地の良さについては言っておきたい。会場でのAbyssの装着感の酷さが印象に残ってしまったせいかもしれないが、私にはedition5はシリーズ中では最も快適な装着を約束しそうな気がした。TH900のフィットもとても良いが、勝るとも劣らない。なにしろ280gと軽い。TH900は400gもある。さらにedition5のクッションは柔らかく厚く、触感も気持ちいい。音質と同じくらい装着感を重視すべきジャンルであるヘッドホンで、これは大きなアドバンテージを生む。これだけ軽くて装着感がいいと外に連れ出したくなるが、全体にやや大きく、きちんと鳴らせるポータブルアンプが、今の所は思いつかないのが惜しまれる。
ウッドを基調としたイヤーカップの外観の大人びた渋い味わいは、音を聞いた後では高域の進化をイメージさせるし、edition8と共通らしい信頼性の高いヘッドバンドとヒンジの組み合わせも陳腐ではない。
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付属品の多さも目を引く。ハードケース、ソフトレザー製のポーチとスタンドには新味なしだが、着脱式のヘッドホンケーブルについては標準、ミニプラグ両方装備され、さらにそれを変換するアダプターまでついているところがいい。これは色々な機材への接続の道を拓く。ただバランスケーブルがないのが惜しい。オプションで発売するのだろうか。それとも誰かがまた作ってくれるのだろうか。

ここまで聞いて、見て、触って、様々に考えてきたが、私は重大なことを忘れていた。販売価格を見ていなかった。いくらですかと聞くのを忘れていた。私の周りに一緒に並んでいる人たちも黙ったままで、たまたま誰もそれを聞かなかった。私の質問、それは受け付けのお兄さんに対して飽きるほど繰り返された質問のはずなのだが、彼はにこやかに答えてくれた。
「限定555台で、49万3千5百円でございます。」
私がその時、計算したのは同じ密閉型のハイエンドヘッドホンの定番Fostex TH900との価格差である。否、価格差というより何倍の価格かということである。2013年10月末現在、最安で132500円のTH900の3.7倍、約4倍の価格のヘッドホンである。4倍の音の価値はあるだろうか?こういうことを数値で比較することはどこか可笑しいが、ここで私はそういう理不尽な欲望を抑えきれない。
TH900というのは、ほぼ全ての側面において満点に近づく素晴らしいヘッドホンである。edition5をコイツと比較すると、私の感覚では音の価値で言えば1.2倍もかなり怪しいと思う。その外観の美しさ・質感の良さについても然りで、edition5に1.2倍の外観的価値があるとすら断言しかねる。総合的には、edition5とTH900はほぼ同等の価値があるヘッドホンだというのが、私の偽らざる印象である。さすれば、そこに差を見ようとするなら280gという相当な軽さにか?はたまた音の個性にか?もし個性を感じるとすれば、やはりあの高域と低域の深さにか?だが、そこに4倍の価値を見出せるのか?
やはり難しい。
edition5は価格の絶対値そのものが単純に難しいのではない。
他社の同レベルのヘッドホンの価格と
edition5の約50万円という価格との
“釣り合い”が取れないので難しいのである。
ここが、このヘッドホンの最大の難所である。

確かに、この価格に全く根拠がないとは言い難い。
新規にヘッドホンを作るための新たな金型、掘り出した特殊なウッドを相当量押さえて、外注で歩留まり少なく加工、特殊な皮革を必要分だけ仕入れて手作業で縫製、新規開発のヘッドホンケーブル、ドイツ本国での製造(確認してないけど、もちろんそうなんですよね)とクオリティコントロール等々。これらを555個分、一度にやって売り切るリスクを考えたときの価格・・・・。
確かに有り得ないものではないような気がする。

今ある情報全てを総合して考えれば、これはやはり多くのハイエンドヘッドホンを遍歴して、それらを既に使いこなし、いわば「鳴らし切り」、もう飽きてきた人が、それでもまだなお、新たな音を生み出す可能性を求めて買うモノだろうというのが私の最終結論である。
もちろん、やろうと思えば50万円をいつでも動かせる立場にあることも必須条件だが、ハイエンドヘッドホンを愛好する今ドキの若い層はそんなに給料をもらっているだろうか?老後のための貯金を忘れていいような社会状況だろうか?

音はまあ良い。デザインもOK。質感も良くて、使い勝手も十分に良いし、軽さもgood。しかし価格は難しい。私はそう思う。
だが、これはスイスの高級時計や欧米のハイエンドオーディオにはしょっちゅう感じることである。ただ、こういうことが、スピーカーを使うハイエンドオーディオに比べれば、お遊び的な立ち位置だったはずのヘッドホンオーディオにおいても起こってきているということに少しばかり驚いているということだ。我々は、こういう価格が前例を重ねるごとに常識となっていくのを茫然と見守るしかないのだろう。この値段の付け方は良いモノを先駆けて作った者の権利なのだと思うしかない。

また、ドイツ人たちは日本で真っ先に発表したことから考えて555個のうち多くを日本で売りたい意向なのだろう。ドイツ製、限定という言葉に日本人は弱いから高くても売れるだろうか。確かにedition9が出ていた頃なら、高ければ高いほど、むしろ売れちゃうという妙な風潮も残っていたかもしれない。以前の銀座なんかでは、そういう風景を見た覚えもある。しかし日本人の金銭感覚は、特に若年層ではバブル崩壊以降変わりつつあるような気がする。それに50万円をパッと動かせるマニア達はヘッドホンからスピーカーに移行しつつあるのでは?これを、この価格で買う日本人のプロフィールが現実的には想像しにくい。
こう考えると、果たして、このビジネスが、どこまで日本で花開くのか、予断を許さぬ。その行く末は高みの見物ではなく、低いところから見上げさせて頂こう。

5回目の試聴を終えて、私は混み合う会場を後にした。
雨は上がり、空は黄金のような輝かしさを帯び始めていた。
それはedition5のサウンドに微かに感じた栄光の残滓のような光のイメージを想起させたが、
残念なことに、なんの決心もさせてくれなかった。
私は薄い光を反射させる雨上がりの緩い坂を一歩一歩、踏みしめて行った。
50万円でいったい何枚のLPが買えるのか、ゆっくりと計算しながら。
そして、耳に残るあの輝きに割り切れない、微妙な未練を残しながら。
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# by pansakuu | 2013-10-27 14:36 | オーディオ機器

Audio Note SFz MCステップアップトランスの私的インプレッション:孤高の銀色

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「孤独は優れた精神の持ち主の運命である。」
アルトゥール・ショーペンハウアー



Introduction

Perseusというフォノイコライザーは導入されるやいなや、私のオーディオライフを大きく変えた。

私はデジタルオーディオをあまり聞かなくなった。PerseusがTTT compactとともに稼働しはじめて以来、必要に迫られないかぎりは聞かなくなった。デジタルオーディオのサウンドはノイズが少なく、綺麗に拡がる優れた音なのだが、どう上手く作っても所詮は精巧な作り物のように聞こえるときがある。取扱いに優れるうえ、音は表面的には見事だが、中身は空虚なのかもと疑う局面に、ときどき出くわす。一方のアナログには元来そういう嘘の臭いがしない。だが、以前はその純粋性はノイズにブロックされていつも聞こえにくかった。少なくともPerseusが出るまではそうだった。しかしオンステージしたPerseusはそのノイズの霧を一掃し、静寂の空間から何のストレスもなく音楽を立ち上げる。この音は従来の一般的なアナログサウンドの概念を明らかに超えるものであるし、個人的にはいままで様々なオーディオを聞いてきて一度も耳にしたことがなかった新しい音である。私のシステムでアナログレコードを聞くと、盤面に残っているキズや静電気、剥離剤による、どうしても取り除けないノイズ以外にリスナーを音楽から遮るものはなにもないようだ。確かにデジタルでしか聞けない音源は多々あるので、デジタルオーディオの機材を全て手放すことはないだろうが、こうなると、もうデジタルはメインソースではありえない。

ただし、アナログオーディオには様々な音の方向性がある。私が今聞いているような、デジタルオーディオと十分に比肩できる静寂性や広い音場感を追求する向き、あるいはヴィンテージのターンテーブルで強力な音像と独特の音場をフューチャーするモノラル盤をプレイするような嗜好、または質量の大きいプラッターをゆったり回すターンテーブルで、ふくよかでゆとりある、しっとりした再生に重きを置く楽しみ方など、それぞれ聞き味の全く異なるアナログサウンドが併存している。私が聞いている音はその一派に過ぎない。したがってPerseusといえども千差万別の音調を持つ、星の数ほどある音源全てを至高かつ最適の音質で再生できるという保証はない。オールマイティをただ一つのフォノイコライザーに期待するのはムリではないだろうか。音楽の嗜好性によっては音調が微妙に肌に合わない、あるいは録音の時代に合わないと感じる方も皆無ではないはず。

そんな中で、私が最近、意識し出したのは、クラシック音楽を聞くのに最適なセッテングとはどのようなものかということだ。
実は、この部屋にレコードを持って音を聞きに来る奇特な方々が時折おられる。そういう方々は、私が普段あまり聞かない昔のクラシック音楽の名録音を持ってこられることが少なくない。皆様、既に相応のアナログシステムを持っておられるのだが、御自分のリスニングルームでお聞きの音と私のPerseusとTTT compactのペアで聞ける音がかなり異なるので例外なく驚かれる。多くの方々のアナログサウンドのイメージというのは私の音とは違って、もっと膨らみがあり、しっとりした重みがあり、いい意味で緩さがあり、甘い聞き味だそうだ。それは分かる。PerseusやTTT compactやAir Force Oneに出会うまでは、そういう古典的な味わいで聞かせるのがアナログだと私も思っていて、少なくともそれは日本のアナログファンの主流の音の傾向だと思っている。そういう音の方向性は、なにより昔のクラシック音楽の録音にマッチするのだろう。また、年齢を重ねたオーディオファイルが求めがちな音調なのかもしれない。この雑然としたリビングまで、わざわざ遠方から来られる方々が持ち込むクラシック音楽を、お客様のより馴染みやすい音調で聞くために、このアナログシステムの出音をなんらかの形で微妙にシフトさせることも面白いかもしれない。このささやかなサービス、小さな試みについて、私は最近、真剣に考え始めた。Perseusの出音はそのままでも単調とは到底思えないが、さらなるバリエーションがあっても損はないはず。思い巡らすうち、そのような音の変化をもたらす可能性を秘めた機材の一つ、MCステップアップトランスに私は行き当たった。

MCステップアップトランスあるいはMCトランスフォーマーと呼ばれるアイテムは、要するにコイルの巻き数が少ないため低くなってしまうMCカートリッジの電圧を上げるための昇圧トランスのことである。昔はMC型のカートリッジを使う場合に頻繁に用いられたものであり、MCの出力をフォノイコライザーにダイレクト入力できるのが普通になった現在でも愛用者は絶えない。これはもともと音の忠実度を上げるための道具であるが、しばしば聞き味においても好ましい変化を及ぼしうるので、自分の目指す音を出す手助けになるものを選ぶということがある。
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1社を除き、会社名は伏せるが、私は独断と偏見で国内外5社のMCステップアップトランスを選び出し、買ったり借りたりしてテストするという作業を今日終えたところである。ここまでのところ、私が求めるレベルで、クラシック音楽を強く美しく鳴らしてくれる製品は一つしか見つかっていない。それは川崎のAudio Noteが製造する銀線をふんだんに使った贅沢なMCステップアップトランスである。
(写真はAudio Note様のHPより拝借いたしました。)


Exterior and feeling

Audio Noteの最新の製品であるSFz MCステップアップトランスは細かな造りの良さが際立つ高級品である。片手で持てる小さな筐体であるが、折り目正しい作りの良さがそこここに垣間見える。例えば梨地仕上げのフロントパネルは中央に微妙な稜線がつけられ面取りされている。上から見るとこれは単純な屋根型ではなく、二つの浅い凸面を組み合わせたものである。この部分は平らなアルミパネルで済むところだが、あえて凝った造りをしているようだ。まことに細かな造形の妙であるが、このような部分に入念なデザインの痕跡を感じる。こういう入念さは必ずや音に出る。

フロントパネル中央には入力の切り替えるロータリースイッチがあって、1.5Ω、30Ω、Balancedを選択できる。このスイッチはクリック感が小気味良く、操作自体が素敵な体験だ。
バックパネルにはロジウムメッキされたRCA入力端子2系統と、端子を介さないで内部から直接出ている出力用のRCAケーブルが認められる。入力端子はバックパネルと樹脂製と思われるリングを介して接しており、直に取り付けられているものではない。これは音質的な配慮と推測される。以前、FM155というスイス製のプリアンプを使っていたが、ほぼ同じ端子の取り付け方をしていた。内部から直接出る出力用のRCAケーブルは同社の銀線ケーブルらしい。端子を介さず「直」で出しているところにも音質に多大な貢献があるはずだ。このケーブルが同社から単体で売られている銀線のRCAケーブルと同じとすれば、それがかなり高価なケーブルであることを考慮すると、このステップアップトランスの価格は高いものとは言えまい。

このトランスの脚は四つ足である。周囲に溝を一筋彫り、表面処理を施したアルミの円柱の底面中央部に特殊なゴムを貼り付けて処置してある。後述のトランスのゲル素材を介したマウントと合わせて二重のフローティング構造としている。トランスの脚などというものは普段見えない部分であるうえ、音質への貢献度はさほど高くないとも考えられるので、各社それほど気合いを入れて取り組んでいる部位ではない。だが、Audio noteは大変丁寧に作り込んでいる。
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この筐体の中身であるカットコアトランスはパーマロイシールドケースにエポキシ樹脂で封入、さらに純銅ケースに納めるという二重シールド構造で格納されている。さらに、トランス本体はゲル素材を介して純銅シャーシにマウントしているという念の入れようである。トランス本体については通常の約半分の薄さに加工されたパーマロイを重ね合わせて作られたコアに高純度銀線を巻き付けたものであり、非常に特殊なものである。薄いパーマロイをあえて使うことで渦電流の損失を抑制し、広い帯域にわたって均一なレスポンスを得られるという。この門外不出のトランスは創業時からのAudio noteの誇りのようなものかもしれない。同社はこの銀線を用いたMCトランスでスタートしたと聞く。今回使わせていただいたSFzはその最新型なのである。このモデルの歴史を思うとき、高い理想を掲げて前進するメーカーの知られざる物語が背景に横たわっているような気がする。


The sound 

銀線を使ったケーブルというものは随分聞いてきた。一部に例外はあるものの、ふんわりとした柔らかさや浮遊感、高域の独特の艶という音質的な特徴が多かれ少なかれ感じられるものがほとんどである。銀線を内部配線に使ったカスタムアンプやカスタムスピーカーも数種類聞いている。これにも例外はあるものの銀線ケーブルと似た傾向の音を出すことが多い。私はこの感覚が銀の味わい、オーディオにおける銀線の色とでも言うべきものと思ってやってきた。
しかし、私が過去に聞いたAudio noteの製品は、そういう半ば単調な音は出さない。つまり、銀線を使ったオーディオ製品としては例外的な音を出す部類に属する。

では、試聴してみよう。ターンテーブルからのRCA出力をSFzに結線し、さらにSFzの出力をPerseusのMM入力に結線する。ここで使うAudio noteのオリジナルと思われるRCA端子は差し込み易いうえ、食いつきもいい。WBTの高級な端子よりもよほど扱い易い。最後にアースを適切に処置し、ハムのないことを確認、ついにレコードで音出しとなる。
ここではチョン キョンファのヴァイオリン演奏を取り上げた“愛の喜びCon Amore”(Decca)、あるいは、お借りした“モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番&第27番”(カーゾン+ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団、Decca, Esoteric)のなど何枚かのクラシックの有名録音を中心にテストすることとしよう。目的がクラシック音楽を聞くのに最適なセッテング探しというわけだから、私の普段聞く現代的なJAZZやチルアウトやラップ、ダブ ステップなんかを回すわけにもいくまい。なおカートリッジはMy sonicのUltra eminentを合わせている。

これが銀の本当の力なのか・・・・。派手にアピールする音ではないが、ジワリと浸透してくる響きの強さに冷静な思考を止められ、連動していたメモを取る手の動きが止まる。これは今まで銀線に感じていたどこか単調な柔らかさや艶に流される音ではない。もっと複雑な味わいである。広いダイナミックレンジを有し、トランスにありがちな綺麗だが萎縮した音という印象がないあたりも凡庸な製品の音ではないと感じる。繊細でありながら、曖昧さの少ない、はっきりとした音像が持続的に提示される。チョン キョンファのヴァイオリンの音色、その芯にある反発と強靱がしっかりと私の耳に届き始める。楽器がそこにあり奏者がそれを操る様がリアルに描かれるのは何時も通りなのだが、そこに一層の存在の重さが加わってくる。この不思議な手ごたえをなんと表現すべきか。全く、楽しい迷いを与えてくれる音だ。

このステップアップトランスを加えると、音ひとつひとつに明確な重み付けが与えられる。音場の透明感はむしろやや低下するが、これは音場の空気そのものに軽みではなく、存在感が出てきた証拠と解釈する。深い森の中で深呼吸するような感覚をリスナーに与えるオーディオが稀に体験されるけれど、これはその一つだろう。森の空気は湿り気を帯び、様々な生物が分泌するエキスの香りを高密度に含んでいる。その香りから人間は他の生命の存在を感じ取る。どんなに小さく、取るに足らない生き物にも存在があり、その命の重みが感じられるのと似て、ささやかな音の細部にも、意味の有る重みが宿ることを実感する。

Peruseusの音の特徴のひとつとして、音のキレの良さが挙げられるのだが、このSFzを合わせるとそのキレの良さは僅かに後退し、代わりに音符の横の繋がりの滑らかさが浮き彫りにされてくる。音全体がまったりとして、心持ちスローな動きになるようでもあり、リスナーはゆとりをもってカーゾンの指の動きを追ったり、ブリテンの指揮棒の一閃を夢想したりできるようになる。クラシック音楽という横ノリが多い音楽にマッチした音調とも言える。そういう音楽においても鋭く、速い動きを求める気分になれば、簡単にはフォノのMCダイレクト入力につなぎ変えるだけでよい。MCトランスフォーマーの良いところはコンパクトであるうえ、結線し直すだけで音全体を微調整可能であるという点が面白いし便利であるとも言える。

このSFzの描き出す演奏のイメージは、聴き始めのころは、演奏の全体状況に関心が向けられた見通しの良さではなく、ソロを取る楽器の動きにスポットライトをあてて、濃密に描き出そうとするイメージだった。しかし聞き進むにつれて、だんだんとその濃厚な色彩感が背景にまで及び、やがては音場全体が渋い輝きを備えた色の躍動で埋め尽くされるに至った。そして音楽が止まった後の微かな余韻の引き方。本当にささやかな音の触感なのだが、なんとも小気味良い終わり方だ。SFzを試聴する方は是非聞き逃さないで欲しいものだ。

これらの音は私の知っていた銀線の音とはかなり異なる。ここには音の響きの強さがある。以前Audio Noteのアンプを聞いた時も、その響きの片鱗を確かに感じていた。この密やかな音の強靱さ、ただ綺麗な音のみに終始しないAudio Noteの音のエッセンスのコアなのだと私個人は読み取った。突き詰めれば、実はこれはシンプルな音なのかもしれない。非凡な簡潔さだ。響きの強さが格調の高さへとつながってゆく個性的な音と言えばそういうものかもしれない。しかし、そう言いきって終わるには惜しい音だ。

この貴族的なMCトランスフォーマーが醸し出す音は、私の中に残っていた古典的な西洋音楽への憧れを、久しぶりに呼び覚ました。いくぶん鈍い光であるが、それゆえに軽薄とならず、格調ある高貴な輝きが演奏全体に宿る。私が昔、クラシック音楽に求めていた音の品格というステータスが存分に表現されてくる。こういう変化は他社の製品には未だ認められないのである。


Summary

私にとってのSFzという道具は一言で言えば、クラシック音楽に登場するアコースティツク楽器の響きの華麗さをより深く堪能させてくれる稀有な製品である。ことに弦楽器の中高域の響きの素晴らしさは特筆すべきものだと思う。
この独特の響きは、絵画における色調に喩えるなら英国の画家ターナーの絵に見られる輝きに似ている。
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一見淡くはかないが、内に秘めたる強い光輝により確固たる存在を主張するターナーの色彩は、Audio Noteの繊細さと強さをないまぜにした音に相似しているように思われる。これが銀の音の真実であり、本当の銀の色なのだと、声高ではないが、一貫して、断固として主張するようだ。
あくまで孤立した画家であったターナーの絵が、彼の孤独を今に伝えるように、現代のオーディオシーンの中でのAudio Noteの孤独の片鱗を語る機材が、このSFzなのだろうと私は勝手に解釈している。

上奉書屋時代にも書いた覚えがあるが、このメーカーの音に触れる機会が日本では少なすぎる。まるで営業や販売形態まで孤高を貫くかのようだ。
川崎に試聴室に予約を取って出かけるか、手続きを踏んで機材を借りることしか、Audio Noteの音を知る方法は未だにない。一般の販売店では展示はなく、購入もAudio Noteに直接に問い合わせて、発注するしかない。ただ、そういう面倒はあっても、実際の出音に真摯に向かい合うことが出来さえすれば、この品位ある音と価格のバランスに納得できるはずだ。音質はもちろん、一見そっけないルックスにも丁寧な手仕事の跡を見て感動を禁じ得ないし、中身を見れば、その入念かつマニアックな造りに驚かされるハイエンドプロダクトである。
一方、このメーカーにしかない音、このメーカーでしか成しえない格調の高さを深く味わうには、それを聴くオーディオファイルの経験値も高くなければならないし、なによりも本人がこのレベルの音質を求めていることが必要条件というのは注意すべきだろう。やはり、作り手のみならず受け手のオーディオファイルにしても孤高の美意識の持ち主でなければ手を出さないモノかもしれない。

このメーカーの持つ、高尚なMade in Japanのサウンドは一般のオーディオファイルにとっては、今もハイエンドオーディオの秘境の中に居る遠い存在だ。
それは憧れというよりは未知と言うべき対象だろうか。
私は思い巡らす。
Audio Noteを身近に置き、その美音に没頭できる日本のマニアックなオーディオファイル、ディープなクラシックファンが、この先、増えるのか否か。
オーディオとはいつも「百聞は一聴に若かず」である。
だが、「百聞」と称するにはAudio Noteの情報は未だ少なすぎる。
ということは、それは皆の「一聴」にかかっているということになり、
私個人ではどうすることもできない。
ただ、この音の行く末を密かに心配しつつ、
SFzの醸す弦の音にしばし酔うのみか。
そんな私に出来ることと言えば、
目の前に描き出される孤高の銀の色あいを走り書きして
それを衆目の在る場所に
そっと置いておくことぐらいのようだ。

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# by pansakuu | 2013-09-29 00:19 | オーディオ機器

Abendrot audio Stute ルビジウム マスタークロックの私的インプレッション:秘密の箱

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「神は細部に宿る」
ミース・ファン・デル・ローエ


Introduction

ドイツの光学機器メーカー、ライカからApo summicron 50mm F2 ASPHというレンズが発売されているのを御存知だろうか。F値を欲張っていない小さな50mmレンズだが、入荷は現在一年待ち、いやそれ以上待たされても手に入らないかもしれない。このレンズは銀座界隈に撮るものもないのに彷徨っているライカマニア、レンズグルメたちの垂涎の的だ。ライカが、世界で最も優れたレンズと豪語する卓越した描写力を持つレンズである。このレンズの特徴の一つは細部描写に有り得ないほどの冴えを見せつつも、そういう高性能な描写を意識させず、逸脱感のない落ち着いた絵を見るものに提供することである。このレンズを通して得られる写真には我々が普段見ていて、見切っていない細部が映っており、その意味でディテールに遍在する小さな神々を、私たちに気付かせる稀有な道具であると思う。だが、それを如何なる様式で見せるのか?その部分での品位の高さに、このレンズの本質がある。
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デジタルオーディオにおいては、音の細部をより深く聞かせる道具の一つにDAC等に接続するマスタークロックというものがある。エソテリック、アンテロープ、dcs、スフォルツァート、フェーズテックなど多くのメーカーからそういう名前の付いた箱が発売されている。また、オークションなどでは自作したような安価なクロックを見ることもある。私は販売店でクロックの試聴を何回かやっている。また一回だけだが、あるメーカーのルビジウムクロックを自宅で試した。その時にクロックというものは高価な道具で、コンセント一口を余分に消費し、スペースを取る難儀なモノであるにも関わらず、音質の改善は僅かなものという結論に達して以来、敬遠していた。そんな訳で、いままで、このブログでクロックを取り上げたことは一度もなかった。

ある日、True 10MHz Rubidium Master clock generatorと銘打った不思議な箱の写真をネット上で見つけた。 Stuteというルビジウムクロックである。それはAbendrot audioという、日英の技術者が共同でデジタルオーディオ機器を開発する会社の製品であった。いままで私は、これほど綺麗なデザインのクロックを見たことがなかった。この手の機器は外見より中身を重視するので、デザインがプアになりがちなのだが、そこまで手がまわっていることが気になった。そこまでやるという事は、中身にも絶対の自信があるということか?ある程度を越えてエクステリアが美しい機材には、音でがっかりさせるものはないというオーディオの法則がある。これに裏切られたことのない私の視線は、しばらくこのクロックに注がれたままとなっていた。(Stuteの写真はメーカーHPから拝借しました)

しかし、このクロックの価格は日本では300万近いもので、また技術内容も残念なことに、ほとんど秘密にされていた。関係者に問い合わせてみたがガードが堅い。このレベルの機器はディープな企業秘密あるいは軍事機密にタッチすることもあるが、そういう大人の事情の壁が高くそびえ立っているような気配がした。おまけに社名の由来も、機材名の由来も不明である。ドイツ語でAbendrotは夕焼け、Stuteは牝馬を指す。ワケが分からない。こうなると実物を見る機会自体が無さそうであり、その内容を吟味して考えを巡らす余地すらもないと判断された。仕方なく、自分に縁のないものとして指名手配リストにファイリングした矢先に、このStuteルビジウムクロックを試聴する機会が巡ってきた。

デジタルオーディオという半ば飽和したジャンルに
Stuteは新たな音の境地を切り拓いてみせた。
そこには極めてミクロ的な音質の変化が
マクロ的な音の印象を予想外に大きく変えてしまうという事実が横たわっていた。

Exterior and feeling
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美しく可憐であり、所有欲を満たす箱である。
全体に繊細な梨地の仕上げがなされた金属の筐体である。大きな箱ではなくエソテリックのG0Sよりも一回りほど小さい印象である。厚さ10mm以上ある銀色の四角いフレームに縁どられたフロントパネル、その銀枠の中に金の延べ棒を思わせる厚い部材が、枠と隙間を設けて嵌め込まれている。この隙間が設けられているところがデザインのポイントか。バックパネルのスイッチを入れると、この隙間の下縁にLEDが点灯する。全体にとても可愛らしくもあるが、出音のイメージと相似して品位が高い印象もある。リビングに置きたくなる箱だ。大きく立派な4つのフットの安定感も好感度高し。
バックパネルにはON/OFFのスイッチがあり、ヒューズボックス、電源のインレットそして二系統の10MHzの信号出力などがある。これら2つの出力は完全に独立した系統であり、分岐したものではないという。新設計された特殊な回路が組み込まれており、既存のクロックを凌ぐ、ローノイズで正確な信号を提供するらしいのだが、先述のように内部情報がほとんどなく、技術的には分からないことだらけである。実は、音を聞く前は、またルビジウムクロックかという、いまさら感が私にはあった。デジタルオーディオにはルビジウムの精度は必要ないことは既に分かっている。重要なのはその他の諸々の事なのである。技術内容を公開しない分、それらをどう処理しているのかという疑念は少なからずあった。
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そもそもデジタルオーディオにおける時間軸管理の重要性についてはコンセサスがあるものの、どのような方式が最良かということについては定説が未だにない。これについて議論しだすと技術者もオーディオファイルも百家争鳴、全くの混乱に陥ることが多い。私はそういう議論からは何時も遠ざかっていたい。不毛だからだ。
「試聴においては、数字や理論は信用せず、自分の感覚を信用せよ。議論の前に実物を並べてまず聞いてみよ。それが出来ぬなら発言は慎め。」
謎の箱、Abendrot audio Stute ルビジウム マスタークロックは、言葉ではなくサウンドで、その主張を厳かに語ったのである。


The sound 

クロックの試聴というのはおそらくオーディオショウのような場所では難しい。締め切った広すぎない試聴室で聞きなれた機材を使用し、一人か二人で集中して聴くのが望ましい。それを導入した場合の変化の多くは微妙な音のディテールに関するもので、評価には注意力と集中力が要求されるからだ。クロックはループノイズなどの影響を受けやすいデリケートな機材でもあり、プリヒート等の時間的要素も含めたセッティングにも神経を使うべきだ。
今回はCH precision D1+C1という接続機器を見ても、クロックをつながない状態のシステム全体の出音を聞いていても、新しいクロックの価値を判断するのに十分な環境が整っていたと思う。なお、このクロックの動作は私が使った限りはとても安定していて、電源を入れたままラフにD1、C1から抜き差ししても確実に一発でロックされていた。操作を難しくさせるファンクションやギミックのないStuteには使い勝手にエキセントリックな側面は無いように思われ、一般のオーディオファイルでも十分に使いこなせそうに思われた。

まず始めはStuteからの10MHz信号をまずCH precision C1に入れ、そのうえでC1からD1へクロックを渡す方式で試聴した。
生々しいディテールに溢れた音、そして何より品位が高い音へ。
それがStuteを接続した時の変化の第一印象である。

Stuteを入れると、当然のように音像のフォーカスは上がる。今まで音のピントが甘かったことを後悔する感覚、クロックを入れたあとほぼ例外なく訪れる、あの感覚である。Stuteのフォーカスの絞り込みは、アンテロープやエソテリックのルビジウムクロックで得られるその種の感覚よりも一聴して大人しく厳しさを感じない。しかし、聴き込むにつれて、より高いレベルでのフォーカシングであることが実感されてくる。音の粒子感がさっぱりと消えてなくなっている。それとはすぐに気付かないほど、当たり前のように粒の感触が無い。細かい音一つ一つは際立っているのだが、そこにザラザラしたエッジのような感触はもうない。しかし単純にスムーズで聞き易いエッジでもない。鋭いエッジ、柔らかなエッジ、淡いエッジ、太いエッジ、各々に描き分ける。あるものがあるように有るというリアリティが、各々のエッジに現れている。この現れ方は特別なものだ。本当によく切れる刃物で指を切ると、痛みがないので、しばらく切れたことに気がつかないことがあるが、そういう事実関係に似ている。変化したという違和感が少ない変化であるがゆえに、そうなったことに気がつくのには時間がかかるというものだ。

また、Stuteの信号を入れる前は、背景にわずかにノイズが残っていたことも意識される。
これはStuteをつないだり、外したりのBefore/Afterの比較で如実に分かる。Stuteを使うと、はっきりと音場は澄んでゆくのだが、その透明の度合いは私が初めて体験するレベルだ。dcsのVivaldiやCHprecisionのC1,D1等のトップエンドのコンシュマー向けのデジタル機材に既存のマスタークロックを入れて得られる音場の中では、このような透明度は得られてはいなかった。もちろん残っていたのは非常に微細なノイズであり、通常は無視するか、下手をすれば意識さえしていなかったレベルのものである。Stuteを通して、そういうノイズが今まで恒常的に耳に届いていたことに私は気付かされた。

音の合焦精度が極限に達し、気付かないほど微細なノイズさえ抑え込まれてしまうと、音の細部が否応なしに現れてくる。この変化は、今までのクロックでは“暴き出す”という野蛮な言葉でしか表現できないものだった。しかし、このStuteでは細部の描写に対して、奥ゆかしさ、上品さが感じられる。音の細部にわたる詳細な描出に丁寧さ、繊細さがあるためだ。今までクロックでは焦点を合わせ切れていなかった細かな音の凹凸まで無理なく聞こえる。音の細部に宿る神の気配を相応の品位をもって耳に届ける、とでも言おうか。残念ながら私の力では、この変化をより的確に表現する言葉が思いつかない。

また、これほどノイズが駆逐されると、音場の深さもかなり深くなる。音場は広がりはしないが、次第に深くなってゆく。透明度の高い深い湖底を覗き込むような感覚を伴う、このような音場の変化を他の機材では経験したことがなかった。個人的な印象としては、これは昔、大きなパラエバトルマリンを見せてもらった時の感覚に似る。
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吸い込まれるような不思議な水色をしたこの特別な宝石に、当時は見てはいけないものを見るような妖しさを感じたものだが、このStuteによる音場の深まりには、その妖しさの片鱗が感じられた。いつもながらの感覚的な言い回しなのだが、こういう言葉に頼らないかぎり、Stuteによる変化の質はフォローしきれそうもない。オーディオの魅力を、音そのもの以外で表現できるのは言葉だけだ。だから私はいつも言葉の助けを借りる。

さらに、ここでは音全体の安定感が一段上がったようにも感じる。音の土台が強化されたような揺るぎ無さが出音全体に漲(みなぎ)る。こういう風に一番底の部分から音を支えるような印象を与えるクロックはいままでなかった。また、先鋭的なオーディオ機器では、少人数での開発の副産物として、合う音楽・合わない音楽が分かれそうな不安定な音の印象が伴うこともしばしばだが、Stuteにそれは皆無である。全く平坦な場所にのせられた継ぎ目のないレールの上を静かに進行する列車のように、粛々と様々な音楽が奏でられる。Stuteによる音の変化はあくまで穏当なもので、品位の高さこそ感じるが、音楽の聞こえ自体を革命的に変えてしまう過剰さはない。良くなったことのトレードオフで失った部分もほぼ感じられない。

このクロックの効果は、優れた描写力を持つレンズを装着したラージフォーマットカメラで撮った写真のようだ。私には、先述したApo Summicron 50mm F2 ASPHとライカ モノクロームのコンビネーションでの描写を彷彿とさせる。見えないはずの空気までも写し込んでいるかのような細部の表現が最高の品位で耳に届く。場の空気の温度感や音の質感が実物の手触りに限りなく近づいて行く。従来のクロックによる、確かに明快で優秀な音だが、どこかHiFi調で硬く萎縮した印象の音とは異なる、中庸を行く高貴な音である。

確かに音の密度が上がって全体の印象が濃厚に感じられるようになることはない。帯域ごとに記述できるような変化もない。勢い、抑揚感のあるダイナミックな音の動き・スピード感、そういった動的な要素についても改変はない。音の明暗のコントラストのメリハリが強調されたり、サウンドシテージが左右上下により大きく開けたりするような変化もない。昔のSTUDERやPhillipsのCDプレーヤーの音を好む方がいるが、あの手の機材に特有のプロオーディオ的な厳しい音の存在感が与えられるわけでもない。むしろ音像の強い存在感は解体され、音像のエッジは音場に薄く溶け込んでゆく方向に音が変わる。これは静的、微視的なレベルでの変化であり、そこから聴き味の良さ・品位の高さや音の全体の強調感の無さ・生音に近い自然な音の印象へとつながっていく変化である。また、ただ音を聞くというよりは、あたかも音を見るように、視覚的に聞くという立場での変化だとも思う。細部が完備されたときに醸し出される想像を超えたリアリティ、ちょっと怖いぐらいの自然さがStuteの音のハイライトだ。ひとつひとつは小さな変化とは言え、それが音の全ての側面で一斉に起こったときの鳥肌が立つような変わり様は忘れがたい。

試みにStuteから二系統の信号を出し、CH precision D1とC1にそれぞれ入れて聞いてみた。音場の空気感がさらに出てくるのに驚く。ナマの演奏に立ち会っているような臨場感が激しく鼓膜に打ち寄せる。音源にさらに近づいたような錯覚も受ける。音の存在は音場から明確に浮かび上がり、実体感は凄味を増す。ただ、これだと音の輪郭・エッジがはっきりしすぎる。このレベルの音だと、それによって、あからさまに聞き疲れるということまではなさそうだが、品位の高さという点では落ちてくる。その点では信号をまずC1に入れ、C1からD1へクロックを渡す方法の方に分がある。Stuteの醸し出す音の変化は一見して目立たないが実はかなり大きいので、程よく活用することが推奨される。

欠点も挙げておく。最近のスーパーハイエンドオーディオに多かれ少なかれ言えることなのだが、STUTEを大枚をはたいて買って、自分の家で使うと、音があまりにも自然すぎ、数日を経ずして、Stuteを結線して稼動させていることを忘れそうだということである。自然すぎる。こういう機材が醸し出す音に慣れてしまうと、逆に自分がオーディオを全くやっていないような気分になってしまう。皮肉っぽく穿った見方だが、音が生音のニュアンスに不自然に近づき過ぎてしまう。これは人によってはむしろ飽きにつながってしまうはずだ。趣味をやっている甲斐がないような、引っかかりのなさ、取り澄ました感じ、ある種の取り付く島の無さが出音に横溢するのである。オーディオにガツンとくる何らかの積極的な衝撃・手ごたえを求め、敢えてこういうモノには手を出さぬという粋人がいてもおかしくない。

それにしても、Abendrot audio Stuteだけが、何故このような音の良さを発揮するのか?分からない。具体的な説明はできない。だが、過去に聞いたアンテロープやエソテリック、フェーズテックのルビジウムより、明らかに格上の音質が得られているのは間違いない。先入観を持たずに整った条件下でこの音を聞けば、オーディオが好きな方なら、どなたでも差を認めるだろう。クロックについては、ここに書けるような品位の高さを伴う音の格差を出せるものに初めて出会った。
オーディオにおいて使うかぎり、ルビジウムの叩きだす精度には意味はなく、むしろ位相ノイズが少ないことこそ重要だという話はよく聞く。Stuteがその点においても、いままでにないほど周到な工夫を施されたモノであることは、ほぼ間違いないだろう。こういう音を踏まえると、位相ノイズを強く意識して作られた、もう一つの高価なクロック、スフォルツアートPMC-01 BVAも気になる。
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こちらを接続したデジタルプレーヤーは未聴だが、出音はStuteのそれを上回るのだろうか。価格ではPMC-01 BVAが高価なSTUTEをさらに上回るが、どうなのか。これらを並べてつなぎかえ、鳴き比べてみたくもあり、逆にどうでもいいという思いもある。ここで私が投げやりになるのは両者とも、あまりにも高価だからである。これを売る立場の方が、こんなに高価なクロックが売れるかどうかは本当に分からないと弱音を吐いたほどである。いくら夢を追うのだとは言いながら、これらはハイエンドデジタルオーディオを普通のオーディオファイルからますます遠い存在にさせかねない。このままではハイエンドデジタルプレーヤーは、そのうち現代のハイエンドアナログプレーヤー以上に、一部の富豪的好事家の愛玩物になってしまうのではないか。この価格を見ていると、そういう事態の到来は現実味を帯びてきている。

とはいえ、音が良ければ幾らでも出すというお金が唸っている方々から見ればそんなことは些末な事だ。CH precisionやdcsなどの高価なディスクプレーヤーをお持ちの裕福な方には、別電源等はともかく、音の総仕上げとしてこのAbendrot audio Stuteを導入されることを強くお薦めしたい。例えば、私個人は、いままでCH precision D1+C1のサウンドは尊敬こそすれ、自分のものにしたいとは思わなかったが、Stuteを加えると抗し難く音の虜にされてしまうのである。買える人は買うとよい。CH precision がdcs Vivaldiフルシステムと互角以上に渡り合える音に変貌する。CH precisionの高度なサウンドイメージをさらに磨き上げるばかりでなく、反対者を賛成者に変えるほど、音に密やか、かつ素敵な変異を与える魔法の箱、それがStuteである。


Summary

マスタークロックを初めて欲しいと思った。
今のところはAbendrot audio Stuteに限るのだが。
また、マスタークロックにはハッキリとしたクオリティの差というものがあり、どれでも同じではないということも今更知った。そしてデジタルオーディオに対して新たな探求心が湧いてきた。
Constellation audioのPerseusというフォノとの出会い以来、デジタルオーディオと私にはあからさまな距離が出来てしまったように見えた。しかし、それが、かえってデジタルオーディオを客観視できる場所に自分を置くことになり、デジタルの音が、むしろよく分かるようになったかもしれない。そういう視点からStuteを眺めた時、その音は私のペンを奔らせるほど、素晴らしく聞こえた。

ここでも繰り返す疑問だが、満足ゆくサウンドを得るのに、どーして、ここまでの投資が必要なのか?このクロックは常識的には高価すぎる。だが音を聴くと説得され、納得せざるをえない。その品位の高さのため、巧妙に隠されているが、この音には否定し難い凄味が有るようだ。こうなると10MHzのクロックが入るK01などのSACDプレーヤーなら、CH precision D1+C1まで行かなくても、Stuteさえあれば、かなりいい音になるのではないかという予感もする。それなら、そこそこの予算でStuteを活用できる余地はあるのではないか。10MHzを受け付ける良いDACがないと成り立たないアイテムであるがゆえに、Perseusのように、この音なら実は安いなと思うことは流石になかったが、Perseusの音が手元になければ、真剣に導入を考えたに違いない。

実際のデジタルシステムにおいては、
正確無比のクロックが有るという単純な理由だけでは、
音の細部に宿るという小さな神々の気配を耳にすることも
デジタルオーディオの混沌としたノイズの霧を払いのけることも難しい。
この箱には時環軸管理とは別の秘密が隠されているのかもしれない。
だが今のところ我々は、この小さな箱の中に潜む秘密を知らない。
その結果の果実を味わうことだけが、
オーディオファイルに許された唯一の特権なのである。
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Postscript

オーディオの矛盾。
そのひとつは、機材の開発は科学的に行わなければならないが、その最終評価は、非科学的で不確かな人間の官能に頼らなければならないということである。クロックに関する議論は機材から出てくる信号を計測し解析して、その数値の良し悪しを判定すべきだという意見に溢れている。だが、それはオーディオファイルとしての意見ではなく、工学部の学生の意見と私は考えている。これは生物学の視点から見れば理解に苦しむことでもある。人間は脳の中で音声信号を処理している。この脳という、もう一つの秘密の箱の中で行われる音声信号処理、その未知のプロセスについては彼らは何も考えていないように見える。ここでは数字が良ければ良い音というのは成り立たない。計測できる数値が同じでも、同じ音には必ずしも聞こえない可能性がある。我々は、まだ音波というものが最終的に個々の脳の中でいかに処理されるかについて、十分に理解していないという生物学的な視点を常に保持すべきである。

私は以前、ジッターアナライザーを初めとする何種類かの計測機器を揃えた人の家に“音”を聞きに行った。“音”とあえて書いたのは、そこで聞いたものほとんどが音楽ではなく、テストトーンという基準信号であったからだ。そこでDACやクロックなどをブラインドテストさせてもらったのだが、その体験で知ったことは、数値と実際に聞こえる音の印象はパラレルではないということである。
彼はオーディオファイルではなく計測マニアなどと自虐的に自称していた。彼の心にはいつも自分の聴感というものへの猜疑心があり、数値でオーディオ機器の評価をしたがった。彼の指摘はしばしば的を得ていたうえ、私の書く内容についても意外に寛容であり、私にとってはいい人であった。計測の手法の正確ささえ認めてくれれば、何を書いてもいいから聞きに来てくださいと言うほど、大人しい方なのである。しかし、理解しにくい部分もあった。例えば音楽を僅かしか聞かず、テストトーンばかりを聞いていること、DACの扱う信号の精度は疑うが計測器自体の精度を疑っていないこと等。事実、私は彼の隣で“音”を聞いていて常に違和感があった。彼のところでクロックの有無等をブラインドテストで時折、当てて褒められても、私は面白さが分からなかった。計測とかブラインドテストとかいうものを実際やってみると、それはオーディオの楽しさとは似て非なる別世界に見えた。私のオーディオはあくまで音楽を楽しむためにやっていることで、測定値によるアラ探し大会ではなく、クイズの正解率を競うゲームでもない。あそこで満点を取っても音楽が聞けなくては意味がない。
また、その時に聞いた、数字の裏付けがないと、自分が聴いた音の違いを信じられないという彼の言葉はさらに理解しにくかった。これは聴感上、出音に違いがあろうとなかろうと、数字が異なれば自分の見解を修正する可能性を示唆しているように聞こえる。それはリスニングポイントのソファにアナライザーを置き、自分は部屋の外からその数値や波形を確認していれば楽しいという立場なのだろうか。これは音楽を自分の好みのスタイルで楽しもうという私のオーディオ観からは逸脱していた。人間不在のリスニングルームにオーディオという趣味はない。オーディオを耳で楽しめていないから数字に頼るのだろうか。他人のインプレッションはともかく、自分の耳も信じられない人はオーディオなどという趣味に足を突っ込むべきではないとまでは言わなかったが・・・。今、思えば言わなくて良かったのである。彼のやっていることはオーディオではなく、なにか別な趣味だったのだから。

# by pansakuu | 2013-09-11 23:06 | オーディオ機器

YG acoustics Sonja1.2の私的インプレッション:  愛憎の狭間


「深言すれば則ち不遜なるに似たるも、略言すれば則ち事は決せず。」
(はっきりと述べれば、貴兄にとっては不遜に聞こえるかもしれないが、かと言って言葉足らずでは事柄は決着しない)
後漢書 第三冊 列伝一(岩波書店)から光武帝の言葉より

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Introduction


個人的な好みとは明らかにズレるが、いいスピーカーだなと思うことがある。
よくあることじゃない。
自分は決して着ない服だが、
すれ違った他人が着ているの見て素敵だなと思う装いのような、と誰かが言う。
まだ若い音なんだけど、なかなか聞かせてくれるじゃないのと、
思わず笑みがこぼれるスピーカーに出会う。
それは、よくあることじゃない。
設計者本人は、いつもその能力を全開にしてスピーカーを作っているように見える。
いつも全力投球。心地よい、その意気や良しというわけで。
壁際から椅子を引き出してきて、
漆黒のスピーカーの前に足を組んで落ち着いて、
じっと耳を傾ける、小一時間。

YG acoustics Sonja 1.2のサウンドを聞いていると
誰かが私に言った言葉を思い出す。
「万策さんは褒めるのが専門だから・・」
褒めたくなるものなど、むしろ稀、
いいなと思ったものでさえ
多くの場合、現実はこうなのだと書いてやりたい衝動のままに、
キーボードを叩くことに決める。


Exterior and feeling

前のモデルよりも、随分洗練されたものだなと思う。
今回聞いたSonja 1.2、メインモジュール+ウーファーボックスという構成だが、それほど背は高くない。1.3mほどの高さである。前のモデルであるANATⅢ、あるいはSignatureモデルは四角くカッチリした印象があり威圧感があった。一方、今回のSonjaはポルシェデザインの手になる滑らかな曲線に覆われており、威張った感じがかなり減った。まるで性転換したようでさえある。前のモデルは男性的なフォルムであり、Sonjaはその名のとおり女性的な形態である。Sonjaは社長の奥様の御名前だそうである。
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エンクロージャは、見事に切削加工され、ブラックアノダイズされたアルミを組み合わせて形成されている。材どうしの接合部は単純密着されているのではなく、数ミリの隙間をわざと設けて、共振をコントロールしている。芸は細かい。また後面に回らないかぎり材を固定するビスは見えない。金属の棒を貫通させて、後面で集中的に締め上げる構造になっている。美観に対する配慮が際立っている。これも洗練か。
メインモジュール+ウーファーボックスの結合部を連続的に滑らかに仕上げたり、バッフル自体が横から見ると微妙な弧を描くようにしたり、対抗する並行面を減らし、全体に一体感のある末広がりな形に設計したりしているうちに、自然とこの流麗な形状に落ち着いたのではないか、というスピーカーデザインである。とても座りが良く、収まりが良い形になっている。Sonjaの前までは、ANATシリーズはSF映画に出てくる兵器のような印象で、どこか子供っぽかった。Sonjaではそういう部分が全く払拭されている。形については素晴らしい変貌ぶりである。

仮想同軸型、バーティカルツィンの形を取るスパルタンなメインモジュールに中口径ウーファー一発のウーファーボックス組み合わせる、このメーカーのお決まりの手法だが、今回はメインもボックスもパッシブでという仕様にしたようだ。理由は聞いたが、理解はできなかった。それはいい。音で勝負してもらおう。前のウーファーボックスのアクティブ駆動を何故やめるのか分からないが、確かにアクティブはアクティブで電源を二口増設しなくてはならないので導入に躊躇する私のような者もいる。ただ今回はスピーカーケーブルが4本必要なるので、また面倒だが。聞くところによるとシングルワイヤリングの仕様もあり、日本に、その仕様で納入される予定があるそうだ。自分の部屋に入れるなら、そちらになるだろう。なお純銅製のスピーカーケーブルのバインディングポストはオリジナルであり、締め上げやすく、前モデルより明らかに良くなった点の一つだと思う。
なお、このスピーカーは威圧感は確かにないが、奥行はかなりある。64cm近い。この意味では設置にはそれなりの奥行と広がりのある空間が必要とされるだろう。

また、これも伝統のようだが、まともな保護ネットのようなものがない。針金のような棒が一本、各振動板の前に渡されているだけだ。もうこんな針金みたいなものしかないのなら、いっそレイオーディオのスピーカーのようにスピーカーの保護具を全廃してもいいのではないか?転倒するとしても前には倒れないだろうし、この針金は子供よけにはならないことは保障しよう。

それにしてもこのスピーカーの振動板は惚れ惚れする。アルミ合金のスラブからこのような薄い物を切り出そうという発想はゴージャスだ。これができるのなら、アルミから削り出しのヘッドホンのカップなど、重さが気にならないものが出来そうな気がする。MURAMASAをあきらめて、Pandoraを試作しているFinalデザインさんには頑張ってほしいものだ。

ライバルスピーカーと考えられるMagicoのQシリーズと形を比較すると、ほぼ互角な仕上がりだと思う。Sonja 1.2は特殊な構造を持つシステムだが、メインモジュールとウーファーボックスの連続性を重視し、形の細部に対してきちんと詰めている。周到な検討で完璧なフォルムと外観上の質感を身に着けたQシリーズと遜色ない出来だ。


The sound 

姿形よりも音の方は、さらに洗練されたものと聞こえる。
基本的に遊びが全くないリジッドな音なのだが、全体には硬さを感じなくなった。音の硬さが全くなくなったからそう感じるのではない。硬い音の粒子が一層細かくなったのである。非常に緻密で精妙な音の粒立ちであり、鼓膜へのアタリがまことに心地よい。細かい霧のような粒が高速でこちらに吹き込み、降り注いでくるようなフィーリングである。音に重たさも感じない。むしろ軽やかな音である。だが、フワリとしてはいない。細かく硬い音だ。そしてストレートにズドンと来るときは来る音、心胆を震わせる力強さは常にある。芯がある。しかし、それを前面に出してこないところが洗練なのだろう。
もちろん広大なダイナミックレンジを誇る音であり、大音量でも全く腰砕けず、どんな小さな音でも克明に音場に現して、脳裏に刻みこんでくれる。また、高域の果てから低域の底の底まで完全に近い透明度、完全に近いディテールの細密描写で貫かれている。素晴らしく透明感のある音でその透明感の純粋性は前回よりさらに高まっている。細密な微細音の描写は前のモデルより上手く整理され、聞き易い。帯域ごとのつながりはとてもシームレスで上手いネットワークのまとめ方であり、試聴中はフルレンジのように鳴る局面もあった。これは前モデルからの洗練だろう。
ANATシリーズは定位は元々かなり良かったが、その部分はSonjaに踏襲されている。澄んだ音場の中に各楽器の位置が常にピタリと決まる。その描写は前モデルと同じく立体的であり、3Dのように飛び出して聞こえることがある。この抜群の透明感を伴う音のリアリティは痺れるレベルである。ただし、音調全体に落ち着きがあるので音の立体感にほどほどの品位があり、こちらに3Dの彫像が襲い掛かってくるような妙な圧力は感じなくて済む。

完全なトランスデュサーを目指して開発されたと聞こえる、このSonja 1.2は全体としては素晴らしい出来栄えであり、このメーカーがいままで作ったスピーカーの中で最も優れた音作り、まとめ方がなされたものであると思う。値段さえなければ、多くのオーディオファイルに自信をもってお奨めできるスピーカーだが、まだ音の上で完璧だとは言わないことにしよう、敢えて。

例えばアナログオーディオを送り出しにすると、その音の遊びの無さが発揮され、アナログ特有の膨らみ感が削がれて聞こえるような気がするのは、必ずしも良い話ではない。ここで馥郁たるアナログオーディオの味わいがどこか若やいでしまうのが、このスピーカーの癖、このメーカーの癖だろう。とにかくKtemaなどのスピーカーが有するような好ましく偉大なキャラクターのようなものは皆無なのである。Sonjaは無色透明、無味無臭をとりあえず志向する。音質上での音の純度は極め付けに高い。だが、音楽的な純度はどうだろう。当然低くない。とはいえ音楽の内面的な描写、演奏者の感興を増幅して表現するような振る舞いが感じられず、誇張がないというよりは、淡々とした音という部分がある。ANATシリーズの端くれらしいモニターライクな傾向であり、音楽性という意味では、かなり改善されたとはいえ、まだ相変わらず弱いと思う。このスピーカーは音を正確に細大漏らさず伝えるが、まだ抑揚豊かに歌っているところを私に見せていない。ないものねだりなのだろうと私は思っている。こういう方向性を求めるとSonja 1.2は物足りない。

個人的には全体の印象はいいのだが、高域の触感に硬さが残る気がする。細やかな硬さというのか。この微妙なチクチクした感触が私は苦手だ。これは私だけが感じるものかもしれない。あるいは、これは私の聴いた個体だけで感じるのかもしれないし、勿論高い要求レベルでのクレームである。これは私の好きなダイヤモンドツィーターや良くできたリボンツィーターの高域との比較で感じることなのである。当然エージングにより、これが徐々にほぐれてゆく可能性もあるが、これがツィーターそのものでなく、エンクロージャー等に関連している可能性はある。もしそうならダイヤモンドツィーターのような柔軟性と力感、スケール感を併せ持つような高域は結局は望めないかもしれない。つまり、ウーファーはそこそこいいのだがツィーターに改良の余地を感じるのである。でも、ウーファーも完璧とまでいかない。低域もちょっと硬いぞと言えば確かにそうだ。こういう低域は緩くて少しボンつくような低域で悩んでいる人にとっては理想かもしれないが、実際、この低域の触感は飽きると思う。また、こういう余裕のない低域は、店頭でのアピール度は高いが、自分の家で長時間聞くと確実に疲れる。もっとも、以前のモデルでは全帯域でそういう硬質感をほのかに感じていたので、かなり良くなったと言えるのだが。

とはいえ、こうして聞いているとYGの音はもともと苦手だったが、許せる範囲になってきたかもしれないとつくづく思う。進化するたびに少しづつ私の好みに合わせ込まれているような気分だ。私にとって足りない要素はまだ残るが、この音を無視することはもうできない。今回はもう降参すべきだ。それほどまでに音の完成度を高めてきている。しかし、YGの音の方向性において、これが究極のYGサウンドだと意地でも思いたくない。例えばAvaronのようにDiamonndという傑作スピーカーがあったりして、これがこのメーカーの究極だ! と思わせる到達点を見つけることがある。YGは実はまだそういうものを作っていないと私は感じている。つまり、まだ“若い音”と私の中では判定される。究極を印象付ける傑作をいくつも作れば、若さの対極にある老獪を通り越して、妖怪じみた雰囲気をもまとうオーディオ界の“人物”になれるのかもしれない。ダン ダゴスティーノやジョン カール、マーク レビンソン、ネルソン パス、ディヴィット・ウィルソン・・・・。彼らはハイエンドオーディオ界の風景のひとつひとつであり、居なくなっても銅像くらいは残る人たちだ。そういう殿堂入りはもう少し先だとYGには言いたい。だが、この音は私の感性を走らせる音になっている。それは全く確かなのだ。
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Sonjaの比較対象としては、やはりMagicoのスピーカーだろう。同じイスラエル出身者が作ったスピーカー。イスラエルという国には、この手の理屈っぽいスピーカーを生み出す素地があるのだろう。音だけで素直に比較するとMagicoのQ3あたりが最も良きライバルではないか。だが値段が違う。Q3はSonjaよりも安い。というかSonjaが高価すぎる。しかし、音はかなり似た部分があり、質としても甲乙つけがたい。Sonjaの方は音が前に出てくるような積極的な振る舞いもあり、その部分はとても好ましい。Q3はスピーカーの前に結界があるかのように、決してある線からリスナー側に音が張り出してこないように聞こえる。だから、かなり大人しい音と感じられ、つまらないが、エージングなしでも各帯域には質感の癖のようなものはほとんど感じられなかった。トランスデュサーとしてはより完璧に近いと見た。
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私がどちらかを買うなら、価格を考えなければSonjaになる。音が此方に飛んでこないのは困るからだ。だが価格を考えた場合は悩んでQ3にする。価格差をアンプに注ぎ込むのである。
この価格差は金属製のエンクロージャーを自社工場で作るか否かとか、そういう製造コストの問題なのだろうか?それとも純粋に注ぎこまれる技術や物量の差なのか?SonjaはMagicoの高価なQシリーズと比較しても、やはり高価すぎる印象は拭えない。


Summary

「いいサッカーをした方が必ず勝つわけではない。」
チェルシーのフェルナンド・ホセ・トーレスがインタビューで言っていたのだが、これはYGやMagicoのスピーカーの弱点を突いた言葉に聞こえる。この手の理詰めのスピーカー作りというのは、上手くすれば針で突いたほどの隙もない鉄壁のサウンドを実現する。そのスピーカーは瑕疵のない完璧さで音を捉え、放射してくれるが、その微視的な完璧さゆえに音楽全体の流れや人間臭い曖昧さの表現を置き去りにしてしまうことがある。スピーカーは機械であるが、そこから出てくる音を聴くのは弱い人間である。完璧からは程遠い存在である私には時に完全を目指したサウンドが辛く感じられることもある。
しかし、そのような弱点とも言える雰囲気もメーカーが成熟するに従い、雲散霧消していくことがある。ウィルソンオーディオはSystem5を作って意気揚々としていたころに比べれば、明らかに勢いはないが、音は熟した。大人になった。Alexiaを聞いていると感慨深い。YGもMagicoもスピーカーを作り続けるなら、いつかああいう、どこか枯れてオーソドックスな音になってゆくかもしれない。特に、ここで取り上げたYGのSonjaにはその兆しを感じる。

なお、蛇足であるが、
YGのこのスピーカーシリーズは、オーディオファイルに特徴的な言動が気になったシリーズでもある。このシリーズは同じような形のもので次々に新型が発売され、価格も上がって行った。確かに良いスピーカー、人気のあるスピーカーだからそういうことができるのだが、新型が出るたびに前のモデルは、まだここが良くなかったなどと、評論家の方やオーナーさんたちが言うのが私には分からなかった。前のモデルを購入時にあれほど絶賛していたにも関わらず、である。よくあることだが YGでは特に気になった。。好意的な見方として、YGのスピーカーのオーナーさんたちの耳も設計者もスピーカーも代替わりのたびに成長しているということにしておいてもよい。それなら前より今がいいというのは格好良く説明できる。
だが、どういう言い訳をしたところで、離婚した相手をクサすのはその人を選んだ自分をクサしていることになることになると思う。クレームを全てが終わった後から言うのは日本人の悪い癖だとアメリカ人に言われたこともある。そういう相手は始めから褒めるだけにはしないし、結婚もしないのが身のためだと私は思う。だから私はこのSonjaが完璧で完成形なのだとはそういう意味でも言いたくない。まだこの先、優れたニューモデルが出ると思って様子を見ている方が身のためだと思っている。

正直、YGが一番、”らしい”スピーカーを作ったのはANATⅢの時だったと思う。あの削り出された振動板は衝撃的だった。あれもやはり完成形ではないし、スピーカー全体としてはSonjaの方が明らかに良くできているが、若いメーカーの持つ勢いが明確な形で結実していて感心した。尊敬もした。今でもANATⅢを初聴したときの感動は忘れない。もちろん自分個人の嗜好としては、全く共感しない方向性の音であったため、音無しの構えを取っていたが。

仕方ない。
個人的な好みとはズレるけれど、いいスピーカーだなと思うことがある。
よくあることじゃない。
YGのSonja1.2はまさにそういうスピーカー。
美辞麗句で褒めそやすのも一興だが、その言葉は忘れられやすい。
赤裸々な直言は耳に痛くとも、心に残るはず。
褒めるばかりが能じゃないと、
こういうモノを取り上げてみたかった。
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愛憎相半ばする。
実は、これこそが大概のオーディオ機器に対する
偽らざる私の態度なのである。

# by pansakuu | 2013-08-31 19:09 | オーディオ機器

黄昏のハイエンドオーディオ:自滅と救済


「ところで、話は難しいのだけれど、ひとついいたいことがあるんですがいいかな」

これから書く話は面白い話ではない。
むしろ“難しい”話である。
不適切な表現、思い過ごしや嘘も含まれるだろう。
無駄な議論に加わらないようにするため、
定義をぼかした言葉をあえて使うかもしれない。
なにしろ“難しい”話なのである。

あるオーディオ雑誌の2013年 冬号に載った、評論家の方のコメントが、私の中にずっと突き刺さっている。

「最近のオーディオ機器は少々高すぎるところがあるように感じるんです。(中略)
やはり高い。普通の人たちが一生懸命に頑張れば買えるような製品に、いいものがもっと増えてくれないと、本当のオーディオ好きがついていけなくなってしまう」

確かに件(くだん)の評論家の方が、この発言に前後して650万円のアナログプレーヤーを購入したことを思う時、この発言内容に若干の違和感を覚えるのは私だけではないだろう。しかし、かく言う私もAir force Oneのほぼ半額に過ぎないが、350万円もする高価なフォノイコライザーを買ってしまっている。つまり生粋のオーディオファイルにはこのような側面がある。気に入ったオーディオ機器に関しては、価格を度外視し、音楽しか聞けない装置に支出できる限界を忘れることを志向し続ける。私のような人間はそうやって常識から離れ堕落していけばよい。だが、そういう少数の極道だけで、ハイエンドオーディオ界全体を支え続けることはできないと思うし、盛り上げるというレベルにいたっては不可能とさえ思える。

私がハイエンドオーディオの機器に高価なものが増えてきたという意識を明確に持つに至ったのは、GoldmundがTELOS5000というパワーアンプを開発し、2008年の東京インターナショナルオーディオショウで披露した時である。私はそのデモに立ち会った。詳しくは述べないが、一言で言えば大変に凄い音が出ていた。万人が良い音と感じるかどうかは別にして、驚異的な音であった。一方、値段を見るとやはりというか、富豪向きの価格であった。3990万円。モノラルパワーアンプ一組だけで、3990万円である。ローンで家を郊外に買ってカツカツで暮らしているような日本人サラリーマンにはまるで買えない金額である。もともとGoldmundのUlitimateラインは元来ケタ外れに高価なのだが、このTELOS5000は、その遥か上をゆく価格設定であった。
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私がこれについて思ったのは、良かれ悪しかれ、こういう音の世界を大勢のオーディオファイルが知っていて損はないだろうとか、そしてこういう音の片鱗を家庭で楽しめれば、幸せだろうとか、そんなことではなかった。問題は音ではない。この価格でも売れてしまったことだ。(日本でも売れた。)つまり音さえ圧倒的に良ければ、どんな値付けのものを作っても売れるということをメーカーに分からせてしまった、実績を作ってしまったということが問題のように思えた。こういう富豪向けのビジネスモデルが成功すると知れわたったのち、一部のメーカーがそういう方向性へ製品開発の舵を切ることは予想できた。案の定、いくつかのメーカーが、それまでの最高級ラインのさらに上のラインを新設しはじめていた。TELOS5000ほど高価ではないが、製品の基本構成は変えず、細部を高級化した機材も増えてきた。無論、こういう傾向はレトロスペクティブに見ればTELOS5000の発売以前からあった。世界中にグローバルに活動する富豪たち、超富裕層が散在し、その数を増やしてきたことに呼応する動きだったのである。
TELOS5000は、オーディオの世界で目立ち始めた富豪向けビジネスの一つに過ぎなかった。
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普通の人たちにオーディオ機器の値段の話をすると、それなら車が買えるね、と言われ奇異の目で見られることはオーディオを長くやっていると、誰しも一度は経験があろう。しかし、クルマと一口に言っても、何を指すのか。極端な話をすれば、現代には3億円でも買えない車がある。ランボルギーニのVenenoである。1億円オーバーの車ならば、マクラーレン、ブガッティ、ケーニグゼグ、アストンマーチン、フェラーリなど各社から発売されている。隆盛しつつある富豪向けのビジネス、それは他の世界のおとぎ話であると思っていたが、これほど目立つようになると、それに煽られる他業種のメーカーも、一般の消費者も実は少なくないかもしれない。

私の中での問題、それは富豪向けの価格帯の機器、普通のオーディオファイルにとって完全に絶望的な値付けの機材が増えて困るということではない。むしろ中途半端に高価なものが増えたということである。具体的には単体で400万、500万、600万円台という機材の増加である。これはスピーカーとパワーアンプにおいては10年ほど前から認められる傾向である。またケーブルに関してはワンペア100万円オーバーのスーパーハイエンドの製品が散見されるようになったのも、ここ10年くらいのことだと思う。PADのDOMINUSシリーズが先鞭をつけたものだ。これらは富豪向けの価格帯の機材の増加に煽られた製品開発によるもののようにも私には思える。

アンプやスピーカーについては、以前は500万円近辺の価格帯が事実上の最上位であり、セカンドベストとして300万円台という位置付けだったように思う。その上の価格帯の機器、すなわち800万円~1000万円台の機器は以前はかなり少なかったのに、最近、このレンジの機器が海外のオーディオショウなどで目立つようになったように思う。住宅事情等があり、日本にはあまり輸入されておらず、ステレオサウンドでも取り上げないのであまり知られていないかもしれないが、超弩級と呼ばれるアンプやスピーカーがその数を増やしているのではないか。海外のショウの写真を見ているとそう感じられる。そういう超高価な製品の増加の結果、相対的に500万円台がセカンドベストに下がってしまったような感じがある。そもそも単体で400~500万円というのは普通のオーディオマニアが頑張って買うか買わないかの境界である。ここを越えれば購入をかなり躊躇せざるをえないというか、実際、多少の貯金があってもあきらめる金額だと思う。こういう状況で、仮に頑張って400~500万円台の機材を導入しても、さらに上があると知っていれば、どこか落ち着かないだろう。500万円を払っても心の平安は訪れないかもしれないということである。300万円台でもかなり頑張っているつもりの人はなおさらかもしれない。高価なケーブルに関してはワンペア200万を超えるインターコネクトは完全に富豪向けビジネスに煽られているというか、富豪向けの商売そのものと言わざるを得ないが、500万のアンプよりも絶望的な価格ではないので、物好きというか、一点豪華主義で買う一般人もいるようだ。面白い。

なお、金額的にはそれほど高くないところなのだが、高級CDプレーヤー、SACDプレーヤー、DACの値段が、ここ10年で軒並み100万円、200万円以上アップしていることも見逃せない。10年前はdcsの最高級システムは400万円台であった。今は1000万円台である。海外の高級なシルバーディスクプレーヤーの価格の高騰はもしかするとアンプやスピーカーを上回るのかもしれない。それでいて過去の製品より、値上がりした全ての製品、より高価な最近の全ての製品の音質が良くなったと言い切れるか?
これ以上は言うまい。

では、実際、どうなのだろう。
試みに2003年のステレオサウンドベストバイと2012年のステレオサウンドベストバイに載った機種数とその価格を簡単に比較してみよう。(ざっくりやっているので細かい数字は間違いがあるかもしれない。あくまで傾向の把握のためにやっている)
例えば、160万円以上の価格帯のスピーカーシステムにおいて。
400万円オーバーのスピーカーは2003年には11機種、2012年は6増えて17機種取り上げられていた。やはり高価なものが増えた印象を受ける。
また、200万円以上の価格帯のパワーアンプにおいて、400万円オーバーのアンプは2003年は8機種、2012年は3増えて11機種取り上げられていた。
さらに、100万円以上の価格帯のデジタルディスクプレーヤーにおいては、200万円オーバーのプレーヤーは2003年は4機種、2012年は何と10増えて14機種取り上げられているのである。PCオーディオの普及によりデジタルプレーヤー離れが急速に進む中で、プレーヤーの価格は逆に著しく上昇している気配である。デジタルディスクプレーヤーについては中古買い取り価格も最近は驚くほど低く、したがって中古価格も安いので、これではますます新品は売れなくなるのではないかと思う。
加えて、フォノカートリッジ。30万円オーバーのものは2003年には5機種、2012年は6も増えて11機種が取り上げられている。カートはアナログに欠くことのできない要素だが、アナログオーディオも高騰している部分はあるということだろう。
もちろん、大変に大雑把で一面的な捉え方、調べ方なのだが、こういう結果を見ると、やはり約10年の間にオーディオ機器のいくつかの分野で価格が高騰しているらしいというイメージは湧く。
なおプリメインアンプやフォノイコライザー、アナログプレーヤーについては2003年のステレオサウンドベストバイと2012年のステレオサウンドベストバイの差はあまりなく、プリアンプに至っては、むしろ若干安い製品が増えているようである。どの分野もそうなっているとする根拠はないらしい。ただ、アナログプレーヤーについては海外に多数ある超弩級ターンテーブルが日本にほとんど輸入されていないことを考えると本当に据え置きになっているのか分からない。

そういう高価なモノの話をしていると誰かが諺(ことわざ)めいたセリフを吐くものだ。
「足るを知る」とは言うが、だいたい、足るを知っていたなら、オーディオなどという趣味に足を突っ込んだりしないだろう。いつも上を見て、前進するというのがハイエンドオーディオの宿命である。確かに500万円台の機材増えてきたのに、それが買えないからといって、やる気をなくすことはないだろうが、なにかハイエンドオーディオの滋味の真髄が自分の手の届かない場所へ離れてゆくような、どんどん遠くに行ってしまうような気がして、いたたまれないのは間違いない。

Air Force OneやVivaldiシステムが聴かせる音の隔絶した素晴らしさはハイエンドオーディオならではのものである。この音の快楽が世界からなくなって欲しくない以上に、あまりに遠いものになってほしくないという思いが私には強い。金持ちは不滅だから、ハイエンドオーディオも不滅かもしれないが、多くの機材が手の届かないほど遠い存在になってしまうことは問題である。だが、これはもう現実に起きている。10年前、20年前にはこれほど高価な機器が多いという印象はなかった。こういう価格設定の変化が影響してか、あるいは他の要素か、一般のオーディオファイルの活動が、もしかすると鈍らされているのではと疑う節もある。

インターネットを見渡すと、単体で200万円を超える機材について実際のユーザーから発信される情報は、リーマンショック以降から既に少なくなっており、政権が代わった最近になっても回復しないどころか、未だ寂しい状況と見える。単体500万円を超えるアンプなどのレビューとなると本当に少ない。また、原因は様々と思うが、有名なオーディオのブログもいくつかは閉鎖されたり、開店休業状態におちいったりしている。これもやはりここ数年のことのようである。一方で、その代替となるハイエンドオーディオに関する活発なレビュー活動や訪問試聴やオフ会を催す、新たなブログはほとんど現れていないように見える。ハイエンドオーディオとは関連が薄いヘッドホンに関するブログやレビューは一時、非常に活発で盛り上がっていたが、それらのブログさえ最近は明らかに更新の勢いが鈍っている。つまり全体に低いところで安定、沈静化している印象なのである。日本全国におけるオーディオのHPどうしのリンクもハイエンドオーディオのユーザーどうしの個人的つながりもほぼ固定化しつつあり、流動的な要素がやや減っているように思われる。さらに、SACDの長期的な凋落傾向が顕著な例であるが、オーディオをやる動機となる音楽自体が売れていないという世の中の傾向もオーディオをやろうという機運をさらに盛り下げる。ついでに言えば、オーディオファイルが使う音源の固定化も私には寂しい。本当にクラシックとJAZZだけ聞いていて面白いのか?私にはそうは思えない。そうは言っても、若い人に人気がある新しい音楽としての、アニソンやラップやJpopが、それらの古典的なオーディオファイルご用達の大人音楽の世界を侵食するような、音の良さを発揮していないのも寂しい。
さらに深い視点に立てば、私の周辺に感じられるオーディオの長期的な凋落傾向の深層には、バブル的な購買心理の消失よりも日本人の高齢化と人口減少が影を落としているように思える。これは日本のオーディオの凋落というより、日本の凋落というべきなのかもしれない。

ハイエンドオーディオというものは現在、黄昏(たそがれ)の時代に入りつつあるように私には思われてならない。少なくとも日本にいるとそう感じる。その要因のひとつにハイエンドオーディオ機器の価格の高騰というのが、やはりあると思う。しかし、これはハイエンドオーディオという趣味がマークレビンソンらの手によりアメリカで誕生し、趣味として確立された時から運命付けられていたことなのかもしれない。そもそもハイエンドオーディオの定義とは先述した評論家の方が言うように、音楽再生への「こころざしの高さ」を意味するものである。高価であることを意味するのではない。しかし、これは同時に高価であることを否定しない意味であることを忘れてはいけない。ここでは音楽再生への「こころざしの高さ」を実現するためなら、どのような対価も厭わない勢いが見え隠れする。この隠れた勢いによって、ハイエンドオーディオは必然的に高価となり、高価となるにつれて多くの人の手から離れた遠い存在に変わっていったように思われる。こう考えればハイエンドオーディオは成熟するにつれ、自滅する運命にあったと言えるのではないか。

オーディオの風景を形作るのは錚々たるスピーカーやアンプではない。あくまでそれを使いこなす人の姿である。無人の荒野、無人の峰々。オーディオの美を堪能する主体である人間がいない場所に、実はオーディオという趣味はなく、空洞が拡がっているだけである。このように空洞化してゆくハイエンドオーディオには未来はないかもしれない。退廃的な考えだが、ここでの問題は長い黄昏時にいかに美しい花を咲かせるか、いかに美しく滅びるかにかかっているのではないだろうか。富豪オーディオに奔(はし)る一部のメーカーも、その影響に煽られる他のメーカーもユーザーたちも、その耽美的な自滅への貢献として考えれば、腹も立たない。この黄昏状態が価格の高騰によるものだけではないということを思えば尚更、それに対して怒る気分にもならないのである。

オーディオという趣味を山に喩えてみる。
オーディオという山の成長は止まっていない。本物の山脈と同じく少しずつ高くなる。プレートテクトニクスという言葉はもう古いが、地形も実は変化し続けるものなのである。だから頂上も徐々に高くなる。こうしてハイエンドオーディオと呼ばれる頂上付近の領域、その周辺の空気は山が高くなるにつれ薄くなってゆき、そこに到達できる人の数は少なくなってゆく。

私個人は、いまだに山を登っているのだが、だんだん日が暮れてきて、周りに一緒に頂上を目指す人が少なくなってきたように思う。しかも、まだ上っている人はベテランの、というか高齢のお金持ちの人ばかりになってきていている。ベテランたちのなかにはいくつかのパーティを作って登る人も見受けられるが、そのパーティの数も増えていないようだ。
一方、自分よりも若い人が後から登ってくるのを見ることが少なくなった。彼らは下の方に留まって登ることを考えなくなったり、時には下山したりしている。またヘッドホン・イヤホン山というもっと低い山(というか丘)に上がって、頂上に大勢たむろしている様子も、ここからはよく見える。

山の中腹の売店では少しチャチなPCオーディオ機器やお馴染みのタイトルばかりのハイレゾ、DSDデータを売る者あり、裏道の登山道の途中でヴィンテージのウエスタンやクォードやJBLを並べて渋い商売をしている露店もあり、それなりに面白くはあるが、いくつかある頂上へ向かうルートが閑散としつつあるのは変わらない。

また、頂上付近では富豪と呼ばれる人が、ヘリコプターでてっぺんに舞い降り、悠々とお茶をしてから、また別の頂上目がけて飛び去ってゆくという荒業(あらわざ)も時に目にする。ベテランのオーディオファイルたちは無言で、それを軽蔑する。オーディオは過程を楽しむことも大事なんです、高価なオーディオが、必ずしもいい音とは限りませんよね、とかなんとか。とにかく、なにか言いたげに互いに目配せするのである。私は返事に困って、自分でも意味不明な微笑で返す。

そんなこんなで、まだまだ賑やかな山々ではあるが、確実に黄昏は忍び寄っている。人影は徐々に疎らになっている。登山者たちは老いてゆく。老兵は消え去るのみ、そして補充人員は稀だ。この状況を思わないのは鈍感か、あるいはそちらに目を向けないようにして登山しているかどちらかである。現実を受け入れるか、受け入れないか、これはたかが趣味であるからして、個人の勝手である。もしそうなら、どうせ自滅するなら、とことんまで美しく滅びたいと投げやりに言い放つのも勝手であるはず。誰が悪いわけでもない。以前からそういう流れだったのに気付かなかっただけだ。
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救済もないことはない。
まだハイエンドオーディオは売れないと決まったわけではない。CH precisionのD1というSACDプレーヤーはあれだけ高価であるにもかかわらず日本で売れている。この調子なら日本国内で100台近くが稼働することになるであろう。まだまだ、多くの人が最上級のサウンドを愉しみたいと欲し、相応の対価(?)を支払うのである。やはり、購買層は高齢者に偏っているが、逆に考えれば日本国内のD1の多くは、中古として今後10年のうちに日本中のセカンドオーナー、サードオーナーへと比較的手頃な価格で拡散してゆく運命にあるとも言える。この最高級単体プレーヤーのオーナー経験者が、時間をかけて倍々に増えていくことは日本のハイエンドオーディオのレベルの底上げに寄与するはず。この高価なプレーヤーがこれほどの台数売れたことに明るい救済の光をひとまず見出すし、ドライブメカが壊れず、ディスプレイも無傷のままに、多くの人のもとへ、この素晴らしいプレーヤーが届いて欲しいとも願う。
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そして例のDevialetである。ハイエンドオーディオはもうDevialetの時代だと言った人がいる。この極めて多機能でコンパクトでスタイリッシュ、しかしハイエンドオーディオとしてそれほど高価とは言えないDAC付のインテグレーテッドアンプD-Premierから出てくる音は、現代最高級のサウンドではないにしても、一般のオーディオファイルが苦労して行き着く水準はポン置きで軽々とクリアーしているように聞こえる。このようなオールインワンに近い優秀なオーディオ機材が、多数の重たい筐体を連ねて、やっとのことで音を出す、旧来の物量投入型のオーディオを駆逐するかもしれない兆しは、新たな時代の到来とも取れる。このDevialetのアンプは美しく小さく、コストパフォーマンスの高いオーディオを、シンプルなインテリアに組み込みたいという新たなオーディオファンを増やすにちがいないし、また重厚長大なオーディオに飽きたベテランのセカンドシテムとして強くアピールすることだろう。Wadiaからも類似した製品wadia intuition 01が出て来ていることもあり、これから盛り上がる分野かもしれないと期待は高まる。
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PCオーディオの隆盛も明るい材料と言えるのかもしれない。10年前のステレオサウンド誌が手元にあるがPCオーディオを思わせる話題は全く載っていない。これは新しい動きなのである。手持ちのPCとDACをUSBケーブルで接続すれば、高額なCDプレーヤーに勝る音質を気軽に実現できるというキャッチに煽られ、老若男女がこのPCオーディオに挑戦している。日本人は一般にネット上では懐疑の罵声を上げるのだが、結局は煽られやすい。確かに手軽に便利に、そこそこの高音質を与えてくれる安価な手段であり、コストパフォーマンスは高い。自作PCでゲームやアニソンを楽しんでいたオーディオに関心を持たない若い人たちと、オーディオを安く再開したいと願う定年後の団塊世代が、オーディオという趣味に走るきっかけとなった。ただ、このオーディオの様式にはオーディオについての知識以上にPCに関する知識を要求する側面があり、オーディオをやっているのかPCをいじっているだけなのか、分からなくなるところがあって困るが、とにかく多くのオーディオに無関心な層を、オーディオという趣味の内部へ引き込む役割をしたように見えることは特筆に値する功績である。
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特にPCオーディオに関しては明るい材料というだけでなく、従来のパッケージメディアに依存したオーディオ観を突き崩すかのような勢いを感じる。これは救済の名を借りた破壊なのかもしれない。アドルノは「誤謬に満ちた世界で未来像を描いたところで、それは曖昧な代物に過ぎない。建設に先立つ行為は現状では破壊の他にはない」と言ったが、PCオーディオが破壊する旧いオーディオの概念の残骸の上に何かが建設されるというのだろうか。黄昏の向こうにある夜を越えて我々が耳にするオーディオがあるとしたら、それはどのようなものだろう・・・。

こうして拾い上げた明るい欠片たちは、ハイエンドオーディオそのものから派生したものではないという点では共通している。外から来て、ハイエンドオーディオに影響を与えているモノたちである。残念ながらハイエンドオーディオ自体が内部から変わる兆しは感じない。こうなると、私としてはDevialetはむしろハイエンドの凄味みたいなものに染まらないで欲しいし、PCオーディオはオーディオオタクの趣味というよりパソコンオタクの余技のようなものであって欲しいと思う。ハイエンドオーディオの底なし沼に落ちたが最後、滅亡の道を辿りかねないからだ。
道連れは我々のみでよい。

こうして、いろいろと私的な御託を並べてみたが、永遠と見誤るほど長く甘美な黄昏を味わい続けることは至福そのものである、という私個人の立場、結論に変わりない。これは「ベニスに死す」というヴィスコンティの映画をスローで流している、そんなイメージに近い。昔、この映画をはじめて見たとき、ラストシーンがいつまでも続いて欲しいと願ったことが思い出される。これは醜悪が美を求め焦がれて自滅する映画である。

映画はいつか終わる。
だが、オーディオという趣味は映画ではない。
筋書きはなく、実はラストシーンもないのである。
この世界に富豪たちが増えてゆくかぎり、
ハイエンドオーディオの機器は
どんどん遠い存在となる宿命なのかもしれないが、
オーディオという趣味自体は終わらないはずだ。

これは確かに“難しい”話だが、
過度の心配はしないようにしている。
なにが起ころうとも、
オーディオファイルであることを捨てられない私は、
なにが起ころうとも、
ハイエンドオーディオの行方を追い続けることになるだろう。
ただ、ひたむきに追い続ける所存。
この耳が聞こえるかぎり、
黄昏の果てまでも。

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# by pansakuu | 2013-08-24 22:08 | その他

8月の現状:或るオーディオファイルへの私信


「あなたは楽しみながら夢を追いかけているか。(中略)
自分が1番楽しいと思うことは何なのかを知るには、
幸せというものが何なのかを知る必要がある。
今自分がやっていることに対して、
なぜそれをやっているのかを問う。
夢に向かって正しい選択をしているのか、
それともただあきらめるのか。
自らに言えることは、ただ一つ。
今やめるのはよくない、とにかくやり続けることだ。」
(Wax Poetics JAPAN:Re:DiscovaryのPrefaceより)

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昨夜、蝉が羽化するのを見ました。
木の幹につかまってジッとしていた飴色の幼虫の背中が割れ、
緑がかった白さ、透明な白さをもつ蝉の体が音もなく姿を現しました。
それはやがて透き通った翅を伸ばし、ステンドクラスの枠のような繊細な血管に
黒い血液を行き渡らせました。
私は頬杖をついてジッとそれを見つめていいました。
あれは自然を取り上げたテレビ番組の映像で見る感覚とは全く違っています。
過去を映しだした映像ではなく、精巧に作出された3DのCGでもなく、
揺るぎなき基底現実です。
変身してゆく本物の生命体を触れもせず、ただ眺めていました。

幼虫が幹を上るのを止めてから、2時間ほどが過ぎ、
乾いて色づいたピカピカの蝉を窓から放したら、
私はオーディオシステムの前に戻りました。
そして、サイドテーブルに載せてあったLondon Grammarのシングルレコードを取り、セッテングして間もないThales TTT compactとConstellationのPerseusに向かいます。
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新しいターンテーブルとフォノイコライザー、カートリッジのコンビネーションが織りなす出音にも少しは慣れてきたつもりなのですが、未だに音質の底が見えてこないのには内心驚いている次第です。
いままでは、どんな機材にしろ、自分の部屋で数日鳴らしっぱなしにしていれば、
大体こういう音だな、と大まかな傾向は把握できたものです。
その後、年単位でエージングを進めても、最初の印象から大きく外れた音が出てくることはまずない。
つまり、一日を目一杯使うつもりがあれば、数日でオーディオ機器の音の全貌に近いものが見えてくるものだと私は考えていました。
でも今回は勝手が違う。もう一週間ほど聞いているのですが、
ここにあるアナログシステムの出音には底がない、というか、底がまだ見えないのです。
特にジョン カールの造ったフォノイコライザー Perseusの方に、その感が強い。20代のミッハ フーバが創り出したTTT compactも素晴らしいのですが、こちらは数回の試聴で聞けた範囲をほぼ逸脱しない音が出ていると思います。このターンテーブルの音については自分のものになってきているようです。これは他のフォノを持ちこんで比較して聞いているので分かります。しかし、ターンテーブルの信号を受ける、カリファルニア生まれのフォノイコライザーの方は別格ですね。まだ得体が知れません。でも意外ですが、鳴らしつづけるにつれて、音が成長しているというわけではなさそうです。時間をかけて聞くにつれて、印象が変わるわけでもないからです。確かに、以前書いたような音が聞こえています。しかし、まだまだ言い尽くせていない音のフューチャーがあるようです。今は、なにかとても大きな全体像を持つもの、天体のようなものを眺めているようなイメージが出てきています。相手は変わらず、動きもしないのですが、こちらがその全貌を一度に呑み込めないほど、大きな総体を持つ音なのです。これは、まるで夜空にある星の集まりのようでもありますね。目の前に明白に存在するが、手を伸ばしても掴めず、一度に全てを視界に収めることは難しい。これぞコンステレーション=星座というブランド名の意味するところなのでしょうか。とにかく良い意味で分からない音、掴めない音です。もちろん、コンステレーションオーディオの他のアンプでも、ここまでの感じはないのです。少なくともパフォーマンスシリーズのアンプについては音の傾向の把握は比較的容易でした。
やはり、このフォノだけが異なる印象です。
結局、この違い、造った人間の違いでしょう。
マークレビンソンとのつながりを軸として、
良きライバル関係にあったと思われるトム コランジェロ亡き後も、
ハイエンドオーディオを創始した設計者の一人として活躍し続けるジョン カール。
今は亡きライバルへの手向けとして、自らの矜持を示したフォノイコライザーが
Perseusであるというストーリーは深読みしすぎでしょうか。
そして、これほどの音を聞かせることからして、
Constellation audioは現在、一番旬のハイエンドオーディオなのでしょうか。
この勢いはGoldmundがMimesisシリーズを発表し、
知名度を急激に上げてきたときの威勢を彷彿とさせます。
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とはいえ、このフォノの出音、見方によっては一定の音質傾向があるわけではない。温度感は高くもなく低くもなく。音像は大きくも小さくもなく。サウンドステージも広すぎも狭すぎもしない。解像度は低くありませんが、その高さを誇示する風もなく。太筆書きでダイナミックにトメ、ハラい、ハネることもあれば、透き通る細密な質感描写を重ねて、スタティックな一枚の絵を見せてくれることもあり。優秀なデジタルオーディオのように高い解像力を発揮し、キリキリと小さく締めたボーカルの口元でオーディオファイルを満足させようなんていう幼稚な感じはありませんが、緩めでゆったりしたアナログらしい膨らみでリラックスさせるわけでない。しかし、こうして列挙するとただ全てが中庸なだけのつまらない音と誤解されるからいけないですね。中庸な出音の中に値段に見合う、いやひょっとすると値段以上のクオリティを惜しみなく披露してくれるゴージャスなフォノであると断言しておきます。最先端のアナログ再生に挑戦したい方は、プライスタグに関わらず買って損にはならないはず。

とっかかりとして、音質上の小さなメリットから挙げるとしましょう。このアナログシステムの音は小音量でも腰砕けないし、埋もれない音です。繰り返し言いますがノイズがとても少ない。音量を下げても、しっかりした芯のある生き生きとした音。深夜にかなり小さなボリュウムにまで落としても、トーンコントロールなどを考えずに余裕で聞けます。
(このフォノは高域と低域にイコライザーがついていますから、トーンコントロールみたいなことが実はできるのです。)
また、フォノの出力をヘッドホンにつないでデジタルオーディオの場合と似たような音質で音楽を楽しめるようになったのも嬉しいことです。
実は、今まで聞いたフォノイコライザーのほとんどはヘッドホンアンプに直結すると、悲しいくらいノイズだらけで聞きにくいものでした。塵や静電気を丁寧に取り除いた新しい盤でさえそうです。ヘッドホンシステムは送り出しの音質を細かく覗ける拡大鏡のようなものですから、スピーカーで聞く限りは目立たないノイズでも、ヘッドホンを通すとかなり耳に付きやすくなってしまうからです。
しかし、私のPerseusはとりわけ特殊でして、もともとノイズがかなり低いため特別なことをせずにヘッドホンアンプに直結してもほぼ問題がない。確かにスーパーハイエンドなデジタル機材のノイズの低さに比べるとわずかに劣りますが、レコード自体が十分にクリーニングされていれば、ほとんど互角の勝負ができます。

また、実際にセッティングしてみると、電源の取り方でノイズレベルが大きく変わるのは興味深かったです。Perseuesの電源は後段のアンプたちに給電しているタップからは取らない方がよい。全く別な場所の壁コンセントから取った方がノイズが低いのです。この変化はスピーカーでも分かりますが、ヘッドホンだとよりはっきり分かります。さらに、アースはなんらかの形でとらないといけない。取らないとハムノイズが盛大に乗ってしまうからです。当然ですね。

実は背面にある高域と低域のイコライザーも結構使えます。SEALのベストアルバムのLPを持っているのですが、これは素のままで聞くと、どうにも中域と低域のバランスが悪い。そこで背面のダイヤルで低域のレベルを少し下げると、聞き違えるほどいい音になって驚きました。威力ありますよ、このツールは。
また、PerseusはRCA、XLR両方の入出力を備える数少ないハイエンドフォノですが、どの入出力でも音に大きな違いがないことも確認できました。これも嬉しかった。

他にも独特の音の良さを感じます。
このシステムで聞くと、音楽が、いままで自分のデジタルシステムで聞いていた時よりさらに格好よく、エキサイティングに感じられるようになります。アナログでは時に体験されることではありますが、演奏がとても上手く聞こえます。演奏のグルーヴ感が克明に聞こえてくるからでしょう。また、このフォノ独特の緊張感や躍動感が出音に込められるからでしょう。こういう音の立ち方はデジタルではほとんど未体験です。また、音の響き、声の伸びなども抜きん出ています。これはSNが高いことも寄与しているでしょうし、このフォノの出音自体に与えられたエネルギーの高さも関係していそうです。
さらにデジタルにない特徴として挙げたいのは聞き疲れの無さです。デジタルは12時間以上連続して聞いているとどんな聞き易い音でも流石に嫌になってくるという部分があり、音量によっては本当に耳が痛くなってくるものですが、アナログはそういうことがありません。大きめの音量、鋭い音、キツ目の音でも余裕で聞けます。聞いて疲れるかどうかは、むしろ音楽の内容がいいか悪いかの方にかかって来ますね。

欠点もあります。このフォノは明らかに大きい。普通のプリアンプよりも大きいです。NAGRAのBPSという電池式の優秀なフォノがありますが、同じことをしているのに、どうしてこれほどの大きさの差があるのかと呆れるほどBPSは小さく、Perseusは大きい。Perseusの回路部の筐体には高さがあります。フォノというのは平らな筐体を使っているものが圧倒的に多いですから、これは典型的でない。置き場所にはちょっと困るものです。また、XLR、RCAの同時出力はできません。また、正面のディスプレイはタッチパネルですが、反応性が良くないし、パネル下のボタンも押しにくい。さらに、バックパネルについているイコライザーやロードを変えるダイヤルは位置的に回しにくく、確認しにくい。それから、欠点ではないですが、発熱もあります。電源部ではなく回路部の筐体が熱くなります。実は、このフォノに使われている特殊な増幅素子は温度変化に敏感であるため、ウォーミングアップ中に特性が大きく変化します。電源投入直後に設定したロードインピーダンスの値はヒートアップ後に大きく変わってしまいます。そういうわけなので、電源は常に投入したままで内部温度を一定に保っておくことが推奨されています。電源入れっぱなしを推奨するフォノもあり、BPSのように電池式で外部に電源を必要としないフォノもあり。様々ですね。以上、気になるところはありますが、音が素晴らしいので全て許せてしまいます。

このアナログシステムの音質において特に素晴らしい点がひとつあります。
このTTT compact + Perseusは、音楽が奏でられていた状況を細かく模倣した幻影のような音ではなく、音楽自体がこのリビングで今、発生しているような新鮮な実体感をリスナーに提供してくれます。これはアナログ、デジタル通して初めての経験です。オーケストラが目の前にいて、あるパートの人数が数えられるとか、ホールの広さや天井の高さが分かるとかいうのが素晴らしいことのように思ってきたのですが、そういうイリュージョンの精度を賛美する次元を超えたように思います。「これはもうイリュージョンではない」そう私には感じられます。このPerseusフォノを通すと音楽は精巧な幻影ではなく、精密な実体のように聞こえます。

チベット仏教では宗教指導者が何度も生まれ変わる、つまり転生し現世に実体として繰り返し現れるというコンセプトで継承がなされると聞きます。その制度のアナロジーではないのですが、ここで私に聞こえる音は、まるで転生した音のようです。それは過去の単純な再生、再演ではないように私個人には感じられます。そう考えるに足る不思議な音の手ごたえが確かにあるからです。もちろん、細部にこだわれば本物そっくりの音ではない。でも生きている実物を前にしている手ごたえがあるのです。目の前で羽化しつつある蝉のように。こういう見方や言い方は大袈裟というべきなのかもしれません。私個人にのみ感じられる側面なかもしれません。しかし、いままで試聴したアナログオーディオにも、デジタルオーディオにも、こういう感覚を持てなかったのは事実です。どう差し引いても、私の感性に強く訴える何か特別な実力が、多かれ少なかれPerseusフォノステージには備わっているのではないかと疑わざるをえません。

もちろん分かっています。人によって、どの程度の実体感、音像と音場のバランスを好むかは千差万別でして、私が実体として感じるものを幽霊や幻影として捉える人もいるはずですよね。現にAVALONのDiamondというスピーカーの音を幽霊みたいな音だといい、ジンガリやウエストレイクのダブルウーファまで来て初めて実体感を多少感じるという人を知っています。これは耳から血が出るくらいの音量でないと満足しない大音量派に多い傾向だと思いますが、私はそういう派閥ではない。
とにかく、いくら譲歩しても、私にとっては、ここにある音は幽霊ではありません。それどころか、ほぼ実物の手ごたえです。丁度よい塩梅(あんばい)。元の演奏とスケール、定位、細かい音触等の要素で過去の本物の演奏に完全に一致していないけれど、明らかに実体として眼前に現れていると思える。音楽が、かつて奏でられ録音された音楽として再演されるのではなく、アナログサウンドの形で転生し、現出しているように聞こえるのです。この聞こえは、全く新しい切り口で、聞きなれた音楽を聞く体験へとつながって行きます。何百回と聞いたフレーズが全く初聴の美しいメロディのようにリビングに響き渡ります。

いつもオーディオを買うというのは賭けです。どれほど多く、長く試聴していてもギャンブルです。
自分の部屋で音出しするまで、これほどの値段のフォノイコライザーに、値札に見合う価値があるのか、実は半信半疑でした。でも、こうして聞いていると、その疑いはゼロに限りなく近づいて行きます。しかし、まだそれはゼロにはなっていない。それは、この音の全てがまだ掴めてないと私が思っているせいです。まだ先があるのかもしれませんから。

一昨日、このシステムで朝まで音楽を聴いているうち、アナログオーディオに嵌(ハマ)るまで、いじり倒していたPCオーディオの音は主観性と客観性のバランスが良くなかったなと、ふと気付きました。PCオーディオのみならずデジタルオーディオ全体が客観に傾き、主観を忘れていませんか。もう設計者・製作者の意見が薄い音、主張の無い音は、私は聞き飽きたのです。何故にそれほどまでに、あえて無個性な音を求めていたのか、今となっては理解に苦しむほどです。透明であることと無個性であることは違うというのに気がつかなかったのですね。

MPS5やKLIMAX DS、D600、Audirvana+Weiss等のデジタルを中心に聴いていたときは、各種ケーブルやインシュレーターをはじめ、パソコンのセッティングやHDD・SSDの選択、LAN環境、電源環境の整備に腐心し、細かく音質を上げてゆくのに余念がありませんでした。しかし、真に強力なフォノステージを一つ入れて、本質的なシステムの音質の向上というより、音の変革の目覚ましさを体験してみると、ああいう細々した努力は無駄ではないにしろ、明らかに限界があると確認できました。今更ながら。あんな小賢しいことばかりやっていた頃はオーディオとしては実は行き詰まっていたんですね。こういう凄いフォノと一緒に暮らしていると、重箱の隅を突くような音質改良に関心がなくなってしまいます。ケーブルなんて、酷いモノでさえなければ、どれでも良くなってきます。HDDのメーカー、モデルごとの音の違いにくよくよ悩んだり、NASの電源にこだわってみたり、最高級ケーブルの音質をやたらと求めたり、ソフトウェアやOSのバージョンアップによる音の違いに一喜一憂していたのも遠い昔の事のようです。本質的な音質の変革の前にはそれらは些末な出来事に思われます。私は、今もあそこで行われている頭でっかちな議論に真剣な関心を払う必要はもうない。これから先、あの無意味に険悪な、堂々巡りの論議に加わることもありえない。スッキリしました。

ところで、現代のアナログオーディオの凄いところは、大淘汰時代を乗り越え生き残ったものがここにあるということでしょうか。CDが登場し、ほどなくアナログオーディオは絶滅するかに思われましたが、彼らは生き残りました。長所を伸ばし、短所を減らして。そして、その中でも目の前のアナログシステムは最先端をゆくものかもしれません。実際に手元に置いてみると、静粛性、情報量の多さ、扱いやすさ等が過去のアナログよりも進化している事は明らかです。そもそも投入されている技術が当時はなかったものが多いので当然かもしれませんけど。このフォノに使われている超低ノイズの増幅素子、回路基板のフローティングマウント、フォノのトリプル電源、ターンテーブルの電源となる1000回以上の循環寿命を持つ高性能電池、新素材から成るターンテーブルベルト、機械式時計をPCを用いて設計・試作する技術が投入された斬新かつ精密なアーム、そして特殊な磁性体を用いたカートリッジ等々。これらに比べたら70年代、80年代のアナログシステムはもっとシンプルで、言葉は悪いのですが原始的な道具でした。ただ、その原始的であるがゆえの独特の音の良さはあるし、私のシステムの中にもそれは混ぜ込まれているのですが。

想えばPCオーディオもヘッドホンオーディオも、まだ本当の淘汰の時代を経験していません。だから、今、そのジャンルでは、つまらない音・志(こころざし)の低い音ばかり聞かされるのかもしれませんね。ですがCDやSACD関連機器というジャンルはまさに今、そういう時代を迎えています。もし、この取捨選択の時期を乗り越えてSACD・CDプレーヤーが、そのパッケージメディアとともに生き延びたなら、その時に聞ける音は、その頃にメインストリームになっているはずのPCオーディオを、今よりもさらに大きく凌駕するかもしれません。運よく私がその未来に居合わせ、かつての思い出とともにシルバーディスクプレーヤーたちの奏でる音に耳を傾けたいものです。

今や、私のシステムは羽化しました。
長い間、地中のトンネルの闇の中を這いずりまわっていたものが地上に出て翅を持ったのです。でも、樹上で今日を限りと鳴き狂う蝉とは違って、まだまだ先は長いと覚悟しています。整備すべき課題は、むしろ増えたのですから。まず、アンプやスピーカーが送り出しの格に見合うものなのか、ポテンシャルを引き出せているのか、検討はこれからです。アナログシステムのセッティングの詰めもまだまだ。今は、音がただ出ているというだけのかもしれません。ただ、こんな簡易セッティングで、これほどの音が出てしまうとは末恐ろしいとも思いますが。
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今、London GrammarのMetal and Dustを聞いています。
冴え冴えとした素晴らしいサウンドです。
オーディオとしては、どうということもない軽い音楽かもしれませんが、
八月の夜の空気に沁みるいい音です。
星の数ほどある音楽の中で、
今この音楽を選んで聞いている偶然が、
なにかのフェイクではなく、
真にここで生まれ、ここで躍動するオリジナルとして
私の脳裏に鮮やかに広がってゆく、そんなサウンドが出ています。
これは紛れもなく新たなるオーディオの愉悦。
と思っているのですが・・・・。

気が向いたら、
どうか、私のメインシステムの音を聞きに来てください。
そして、この大言壮語を笑ってお許しください。
追いかける音が違っているのは先刻承知。
それでもあえて私の冗談に付き合ってくださるのなら、
お好みの年のシャトーディケムを一本用意しておきましょう。
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それでは、
またスピーカーの真ん前でお会いしましょう。

# by pansakuu | 2013-08-10 21:24 | その他

特注LPレコードケースについての簡潔な戯言


つまり、この話は自慢話である。

アナログオーディオをやり直す途上で気づいたことがある。
それは、数枚のLPレコードをきちんと保護して持ち運べる専用のケースが巷に売っていないという事実である。

ネットを検索してもDJ用のトランクでは50枚以上のレコードを持ち運ぶようなものしか見当たらない。10枚以下のLPレコードを持ち運ぶに丁度いいソフトケースすらほとんどない。
私は基本的にハードケースが欲しい。ソフトケースではなんだかんだ言って紙で出来たレコードのジャケットを守りきれないと思うので。

例えば、私、あるいは一般的なオーディオファイルが自分の部屋以外の場所で実際に音楽を聞く時間の長さを考えると、試聴に持って行くレコードは多くても5枚くらいあればいいはずである。そう考えると私個人にとって、そしておそらく多くのオーディオファイルにとって、適切なLPレコード運搬用ハードケースはほぼ皆無の状況であると思う。
仕方がないので適切なサイズの一般的なトートバックにレコードジャケットと同じ大きさに切った厚紙を入れたものを用意し、ジャケットの角が折れないようにして、試聴に出かけていた。
しかし、これでもジャケットの紙がくたびれてくると角が傷んだりもする。梅雨時、試聴のために出かけたら、外で急な雨に遭い、ジャケットを濡らしそうになった時もあった。つまり自作のLPレコード用ソフトケースは、あまり上手くないということだ。LPレコードは中身もジャケットも元来貴重なものであり、少数枚をきちんと保護して持ち運べる専用ケースが必要と思われた。
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いろいろ探し回り、考えた末に、私はアルミトランクのメーカーにLPレコード専用のケースを特注した。
出来上がってきたものは、適切なサイズの既存のアタッシュケースの内装を改造し、
5枚くらいのLPがすっぽり入るようなフォームを組み込んだものであった。ダイヤルキーもついている。
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外装はアルミ製で非常に丈夫であるし、全体に軽くできている。また防水ケースではないが多少の雨であれば中身は全く問題ないような作りである。内部のフォーム、つまり緩衝材はジャケットが上手く嵌め込まれる形に切ってあり、中でレコードが動いたりすることもなく、逆にタイト過ぎて角がつぶれたりすることもない。

たが、問題が生じた。これはトランク屋のせいではない。じつはレコードジャケットのサイズはすべて同じではないことを私は発注前には知らなかった。実は一枚のレコードを収めるジャケットと二枚以上を収める見開きの形になっているジャケットの大きさは違うのである。見開きのものは普通のものよりもわずかに大きい。普通のジャケットをすっぽりと、いささかの隙間なく入るようにしてしまうと、二枚組のわずかに大きいジャケットがうまく入らない。
私はこの問題を、中身のフォームをカッターで適当に削って、あっけなく解決した。

実際に使うと、これは具合がいい。ちょっと大き目だが、LPレコードを気軽に試聴場所まで運び、安心して帰ってこれるようになった。電車の中で、バックが誰かにぶつからないように注意したり、急に雨が降ってこないか、空模様を気にしたりしながら歩く必要がなくなった。

しかしながら、こういうモノが特注しないと手に入らないというのはどうも腑に落ちない。
アナログオーディオをやっている人は決して少なくないし、その大概はこれくらいの収納力の専用バックや専用トランクを探しているはず。現在DJ用として使われるソフトバッグは大きすぎるだけでなく、大抵は雨に強くないし、ジャケットも傷ませてしまう。DJ用のトランクはあまりにも大袈裟だし・・・。

アパレルブランドのGUCCIで、かつてLPレコードがちょうど入るカッコいいトランクを作っていたらしいと聞いたこともある。検索で写真までは見つけた。オリベッティのタイプライター用のものらしいのだが、なかなか良さそうなのでヴィンテージGUCCIの実物を探した。当然見つからない。この先、探し続けて運よく見つかっても、かなりくたびれている可能性もあるし、実はかなり安っぽいモノということもありうる。第一、いつ見つかるのか。これは今すぐ必要なのである。今、流行の予備校の教師の合言葉のようなものである。
ルイヴィトンとか、ゴヤールとかエルメスでこういうバッグを作ってくれたら、高くても買うのだが・・・・。いや、この手のハイクラスなアパレルブランドが作る限定モノのバックやトランクが瞬く間に売り切れる現実からして、オーディオファイルが手を出す前に、高感度でオサレな金持ちが、呆れるほどの速さで在庫を払底させてしまうだろう。そういうものは、まず、私の手には入らないと考えた方がいい。

実際、私と同じようなことで、試聴の都度、多少なりとも不便を感じておられるオーディオファイルは少なくなかろうと推測するが、どうなのだろう。この特殊な悩みを解決するには現在のところ、トランクの特注しかないのである。

以前、アナログプレーヤーについて書いた時にも少し触れたが、こんな些末なアクセサリーグッズも含めてアナログオーディオの世界はどんどんワンオフプロダクトに近い製品を売る時代になっているようだ。複雑な形状のアクリル板を組み合わせて作られたアナログプレーヤーカバーや、ある種のアナログプレーヤーを収めるためだけに誂(あつら)えた特殊なベースやテーブル、カートリッジを綺麗にディスプレイして入れるためだけのための特別な木箱を特注した人々を知っているが、これらはその例だろう。アナログオーディオは、ある狭い目的に特化し、特注された少量生産の製品から成り立つ世界になりつつある。勢い、物凄く高価な製品が並んでしまう。
特に今のハイエンドなアナログオーディオはもう、あげくの果て、という言葉しか表現が見当たらない製品が支配する世界のように思うことがある。

こんなことがいつまで続けられるのか?
この能天気なハイエンドオーディオという状況が
いつまでも続いて欲しいと願うばかりなのだが・・・・。

ところで、
レコードを入れるトランクなどというサイドな小物まで特注するようになっては、
私の愛するオーディオという悪趣味も極まって、
もしかすると終着駅に近づいてきたということだろうか?
もし、そうなら、無駄遣いが減るという意味で朗報であるが・・・。

Impossible.(ありえない)

# by pansakuu | 2013-07-27 23:58 | その他

Brinkmann OASISブリンクマン オアシス アナログプレーヤーの私的インプレッション:帰る場所

Brinkmann OASISブリンクマン オアシス アナログプレーヤーの私的インプレッションをSpecial Editionにアップしました。ご興味のある方はどうぞ。
http://bansaku.seesaa.net/article/369140771.html
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# by pansakuu | 2013-07-13 16:14 | オーディオ機器

MY Sonic Lab Signature Gold MCカートリッジの私的インプレッション:新しき王に

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「・・・アナログオーディオの世界は魔法の世界なり。
レコード、カートリッジ、アーム、ターンテーブル、フォノ、
各々に理をもって説明できぬ神秘あり。
また、その取合わせこそ、さらなる不可思議を生む。
(中略)
いずれのカートリッジも役は同じなれども、
音色は似ても似つかず、一つとして同じものなし。
これなるキャラメル一粒ほどのカートリッジ。
我は心酔す、その雄渾なる金色の音に。
その刹那、刹那、言葉はすくみ、うつつは消え果て・・・」

佐野 長次郎 音楽書簡集(2013年発表分、私家版)より



Introduction

ずっと前から考えていた。
さしたる意味もなく、さしたる理由もなく。

果たして
小さなアイテムには短い文章で論評し、
大きな機械については長文で応える。
そういう評価の仕方、
文章の長さの決め方で書いたらどうなるだろうかと。

アナログオーディオでは、
とても小さなカートリッジ一つがシステム全体の音を支配してしまう現象が時に起こる。カートリッジというものは、大概、人差し指の先に乗っかるほどの小箱に過ぎない。針とコイル、そして磁石が組み合わせた微細なカラクリを内に潜ませる、この小さなパーツのどこにそんな力があるのか?これもオーディオの神秘のうちだろう。デジタルオーディオには、これに類するモノは存在しない。

このほど、自分のターンテーブルでMY Sonic Lab Signature Gold MCカートリッジを試聴する機会を得た。これは皆が知るべき驚異のカートである。未だ市場には安定供給されておらず、入手はおろか試聴も困難な状況であるから、これを聞いた方は少数であろう。しかし、アナログファンならずともこのカートの音は聞くべきと私は布令回り(ふれまわり)たい。彼はデジタルオーディオでも生演奏でも決して聞けない音を聞かせてくれる。それは、多かれ少なかれ、アナログオーディオの恒常的な宿命であり、使命でもあるのだが、彼は今までに聞いたどのカートリッジよりも力強く、そのミッションを果たす。


Exterior

カートリッジはその外見を愛でるものではないと思うが、CDのドライブメカのピックアップとは違って、外からよく見えるものだし、レコードに針を落とす時は注視するものだとは思うので、一応気を付けて見るようにしている。
また実際、カートリッジの外観は音と無関係ではないとも思う。
例えば同じ発電系を持つ、オルトフォンのMC-A90とXpressionは外観は似ても似つかない。MC-A90はランニングシャツを着た陸上のアスリートのようなデザインのカートであり、Xpressionはシックなコートを羽織った伊達男ような分厚いケースに包まれた形であるが、音もそのイメージどおりの違いを聞かせるものだと思う。

眼の前のSignature Goldは金色のカートリッジである。
光輝く金色のボディにジェラルミン製と思われる黒いベースを取り付けたものである。ボディのデザインは無駄な膨らみや、鋭角的なエッジのない、ごくごくオーソドックスなもののように見える。Eminentという従来のシリーズ名とは違う名前を敢えて与えた意味は外観からは不明である。
このカートリッジをアームに取り付け、首をかしげて、しげしげと眺めていると、なかなかに威厳があるし、遠くから見ても、ああアレを付けているなと分かるくらいにゴールドの輝きが目立つカートであることが判る。

私の手元には同社製のUltra Eminentもある。
こちらは銀色のカートリッジであるが、
Signature Goldと外観上は形のわずかな違いと色以外には
大きな差はないように見える。
また、中身も今まで10年もの間続けてきたEminentシリーズと
ガラリと違うというわけでもないようである。
一貫して採用するHi-BS、Hi-μiのコア材を少しばかり大型化し、
ダンパーを改良したものと言う。
外観は大きくは変わらず、内容もマイナーチェンジならば
似たような音に終始する可能性も考えられるのであるが、
ここでは、やはりEminentシリーズとは一味違う音、
少なくとも、かなり遠い延長上にある音が出ているように思う。
それにしても中身のそれだけの改良で、どうしてこれほど音が変わってしまうのか、
これもまたアナログオーディオの神秘的なところなのだろうか。


The sound 

このカートリッジの針を馴染みのレコードに落とし込み、その演奏を聴くと、
そこで出力されるエネルギ―というものは、過去に聞いたどのカートリッジよりも大きいように感じられる。
これは、かなり目立つ格差であり、他のカートリッジとは隔絶した力量と思う。これほどのパワーが有れば、この小さなカートリッジがオーディオシステム全体の音を制圧し把握しても可笑しくはない。

Signature Goldを使うと、音の立ち上がりが早くなるだけではなく、そこに音のボリュウムと力感がしっかりと付き従うようになる。雷神ソーが振り下ろすハンマーのような低域のビートは強靱かつ高解像度である。その音は決して演出過多の過剰な表現とは言えないのに、理不尽といいたくなるほど強烈な印象を私に焼き付けた。
さらに、印象的な中域の分厚さがこのカートリッジには有る。その中には、まろやかさ、コクの味わい、鋭角的な煌めき、刺激的な発色などいくつもの複雑な要素が見出せる。さらに、このカートリッジの音は各養素の表出が、はっきりとして分かりやすいのも特徴のように思う。高域は一聴して控えめな印象であったが、耳を刺すべきとき、音にエッジな主張があるときは容赦ないという一面もあるようだ。

ここでは音の輪郭はハッキリとしており、アナログの一つの魅力である膨らみや緩さといった方向に音が拡散し、不分明になったりしない。求心し凝縮し、やがて爆発する超新星の輝きのようにLPに刻まれた大音響を、そして、それに先立つ予感・事後の余韻を平然と表現する。

録音内容によっては、音のスケール感がかなり出てくることにも驚かされる。アナログオーディオは一般にチャンネルセパレーションが劣悪であるため、デジタルで言うサウンドステージのようなものが感じとりにくい側面があるが、このカートリッジに演らせると大波、小波が打ち寄せる海岸に立って悠々と水平線を見渡すが如き雄大さを感じる。これは言葉通りの視覚的な音の広がりのみではなく、ダイナミックレンジの聴感上での広さや音楽の抑揚表現の高低の落差の大きさがプラスされた特別な雄大さなのだ。

最近もデジタルオーディオはいろいろと聞いているので、こんな出音は、あのジャンルの機器には期待できないと分かってしまう。こうして頻繁に試聴してみても、今のところデジタルにはアナログオーディオほど多くの音のバリエーションがまだないように思う。私が本気でデジタルを再開するのは、まだ先のことになるだろうと、この音を聞いて再確認した次第。

それにしてもSignature Goldは豪華な黄金のサウンドの持ち主だ。彼のサウンドを聞いていると、黄金騎士の騎行を、その覇道の端で眺めるような勇ましいイメージが現出して圧倒される。これは、まつろわぬ者どもを打ちなびかせるような音の力を、多くのアナログシステムに与えることができる素晴らしいカートリッジである。

Signature Goldはアナログオーディオの新しき王の一人に相違ない。

ただし、アナログオーディオの美点というのは、こういう音の魅力に終始するものでは決してないことは断っておいていいだろう。EMTのカートリッジの持つ贅肉なく、禁欲的でありながら強力な音や、膨らみつつ、潤いつつ柔軟な表現で愉しませるオルトフォンSPUの音、上手く設計されたオーディオテクニカの空芯コイルの繊細な音、等々。それらの手触りは、それらのカートリッジを使うことでしか得られないものだ。
結局、アナログほどにオーディオの奥深さとバリエーションの豊かさを味わいやすいものを、今のところ私は知らないというのが正直なところだ。


Discussion and Summary
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今年もヘラクレスオオカブトが私の部屋に来ている。
プラケース越しに眺める今回の個体は
例年よりもやや大きい15cmオーバーの堂々たるカブトである。
後食前であり、まだあまり動かないが、
この夏のリビングの王様は彼ということになる。

一方、オーディオに関して、
夏に先立ち、私がアナログの新たなる王として心に刻むのは
MY Sonic Lab Signature Goldということになりそうだ。
このようなサウンドはデジタルオーディオでも
生演奏でも聞けないだろうと
私が思い込んでいることは再度強調したい。
この事実がなければ、
私のオーディオの行く手もとうに塞がっていたはずなのである。

現在、様々なカートリッジを試聴している最中であるが、
どのカートリッジの音にも独自の個性があり、
音楽に合わせて活用すべき長所が見いだせることを知った。
とりあえず常用するカートは既に決めているが、
第二、第三のカートの座をめぐり当分迷いは続くだろう。
当分?いや、オーディオという悪趣味から足を洗うその日まで、
こういう迷いが続いて欲しいような気さえする。

ところで、
こうして少し短めに書いてみてから、再度問おう。
オーディオ機器のインプレッションを書くにあたって
小物については短い文章、大物については長文で、という試行には意味はあるのか?

珍しく悩まずに出てきた結論がここにある。
それは、この期に及んで、
そんな空虚な問いなど捨て置くべきということだ。
なにしろ、この梅雨時、
私はアナログシステムの選択に懊悩することに毎日毎日忙しい。
そして今、分かっていることは、
この調子では今年の夏はアナログ三昧の日々になるだろうということ。
もちろん、ヘラクレスオオカブトの世話も忘れてはならないのだが。

当然、私にはブログの文章の長短などについて
熟考する暇など有りはしない。
王様たちの熱い夏は、すぐ目の前である。

# by pansakuu | 2013-07-05 22:17 | オーディオ機器

Constellation audio PERSEUS Phono stageの私的レビュー:英雄の魔力



「在り得ない不思議を起こす 思いの侭に  力の許す限り 滅びの時まで」

高橋 弥七郎作「灼眼のシャナ」より


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Introduction

オーディオには魔力がある、という言い方。
これは正確な表現ではないし、安易すぎる言い回しだ。
ごく稀に魔力としか言いようのない、
異様な音の力を持つオーディオマシーンに出会うこともある、と言うべきだ。
そのような力を持つものとの出会いは本当に貴重なのだから。

Constellation audioが発表する野心的なアンプ群には今までも随分と驚かされてきたが、先日聞いた最新鋭のフォノステージ、PERSEUS(ペルセウス)の衝撃は殊更に大きかった。ごく短時間の試聴にもかかわらず、いままでの試聴体験の中でも、突出したオーディオ的快感が得られた。

私のブログは優れていると思ったモノしか載せないので、いつも褒めてばかりいることになっている。とはいえ、褒めるといっても、そこにグレードの差みたいなものはある。これは、かのジョン カールが心血を注いで完成させた最新鋭のフォノステージ。今まで取り上げたモノ共の中でも、取り分け優れた音質の持ち主であり、最高グレードの褒め言葉で賞賛できる。このフォノは、自らを真の魔力の持ち主であること私に分からせただけでなく、私のオーディオがこれから進むべき道を指し示しているようにさえ思えた。

それにしても驚いたのは、ほぼ同じシステムで既に聴いていたBurmester 100フォノステージの音の記憶を、一瞬で葬り去るほどの音を、PERSEUSがいとも簡単に出してしまったことだ。
Burmester 100はこれまで現実的に入手可能な上限の価格帯において、最高のフォノだと思ってきた。そしてPerseusの価格は、これにさらに150万円も上乗せしたものである。聞く前は、昨今の円安とはいえ、いくらなんでもこの価格は酷すぎるじゃないかと思ったものであるが、聞き始めてしばらくすると、この値段も仕方ないかも知れんと思い始め、さらにしばらく、FMの200番台、Boulderの2000シリーズのフォノステージやEMTのフォノプリアンプの事を考えながら聴いていると、ひょっとするとこれは安いかも知れんなと考え始める始末であった。

Exterior and feeling
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このブランドらしい、相変わらず瀟洒な外観である。
上奉書屋時代にプリアンプのVirgoについて少し書いたことがあるが、基本的な筐体は、ほぼこのプリアンプと同一である。つまり本体の外観はVirgoからボリュウムノブなどを取り去ったものと考えるとよい。切削加工された8.2mm厚ソリッドアルミ製筐体の嵌合精度、表面の行平鍋のような繊細かつ独特な模様も同一である。この筐体の厚みや並行面の少ないデザインは、他の家電からのノイズを退け、共振を防ぐのに有利なのだろう。
筐体の3つの脚は、HRS社製と思われる黒い円盤状のインシュレーターであり、特殊な軟質樹脂とアルミニウムを組み合わせたものだ。接地面積が広いのが特徴である。私はいくつかのHRSの製品に親しんでいるのだが、質実剛健で奇を衒わない音質効果があると思う。ノイズ感が減り、音が安定するのである。この脚の採用は音に効いているはず。

本体の傾斜したフロントパネルに取り付けられたディスプレイは水色の背景に洒落たフォントで内部情報を表示する。MM、MCの入力選択、各種の設定数値を確認できる。表示は大変に見やすく落ち着いた雰囲気。表示の明かりを消せるかどうかは確認し忘れたが、Virgoではできたので大丈夫だろう。通常は数値や入力選択をディスプレイの下縁にあるボタンを操作し設定する。リモコンは使えない。
そもそもディスプレイのついたフォノというものが、業界を見渡してもほとんどないので、なんとも言えない部分もあるが、少なくとも、こういう表示がついていた方が親切であることは間違いない。ただ、こんな美しいものでなくてもいいはずで、簡略化して、もう少し安くしてもいいんじゃないかという考えが頭をかすめる。
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本体のリアパネルに回ろう。(写真は代理店様のページから拝借しました。)
ここでは、パネルから一段引っ込んだ場所に、MM系統、MC系統各々のRCA、XLRの入力が用意され、XLRとRCAの出力がある。これは充実した入出力で、あらゆる環境に対処できるはず。なお、今回の試聴では、これらの端子について、RCA、XLRの音の違いは試していない。XLR入力、XLR出力で試聴している。できれば、どのような入力、出力であっても同じ音が出てくれるとよいのだが。
ここで言っておくべきことがある。
このフォノにはRIAA以外のカーヴに対応する機能は付加されていない。
このクラスのフォノのいくつかは、RIAA以前のカーヴに対応することを一つのウリにしているが、ジョン カールはその機能を音質のためにあえて排除したようだ。
その代りに、リアパネルの左右に二つずつ小さなダイヤルがついている。これはステップアッテネーターで、高域側(10kHz)と低域側(10Hz)のイコライジングして、異なるカーヴで製作されたレコードをより良い音で聞けるようにする作戦である。ダイヤルにはクリック感があり、0.5dBのステップでレベルは変化してゆく。今回はRIAAカーヴで作られた現代のレコードしか聞かなかったので効果のほどは分からずじまいであった。もし首尾よく購入出来たら試してみよう。

残念にも本体の内部写真は公開されていない。密かに調べて見てみると、かなり簡素な中身という印象であり、Burmester100やSoulution750のようにぎっしりと基盤と素子が詰まった中身ではないようだ。基本としてMCとMMの初段は完全に独立した別回路が各々用意されているらしい。MC回路についてはサーマルカップリングされたホット、コールドで合計10個ものJ-FETを並列使用し、ノイズを通常の5分の1にまで低減しているという。またMC のロードは1キロオームまで連続的に変化させられるので、使っているカートリッジに最適な負荷を探ることができ、音の追い込みに有利。
これらのMM, MC回路基板は制御回路基板と背中合わせに一枚の金属板にマウントされる。そして、この金属板全体を特殊な弾性体によるサスペンションで浮かせる。彼らはこれを筏(いかだ)と呼んでいたようだが、この振動排除の工夫はVirgoでも使われたもの。

パワーサプライについても抜かりはない。このグレードのフォノの通例で電源部は別筐体である。電源部は同じ幅だが、約7cmも奥行の少ないもので、スタックしての使用は音質的にどうこう以前に難しいかもしれないと思っていた。しかし、実物をよく見ると実際の筐体の形が下方にゆくにつれ、すぼまるような形であるため、このような数値になるだけのことであった。実はスタック使用も不可能ではない。こちらのフロントパネルにも傾斜がつき、本体と同様の表面加工がなされデザインの一体感を増している。ここでは左右のアンプの電源、コントロール部の電源は別々のラインで供給されており、通称トリプル電源と呼ぶらしい。その結線は例のHypertronics connecterによる。(このコネクターに興味のある方はリファレンスプリAltairに関する万策堂の拙文を参照されたい)ここらへんは上級機の技術がそのまま下位の製品に降りてきた格好になっている。ただ、この筐体の中身はRコアトランスが三基あるだけなので、サーキット部と同じくつまらない。


The sound 

肝心の音については、実は書くことがほとんどない。
本当にいい音であると書いてしまえば、事足りる気がする。
自分はこういう音が好みであると、自分で強く納得できた音であり、
真に説得力のあるサウンドであった。
と書き、ここで終わりにして黙秘しているわけにもいかない。
転じて、手放しで褒めちぎることとしよう。

PERSEUSでまず強く意識されるのは、音の背景にある静寂の深さである。
この点においては、今まで聞いたフォノステージの中では最も優れたものである。
この部分はかなりアナログらしくないとも思う。レコードに針を降ろした途端にサァーッと空気が入れ替わり、まるでデジタルサウンドのように透明で静寂感に溢れたサウンドステージが浮かび上がる。外気に例えて言わば、それは全くの闇夜の暗黒ではなく、明るく静まりかえった爽やかな空気である。

次に解像度の高さが感じられる。楽音のディテールが時に緩い風にそよぐ様に、時に針で刺すように鋭く立ち上がる。その様子はあまりにも繊細で、神経質とさえ表現したくなるほどである。また、各々の楽音のテクスチャーの描き分けも的確であり、生音のイメージにかなり近い生成りの音触が得られている。ただ今回の試聴では音触自体はやや柔らかめに感じられることが多かった。これは組み合わせたConstellationのアンプの影響かもしれない。

音の色彩感は明らかにビビッドな方である。音色のバリエーションの豊かさと発色の良さが醸し出す楽しみを享受できるフォノだ。日本製のフォノによくある、コントラストが弱いモノクロ写真のような淡白な音ではない。音の温度感としては中庸であると思う。暖かくも冷たくもない。重たい音か、軽い音かと訊かれると、どちらかとういうと軽みがある音だとは思うが、そういう部分に音質的な方向性を打ち出そうとする意図が感じられない。逆に、そこのところはプレーヤーとか、カートリッジとかの力量や特徴に委ねられる部分かもしれない。さらに聞いていくと、音の明るさ、暗さのコントラストが強く出る時もあるが、音楽が求めるなら、無段階のグラデーションで滑らかに音を描ききることもできる。

音の鮮度も高く感じる。音が活性化され、張り出してくるようでピチピチした活きの良さがある。アナログオーディオで得られる音のリアリティとして、これ以上は望みにくいような気がする。逆に言えば一部のフォノで感じられる、しっかりと料理され、お膳立てされた加工感のある音ではないので、それを求める人には向かない。

このフォノステージを通すと楽音に盛られた多くの要素が、余すことなく、しかも自然に聞こえてくる。音の細部の情報量が経験したことのないくらい多く感じられるため、どんなに小さな音も充実しており、大袈裟かもしれないが、まるで一音一音が永遠に聞こえるというか、耳の力さえあれば、どこまでも深いところまで、音を探っていけるような感覚に陥ることがあった。

さらにPersesusの創り出す音楽の躍動感やキレは素晴らしい。ConstellationのVirgoやCentaurは素晴らしいアンプだが、ともすると、どこか大人しすぎ、ソフトな印象に終始してつまらないと思うこともあるのだが、このPerseusを迎えると、フォノの持つ躍動感やキレの良さが加わり、いままでの不満点が見事に解消する。まるでフォノにプリとパワーが響き合うよう呼応して、大いに音楽が盛り上がる。
もちろん、音の動きのスピードは速く、出るべき時に出た音は、引くべき時がくれば遅延なく消える。他のフォノステージだと、途中で聞こえなくなる余韻がきちんと長く尾を引いて聞こえてくるのに、切れるべき時にはスパッと音が切れて終わる。
また、ここで聞いているかぎりダイナミックレンジには全く窮屈さは感じられない。
大きな音でも小さな音でも、そのスケールをいささかの狂いもなく提示する余裕がある。
そして、出てくる音のエネルギーが凡百のフォノのそれより、明らかに大きい印象で下流のアンプ群を突き動かしコントロールするかのような勢いを感じる。しかもアナログらしい、音の連続性を大切にした滑らかな勢いなのだ。これらの要素が合わさって、疲れを知らない躍動的な表現が現れ、リスナーは心酔する。こうなるとタテノリの音楽もヨコノリの音楽も同様に愉しい。

サウンドステージの広さというものは音像型が多数派を占めるアナログオーディオではあまり重視されないこともあるが、PERSEUSでは十分に広い音場が得られる。またまた、アナログらしくないと言いたくなるほど、チャンネルセパレーションは良いように思う。サウンドステージの中に屹立する、それぞれのパートの定位はとてもシッカリ出ているのだが、カッチリしすぎず、緩やかにほぐれるように出る。この出方はとても自然。

PERSEUSを通して聞くと、盤溝に潜むスクラッチノイズは目立たず、フッ、フッと音響空間に消え入るように微かに聞こえる。これを聞いて自分は今、LPを聞いているのだと現実に引き戻されるわけだが、そこがないと、まるで器用にリマスタリングされたSACDを聞いているような錯覚に陥りそうになる。否、これはSACDにさえ似ていない。最高のSACDプレーヤーでもこんな音は出せないだろう。やはり、これはアナログサウンドだ。しかし、究極に近いほど進化したものなのだろう。

ここらでトータルサウンドとして聞き味の良さを特筆したいのだが、これは単純に心地よい音ではない。常に、戦いの前のような緊迫感を孕むところが重要だ。こういう心地よい期待のような緊迫感がどこから来るのか分からないが、オーディオ機器の責任でこのような感覚が生まれてくるとなると、その機器の音の潜在能力はかなり高いところにあるような気がする。こういう緊張の中では、聞きなれた盤の音がまるで初めて聞く優秀録音盤の音ようにゾクゾクッと背筋に来る。この言い知れない緊迫感・緊張感は私にとって先鋭的あるいは前衛的に感じられた。ここで私は自らが未体験ゾーンに入ったことを直感しただけでなく、この感覚が自分の進んでゆくオーディオの行く先を照らし出しているようにさえ思えたのである。

自分がずっと求めて来ていながら、
それがなんであるのか上手く説明できない何か。
それがここにあった。

全体の印象を言えば、PERSEUSは、既存のハイエンドフォノを軽々と超える能力を手に入れたうえで、やや神経質で緊迫感のある雰囲気を纏い、どこか危険な香りさえ漂わせるフォノステージである。オーディオ的な官能を刺激される音だ。こういう全体印象はジョン カールが以前作っていたCTCビルダーズのブロウトーチというプリアンプの音にも一脈通じるところである。分かる人には分かるはず。PERSEUSの音の背後にジョン カールという不世出のエンジニアの存在が透けて見える。

確かに、アナログオーディオはもっとマッタリして、艶めいていて、まろみのある音、あるいは、もっと楚々とした禁欲的な音であるべきだと考えている人にとっては、これは違うということにもなるだろう。そう考えるとPERSEUSのサウンドが誰にでもアピールするものかどうかはなんとも言えない。私個人の意見としては、もしそうだとしても、これは必要悪だと認めてほしい音ではあるが。

ほぼ同様のシステム、同じレコードで比較したBurmester 100もかなり素晴らしい。どんなフォノを買うにしても、このフォノは常に対抗馬であり続けるだろう。100では動作に盤石の安定感があり、音は浄化されたように綺麗な音ではあるが、コクやアクも十二分に表現する。私の偏見ではオーソドックスなアナログサウンドの方向性を極めたもので、従来からアナログレコードを攻め続けているベテランには、価格以外は無条件に受け入れられるものと思う。私はこの100の音も好きだ。一方、PERSEUSにはさらに先の表現、フォノの物理的な性能限界をさらに押し上げようとする強力な表現が認められる。それを私は前衛的サウンドと考え、諸手を挙げて歓迎するものであるが、既にアナログオーディオに一家言持つ諸兄は、ソコのところをどう聞くのだろうか?

また、もう一つ優秀なハイエンドフォノであるSoulution750とも簡単には聞き比べている。これは非常にノイズフロアが低く、はっきりとした音が出るフォノである。計測すれば、その音響特性は信じられないほど良い数値を出しているらしい。その意味ではPersesusを凌ぐ能力を持つものであろう。しかし、特性を追い求めるあまりに芸術性が少し置いてけぼりにされた音のように私には聞こえた。出てくる音がデジタルチックなのである。様々な面でCDとまともに競争できるような優れた出音だが、外連味とか余裕とか溜めとか陰影感、そういった数字では表しきれない要素の表現が削がれたり、欠落しているように感じられることがあった。どこか単調なのである。アンプやターンテーブルやカートリッジで、そこの所を補うようにしてやれば、問題ないのだろうが、私にはやはりPerseusの音の方が合っていると感じた。

ところで、さらに驚くのは、Constellationの序列の中では、このperseusの音でもまだスタンダードクラスなのである。PERSEUSの属するパフォーマンスと名付けられたカテゴリーの上にあるリファレンスクラスのフォノはORIONという名前であることが知られているが、まだ完成していない。こうしてPerseusで自分のLPを聞いて、かなり驚いてしまった私には、これよりさらに上のサウンドが全く想像できない。

なお、PERSEUSのサウンドは、私がConstellationのリファレンスクラスに持つ音の印象をそのまま踏襲している。私は、これを書く直前まで、このPERSEUSは、リファレンスクラスの一員であると勘違いしていたくらい、音の傾向が近い。先駆的でありながらオーソドックスなバランスも押さえた音、とてもハイスピードで鋭い音でありつつ柔らかみのある音、力強くありながら繊細な音。矛盾する様々なオーディオの側面を一台の中にまとめ込んで、いとも簡単にオーディオの新次元へ飛躍するのがConstellationのリファレンスアンプの特徴であるが、それがPERSEUSには見事に表れている。ここでリファレンスクラスの価格を想起すると、これはお買い得なのかもしれないと再び思う。

また、デジタルサウンドとの関係性において言えば、このサウンドは意識的にCDやSACD、あるいはPCオーディオを意識し、対抗したものとは思えない。しかし、結果的にPERSEUSが生み出すサウンドは、デジタルオーディオの最先端の音を聞きなれた者にも、アナログオーディオの真のアドバンテージを否応なく意識させるものとなろう。

比較対象がおかしな事を承知で敢えて話そう。
2013年現在、最も進化したDACとして、dcsのVivaldi DACが挙がる。Vivaldiを初聴したとき、あっけないほど、ほぐれて透明でナチュラルな音にまさに肩透かしを食らった思い出がある。その時、この音は全くオーディオらしくないと不遜な考えが頭をよぎった。この音は完全すぎる、引っ掛かりがなさすぎる音だと。オーディオを極めて、オーディオを超えてしまったのか?実際、dcsのVivaldi DACの試聴は私に絶望を与えかねないものだった。もし、これが究極のデジタルサウンドであるとすれば、デジタルオーディオという方向性でいくら攻め続けても、自分の満足ゆく音は決して出てこないということではないか?一方、Perseusを聴くと、オーディオのレベルは落とさずに、このかなり贅沢な不満が払拭された音に出会える。これは、私にとって、きちんと深くオーディオ的に引っ掛かる、腑に落ちる音だから。

こうして、価格的にdcsの最強DACに匹敵するフォノであるPERSEUSが、音の質のレベルとしてVivaldiと比肩しうる、あるいは部分的には凌駕する音の魅力をもつことは不自然ではない。デジタルオーディオの音質上のアドバンテージを、このフォノを聞くまで密かに信じ続けていた私も、今や見解を変えざるをえなくなった。

私の中では、いままでのアナログオーディオはハンデなしで最先端のデジタルオーディオの音に立ち向かうことはできなかった。ノイズ、チャンネルセパレーションなどでデジタルオーディオには水を空けられていたからだ。だが、持ち前の音の勢いや開放感、アナログ独特の連続性が生み出す滑らかな聞き味などで音質について挽回し、さらにターンテーブルを調整して操る面白さや、レコードというメディアが持つ存在感などの音質以外の側面がウケて、デジタルに負けない人気を獲得しているだけのように見えた。

PERSEUSの音にも、他のフォノと同じアナログ特有の音の魅力があるのは間違いない。だがPERSEUSの能力はそこにとどまらない。PERSEUSの音の良さはアナログ特有の欠点を忘れさせ、その魅力をデジタルとイーブンなレベルにまで持ってくるだけでは終わらない。ここではアナログオーディオの利点は、かつてないほどに発揮され、欠点は最小限にとどめている。その結果として今までのフォノでは聞けなかった音が手に入る。しかるべきターンテーブル、しかるべきアームとカートリッジに、このフォノステージが加わったシステムで状態の良い盤をかければ、かなり優秀なデジタルサウンドさえ、いくつもの点で超越するサウンドが得られる可能性があると私は考える。
勿論、デジタルとアナログには根本的な違いがあるのだから、その音質について分析的な比較はできないかもしれない。しかし、それを、敢えてしたくなるほど静粛かつ解像度が高く、透明で躍動感に満ちたサウンドが展開されるのは事実である。この音の魅力はアナログオーディオの好き嫌いに関わりなく抗し難い。これこそオーディオの魔力というべきだろう。


Discussion and Summary
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ギリシア神話において、ペルセウスは半神半人の英雄である。ハデスの隠れ兜を被り、ヘルメスに貰った空飛ぶサンダルで空を翔け、アテナに与えられた鏡の楯を携えてメデューサの首を取り、鯨の怪物の生贄にされかけたアンドロメダを救うヒーローである。
一方、私はConstellationのパフォーマンスクラスのアンプ群の音に、いつも天空をイメージしてきた。
Constellationのこのカテゴリーのフルシステムすなわち、PERSEUS, Virgo, Centaurのトリオによる演奏では、この二つのイメージが一つになって素晴らしいスペクタクルが眼前に展開する。プリアンプやパワーアンプが描き出す大空の中を、神話の英雄のように縦横無尽に翔け、武勇を示すフォノステージという図式が、やっと完成した。

別な見方をすれば、これはアンプ設計の鬼才ジョン カールの現時点での最高傑作であろう。ディネッセン、ヴェンデッタ リサーチ、SOTA、パラサウンド、CTCビルダーズを経た、彼のエンジニアとしてのキャリアの集大成が、ここにあると推測する。そして彼の年齢を考えれば、もしかすると、このConstellatonでの仕事が彼の最後の仕事になるのかもしれないとも思う。彼のアンプのファンである私は少し寂しくもあるし、このフォノが愛おしくもある。

これは私にとって、たぶん特別な出会いだ。私がその音の良さが分かるほどの経験と年齢を積んだ時に、ちょうど運よく、PERSEUSに巡り会えたということになるのだから。人と人とは簡単に出会ってはいけないと言う。それは時宜を得ない出会いはむしろ不幸だと言う意味だろう。しかし、この出会いは時を得ているはずだ。私の直感がそう叫んでいる。実際に自分のリビングに置いてみたいターンテーブルがなかなか決まらない中で、フォノについては十全のものに会えたという気もする。今こそ出会うべき相手がこのフォノステージであったと思って、この一会(いちえ)を素直に喜ぶべきだろう。(価格を考えると素直にはなりにくいが)

随分と前のことになってしまったが、LINN SONDEK CD12というCDプレーヤーに出会い、私は自分のオーディオの進む道を強く決定づけられた。それは今も引き続き歩いている道なのだが、この道の途中で、ついにPERSEUS フォノステージに出くわして、
再び自分のオーディオの嗜好性を定義し直された格好になった。
一方で、コンパクトかつ、スタイリッシュな外見と、オーソドックスかつ完成度の高い音調で私を魅了するBurmester100のことを忘れたわけではない。
この先に何があろうと、あのフォノの音を忘れることはないだろう。
しかしPerseusの音にはそれにも増して魅力的な部分もあるのだ。

いつしか人の耳は遠くなる。
そうこうするうちに人生は終わる。
この旅が終わる前に、そして耳がどうしようもなく遠くなる前に
聞いておきたい音がある。自分のものとしておきたいサウンドがある。
だから、私はオーディオファイルとしてやるべきことをやろうと思う。

そして、Perseusは私のかけがえのない友となった。


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# by pansakuu | 2013-06-06 19:30 | オーディオ機器

モノラルレコード、マルツィ、バッハ、スプーンそして蝉時雨:或る回想


「それがたとえ、全く大したオーディオになっていなくとも、
深く心に残る音となりえることを、日々の経験で我らは知っているのである。
オーディオはいつも音以外の様々な要素に助けられて鳴り立っているからである。例えば、移り変わる季節、昇っては沈む太陽と月、インテリア、部屋の匂い、一杯のコーヒーとそれに入れる砂糖の量、付け合せた一粒のチョコレート、着ている服の色、椅子の柔らかさ、目を通している手紙の言葉など。それら日常の中の些細な出来事は侮りがたい音楽再生のエッセンスになりうる。良かれ悪しかれ、オーディオはそれを聴く者のライフスタイル全てと関わりを持つものなのである。」
1990年の某日のメモより

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私には一年に何回か、オーディオというものにまるで感動しなくなる時期が来る。
これは期待して聞きに行って、あまりにもつまらない音ばかり聞かされた後に決まって起こる。

この前、出掛けた“祭り”は私にとっては、どうも寂しいイベントだった。初公開を期待していた、いくつかの重要なモデルが出てきていなかったし、既に発表済のモデルや、定番モデルの会場での出音もパッとしなかった。今回出てきたいくつかのイヤホンは、音質のうえで随分と進化したことは認めるが、まだハイエンドなヘッドホンにはまるで敵わない。イヤホンを聞いて満足するのは、まだ難しい。丸一日かけて、ほとんどのブースを回らせてもらったが、どこへ行っても、何だ、この程度か、という徒労感があった。

収穫なく帰ったあの日以来、
何を聞いてもオーディオとしてはつまらなく感じる日々が続く。
トキメキが足りない。
しかし、概して、こういう時は、音自体はともかく、音楽に纏わるエピソードとしては面白いアイテムに出会えるものだ。
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今朝、
私の目の前に三枚のレコードが差し出された。
このタッセルのジャケットには確かに見覚えがある。
ヨハンナ マルツィの弾いたバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」である。無論、モノラル録音のレコード。オリジナルは1950年代のEMIの盤である。だが、こちらは入手困難なオリジナル盤ではなく、復刻盤ならぬ復元盤だそうである。つまり可能な限り、このレコードの製作当時の機材を集めてレストアし、往時と同様に稼働させ、オリジナル盤を復元したものであり、最新の技術でマスターテープの情報を余すところなく吸い出そうとしたような、あるいは企画者のこの演奏に対する思い入れが強く入ったイコライジングを施したような、ありがちな復刻盤というものとは異なるらしい。
この盤のオーナーは、3枚組で十何万なんていうレコードを買うヤツは酔狂だ、などと自分のことを他人事みたいに吹聴しながら上機嫌である。
早速、自慢のスパイラルグルーヴの皿回しに乗っけて聞いてみようということになった。
グラハムのアームにつけられたカートリッジは最近発売されたばかりの日本製のモノラル専用のカートである。
私は例によって、クラシック音楽はあまり聞きたくない気分だったが、復元盤というところが引っかかった。どんな音がするのだろう?あの時聞いたオリジナルと比べてどう違うのか?

ちょうどオーナーに電話がかかってきた。
彼が席を外している間、私はターンテーブルの上で、針を落とされずに空回っている綺麗なレコードと鄙びたデザインのジャケットとを、代わる代わる見比べていた。
わざわざ活版印刷された克明なタイトルのアルファベットと、左端にあしらわれた柔らかなタッセルのイラストが、机の奥にしまいこまれているはずの小さな銀のスプーンと、それが私の手に落ちた経緯とを想い起こさせた。
まだ、鼓膜の外には、いかなる音も聞こえないのだが、
既に私の頭の中にだけは、あの夏の蝉時雨が微かに聞こえていた。


ある人を怒らせたせいで、私は真夏のひと月あまりの間、芦屋の親戚の家の離れの部屋に隠れていたことがある。そこは大きな中庭のある洋館のような家で、庭の隅にレンガ造りの離れ座敷があった。湿気が籠って居心地の悪い、窓が一つしかない暗い離れは、その家の主人が書斎に使っていたらしいが、私はその人の顔も覚えていない。かなり小さい頃に、その人に手を引かれて、庭を散歩していたと皆が言うのだが全く記憶にない。そこには私の知らないその人の遺したトーレンスのアナログプレーヤー、マランツのプリアンプとパワーアンプ、そしてアルテックのスピーカーが眠っていた。
当初は目の前のオーディオシステムは結線してあるのかどうかさえ不明であったし、またそれを調べたうえで、その家の女主人である老婦人に許可を取ってまで聞くような気分でもなかった。
私はまず、持ってきたガルシア マルケスの「族長の秋」を読みふけった。二回読んだが、それでも5日とはかからなった。あまりにもヒマだった。
クーラーもない蒸し暑い離れの部屋で窓を開け放つと、青空と入道雲が私を見下ろしていた。

来る日も来る日も、中庭の木々から蝉時雨が降り注いだ。
私はついに退屈に耐えかね、老婦人に許可を得て、アルテックを鳴らしてみることにした。
鳴らすにはレコードが必要である。その家にはパソコンはもちろん、テレビもなく、本もなかったが、ダンボール数箱分の古いレコードがあった。舞い上がる埃に窒息しそうになりながら、箱の中身を調べてみると古いモノラルのクラシック音楽のレコードばかりであった。

私はその頃、世の中の全てのものに食傷し、飽きたような気分であった。その勢いで、クラシック音楽という手垢の付いた譜面を辿る演奏など聞きたくもなかった。それが正しいとか間違っているとかではなく、とにかく、そういう気分だった。しかし、バッハの音楽だけは、なぜか許せるような気がした。私は英語を読むのも面倒だったので、とにかくBACHと書いてあるレコードを探した。

有った。
それが、ここで回っているヨハンナ マルツィの無伴奏のオリジナル盤だった。その頃は彼女の名前は知らなかったし、オリジナル盤の価値など知らなかった。BACHとタイトルにある音楽は、さしあたりそれしかなかったので、それをかけることにしただけであった。
このレコードについてはなんの予備知識もないが、まあ、いいだろう、これはつまらなくてもいいのだ。これはBGMで、退屈を紛らわせることが役目で、音も演奏もどうでもいい。
そう自分に言い聞かせ、まともに動くかどうかテストもしていないトーレンスに、それを乗っけてスイッチをいれた。ターンテーブルは、一応とどこおりなく回ってくれた。手の動きは慎重に、しかし心中では投げやりに私は針を落とした。

音が出た。

蝉時雨の中に、バッハが設計し、マルツィのバイオリンが紡ぎ出す形而上学のような旋律がゆっくりと、しかし確実に溶け込みはじめた。

この時に取ったメモを繰っていると、その時の光景を思い出せる。

私はクーラーのない薄暗い部屋の真ん中に一人座りのソファーを引き出して座っていた。隙だらけの格好で、滲みだらけの天井を見つめていた。私は大概のことに絶望したような気分だった。人間の抜け殻のようなものが、そこに座っていただけだった。あの年の夏は暑かった。真空管アンプの熱はなおさら部屋の気温を上げていた。流れ落ちる汗を拭う気も起らないまま、ボリュウムを上げて、マルツィの演奏に私は聞き入った。モノラルレコードが削り出す、ブロンズ像のような音像がスピーカーからせり出し、蝉時雨とブレンドされて、放心した私に覆いかぶさるように響いていた。アルテックが朗々と歌っていた。あの時の音は近かった。音場というものは、ほとんど感じられなかった。まるで手を伸ばせばマルツィの柔らかな首やしなやかな手に触れることができそうな場所で音を聞いている感覚であり、逆に録音時の部屋の広さや天井の高さなどというものは全く分からなかった。彼女の弓さばきが見えるという感じもなかった。ただ弦が擦れる接点とそれが響くバイオリンの胴の震えが見えていた。音の解像度も低かったし、ノイズも多く、歪みもあったけれど、サウンド全体としての満足度は不思議と高かったように思う。あれは目には決して見えないはずの音自体にダイレクトに迫る再生だったからだろうか。あの部屋でのレコードの演奏は精密なバーチャルリアリズムの世界ではなく、基底現実そのものを突きつけるもので、物理的に実在する、重過ぎぬ重さや熱いとは感じない熱を伴う波動に満ち溢れた音であった。再生音楽でありがら、イミテーションとしての嘘が見当たらなかった。今すぐにでも高いところから飛び降りてラクになりたいと願っている、一人の弱った男を打ちのめすのには、十分な実在感を伴う音だった。

マルツィは、私がその後に聞いた21世紀の凡百の無伴奏とは、異なる奏(かなで)を聞かせていた。現代のバイオリン弾きの歯切れよく、闊達で素早いやり方、技術も情熱も分かりやすく、そして時に過剰に演出されていたり、逆に機械のように淡白な弾き方とも異なっていた。
有名なシャコンヌの冒頭の、一聴してどこかダラッとしたような大らかな弾き方など、私にはかなり違和感があったが、これは時代の味わいであり、香りであると思い直したというか、思い過ごしたのが懐かしい。

バッハの書いた古文書を読み解くマルツィの筆致は大概は軽やかに、しかし時に厳かだった。音色に適度な芳醇さのある彼女のバイオリンの語り口は、あくまで典雅であった。あくまで高潔で、寛容に満ちていた。そして、やはり古風だった。この演奏と再生音のコンビネーションはバッハの作曲の素晴らしさを香り高く伝えるのに十分だった。
私は、その時、バッハという人に、世界はこんなに美しいのだから、まだ生きていた方がいいと言われたような気がしたことを告白する。
当時、私は弱くありたくはなかったし、弱った自分を認めたくなかった。それゆえに、あらゆる救いを求めなかった。しかし、その言葉はどう取り繕っても私にとっての救いとなった。

美しく作られた曲を美しく演奏し、その演奏を時を超え美しく再生する。この音楽体験の最後の部分を担うのがオーディオなのだが、その方法はひとつではないし、最新の方式が過去の方式を否定できるほど単純なものじゃないと、あの音を聞いていて分かった。それまで、モノラルレコードの再生などというものは過去の遺物であり、現代のオーディオにとっては否定すべき異物であるかのように思っていたが、それは間違いだった。

そうは言っても、ああいう古いモノラル録音のレコードを、ああいうヴィンテージのシステムで聴いて感動しようという時は、感性のモードを特殊なモードに切り替えなくてはならないのも確かであった。アナログ再生というのは古典的なお芝居のようなもので、その約束事にしたがったうえではじめて感動が得られるものだといった人がいたが、その通りである。ダイナミックレンジが狭いので、ちょっと大きな音が出ると出音が飽和してしまい、そこを誤魔化したみたいな音が瞬間的に出たりする。全体に微妙に歪んでいたり、バイオリンの音が遠かったり、背景のホワイトノイズが耳についたり。指摘すべきオーディオ的な瑕疵は多々あるのである。また、こういう音に色彩感があるという人がいるが、実はそれは水墨画で言う、墨に五彩ありという意味であり、つまり奏者の手錬手管に触発された聴き手の感性をもって音に色彩を付与せよということでしかないように思う。確かに音像の力強さ・太さや、楚々として清冽なバイオリンの擦れ音の味わいなどはモノラルレコードならではのものである。ただし、それは並み居る欠点を全て無視してから楽しめるものである。古いモノラルレコードを聞く時は、それらもひっくるめて味わいとして楽しめる心理状況に自分を持っていくことが必要な時なのである。とはいえ、その心境は単に寛容になるなどというものとは程遠いのは覚えておくべきだ。それはモノラルのオーディオというステレオとは別な拘りに執着するようになるだけのことである。オーディオはやはり拘りの塊であることには変わりはないのである。

事件が落着し、芦屋の家を出てよいという知らせが来るまでの4週間、私はほぼ毎日マルツィの無伴奏を汗をだらだら流しながら聞いて過ごしていた。他のいかなる音楽も受け付けなかった。

この家のただ一人の住人であった老婦人は私に気を使って、よくお茶に呼んでくれた。
居候の私は、Tシャツにジャケットを羽織り、クーラーのきいた居間に出てきて、小さなカップで砂糖をたっぷり入れたコーヒーをすすった。
こうして何もしないで離れに帰るだけでは申し訳ないと私は思い、持ってきたガルシア マルケスの本の中から、好きなシーンを選んで彼女に朗読してあげることにしていた。孤独な老婦人は大変喜んでいるように見えた。南米の独裁者である主人公が幼馴染の将軍を暗殺したりするくだりがなぜかウケがよかった。老婦人は耳は悪くなかったが、音楽には興味がなかった。一方、目が良く見えない方であり、細かい字などは読みたくても全く読めない状態であったから、この拙い朗読のサービスでさえ、彼女の退屈を紛らわせるには十分だったかもしれない。
ホテルのロビーのような広々とした居間で、毎日、私たちは二人きりで長い午後のお茶の時間を過ごした。ソファーの向こうには木と雑草が茫々に生い茂った手入れのされていない中庭がずっと見えていた。蝉時雨が降り注ぐ、その庭には夏そのものが繁茂しているように見えた。
「あなたの部屋から音楽が聞こえるので、主人が帰ってきたような気になりますよ」
彼女はそう言っていた。その言葉の時だけ、皺の奥に控えめに嵌め込まれた小さな目が輝いたような気がした。
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重たい防音ドアが、まさに重そうに開いた。
静寂は破られた。
オーナーの電話は終わったらしい。
彼は前置きもなくターンテーブルに駆け寄ると
迷うことなくアームリフターに指をかけ、
慎重に、そして無慈悲に、針を盤に降ろした。

最新のシステムと音響調整のなされた明るくて広々したリスニングルームで聞く、復元盤のヨハンナ マルツィの演奏は、あの時とは違っていた。それは、かつて芦屋の夜昼の区別がつかないような離れで、くたびれたソファーに座って私が聞いた音とは似ても似つかないものだった。おそらく、そんなはずはないのだが、私には演奏自体が確かに異なっているように聞こえた。ここで聞こえるのは悪い音ではなく、むしろかなりいい音だった。ノイズは少なく、歪みらしいものは極小、しかもマスターテープからの移行の過程で、復刻盤を作る側のエゴのようなものが載っていないと思わせる朴訥で素直な音だった。モノラル盤の良さである音像の立体的な張り出しも申し分なく、古い録音らしい、その時代特有の香りも高いものだ。にもかかわらず、その感動の段差の大きさに愕然とさせられた。片面を聞き終わっても、マルツィの演奏技術とレコードの造りの見事さ以外は、なにも感じなかった。それでいいじゃないかとオーナーは笑ったが、私は内心で狼狽していた。これだけの再生が出来ているのに、肝心のバッハの声が聞こえない。これは音が良すぎるからだろうか?

ロケハンに行った時にあった雲が、本番の撮影時には(当然)なくなっていたので、そこでの撮影をあきらめたという黒沢明監督の逸話があるが、今朝の再生では、その雲にあたるところの雰囲気が全く欠けていたので、音楽に没入できなかったのだろうと私は思っている。
実際、オーディオを聞く側の心理などというものはオーディオシステム自体にはどうすることもできないものだ。しかし、それは音楽を深く聴き込むという行為には深い影を落とすのだ、否応なく。違う場所、違う時代、違う心で音楽に向き合うのに、同じ感動を求めることはできないはずだ。その時に自分の置かれた立場や心理状況は勿論、周囲のインテリア、空気の温度や湿度、匂いなど何気ない物々さえも、十全の音楽再生の成立を危うくしかねないと知るべきなのだ。特にヴィンテージのモノラルレコードのように、それを聴くために心の準備を必要とするものはなおさらだろう。

私は失望と安堵が入り混じった気分で自分の部屋に帰り、これを書き始めた。
書き飽きると、探し出した小さな銀のスプーンを取り上げて、指でクルクル回した。
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とうとう、芦屋の家を出て、帰れることになったので、老婦人にお礼を述べに行った時のことである。
彼女は、私がお茶の時間に使っていたカップとスプーンを持ってきて、自分の歳を考えると、もう二度とお会いすることもないかもしれないので、記念に持って行ってくれと言った。私はこれだけ厄介になっておいて、なにかをもらって出てゆくのは気が引けた。それに、その日は朝から土砂降りの雨で荷物を増やすのも憚られた。しかし、ご厚意を無にするのもなにかと思い、移動中に嵩張り、かつ破損するやもしれないカップは辞退して、持ち運びやすく壊れないティースプーンだけを取り、レインコートの胸ポケットにしのばせたのである。

かくして、この銀のスプーンは私の手に落ちた。

スプーンに瓢げたような自分の顔を映しながら、あの頃を回想する。
老婦人は彼女自身の予想の通り、既にこの世の人ではなく、芦屋の家も取り壊されて今はない。
私が、あのマルツィのレコードの音を聞いたという直接の証拠はもうないが、このスプーンが間接的にその証になるだろうか?
あの時、カップを貰っておけばよかったのか?あの朝、雨さえ降っていなければ、そうなったかもしれない。今夜、あのカップを出してきてコーヒーでも焙れれば、あの思い出の中の音はさらに香り深いものになったろうか?
マルツィの無伴奏のデータならどこかにあるから、たまには聞いてみようか?
アンプはスタンバイできている。
だが、それは今日聞かされたレコードの二の舞になるのでは?

やっぱりなにも聞かず、アンプの灯は落としてしまおう。
表面上は沈黙と静寂を良しとしよう。
今はただ、あの暑苦しい部屋の中で、
なにかにすがるように必死で聞いたマルツィの無伴奏を、私の中に聞いていたい。
あの夏の蝉時雨とともに。
途切れることなく。

# by pansakuu | 2013-05-29 22:34 | 音楽ソフト

Wilson audio Alexiaの私的インプレッション: 天気予報

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「楽しい時ってのはあっという間だね あの頃 帰り道によく話したね
悲しみや苦しみもきっと同じはずだって なんて軽々しくは言えません
でも言わせて欲しい これだけは断言 
晴れ時々雨 雨時々晴れ
どっちが多いか少ないかじゃねえ どっちに転んでも降水確率100%
どうにもこうにもならないことだってあると
人智を超えている不確かな明日を 雨宿りをやめて晴れ晴れと歩こう 」
THA BLUE HERB TOTALより BRIGHTERの一節



Introduction

そちらに着いたときは、ひどい雨でしたね。
薄暗くて広々した貴方のリビングには、
ぼんやりと光る、大きく長い水槽があって、
龍のようなアロワナが悠然と泳いでいました。
いつまで眺めても飽きない光景。
巨大な水槽と同じくらい長くて大きいソファーに寝そべって眺めた、
ギラギラと順繰りにうねりながら光る鱗。
単調な雨音が退屈だったので、
フッと音楽が欲しくなって、なんか音楽かけてくださーい、と奥に声をかける。
アーウィング ペンにTUTUのジャケット写真を撮影してもらっていたマイルスみたいに。
でも貴方は返事もしないのです。ワインと肴の用意に余念がない。
そういえば、まともなスピーカーシステムが、ここにはなかったんでしたっけ。

地下に溜め込んだ値打ちモノのワインは一人では消費しきれないでしょう。
こんな豪邸も御家族が居なければ空き家みたいで無意味ではありませんか。
また凄いスピーカーを買って、昔みたいに音楽を聴いてくださいよ。
あの時みたいな凄い音で。

あれから2年ですか。
線量だけは低くなったんだけどね、なんていうお話も伺いました。
地震の前に着工した、この家に入るはずだった方々は大波で失われ、
貴方の家族は、今は、あのアロワナだけ。
贅沢な邸宅はガランとしていて
埋めようもない空白に占領されているようです。

壊れた生活を元に戻すことはできない。
しかし、新しく作り直すことはできるかもしれません。

今日という日も、どこか沈みがちな貴方に、
この前、聞いた素晴らしいスピーカー、
Wilson audio Alexiaをお薦めしようと思います。
最新でありながら、どこか懐かしい香りがする、
このスピーカーの音に身を委ねる未来の貴方を私は想像します。
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Exterior and feeling

パッと見て、これは少し太めのスピーカーだなと思いました。
その音に相似して、中肉中背をちょっと越えて、がっちりとした体格と見ましたね。正面からみるとやや末広がりな安定した形で幅は38cm。実は一つ下のSashaよりも一回り大きいだけなのですが、形の上での安定度はかなり上に思えます。
ウィルソンのスピーカーはピンヒールの四足スパイクで、全体の形としてはなにか腰高に見えることがありますけど、このスピーカーのデザインが持つ微妙な曲線の連なりがどっしりと安定した印象を見るものに与えます。そうなると、このスピーカーの姿形は、先鋭的というよりは、古代の石像のようなどこか古めかしい感じです。
実は、このメーカーがハイエンドオーディオの先端で重ねてきた歴史の重みのようなものを今回、初めて感じました。ウィルソン、マジコやクレルなどに代表されるような、エンクロージャーを鳴らさないことを至上とするスピーカーにおいて、タンノイやJBLなどのクラシックなスピーカーに感じるような伝統や血統、継代されて初めて生まれる風格を、ついに感じたと言ってもいいかもしれません。
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シルクドームツィーターとミッドレンジ、そして、なんと異なる口径のユニットで構成されるウーファー、それぞれに強固なエンクロージャーを与えたうえに、それらを別々に角度調節するという、他のメーカーには、とても真似のできない構成に感心します。狙った場所に位相の整った音をリスニングポイントに集中的に届ける思想が貫かれています。

上位モデルAlexandriaのジュニアモデルということですが、規模や値段、導入可能なリスニングルームの大きさを考えると、日本では、これが事実上の最上位モデルということなのでは?しかし、重さは片チャンネルで116kg!スパイクをそのまま床に突き刺せば、そのまま床を突き抜いてしまう場合もありそうです。リビングの広さや天井の高さはともかく、まずは床の木材の厚さを確認してから、導入を考えることになりそうですね。

それにしても、今の時代、やはり最先端スピーカーといえば、ドライバーの振動板の材質に、もっと凝りそうなものだと思うのですが、あえてシルクドームとペーパーコーンで済ませるとは。これが、老舗の洗練というものなんでしょうか。スネルのスピーカーもそうでしたけど、このクラスのスピーカーにダイヤモンドツィーターをあえて選択しない、セラミックやカーボン、アルミのウーファーを除外する、そういう勇気と見識が、このクラスのハイエンドスピーカーにしては取っ付きやすいサウンドにつながっていくのだと思っています。
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このAlexiaでも相変わらず塗装のカラーを選べるわけですが、これまた相変わらず綺麗な塗装です。ガンダムのプラモなんかをキレイに作ろうとして、エアブラシで吹いたりしていると、塗装というものが如何に難しいものかよく分かるのですが、このエンクロージャーの塗装は凄い。発色のみならず表面の平坦性とか、塗膜の強さとか研究し尽くされています。BMWなどの高級車の塗装に使われるシステムを導入しているらしいですから。均一で深みのある色合いはリビングの色調にマッチさせるべく、慎重に選ぶべきでしょう。ウィルソンオーディオもビビッドオーディオもカラーを選べるのですが、ワンペアにつき一色だけ。でもAlexiaは片チャンネルは事実上の3つの別々なピースで出来ているのですから、こうなるとコンビカラーも所望したくなりますよね。ピュアホワイトとジェットブラックのコンビとか、メタリックグレーとメタリックグリーンのコンビとか。全くナイ話じゃないと思います。


The sound 

やはりウィルソンらしい解像度の高さが光る音ではあるのですが、音の質感から来る洗練された親しみやすさが前面に出た不思議な音です。

エンクロージャーを鳴らさぬということをずっと前面に出して売ってきたウィルソンオーディオなのですが、ライバルとなるKrellのLATシリーズの登場あたりから、そういう一辺倒に突き詰めた雰囲気を脱却して、一本槍でない音、多彩なサウンドを出してきました。現在は、単純に鳴らないエンクロージャーを極めるのはマジコあたりに任せ、我がオーディオ道をさらに深く極めようというところでしょうか。

実は、シャープな音です。
私自身、System6を数年使っていた耳ですから、音のディテールが表立っているのはわかる。音の粒立ちもとても良くて、その質感は自然でリアル。でも昔のSystem6のような、クールで禁欲的で集中した音の出方ではなくて、むしろ開放的な音場を拓き、音の温度感も若干上げ、スムーズで柔らかい音作りを志向したもののように思います。オトナの音。

振動板の材質が極めて軽いものなのに、このスピーカーの能率はそこまで高い方でもない。このクラスのスピーカーで90dBですから。事実、ペーパーコーンを使った超高能率な昔のスピーカーみたいに軽々とした鳴り方はしないです。各帯域のつながりを良くするためのネットワークが重いせいでしょうか。音の軽さよりも、適度な重みを感じ、その程よい重みは音楽の安定感へとつながっていきます。

音のスケール感は特筆すべきで、音場は大きく深く広がって清々しい。このスピーカーの音場展開はマジコのように、どこまでも広く整理されているけれど妙に奥まった鳴り方、ビビットのG2 giyaのような全方向へ広がるけれど音像がやや朧(おぼろ)になる鳴り方、YGのように音場と音像が適度にバランスしつつも、音像自体がグィッと前に出るような振る舞いが時に目立つような鳴り方、どれとも違います。
開けた地平線を、遠く眺めやるような広々としたスペクタクルが展開しますが、左右の端は緩やかにフェードアウトするので、音場としては深さ方向の広がりの方がやや目立つようになります。しかし、単純に奥まった音にはならなくて、音像はリスナー側にもしっかりとせり出してきて、YGほど強くないにしろ、適度な音の圧力を常にかけてきます。ウィルソンのスピーカーは窓というよりは、レンズという印象が私にあります。Alexiaを用いれば、巨大な広角レンズで近景の飛び出しと遠景の奥行の深さを丸ごと写真におさめる快感を、音の世界で味わえます。

高域には、いかにも高性能ですよという訴えかけがなく、控えめな振る舞いを、まず感じます。超高域まで発音していることを暗示するかのような、ハッとする音の伸び方はしないです。ダイヤモンドツィーターを使うスピーカーで感じるような高性能感は微塵もなくて地味です。それから今までのウィルソンのスピーカーの高域よりも柔らかいことも付け加えるべきでしょう。でも、とても細密な音の描写であることに、ウィルソンらしさが出ています。

中域はタップリと厚みがありますが、透明感は抜群という少し変わった雰囲気ですね。アンプのせい?いやいや、それだけじゃないでしょう。声は落ち着いた太いトーンで描写され、朗々と響きます。音がとても澄んでいて見通しがいい。ここでもかなり細かな音の襞がよく見えるので、神経質な描写に偏るのかと思いきや、
音は鋭くならずに、あくまで柔軟さを基調にしています。やはり、この柔らかさが親しみ易い印象につながるのでしょう。

低域は非常に力強く鳴ります。大太鼓の連打は腹に来ました。ここで感じる音圧は暴力的な固い拳骨のようなものではなくて、ウーファーから吹く強い風当たりのようなものですが、音楽は終わった後で来るんですね、腹に。もちろん、このウーファーは、そういう重厚さばかりではなく、リズミカルで速い動きをする音楽にもしっかりついてくる、機敏なものでもありますから、Alexiaは、いろいろな音楽に上手に追随してくれる低域の持ち主だと思います。

Alexiaのサウンドは、見事なピラミッド型のバランスを保つ、堂々と安定したものです。これは完璧とさえ思える帯域間のバランスの良さ、各帯域の破綻のない滑らかなつながりから来るものだと思います。この背景には、優秀なネットワーク設計があるように聞こえます。こういうスピーカーは厳密なセッティングさえ施せば、明らかな欠点が見つけにくい見事な鳴りを披露するに違いありません。

確かに、これほど厳密なセッテイングができるスピーカーは少ない。逆に言えば、そこまで細かいユニットの位置の調整は要らないと、多くのスピーカーメーカーが思っているからかもしれない。つまり、このような機構が、いい音を得るために必須かどうかは分からないのですが、このような機構を活用すべく、ユニットごとに目盛りを読みながら、スピーカーの振り角を変えながら、あれこれと調整をしていると、突然、音が良くなるスィートスポットに出くわすことがあります。望遠鏡で景色を見ようとして、リングをあれこれ回している途中でピントが急に来たときの感動と、よく似た感覚です。ウィルソンの調節システムは一見、リスニングポイントを厳しく限定し、狭量な聞き方をリスナーに強いるのではないかと心配になるのですが、実際、調節して聞いてみると違います。勿論、そういう聞き方もできるのですが、逆にもう少し広くリスニングポイントを取れるセッテイングも可能なのです。要は、オーナー次第なのだと思います。


Discussion and Summary

昔よく聞いていた箱型のスピーカーと対面しているような要素がある音だと思います。懐かしい安心感と最新の音響技術の精華が融合したような音であり、訳知りのオーディオファイルに、その真価を訴えかけるタイプです。マジコやビビッド、YGなどの前衛を行くスピーカーに比べて、多少地味な出音ですけど、こういうスピーカーは、貴方のような手練れのファイルのところにこそ、納まりがいいのではないかと。なにより、この安心して身を委ねられる、ゆとりと親しみやすさが、この解像度、このサイズにして得られているというのがいいと思うのです。

東京に住んで、秋葉原や御茶ノ水なんかを徘徊していると、高性能な最新スピーカーを聞く機会がよくあるのですが、なにか一味足りないなと思うことがあります。喜怒哀楽があり、幸せがあり不幸があり、突然の出会いと別れがあり、対立と許しがある。そして、生と死も。人の世界は両立しそうもない様々な出来事と、それにまつわる理性と感情とで複雑に絡まっています。オーディオがそういう人間世界を表現したり、それを聞く人間の心に訴えたりするためには、機械的に突き離すような孤高の気高さではなく、傷ついた心を癒すような親愛が必要ではないか。私はAlexiaの出音の中に、現代のハイエンドスピーカーに見出しにくくなった愛すべき資質を少なからず感じたのです。

そういえば、お暇(いとま)するときには、
いい具合に雨があがっていましたね。
天気予報は雨のち晴れでした。
さすがに虹までは出ていませんでしたけど、
空は晴れわたっていて、気分は良かった。
冷たい空気の中に白い息。
後部座席から振り向いて見ていましたら、
いつものように大きな身振りで、
私に手を振り終わった後で、
青く澄んだ空を見上げて、
立ちすくんでおられるようにお見受けしました。

できれば、次回は愚痴じゃなく、
今度こそ、音楽を聞かせてくださいませんか。
新しくも懐かしき貴方の音でね。

# by pansakuu | 2013-04-22 21:19 | オーディオ機器

さらば SACD:16枚のSACDの私的レビュー

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もう、ここらで仕舞いにしようと思うのはSACDのコレクションである。
これは、確かに細くなっているものの、
SACD自体のリリースがなくなりそうだからということではない。
SACDは、さしあたり絶滅はしないであろう。
そうではなく、私の聞くような、クラシック音楽以外のジャンルのアルバムが
SACDで潤沢に、コンスタントにリリースされる気配が、
もうなさそうだということが最大の理由である。
現在のSACDのニューリリースは大半がクラシック音楽である。
なぜ、クラシックのタイトルばかりリリースするのだろうか?
SACDを買う人がクラシックだけを聞いているとでも思っているのか。
あるいは高音質で聞くべき音楽はクラシック音楽にしかないとでもお思いか。
結局、クラシックのSACDぐらいしか売れる見込みがないということなのだろう。
購買能力や人口構成を見てビジネスをするという合理的な視点に立てば、
一番購買力があり、人口比率も高い団塊の世代をターゲットとした、
このようなクラシック優先のリリースは当然かもしれない。
しかし、この商法は未来への道筋を照らしていない。
新しい人間も、新しい音楽も地球上に次々と生まれている。
何にしろ、この依怙贔屓(えこひいき)は許せない。

しかも、クラシックに限らず、
どのジャンルもリイシューばかりで、新録音がほとんどない。
(ここで言う新録音とは、録音が最近されたかどうかではなく、録音後、初めてリリースされる際に、SACDでリリースされた録音のことを指す。つまりCDで 既にリリースされ、ロングセラーとなり定評がある“安全な”アルバムをSACD化したものではないという意味である。)
アナログレコードについては、クラシック以外のジャンルであれば、新録音のリリースはとても多い。あるお店からロック、ヒップホップ、ハウス、エレクトロニカ等のLPのリリースに関するメルマガをもらっているが、毎週チェックしきれないほど多くの、新たなLPの情報が送られてくる。SACDとは全く違う様相である。
とにかくSACDには、音楽の多様性と新陳代謝がない。

私はSACDには積年、様々な不満を抱えてきたが、
そのほとんどは、今も積み残されたままだ。

例えば、アナログレコードであれ、CDであれ、MP3であれ、ジャンルを限らなければ、その形でしか聞けない音楽ソースというものが少なからずある。しかし、SACDだけは、SACDでしか聞けない音楽というものを、ほとんど持っていない。これも、SACDの存在感が薄い原因の一つではないか。

最近、流行のSACDのデータ版とも言えるDSDのデジタルデータについては、
未だ、ダウンロード等で入手できるタイトル数はかなり少なく、全く心もとない。
そしてSACDは事実上、リッピングができない。
日本国籍を持つ者がこれをやれば、法律違反である。
だが、どんな理由をつけても、CDをリッピングしていいのに、
SACDはダメというのは、私には感覚的に理解できない。
とにかく日本では
入手したSACDをCDのように自分で合法的にデジタルファイル化できないのだ。
しかも、そのリッピングのために必要な装置も、それなりに特殊。
ここらへんもSACDを買わない理由である。
ただし、これは結局、日本人であることを捨ててまで、
オーディオに打ち込む覚悟はないということでもあり、
私のオーディオに対する情熱など、たかが知れているということにもなるが。
そういうわけでDSDのデータが私の手元で増える気配はない。

PCMのデータについては、ハイレゾはともかく、
普通の16bit,44.1KHzのデータなら
個人で、いくらでも簡単に増やすことができる状態であるが、
DSDはこういうことはできない。
最近発売されるDACの多くがDSD対応を誇らしげに謳うが、
これで一体なにを聞けというのか?
PCMをDSDに変換するソフトもあるが、
それはDSDのシンプルな変換という利点をスポイルするのではないか。
こういうDSDデータのハード先行状態はいつになったら解消されるのだろう。
DSDがPCMデータのタイトル数を追い越すことは有り得ないという見方もある。
またハイレゾPCMとDSDの質的な差は明らかではないという人もいる。
この状態が長引けばSACDと同じ道を辿りかねないのではないかと危惧する。
DSDデータの拡充に関しては音楽業界の努力にたよるのが専らで、音楽好きの一般大衆は、それを買って感想をブログに書くくらいしかできることはない。DSDデータが爆発的に売れて、音楽業界に大きな利益をもたらし、DSDデータのタイトルがさらに数を増やすという図式が成り立ちそうもない状況下では、そういう危惧も出てしかるべきだ。

評論家の方々はDSDデータの宣伝に余念がないが、
今は滅びゆくSACDについても
彼らは以前、提灯記事ばかり書いていたことを私は忘れていない。
それは職業として、また音楽業界振興のため仕方ないこととはいえ、
今となっては、あまりにも軽い言葉だったのではないか。
DSDデータの音の良さは認めるが、
これがオーディオファイル用の音源として
メインストリームになるかどうかはもっと長い目で見ていくべきだ。
まだまだ分からない。

SACDのハード面に関して言えば、
まず、SACDの再生を担うドライブメカのバリエーション不足は否めない。
ハイエンドオーディオ用としては、
実質的にエソテリック製のメカ一択にほぼ近い状態と考えられるが、
エソテリック一社で、この種のこのレベルのドライブメカを
いつまで供給しつづけることができるのか、強烈な不安を感じる。
エソテリックの工場の見学記などを見ると益々、その感を強くする。
日本の家電全体にそうなのだが、
この先、大きく売れる見込みがないものを丁寧に作りすぎている。
こういうモノ作りは感動的であるが、会社の経理を悪くさせるかもしれない。
感動するものと売れるものは別物である。
最近、ある若い人とSACDを聞いたら、音楽を聴くためにディスクを出し入れするのを初めて見て驚いたと言っていた。こういう若者は数多い。彼らはダウンロードしたデータでしか音楽を聴いた経験がないのである。
つまり、現況として、音楽そのものと関係のないオマケがついていないシルバーディスクは売れなくなっているのだから、それを回すメカの供給も抑制されるのは言うまでもない。そういう状況で採算が取れるものなのか?一般人には信じられないほどドライブメカの単価を高くしないと儲けは出ないだろう。しかも、ハイエンドオーディオ用としての使用に耐えるオリジナルのSACDドライブメカの生産は、現在、ハイエンドなアナログプレーヤーを作っているような個人企業に近いメーカーには困難なものである。すなわち、これがダメなら他があるさ、という状況にはなりにくい。
オーディオ誌ではこの手のペシミスティックな論調は禁句らしいので、全く聞かれないが、本当に彼らには危機感がないのだろうか?そんなことはあるまい。

また、実際、SACDに対応するドライブメカの耐用年数はどれくらいなのか?
CD専用のものと同じなのかどうか?
実際に、ドライブメカというものは明日にでも壊れるかもしれないもの、
ということは経験で思い知っている。高価なプレーヤーだけに、
いつまで修理、交換が可能なのかは常に気になる。
さらにセパレート型のSACDプレーヤーについては、
トランスポートとDAC間のデジタル伝送形式がメーカーごとに異なることも、
中古市場で代わりのトランスポートのみ、
あるいはDACのみを探すときのネックになっている。

実はSACDについては、今まで述べてきた意味とは、
また別な意味でも難しさを感じながらやってきた。
つまり、
SACDの難しさのひとつはSACDプレーヤーの選択の難しさであるということだ。
10年前からそうだったが、
SACDの本当の良さをリスナーに
心底から分からせてくれるプレーヤーが少ない。
今使っているのはPlaybackのMPS-5であるが、
SACDプレーヤーの入れ替え、入れ替えで三台目、
やっとめぐり合えたものである。
MPS-5は賛否両論あるプレーヤーだし、
この音が嫌いな人、飽きる人がいても仕方ないと思うが、
私にとって、彼はSACDの本当の良さを教えてくれた恩人であり、
おそらく私にとって最後のシルバーディスクプレーヤーでもあろう。

ではSACD再生に適したプレーヤーの条件は何か?
ここまで言っておいて情けないのだが、実はよくわからない。
やはり試聴を繰り返して経験を増やし、本来のSACDの音を知り、
納得ゆく音を出すSACDプレーヤーを、さらに試聴して探す以外にはないと思う。
手がかりはPCMを経由しない、DSDダイレクト変換かどうかということだろうか。
SACDの良さが出るか否かは
シンプルな過程で変換されるか否かにかかっているように思う。

さらに、SACDは、
現代的で優れたアンプ、スピーカーを擁するシステムで鳴らさないと
本当の良さが分かりにくいということもある。
そうでないと本来の感動が来ないことを、ここ数年で知った。
全体として音の鮮度の高さと空間性が両立しているシステムでなくては、
SACDの良さを表現しきれないのである。
最近、dcsのVivaldiというシステムを何度か聞く機会があった。素晴らしいSACD再生を聞かせるシステムである。しかし、あの音を飲み込んで、十分に消化して吐き出せるアンプ、スピーカー、ケーブルを考えると、もともとVivaldiシステムが高価すぎるのに、さらに半端ないオーディオへの投資を迫られることを考えて気が重かった。ある程度、これを買おうという高揚した気分のもとに試聴したのだが、これは本体以上に周りが良くないとダメだなと思い、自分のシステムではその良さを引き出せないと知ったのである。

こういう事実からして、
SACDの本当の良さは、
オーディオファイルの中でも限られた人にしか理解されていない。
私もSACDの良さを求めて10年も取り組んできて、
本当にそれが分かったような気分になれたのは、
システムがそれなりに充実してきた、ここ数年のことに過ぎない。
こんなことだから、SACDが普及しないのかもしれない。

こうして考えてゆくと、
少なくとも、今の状況ではスーパーオーディオCDというデジタルパッケージには
明るい未来がないように思う。
状況が変わらないかぎり、
私はSACDを新たに買い足すのは手控えようかと思っている。
具体的には、クラシック以外、特にロック、ポップス、R&Bの名盤の
マスターテープからのSACD化が大幅に促進されること、
新録音のSACD化が大幅に増加すること、
さらにSACDドライブメカの信頼の置ける供給元が新たに現れることが、
本格的なSACD収集を再開する最低限の条件だが、ここ10年間の流れを見ていると、
これらが満たされることは、ほとんど有り得ないことのように見える。

今回は、私がいままで集めて、聞いてきたSACDのうち、
音質・内容ともに、自分で気に入ったものを選んでレビューし、
ここ10年ほどの自らのSACD収集の一応の区切りとしようと思う。

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# by pansakuu | 2013-03-23 11:46 | 音楽ソフト

What's the Story Morning Glory :OASIS(single layer SACD)SONY(2003)

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こういうSACDもあるのである。かなりメジャーなアルバムだが、SACDとなれば、OASISのコアなファンもご存知ないほどのレア盤となる。もともとCDバージョンを聞いていて、このアルバムに収められた音楽がHi-Fiを目指したように聞こえなかったので、SACDバージョンをリリースして何になるのか?と思っていた。しかし、このSACDをMPS-5に滑り込ませて、プリアンプのボリュウムをギュッと上げて見給え。CDとは桁違いの音の拡がりと、意外なほどの力強さが、部屋いっぱいに拡がる。一緒に大声で歌いたくなるほどウキウキが、このSACDには隠れている。例えばビートルズをリアルタイムに最高の音質で聞いたら、こんな感じだったに違いない。あくまで大音量で堂々と鳴らすこと、そしてDSDダイレクト変換を事とする強力なデジタルプレーヤーが必要だが、価値ある一枚である。ところで、このアルバムのジャケット写真はロンドンの中古レコード店街、Berwick Streetで撮影されている。このジャケットを眺めながらSACDを聞いていると、なぜかアナログレコードが恋しくなる。SACDからアナログへの回帰が私の中で始まっているのかもしれない。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:40 | 音楽ソフト

Never Too Much:Luther Vandross(single layer SACD)SONY(2000)

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偉大なR&Bシンガー、ルーサー バンドロスの事実上のファーストである。SACD盤は音の鮮度がCD盤とは明らかに異なり、跳ねるようなリズムから感じられる生命感に満ちた瑞々しいサウンドが、広大なサウンドステージを満たす。若き日のバンドロスの、ほとばしるようなエネルギーを備えた、しなやかな声がSACD特有のキメ細やかな音の描写法に見事にマッチする。もともと録音も良く、マーカス ミラー、アンソニー ジャクソンをはじめとするバックの演奏も最高、ボーカルは弾けていて非の打ち所のないアルバムであるがゆえにSACD化の意味はある。このアルバムに横溢するアクの強いボーカルスタイルは、歌唱に込められた喜怒哀楽を突きつけるようで、どこか脅迫的だが、最後のフレーズが消えた後に残る余韻は、いつもしんみりしている。この寂しげな余韻がいい。やがて悲しき・・・となるのはAIDSにより非業の死を遂げた彼の運命が脳裏によぎるからだろうか。なぜか、ここのところの感情移入がCD盤よりもSACD盤がしやすいのが不思議だ。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:39 | 音楽ソフト

Minimum Maximum:Kraftwerk(Hybrid SACD)EMI(2006)

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2004年4月から5月にかけてのワールドツアーのライブアルバムである。 各地の公演をからのコンピレーションアルバムである。クラフトワークは私の中ではテクノの始祖であるが、現代の音楽に彼らが与えた影響は、まだ測りきれてはいない。まだあれから10年も経っていない。この二枚組のライブアルバムは、彼らがステージの上にシンセサイザーを前にして、ズラリと横に並ぶスタイルで演奏する様子を、サウンドスケープで活写する。彼らが使っていた、あの頃のシンセサイザーの音には、不思議な軽みや丸やかさが混じりこんでおり、現在の打ち込み音楽に多い、耳を刺すような硬さがない、どこかアナログ的なテイストを感じる。SACDはこのようなシンセの音のテクスチャーの違いを雄弁に語る。また、SACDに特異的とも思える空間性の向上はライブアルバムの臨場感をより細かく伝えることは言うまでもなく、会場のエアボリューム、温度感の描写において、CDとの差は明らかだ。確かに、こういう音楽のライブを高音質で楽しむこと自体に意味がないと考える向きは多い。しかし、これについては、個人的嗜好を超えて、重要な音楽史の記録であるがゆえ、可能な限り鮮明な再生が、故きを温ね新しきを知るためにどうしても必要だと私は思っている。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:37 | 音楽ソフト

Home Girl journey (Akiko Yano)Epic(ESGB302)(SACD)2000

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このSACDは非常に入手しづらい。しかし、このSACDは聞きモノである。
もともと、CDで聞いても、カバー曲の多い、ざっくりとした飾らない雰囲気ながら、その生っぽさが際立つアルバム。SACDだと鮮度が一段以上も上がる。
昔、SONYのカセットテープレコーダーでバンド演奏を生録し、プレイバックしていたときの音の手触りが蘇る。人工的な現代風のサウンドスケープとはまるで違う宅録の世界である。素晴らしく個性的な録音で、冒頭のハンドスラップの響きから、ピアノの生成りの音、特徴的な矢野顕子のボーカルスタイルがスッピンで聞ける。まさに彼女の部屋に招かれて目の前で、彼女の弾き語りを独占するような錯覚に陥ることができるのだが、先述のようにCDとSACDでは生々しさのレベルがかなり異なる。SACDのスッピン度を体験したら、CDは売ってしまいたくなる。彼女の音楽の評価にはそのスタイルの好き嫌いで大きい差があるのだが、そんな嗜好云々をさておいて、このSACD一枚を通しで聞き終えたときの満腹感は音楽的にも、オーディオ的にも格別のものがある。生音がいいというオーディオファイルは少なくないが生音って何?と訊きたくなるアルバムでもある。このアルバムの音は、私はとても生っぽい音だと思うが、こういうサウンドは他のSACD、CDからはほとんど聞けていない。では皆さんはどんなアルバムの音を生っぽいと言うのか?結局、そういう判断に基準はなく、人それぞれなのだろう。

このSACDは手に入りにくいと言った。当然、プレミアつきで取引されている。最近、気が付いたのだが、ダウンロードされるハイレゾデータには、このような希少性はない。目ぼしいものが出ても、すぐに飛びつく必要はない。いくらでもあるものなのだ。いくらでもすぐにコピーできるもので、在庫という形はないから、いつまでもネットショップに出しっぱなしになっている。一方、このSACDのように目の前に一枚しかないものである場合、その音を聞きたければ、今すぐ大枚をはたく必要がある。誰かが買う前に。その素早い行動にはスリルもあるし、手に入れた時のワクワクも大したものである。音楽をダウンロードする時代になり、この手のスリリングな体験は少なくなってきた。こう思うとき、私はこのSACDが無性に愛しく思える。古い考えだろうか。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:35 | 音楽ソフト

Great American Song Book:Carmen Mcrae(single layer SACD)Warner(2011)

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一般にスッキリした音になるというSACD版であっても濃厚な味わいは出るものだという例である。サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドと並ぶ三大女性ジャズヴォーカリストのひとりであるカーメン マクレエである。さすがの貫録。歌以外にもジョー パスなど、バックのメンバーの演奏も素晴らしい。ロスのダンテという名前のライブ・ハウスでの録音であるが、この時代のロスの空気がリスニングルームにやってきたように感じる。
このディスクに収められている円熟味溢れるカーメン マクレエの歌と軽妙でフランクな語りは、クリアーだが色彩感としてやや淡い音調に傾くと思われているSACDの傾向を払拭しているようだ。私にはブラックミュージック特有のバタ臭さがSACDの音質を改変するなんてことは私には考えられない。実際にはSACDには音数は多いが実在感が薄いという音質的傾向などというものはなく、ディスクに刻み付けられたデータをありのままに再生する能力しかないはずだ。SACDの器そのものとは関係ない、なにかが、音質的な傾向を形作っているのだろう。おそらくそれは録音とかリマスターとかのSACDの製作過程やSACDプレーヤーでの再生プロセスの中に入り込むものなのかもしれない。大概のSACDは音は細かいが、スカスカした薄味だとお思いの方は、このSACDを試してもいい。このSACDでは広大な音場や澄んだ空気などがあまり感じられず、代わりに、それほど広くない会場での観客とミュージャンの親密な交流がよく見える。私のSACDプレーヤーはわずかにセピア色を帯びたカーメン マクレエのボーカルの音色を私のイメージどおりに出してくれる。こういうときはなぜかJBLをスピーカー持って来たくなる。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:31 | 音楽ソフト

Sleepwalk:Larry Carlton(single layer SHM SACD)Warner(2011)

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邦題は確か「夢飛行」だっただろうか。ラリーカールトンのギターの出音の心地よさが際立つアルバムである。クリーンで、少し冷たさをはらんだ空気の中に伸びやかに拡がる彼のギターサウンドは、精密な質感、音場展開を得意とするスピーカーが好適である。B&W 800Diamondによる再生では、部屋の中に音波が美しく拡がる様が目に見えるように感じた。絵にすれば、波のない夜の水面に滴下される水滴、それが作り出す輪のような波紋が、互いに干渉しながら水平に拡がるというビジュアルだ。これを引いた視点で眺める贅沢なリスニングはSACDならではの澄んだ音場あってこそだろう。音楽の傾向自体は多少古臭くて、所謂“泣き”ギターなんかも存分に聴かせるのだが、発売当時はこの音質では聞けなかったので、その美しさは充分に堪能できてなかったと確認したりする。リイシューのSACDの良さがここにある。それにしてもラリー カールトン、このアルバムのクレジットによるとアレンジとコンダクターの両方をやっているとある。こういう人は本当に才能があるのだろう。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:29 | 音楽ソフト

スターダスト・ランデヴー井上陽水・安全地帯LIVE AT 神宮:(Hybrid SACD)Universal(2004)

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時代を感じるSACD。1980年代の音楽は、今よりは呑気で、どっか雑で緻密さに欠けた感じだったが、勢いには満ちていた気がする。80年代の音楽を聞くと大抵は丁度良く色あせて見えるものだが、このSACDで聞くと昨日のことのように鮮明に聞こえる。陽水・玉置の声の伸び、活き活きとした躍動がSACDでは一層深く味わえる。
このとき安全地帯は陽水のバックバンドではなく、対バンとしてステージに上っているので、対等に渡り合うかのような堂々たる玉置の歌いが素晴らしい。
現在の陽水のちょっとクサすぎる歌いまわしとは一味違う、例のリバーサイドホテルも聞きモノである。このアルバムの録音は神宮球場ということで、音のスケールが大きい。
できれば大型システムで大音量でかけたいものだ。以前、MEGのME901KAで、これを聞いたときの音像の迫力と神宮を埋めた見渡すかぎりのオーディエンスの存在を感じる空間のひろがりの両立には一聴する価値がある。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:29 | 音楽ソフト

bird:Bird(single layer SACD)SONY(2000)

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この頃のbirdが最もBirdらしい、私には、そう聞こえるアルバムである。重く強いビートに若々しいBirdのボーカルがちょこんと、ほがらかに乗って泳いでいるのがいい。SACDではリズムとメロディがはっきりと分離し、混濁感が払拭されているお蔭で、彼女の声がCDより一層近く、そして純粋に感じる。アシッド ジャズとかソウルの領域で歌うのかと思いきや、アンビエントの要素あり、ヒップホップもありの楽しいアルバム。(それにしてもSUIKENをここで聞くとは、と当時はノケゾった、Jラップ好きの私)これは型番は失念したがPMCの大型モニターで一度聞いたことがある。バックの打ち込みビートのソリッドさと、ちょっと鼻にかかっていながら柔らかくも弾力に富んだ彼女のボーカルの対比が強いコントラストで表現されていた。SACDにも、こういうエッジの利いた表現ができるのに少し驚いたものだ。確かに最近、Suaraをはじめとして日本の女性アーティストのSACDアルバムがリリースされるのを少数ながら認めるが、声質のみではなく、ボーカルスタイルの全体の個性や、収録曲の作曲やアレンジに、このBirdのアルバムほどの新鮮な音のインパクトと聞く人を楽しませる仕掛け、老獪な音のバランス感覚を感じないのは残念だ。アーティストの実力云々ではなく、プロデュースの力の差なのかもしれない。もちろん、これはSACDに限らず、最近の全ての日本の女性ボーカルのアルバムに言えるが。この頃の大沢伸一はキレていたと思う。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:26 | 音楽ソフト

ARTURO BENEDETTI MICHELANGELI Live in Tokyo 1973:(single layer SACD)Tokyo FM(2012)

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いくら私がクラシックを聞かないとは言っても、新しく出るSACDの8割以上がクラシック音楽のように見える状況から考えて、それを無視もできない。当然ながら紹介したくなるアルバムも出ている。このSACDが捉えたミケランジェリという芸術家は、神の如きタッチを持つピアニストである。最高の音楽家は、ただ一音を発するだけで、その能力の高さを聴衆に思い知らせることができるが、彼はまさにそのクラスのピアニストであった。彼がコンサートを開くと、必ず何人かのピアニストが自分の能力の低さに絶望して、ドロップアウトしたと聞くが、その絶望は彼の独特のタッチに代表される別格のテクニックに起因する。しかし、彼のピアニズムの全貌を、現代に生きる私が適切な録音で知ることは、このSACDが出るまで大変難しいことだった。少なくとも私にとっては、これまでどのアルバムを聞いても、ノイズに邪魔され、曇りガラス越しでしかミケランジェリのタッチを目にすることができなかったからだ。このSACDで初めてクリアなコンサートホールの空気を通して見ることができるようになった感動は大きい。並売されるブルースペックCDの音質も十分なれど、シングルレイヤーのSACDによる演奏空間の最密な描写は明らかなアドバンテージを感じさせる。この演奏を聞いていると、鍵盤に触れるだけで、これほど変幻自在に音を出せるということ自体が驚きであり、それがSACDという大きな技術の器により、生々しく甦った奇跡である。使い古された言い方だが、聴覚のタイムマシーンとしてのSACDの優位性を改めて賛美したくなる。ここで深く味わうべき緩めのテンポは、観客の魅入られた心をどこへ運んでゆくのか。そこは、おそらく麻薬的な幻想の世界なのだろう。このSACDを聞くためにスピーカーを選べるなら、繊細至極なサウンドで知られるクォードのESLや、ディスコンとなっているが、ピアノ演奏専用とも言われていたベーゼンドルファーのスピーカーでこれを聞いてみたい。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:25 | 音楽ソフト

In A Silent Way:Miles Davis(Hybrid SACD)SONY(2007)

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JAZZ絵巻である。静寂感と緊張感がないまぜになって漂う音場が舞台である。露払いのマクラフリンのギターの背後から、それを切り裂くようにマイルスのトランペットが一閃する瞬間に、いつもハッとする。何度聞いても、愚かにも同じ反応をしてしまう。マクラフリンはマイルスと初めて会ったのが録音の前日らしいのだが、初対面で翌日に、こういう役目を仰せつかったとは。メンバーはいちいち挙げないが、凄い面子である。これほどの面子を集めて、やっている内容は案外シンプルというアルバムである。音楽が一直線に進み、曲りくねった、ややこしさはない。トニーウィリアムズが完全に裏方で、ちょっと輝いていないような気がするが、これがマイルスとグループとして組んだ最後の録音であったというので納得。実はこのアルバム、別にこれはSACDで聞かなくてもいいじゃないかと思っていた時期があるほど、私にとってはSACDの音質的な優位性がはっきりしないアルバムだった。このアルバムは音楽的な存在感が大きく、オーディオ的な部分に注意が行きにくいせいもある。ただ、やはり大音量でかけると、ザビヌルのオルガンの細部の描写などに実は甘さがないSACDのアドバンテージは感じられる。しかし、そういう音量でないと差がはっきりしないのは困る。リマスターするときに音圧を上げたりする傾向に苦言を呈する方が多くおられるが、このSACDを聞いていると、ただフラットにトランスファーしても、必ずしもいい結果になるとも限らないのかなと思う。まさに素人の戯言そのものの発言ではあるが。一方、このアルバムのアナログレコードはノイズがあっても音の存在感はより強烈であるように思う。SACDでは細かい音が出ていても、その存在感は希薄だ。LPでは一度しか聞いたことがないが、このアルバムをSACDで聞くたびにLPでの再生の見事さを思い出して、SACDの問題点、あるいは限界を思う。アナログがいいのかSACDがいいのかなどという議論は不毛で、両方とも持てばいいと思っているのだが、このマイルスのアルバムをアナログとSACDを聴きくらべた体験を回想していると、SACDの方が勝手に自滅していくのではないかという予測に行き着くのが悲しい。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:22 | 音楽ソフト

Avalon:Roxy Music (Hybrid SACD)Virgin(2003)

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エキゾティックな理想郷への憧憬をそのまま音に変えたような、見事な明るさと透明度を持つ空気感、浮遊するカラフルなシンセのサウンド。これはSACDでなければ十分に聞けない世界である。ブライアン・フェリー特有のダンディズムが横溢する歌詞も楽しみの一つなのだが、やはりこのキレのいいサウンド、圧倒的である。これはBoys and girls (Bryan Ferry ) Virgin (SACD)と双璧をなす。十分な能力を持つシステムで大音量で再生すると、音の展開が凄まじい。周りを見回したくなるほど、色とりどりの音がうねる様にリスナーを囲んでくる。人工音の素晴らしさを堪能すべきアルバム。既に古典的な名作なのだが、いつ聞いても新しく感じる。オーディオの評論家や技術者の方々は口を揃えて生演奏、生の楽器の音を聞くことが大事だと言われる。これは、クラシック音楽に使われる、ピアノやバイオリンなどの楽器の音を生で聞くことが大事だという意味だと私は解釈している。それはそうだと思うが、事実上、現代の音楽も、それを作る音楽家も生楽器の音を基にしていない場合の方が多い。現在はクラシックのコンサート以外で生の楽器から出た音をそのまま聞く機会はなくなってきている。このSACDはいわゆる生楽器の音はほとんどなく人工的な音から成り立つ音楽を収録するが、その音が生む感動は生楽器の演奏による音楽に劣らない。生楽器の音を生で聞くことが良い体験であることに異論はないが、それだけでいいのかと、このSACDを聞いていて、私はいつも思う。今の世の中にはもっと多くの素晴らしい音楽が存在しているのに、生楽器が奏でる音を、そのまま録音したものだけがオーディオ界では、もてはやされ過ぎているのではないか。良い音楽、良い音というのは楽器になにを使っているかということには関わりはないと思う。そして、勿論、Avalonの音はAvalonで聞くべきだとも思う。私はAvalonのDiamondで思い切り音量を上げて、このアルバムを通しで聞いたときの快感を忘れない。

# by pansakuu | 2013-03-23 11:21 | 音楽ソフト