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ハイエンドオーディオの乖離と空白について

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上奉書屋時代から数えると随分な数のオーディオに関するレポートを書いてきて、良い意味でも悪い意味でも、私の書き物を評価する人が増えたように思う。そのせいか、時に身に覚えのないことを急に言われたり、突然に全く見ず知らずの方に声をかけられたりすることも多くなってきた。その度に小さく驚き、状況を分析する。そして自分のやり方で反応するということを繰り返している。


ここしばらくヘッドホン関係の話ばかり書いてきているのだが、数日前にあるハイエンドスピーカーの開発者の方に、スピーカーはダメなんでしょうか?と詰め寄られて驚いてしまった。(それにしても何故、私が万策堂だと分かったのだろうか)

私は少し考えてから、スピーカーはダメではないが、このまま行っても面白くないので、業界として軌道修正は必要なのではないかと僭越な返事をした。

最近の、このブログのヘッドホンびいきは、あくまで私の個人的な事情で、そちらの方に関心が向いただけのことであり、オーディオの最先端部だけを見れば、価格はともかくとして、凄い音を出す機材は増えており、スピーカーもまた然りなのである。しかし、それの最先端の機材は規模といい価格といい、実質的に私のような一般人が導入対象として考える機材ではなくなってきた。普通に考えて、たかが音楽を聴くだけのために、そんな金銭と労力と時間を使うのは合理的ではない。

十分に賢い人なら、オーディオに割ける余裕があっても、そんな額をたった一つの趣味に注ぎ込まないはずだ。


実は、既に試聴していて、あるいは導入した経験をもっていてレポートを書けるスピーカーオーディオ用の機材はいくつもある。しかしそれらは一般的なオーディオとかけ離れた価格と規模を持っていて、一般のオーディオファイルは誰も関心を持たないだろうと思って書かないのである。事実、アクセス分析をしても、その手の機材の記事に人気がないのは一目瞭然である。(もっとも、ここに書いているような話はもっと人気がないし、これを読んで気分を害する関係者も多かろうから、さらに書くべきではないのかもしれない)


このあいだ都内某所で、史上最高とも噂されるY社の大型スピーカーのサウンドを浴びるように聞いて、その音の良さを堪能した後でも、そいつにはまるで食指が動かなかった。もちろん、これはかなりいいスピーカーであることは認める。少なくともマジコの新型スピーカーなどよりは私の好みだろう。だが、簡単に史上最高と言い切ってしまうのはどうかと思う。例えば、これはスピーカーオーディオの音質上の到達点の一つだろうが、音質以外の点で従来のスピーカーが持っていた問題をあまり解決できていない。まず、このスピーカーの強烈な低域用のウーファーを飼い馴らすには、天井の高い20畳以上の広い部屋、大音量を出せる環境、真にパワフルで余裕のあるアンプ(試聴時は760万円のモノラルパワーが使われていた)、潤沢な電源が必要だからだ。このスピーカーを豊かに鳴らす条件を揃えるのは難しいと思う。おそらく都内にあるオーディオ店の試聴室や専門誌・メーカーの試聴室の多くは、このスピーカーを十分に鳴らせないだろう。これはこれで不自由なスピーカーだと言わざるを得ない。音質を犠牲にしないで、このオーディオ的な環境の問題を解決できないかぎり、スピーカーオーディオは先へ進めない。


このY社のスピーカーは超弩級のルックス・構成の割にはとても聴き易い音で、アンプの選択を間違えなければ、ポテンシャルを引き出した状態ではないにしろ、とりあえずはリラックスした聴き味の良いサウンドで鳴ってくれる。試聴中に何度か眠りそうになったほどだ。

特に良かったのは高域の質感である。いかにも超高域まで伸びていますよとか、繊細ですよと言いたげな、これ見よがしな高域ではない。極めてナチュラルで耳当たりのよく、しかも厚みのある高域であり、巨大な自社製ウーファーの存在により強烈な印象を残すはずの低域よりもずっと好感度が高かった。ダイヤモンドツィーターほどの高性能感はないのだが、より深く愛せる音になっていた。新開発のフレームを入れたツィーターの良さが生きていた。

さらに、ここでは音の細部にこだわって神経質だったり、ダイナミックだが妙に荒っぽかったり、スケールが大きくて大音量に強いが、どこか大味な音だったりという超高級スピーカーにありがちな欠点がないのがいい。有得ないほどの低域の伸び、超低ノイズで規格外のスケール感もありながら、そのエンクロージャー自体は案外とコンパクトである。10畳くらいの部屋でも置けなくはない。しかし、その広さではこのスピーカーが提示する壮大なサウンドステージを全く生かせないだろうが。

この超弩級スピーカーはステレオアンプ一台でも鳴らせて、アンプを内蔵した別筐体のウーファー部のために電源が必要とかいう、デカいスピーカーによくある面倒な設計ではないのが素晴らしい。

しかし、このような音質上、構成上のメリットを前にしても、このスピーカーの音はやはり個人の好みによって好き嫌いが分かれるものであったと思う。こんなにスムースではなく、もっとガツンと来るサウンドを求める方もおられるだろう。もっと感情的に音に入り込めるドラマチックなサウンドを求める方もあろう。音像の描写にさらなる重たい存在感を求めるならウェスタンエレクトリックのヴィンテージシステムの方が優位と考える向きもあるかもしれない。ホーンのような音の直進性がもっと欲しいとか、逆にもう少し引いた音場を求める方もおられるはず。

このスピーカーの出音はバランスが良いので、若干のバランスの悪さを合わせ持つ不良っぽい音を求めるとハズレという考え方もできる。また、音以外に、このメタリックかつメカニカルなルックスが苦手という人はいるだろう。

本体の価格が2500万円を越えているので、この金額を払うなら、他のかなり高価なスピーカーシステムを複数選択できる。これほどの自由度を許す金額を要求しつつ、史上最高の称号を得ようとするスピーカーは好き嫌いをもっと越えたものであってほしいし、もっと革新的であって欲しいと私は願う。だがそれはとても難しいことのようだ。やはり史上最高のスピーカーなど幻影なのであろう。

(もしあるとすれば、“自分”史上最高のスピーカーがあるのみだ)

それにしても残念なのは、これほど優れたスピーカーであっても、革命の要素はなく、今までのスピーカーの延長線上にあるということ。見ようによっては、そこが面白いし、皮肉でもあるが・・・。

かなりの大金を払って、音質がかなり良くはなったが、オーディオのパラダイムを変えるようなアイデアが盛り込まれた存在ではないのである。ここに見られる価格高騰→音質向上というプロセス自体はありふれているし、驚きはない。


ここ数年、ハイエンドオーディオの先端部を眺めていると、こういう製品が多い。

文句無く高性能でゴージャス、嫌になるほど高価であるが、結局は従来のクラシカルなハイエンドオーディオのレトリックの延長上にあり、革新的な要素に乏しいというものだ。

これらの製品はもう性能や価格から言えば、1980年代から1990年代のハイエンドオーデイオの範疇をはみだしている。そういう桁外れの高性能と価格の関係はかなり前からGOLDMUNDなどのスイス製の製品価格の上昇から薄々感じ取っていたことだ。MSBSelect DACを聞いた時にはそれがほぼ確信となっていた。


ここに至っては、従来のハイエンドオーディオではない、さらに上のオーディオのジャンルとしてスーパーハイエンドオーディオという階級が新設されていると考えてもいい。いままでのハイエンドオーディオが山脈の頂上付近であるとするなら、これはそのさらに上に漂う雲の上の空中都市のようである。(以前、この手の話はしつこく書いた覚えもある)

そこは誰もが努力だけで行ける場所ではなく、選ばれた人間・運の良いごく少数の人間だけが辿りつける場所であり、そこにあるスーパーハイエンドオーディオの機材は富豪と呼ぶべき人のみが所有し使役できる道具である。それらは一見して、従来のハイエンドオーディオの延長上にあるようにも見えるが、その価格帯には従来の最高級レーンとの断絶があり、その性能も従来のものとは隔絶している。その意味では似て非なるものと考えてよい。

なお、このような新しいオーディオの階級、スーパーハイエンドオーディオの出現自体には私個人は既に感慨もない。それをやりたくて、それを出来る方がいれば多いにやるべきだと思うのみだ。私も試聴しながら2700万円をいまポンと出せるなら、こいつを買って帰っても悪くないと一瞬思った。しかし、次の瞬間、それを実際にやってしまうと面白くないと考え直した。やはり食指が動かないのである。これを悠々と買える身分になっても、これを買うかどうか確信が持てない。なにかが間違っている。音以外のなにかが。そんな気がするのだ。


以前にも指摘したように、ここでの新たな問題は、今まで普通のハイエンドオーディオを作っていたメーカーの一部がスーパーハイエンドオーディオ、超高価格帯の製品の開発に軸足を移したため、相対的に中~高価格帯つまり100300万円クラスの製品のバラエティ、製品数、製品の性能が揃って頭打ちになっているように思われることだ。オーディオ界が乖離し、その亀裂が拡大するにつれて、空白地帯ができているのである。これはいただけない。普通人が買える製品の選択肢が狭まっているような雰囲気があるのである。

しかし、この空白を“普通”のハイエンドオーディオの新製品が埋めてゆくような可能性はあまり無さそうに見える。この価格帯の一般的なオーディオ製品が、これから右肩上がりに売れる要因がないからだ。団塊の世代はオーディオに注ぎ込める余剰金を使い果たしつつあり、退場するのを待つばかりの身である。その後の世代はハイエンドオーディオのような音楽を聴くスタイルに馴染みも関心も薄く、それに注ぎ込む金銭的余裕もなく、都市に住む彼らの住宅事情がそれを許さない。

土曜日に秋葉原に行って、閑散としたハイエンドオーディオ店の全フロアを眺めまわした後で、若者で大賑わいのeイヤホンの雑踏に足を踏み入れると、本当にこの人気の差はなんだろうと驚いてしまう。そして、この若者たちの多くがハイエンドオーディオに来るとは私には思えない。スピーカーオーディオの状況が変わらない限り、彼らの多くはこのままイヤホン、ヘッドホンに留まるのではないか。ハイエンドスピーカーは素晴らしいが、少しでも極めようとするとカネと労力がかかり過ぎる。上の世界がありすぎる。一方のハイエンドなイヤホンやヘッドホンの世界は、経済的に非力な彼らでも、いつかは極められるだろうという見通しが立たなくはない。もちろん普通に音楽を聴くなら、これで十分じゃないかということもある。また、それは現代の風潮により合致する趣味の形でもある。このままでは、恐らく彼らの多くは音楽を聴く主な手段としてハイエンドオーディオを選択しないし、できないだろう。

さらに日本全体の人口が減る。つまりオーディオ全般にわたり、それを買う人の数は必ず減るはずなのである。


また、従来の中~高価格帯を埋めていた製品には以前からモデルチェンジを繰り返して現在まで続いているようなシリーズものもあるのだが、その価格も諸々の理由から少しずつ上昇しているようだ。このようなものに関して、過去の製品と最新の製品を比べると確かに音質上で新製品の方が良くなった部分はあるが、過去の製品にあった音質的なメリットを失っている場合も散見される。単純に価格の上昇が納得できる状況とは考えにくい。この意味でも空白は深まっている。


あるプレーヤー、あるアンプ、あるスピーカーの音を聞き、感動して貯金を始める人がいる。彼は貯金しないと買えないが、貯金すれば買える価格帯にある製品を狙っているのである。だが最近のトレンドでは貯金が満額に達する前に、値上げが起こるケースがある。しかもそれは往々にして大層な値上げになる。そういう残念な出来事があると、折角貯金をしていても他の事にそのお金を回すようになりがちであると聞く。メーカーや代理店はもっと良心的な価格決定・改定をしなければ真面目なオーディオマニアでもこの趣味から離れてしまうだろう。大抵の場合、我々はオーディオファイルである前に生活者である。オーディオのみに生きることは難しい。だから、たかが音楽を聴くことしかできない装置を売る側のワガママにどこまでも付き合えない。これはずっと言いたかったことだ。こういう悪質な価格改定も空白の形成を助長しているような気がする。


SSという業界を代表する雑誌を眺めても、従来のハイエンドオーディオの衰退と空白は感じられる。

何しろ、そこで執筆する評論家・専門家の多くが、最新鋭の中級~高級スピーカーを使っていない。一昔あるいは二昔前のスピーカーをそのまま使っているケースが目につくし、多少最近のスピーカーを使っていても、それ自体がクラシカルな造りのものであったり、昔のスピーカーを強く意識した発言があったりする。このあいだまで先端的なスピーカーを使っていた方ですら、昔のスピーカーに回帰しつつあるらしい。

年末のグランプリなどで最新機器を読者にあれだけ薦めておきながら、自分でほとんど導入しないのは、新しいものに、自腹で買いたくなるような魅力的な製品が本当は少ないからだと思わざるをえない。そのためか、この雑誌は書くべきことが減って、本の厚みは昔に比べて薄くなっているような気がする。記事を読んでも昔より情報量が少ないようだ。誌面は整理されたが空白が多い。またメインとすべきオーディオ機器の記事ではなく、本来は音楽誌に書くべき音楽・演奏そのものに関する評論、録音に関する重箱の隅をつつくような細かい話、評論家個人の懐古録、有名人との交遊録の割合が高くなっているようだ。割合はともかくとしても、そっちの記事の方が目立ってきているのは気のせいではない。それらにハイエンドオーディオと不可分な部分があるのは認めるが、あくまで本筋ではないはずだ。これらの企画にしても同じことの繰り返しばかりと感じる。

SSは変わってしまった。やれることをやりつくし、それでも続けなければならないプレッシャーのせいだろうか。このままではハイエンドオーディオ専門誌として体を成さなくなる日も近いかもしれないと心配である。例えば20年くらい前のSS誌はもっとオーディオ機器のサウンドに関するディープな談義で賑やかだった。華やかだった。紹介しきれないほど多様な製品の音に関する率直で格調高い評論・斬新かつ科学的な視点も盛り込んだ企画に溢れていた。

一方、最近のSSのオーディオ評論はネットで調べれば直ぐわかるような、メーカーの経歴の紹介や機材のスペックの説明が長く、肝腎の音質のインプレッションを深く掘り下げて書かかない、腰の引けた薄暗い文章が多いように思う。

加えて、現在のSS誌の文章の行間から、聴いている評論家本人が表面的でなく本心から感動している素振りがあまり感じ取れない。この点も私には気になる。そうなってしまうのは、最近の機材の音質が本当はそれほど良くないと心の底では感じているからではないか。オーディオ評論がここまでマンネリズムに陥ったのは、編集者の方や評論家の方のセンスが古いせい、彼らが社交儀礼と忖度を重んじたせいだけとは考えにくい。むしろ評価対象である機材に問題がある。耳の肥えた評論家ともなれば、高価で高性能だが、どこか上滑りな音しかしない最新機器を試聴しても、多くの言葉を並べたくなるほど気分が盛り上がらず、情熱に火がつかないから、こんな萎縮した記事に終始してしまうのだと憶測する。

(でも果たしてそれは、プロとしてやっていいことか?)

こんな空疎なレビューばかりでは、何か月も発売日を待ち焦がれたSS誌を、いそいそと購入して読んでみても、機材の大きな写真の余白ばかりが目立って空しいだけだ。
季節的に新製品が少ない時期であるとか、企画案が出尽くしたとか、評論家の方たちが歳を取り、冒険ができなくなったというだけで、2017年夏号を覆う、この言い知れない寂しさを説明することはできない。なんとかならないのだろうか。


海外の新聞の電子版などを読んでいると、オーディオの世界のみならず、なんらかの分裂や乖離による空白は全世界の様々な分野でも現れているらしいと分かる。これは全地球的な社会現象のようである。

つまり現代とはそういう時代なのであろう。オーディオも、他の多くの人間活動と同じく、世界を映す鏡であり、世の中のトレンドと密接に関連しているということだろう。

それによって生じた空白を埋めるためには人間社会がこのままでは難しいのと同じく、オーディオが従来のままの姿ではいけないのかもしれない。

恐らくオーディオは変わらなくてはならない。より良い方向に。


あえて愚見を申し上げるなら、ここらへんでメーカーや代理店は、その存在の動機たるオーディオ文化のために、ある程度は私利私欲を捨てた方がいいと言いたい。特にスーパーハイエンドの製品についてはその価格も開発姿勢もスノッブな強欲に溢れすぎていて、見ようによってはみっともないと思うものさえある。空白を生むというだけでなく、一部の製品はそのセンスまで悪いのではないかと疑うほどだ。だから、消費する側はともかく、メーカー側としてはこのトレンドに一定のブレーキをかけてもいい気がする。ここらで普及価格帯の製品の開発に十分な力を注いで実績を築かないといけない。具体的にはCHORD DAVEのような革新的な製品が増えて欲しい。それはコンパクトで個性的にデザインされ、普通のハイエンドオーディオ機材の価格に収まっているが、その二倍の価格帯にある製品に比肩でき、そして多くのオーディオファイルにアピールするようなサウンドを持つ。このような将来の名機がもっと欲しい。

また、CHORDは決して大きなメーカーではないが、スーパーハイエンドに近い製品から、Hugoのような優れたポータブルオーディオ機器まで独自の開発を行っている。このような広い視野に立って、どのクラスのオーディオも差別せず、疎かにしない姿勢が必要だ。そうでないと自らが依って立つハイエンドオーディオという基盤自体がダメになってしまうことにメーカーは気付くべきだろう。


私は富豪の財力に頼ってオーディオを発展させることが全て悪いとは思わない。しかし、そこだけにいい音を出す機材が集中してしまうと、ハイエンドオーディオの真の良さを知る人間があまりにも少なくなってしまう。様々な価値観を持つ多くの人がハイエンドオーディオの良さを知ることは、そこに多様性を生むことになる。多様性は業界を活性化させるが、富豪相手のスーパーハイエンドオーディオが生む空白はその過程を阻害する。そもそも、お金持ちは気まぐれだし、彼らの一部は本当にオーディオに情熱があるわけではないことも私は知っている。カネが余っている、納税などの都合で使わなければならない、そういう“不純な”動機でそれほど良く知らないスーパーハイエンドオーディオを買い、まともに鳴らしている時間もないような忙しい富豪がいる。元来、オーディオを知ること・愛することと財力に関連はない。財力は普通でも、本当にオーディオを愛して散財する人間に機材が行き渡り、時間と愛情をかけて愉しまれ、評価される。そして、その経験がメーカーにフィードバックされて、より良い製品の開発につながる。これが本来の姿である。そういう愉快で実のある消費行動がもっと多くの普通のオーディオファイルによりなされるようにメーカーも代理店も仕向けるべきだろう。


シェア、サスティナブルは現代の重要なキーワードである。

分裂や乖離による空白という世界の悲劇的な傾向に対抗するのが、多くの人がシェアできる持続可能な世界(サスティナブルな世界)の実現であるという文脈で使われるのである。

多くの人が音楽をいい音で聴く感動をシェアできる、サスティナブルなオーディオ業界。いい音を少数のマニアや金持ちが独占するという、ハイエンドオーディオの従来のやり方とは異なるが、オーディオ界全体としてはそういう方向で生き残っていくしかなかろう。


オーディオの世界には生き物のような側面があると私は思う。

生き延びてゆくため、意図せず自ら変化する。まるで危険を察知したかのように。

実際はオーディオは自然物ではないから、それに関わる人間の集団意識のようなものが働くのだろうか?

例えば、私には進化するハイエンドヘッドホン・イヤホンが、先述の空白を埋めるべく登場したように見える。これらのジャンルには今後の持続的に成長する素地が出来ている。多くの若い人が関心を寄せているからだ。若者でごった返す週末の秋葉原eイヤホンに行けばそれは分かる。それ以外にも未来に向けた明るい徴候を豊富に観察できる。STAXのハイエンドアンプT8000が、60万円というヘッドホン用の機材としては高価な値付け、しかもかなり限られたヘッドホンにしか使えないものにも関わらず、驚くほど短期間に初回ロット50台を完売したというニュースはその一つだろう。多くの人が良いオーディオを求め、今より少し高級な機材で、より良い音を聞いて満足するという体験がシェアされてゆく過程が見える。

世界の経済バランスの変化に伴う、スーパーハイエンドオーディオの出現、それにより生じたオーディオ界の空白を埋める、ハイエンドヘッドホンオーディオという図式が正しいのかどうかは分からないが、いずれにせよ注目すべきことだ。


以前、蟲師という漫画を読んでいて面白いと思った話がある。

ある村に大きな木があり、御神木として崇められていたが、

村が経済的に困窮したため、窮余の策として、仕方なく御神木を切って売ろうという案が持ち上がる。するとその木が突然、季節外れの花を咲かせ始める。木が自分の寿命を知って、子孫を残そうとしたかのようであった。それを見た村人は「木が怒った」と恐れたのである。それに対して漫画の主人公の蟲師のギンコという男が、

「木は怒ったりしませんよ。でも危険を察知する能力はある。」と言って村人たちをたしなめるというストーリーである。


オーディオに携わる、あるいはオーディオを愛する人々の集団意識あるいは無意識が、周囲の状況の変化に対応するため、10年前まではありえなかった、ハイエンドヘッドホンというジャンルを発達させたのかもしれないと、ヘッドホンに関心がある私はなかばロマンチックに妄想する。しかしそれだけではY社のセカンドベストのサウンドと価格が突きつける、あまりにも残酷な格差の現実から我々を救う手だてとしては十分でないのは分かっている。しかもヘッドホンオーディオまでもが急激に高価格化しているという事情もあり、そこに過度に期待できない。言うまでもなく従来のスピーカーオーディオのメーカーたちが奮起して、新たに手ごろな価格帯の優れた製品を作ることが本流であるべきだし、急務なのだが、その動きだけに期待し依存するのではオーディオの復活は難しいということを言いたいだけである。


先端部が伸びて、高くそびえているが、その芯が朽ち始めている古い大木。その木に咲いた花に実った種子が地面に落ちて芽吹き、やがて小さな木となった。自然の成り行きとして、既に朽ちつつある古き大木より、この大きく枝を広げつつある若木に私は注目しているというだけのことなのである。


by pansakuu | 2017-06-05 22:09 | その他

スマウグの巣穴にて

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この匿名の文章を書くにあたり、当事者の許可を得るのに時間がかかった。
彼が、この話を公けにされることを渋ったからではない。
連絡がつきにくい状態になったからだ。

この東京には多くの外国人が暮らしている。
都心の低層マンションのワンフロアを借り切って住んでいた、この話の主人公もその一人である。
見かけは小太りで小柄な老年男性である。客に対する柔らかな物腰と笑顔は多くの日本人の警戒心を何時だって解きほぐしたものだ。外国なまりは多少あったものの、日本語は大変流暢であった。私は事情があって渋々出掛けた集まりで彼に出会い、その場で共通の趣味を持つことを知った。すなわち彼は”自称”オーディオマニアだった。

彼と初めて二人きりで食事をしたのは香港であった。
あの時のことはよく覚えている。
眺めのよいレストランの大窓から見える高層ビルディングの中から、香港ではそこそこ有名なあるホテルを指さして、あれは最近まで私の持ち物だったが、この前の株価の大きな変動で手放さざるをえなくなった、残念ですと彼は言ったのである。彼が自分のカネに関する話をしたのは、その時が最初で最後だったと記憶しているが、その一言だけで、はっきりとその財力の大きさが意識された。
ただ、彼の財力は彼の商売熱心から来たものでも、受け継いだ遺産でもないらしいことも別な人間から聞いて私は知っていた。彼はアフリカや東南アジアで商売はするが、損失も少なくないと聞いていた。また、彼はこの国に身寄りがいないとも。それらの大切な人間関係を全て本国へ置いてきたのだ。政治的な問題に巻き込まれたらしいのである。そういう事実上の亡命者である彼の財力は、本国でのかつての政治的立場の高さから来たものだろう。深い事情を知らない者は、そのカネの性質について、これ以上は言うまい。ただ、言っておきたいのは、そういうお金の流れがなければ、物事がまるで回らない国も現実に存在する。彼は好きでそれを貰っていたわけではない。自分の運命に対する諦めと自衛本能がその莫大な蓄財の源泉なのである。
とにかく金持ちには金持ちにしかない悩みがあるのだ。

そういう物凄い財力でオーディオをやる。
一見してそれは私のような貧乏人にとっては大変羨ましいことであった。
私は香港の彼の家に行った。
らせん状にカーブした階段を下りると天井の高い大広間にポツンとGOLDMUNDのFull EpilogueとUltimateシリーズのセットが置いてあった。電源を抜いて放置された古いモデルやケーブル類、アクセサリーを合わせると総額では一億円に近いラインナップであった。ポツンと書いたのは、その部屋が広かったのと、家具も少なく人っ気がなかったからである。
ああゆうテニスコートみたいに広くて天井の高い環境で
ボリュウムをいっぱいに上げて聞くGOLDMUNDのフルシステムの威力は凄まじい。
オーディオは部屋だという人がいるが、それは違う。
部屋なんかで鳴らしているうちはまだまだなのだ。
もし、それを言うならホールだろう。あれは部屋と呼ぶにはあまりに広かった。天井が高かった。
最高級のGOLDMUNDのフルシステムが、ああいう大ホールで鳴るからああいう音になる。
日本のショウで似たようなシステムを聞いた覚えもあったが、だいぶ違っていた。
柔らかで清々しい大嵐が部屋中に吹き荒れるような時もあれば、
ひたひたと迫る音の洪水に囲まれてリスナーはもう溺死しそうになる時もある。
そんな狂瀾の場の直後にも、
小さなクモの足音のような恐ろしく小さな音が聞こえるような静寂が訪れる。

だが、こういう超富裕層の常なのか、彼は良い音で音楽を聞くことをこよなく愛したものの、現在、市場にどのような機材が売られているのか、細かい情報はほとんど知らなかった。私のように方々に試聴へ行って検討を重ねて購入に踏み切るなどというまわりくどい過程を好まない。このGOLDMUNDのフルシステムも知り合いに紹介されたオーディオショップで勧められるままに買ったというだけのようであった。
会った当初、GOLDMUND以外のメーカーの機材のことを彼はほとんど知らなかった。
そのせいか、私が様々なメーカーのオーディオの話をするのを彼は面白がった。
例えばシステムの全てを一つのメーカーの製品で揃えるのではなく、
色々なメーカーが作り出したものを組み合わせて楽しむことに興味を抱いたようだった。
海外の金持ちにはそういう視点が完全に欠落している場合がある。
要するにどれとどれを組み合わせるのか、考える暇もないほど忙しく、
またそれを面倒と思っているらしい。
お金はだすよ、あとは任せた、うまくやって頂戴。
でもそれじゃオーディオは楽しくないと私は彼に説教した。
身の程もわきまえず。
彼はいつものように、にこやかにうなづいて聞いていた。
しばらくして、また彼の家に行くとステレオサウンドがソファーの上に置かれていた。
聞くと、今まで、こんなに有名な雑誌すら、手にとって読んだことがなかったらしい。

しかし、その後、周知の事情で彼は香港に居られなくなった。実はそれは大昔に結ばれた条約で決まっていたことだった。そして彼の居場所はさしあたり日本に限られることとなった。勢い彼と私は、以前よりは頻繁に会えるようになった。

低層マンションのワンフロアを借り切った彼の東京の棲家には、いわゆる執事ではないが、それに近い役目をする人、食事の世話等の家事を行う日本人男性が一人雇われていて、私の自宅から送り迎えをしてくれた。片道40分以上かかるその道行、陽気なその男性と話していて、雇い主の性格が話題になったことがあった。その男性が言うには主人はとにかく一貫して怖い人間なのだと。時には些細なことで、憤怒にかられた竜のように暴力を振るって女たちを困らせるのだと言う。女性?どこにそんな人がいるのですか?私は少なからず驚いた。一方、その男性は私がこの話を聞いて驚いたことに驚いて、即座にその話をやめてしまった。
富豪の中には壁にかけるトロフィーのように美しい女性を収集する者がいるが、彼にその趣味はなさそうなどころか、女性の姿や匂い、持ち物を一切、彼の家でみたことがなかった。深く秘められているのだろうか。オーディオもまた彼が外部に対して秘めている趣味のひとつかもしれないとその時気づいた。私は気に入られていたのかもしれない。オーディオ限定で。
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トルーキンの編んだホビットの冒険という本にある、中つ国に棲む竜、第三紀における最強にして最後の竜スマウグを私は思い起こした。彼は財宝の上に眠り、全てを知る者である。そして、その怒りと悲しみを受け止められる人間は存在しない。私はスマウグの巣の中でオーディオを愉しむことを許された、か弱い人間であった。こうして私は現代最上のハイエンドオーディオを消費する人間の素顔、その一面を知ったのである。

これほどハイエンドオーディオが高価格化し、たかが音楽を聴くだけのために払う対価としてはありえないレベルになっているのだが、これを普通に買って聞く人間はやはりどこか普通でない側面を持つ可能性がある。また彼らのうち少なくとも何割かはオーディオや音楽に深いこだわりをもたないらしい。これこそ理解に苦しむような気もするが、しかしむしろ腑に落ちるような気もする不思議な側面でもある。

彼と連絡がとりにくくなってからずいぶんになる。
私が油断している隙に東京から退去したのだ。
今はアメリカにいるが、そこも仮の宿なのだろう。
多少、大袈裟な言い方なのかもしれないが、追手が来たと彼は笑う。
国の財産を持ち出した者に仕立てられているとか。
この前、WSJを読んでいたら、確かにそういうことがあるらしいと書いてあったっけ。
仮に犯罪人引渡協定がある国だとすると、本国に送還されてしまうらしいのだ。
そういう彼は東京に戻ってくることがあるのだろうか。
ないかもしれない。
でも個人的な希望としては、
オーディオはどこへ行ってもやめないでいただきたい。
そしてステータスシンボルとしてではなく、
本当に心からオーディオを好きになってもらいたい。

いつか、どこかの国のオーディオショップでソファーにうずもれて試聴している、小柄な老人の後ろ姿、あの丸い頭のシルエットを私は見かけるかもしれない。
その背後に神秘的な暴竜のオーラを漂わせながら、
目を閉じてオーディオに浸る彼の横顔をもう一度拝めるだろうか。
私には分からない。

by pansakuu | 2017-01-03 16:28 | その他

ヘッドホンオーディオの私的な歴史、そして次の10年

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書を捨てよ、町へ出よう
寺山修二


2016年も最後ということで俯瞰的な話で締めくくりたい。
私の知る限り、オーディオ全体の歴史については様々な本やHPにまとめられているが、ヘッドホンと、それに関係するオーディオの歴史・経緯について最近の日本での動向を含めてまとめたものがない。簡素というよりは粗雑ではあるし、間違いも多々あろうが、様々な資料にあたりながら、とにかく自分なりに日本を中心としたヘッドホンオーディオの歴史について以下のようにまとめてみた。

1891年頃
・フランスの技術者エルネスト・ジュール・ピエール・メルカディエが電話受信機用として、歴史上初めてのイヤホンを開発、その特許を米国で取得。
・この頃、イギリスで教会や劇場での音声を電話線を通して、家庭で聞くというエレクトロフォンという富裕層向けの有線放送が誕生。聴取に用いられたレシーバーは家に居ながら音楽を楽しめる機器であり、ヘッドホンの祖形。

1910年
・米国の電気技師のナサニエル・ボールドウィンが自宅の台所で左右二台のレシーバーをヘッドバンドに取り付けた機器を考案。ヘッドホンの誕生。その優れた音質を米海軍が評価し、購入に至る。これ以降、しばらく高性能ヘッドホンは全て軍用。

1937年
・ドイツのオイゲン・ベイヤーが世界初のダイナミック型ヘッドホンDT48を開発。彼は後にbeyerdynamicを設立。

1946年
・中野にフジヤカメラ店開店。のちのフジヤエービックであり、日本におけるヘッドホンブームの盛り上げに大きな影響を及ぼす。

1949年
・独のAKGが同社の最初のヘッドホンK120 DYNを発売。

1957年
・米RCAの技術者であるウィラード・ミーカーがノイズキャンセリング機能のあるヘッドホン用のイヤーマフを開発。

1958年
・アメリカのヘッドホンメーカー、KOSSを創設したミュージシャンのジョン・コスが、一般向けにステレオヘッドホンを開発。軍用レベルのヘッドホンで音楽を聞いたことが契機。

1959年
・日本のスタックスが世界初のエレクトロスタティック型ヘッドホンを発表。

1967年
・独のゼンハイザーが世界初のオープンエアー型ヘッドホンHD141を発売。

1968年
・Kossが米国初のエレクトロスタティック型ヘッドホンを発表。

1972年
・米コネチカット州にマークレビンソン・オーディオ・システムズ設立。スピーカーによるハイエンドオーディオが本格的に始まる。

1979年
・ソニーが携帯オーディオプレーヤー、ウォークマンの初代モデルTPS-L2を発表。ヘッドホンが世界中のあらゆる場所で日常的に使われるようになる。

1982年
・CD登場。アナログレコードを急速に駆逐し始める。

1989年
・ソニーが高級ヘッドホンMDR-R10と超定番モニターヘッドホンMDR-CD900STを発売。
・AKGが真のオープンエアー型ヘッドホンK1000が発売。

1990年
・ニューヨークのブルックリンで発祥したGRADOが同社初のヘッドホンHP1を発売。

1991年
・ゼンハイザーは当時、世界で最も高価なヘッドホンシステムとしてOrpheus(HE 90/HEV 90)ヘッドホンシステムを発売。後のハイエンドヘッドホンの源流。
・Ultrasoneがドイツ・ミュンヘンに設立される。開放型ヘッドホンHFI-1000を発売。

1993年
・STAX SR-Ω 発売。日本におけるハイエンドヘッドホンの前哨。

1994年
・GRADOのベストセラーSR60発売。

1995年
・ゼンハイザーより名機HD600発表。
・ソニーより世界初の市販のノイズキャンセリングヘッドホンMDR-NC10が発売されるも、あまり普及はせず。

1999年
・SACD、DVDaudioが登場する。いわゆる「ハイレゾ」音楽データの原型となる。残念ながらオーディオマニア以外への浸透はせず。

2001年
・10月、最初のiPodがマッキントッシュ専用のデジタルオーディオプレーヤーとして発表される。iTunesとの同期機能を持ち、自宅での環境をそのまま外へ持ち出せることが特徴。音楽を聞くためのDAPそしてイヤホンが全世界に急速に普及。
・ノイズキャンセリングヘッドホンBose Quiet Comfortが日本で発売され、この種のヘッドホンが本格的に普及。
・日本の電気用品安全法が改正され、外国製のヘッドホンアンプなどでPSEマークを取得していないものは、原則的に日本国内での売買ができなくなる。以後、日本で公的に外国製のオーディオ機器、特に電源ケーブルなどを輸入し売買することが困難に。
・世界最大のヘッドフォンオーディオフォーラムHead-FiがJude Mansillaにより設立。このような建設的なヘッドホンオーディオ論議が出来る場が日本には未だ存在せず。

2003年
・ゼンハイザーより名機HD650発表。目に見えないマイナーチェンジを繰り返しつつ現在も発売中。
・圧縮音源配信iTunes Storeが開始。
・EUにRoHS指令が発令。これによりEUで電気機器のパーツに含まれる有害物質の使用が制限。高音質だが、また代替についてはメーカーに委ねられたため、多くのオーディオ機器に音質的あるいは価格的な影響。これによりオーディオ機器全体に若干の音調の変化。

2004年
・オーディオテクニカの名機ATH-AD200発売。この頃のテクニカは覇気があった。

2005年
・この頃よりiPodに付属するイヤホンの音質に飽き足らない人々がより高級なカナル型イヤホンを買い求める。
・水樹奈々のEternal Blazeが大ヒット。この頃、日本においてアニソンが独立した歌謡ジャンルとして定着。アニソンをメインソースとして、これを高音質で聞こうとするオーディオマニアが“日本だけ”に現れる。

2006年
・米RSAが高級ポタアンの定番SR71を発売。この頃、国内外から多数のポタアンが発売。
・日本の新興オーディオメーカーizoが高性能ヘッドホンアンプiHA-1のファーストモデルを発表。別電源などを持つ高度なコンストラクション。パソコンで音楽鑑賞するための環境の向上を掲げる。このコンセプト自体は2016年末の今も生き続けている。
・この頃、ブログMusic to Goにより日本にヘッドホンのリケーブル、バランス駆動が紹介される。日本でヘッドホン・イヤホンで高音質を追求する動きが本格的に始まり、ハイエンドヘッドホンへの関心が高まる。
・11月11日にフジヤ主宰の最初のヘッドホン祭り「ハイエンドヘッドフォンショウ」が定員制で開催。出展されたシステムはたった5組であったが、2016年現在から見ても、かなりハイエンド寄りの高度な内容。
・Ultrasone Edition 9が発売される。当時としては突出した高性能・高価格ヘッドホン。

2007年
・夏、萌えるヘッドホン読本が同人誌として発売。日本のヘッドホンムーヴメントがいわゆるオタクカルチャーとリンクしていることを印象付ける。
・12月、ヘッドホンブック2008発売。おそらく世界で初めての本格的なヘッドホン専門ムック。
・英LINNよりKLIMAX DS発表。ネットワークオーディオの始まり。音質はもちろん音源管理を容易にする側面からも、ヘッドフォニアでこのレベルの機材を上流とする者が現れ始める。

2008年
・ソニーが世界初となるデジタル・ノイズ・キャンセリング機能がついたヘッドホンMDR-NC500Dを発売。
・米モンスターケーブルとBeatsエレクトロニクスが共同開発したBeats のファーストモデルBeats Studioが発売される。
・韓国StyleaudioよりUSB接続DAC内蔵ヘッドホンアンプCaratシリーズ発売開始。
・米HeadroomのBalanced Ultra Desktop Amp(BUDA)が、意識の高いヘッドフォニアにより日本に輸入されはじめる。日本での本格的なヘッドホンのバランス駆動の始まり。
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2009年
・ゼンハイザーがハイエンドヘッドホンHD800を発売。
・アニメけいおん!ブームに連動し、AKG K701の売れ行き好調。アニメとヘッドホン・イヤホンの関係の強さを物語る事件。
・beyerdynamic T1が発売。
・日本のオーディオメーカーLUXMAN初の高級ヘッドホンアンプP-1uを発売。
・この頃より、日本の業務機器メーカーOJI specialが、一般ユーザーから受注したカスタムメイドのヘッドホンアンプを生産。以後、ユーザーの要求に応えた多くのヘッドホン関連機器の特注品を製作し続けている。
・秋のヘッドホン祭りにおいてHelter Skelterより高性能な自作ヘッドホンアンプの展示。優れたヘッドホンアンプを自作する個人の登場。

2010年
・Fit ear、UEなどのカスタムIEMがイヤホンマニアに注目され始める。
・ハイエンドスピーカーメーカーB&Wが同社初のヘッドホンP5を発売。
・武蔵野音研の設立。2chから派生し、ポータブルアンプ、ケーブルをカスタムメイドする業者の登場。そして、これを利用するディープなマニアの出現。

2011年
・STAX SR009が発売される。また同年末にSTAXは中国企業に買収。
・手堅くまとめられたバランス駆動可能なヘッドホンアンプIntercity MBA1 platinumが発売されるも、メーカーの消滅に伴い幻のアンプとなる。ここまでの日本のヘッドホンアンプ技術の集大成。
・この頃よりポータブルのDAC・アンプを何台か重ねて携行するイヤホンマニアが増加し、衆目を集める。
・日本の医療機器メーカーNew OPTがKH-07Nヘッドホンアンプを発売。さらなる異業種からの参入に注目。
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2012年
・5月にG Ride AudioはハイエンドヘッドホンアンプGEM-1を突如として発表。本格的なハイエンドオーディオの手法と強烈な個性をヘッドホンオーディオに初めて持ち込む。
・日本のベンチャー企業Agaraが日本で初めて100万円オーバーのヘッドホンアンプAGH-1000を発表。しかし、この意欲的なメーカーはその後、消息不明となり、このアンプも幻のアンプとなる。
・ハイレゾ音源の配信開始。SACDの失敗は明白となる。
・密閉型の名機Fostex TH900発売。4年後のMDR-Z1Rの発売まで密閉型ヘッドホンの王として君臨。
・プロ用スタジオ機器メーカー、マス工房がヘッドフォンアンプmodel 370を発表。コンシュマーヘッドホンオーディオにプロ機器の色付けのない音調を持ち込む。
・日本のプロミュージックレーベルとして2006年に設立されたWAGNUSは、この年、フジヤエービックと正式提携、ポータブルオーディオプロダクトを手掛ける。特にマニアックなイヤホン用リケーブルで多くの実績を作る。
・USBでDSDデータを転送できるDop(DSD audio Over PCM frames)がアンドレアス コッチらにより開発される。DSD配信の可能性を拡大。
・日本のベンチャー企業Kuradaがフルウッドハウジングのヘッドホンを開発。Tayler madeと称するヘッドホンを製作。
・米ケーブル専業メーカーJPSより弩級平面駆動ヘッドホンAbyss発表。

2013年
・日本の業務用機器メーカー、グラストーンより、全面金メッキを施した銅シャーシを纏う創業15周年記念製品A15-HPA30Wヘッドホンアンプが15台限定で生産される。これも幻のアンプ。
・ステレオサウンド姉妹誌DigiFiにUSB-DACつきヘッドホンアンプの付録がつく。この頃より、オーディオ誌に付録を付けることが流行。この頃から日本の出版業界の斜陽化は明らかになり、同時に既存のオーディオ雑誌の内容の陳腐化が囁かれる。
・この頃よりオーディオ用に開発されたUSBケーブル、LANケーブルが次々に発売。

2014年
・10月に高級ヘッドホンアンプRe Leaf E1発表。意気込みが空回りしていない初めての100万円オーバーのヘッドホンアンプ。すこぶる高価であり、無名のメーカーの製品でありながら、幻のアンプとはならずに現在も購入可能。
・11月にGOLDMUND Telos headphone Amplifier発表。発売とともに中国で好調な売れ行き。スーパーハイエンドオーディオメーカーが初めてヘッドホンオーディオに参入したインパクト大。
・BeatsエレクトロニクスがAppleに買収される。
・AKG K812が発売される。遅すぎたフラッグシップ。
・Just earによる世界初のテーラーメイドイヤホンの受注開始。
・フジヤ主宰の冬のポタ研開催、異例の大雪にもかかわらず、中野に多くの若いマニアが来場。
・その冬のポタ研にてCHORD Hugoのお披露目。ハイエンドオーディオメーカーがポータブルオーディオを強く意識し、持てる技術を注ぎ込んだ世界初の例。
・Dela N1Z発売。ネットワークオーディオで使われるNASにハイエンドオーディオの手法を適用した音質対策品の登場。
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2015年
・1月にJH AUDIO Layla日本先行販売。このロットは13分で完売。
・5月にポータブルオーディオブランドAstell&Kernより、超高級DAPであるAK380が発表される。従来のDAPとは一線を画する高音質に驚き。
・Hifiman HE1000, Audeze LCD-4が発売される。HD800を超えるスーパーハイエンドヘッドホンが市場に本格的に登場。
・GOLDMUND Telos headphone Amplifierの改良型GOLDMUND THA2が発表される。これほど高価なヘッドホンアンプに2nd versionが出るのは異例。
・Fostexより真空管式の弩級ヘッドホンアンプHP-V8が発表される。
・かねてよりアナウンスされていたが、発売が伸びていたオーディオクエストのヘッドホンNight Hawkが日本で発売される。二つ目のケーブル専業メーカーによるヘッドホンへの参入は驚き。
・CHORD Mojo発表。ポータブル市場、騒然となる。
・定額制音楽ストリーミングサービスApple music, TIDAL開始。TIDALはCDクォリティで4千万曲を配信するも、日本には未だ上陸できず。
・またこの頃からオークションでヴィンテージのヘッドホン機器が高価で取引されるようになる。Sennheiser OrpherusやSTAX SR-Ω、SONY MDR-R10などがプレミア価格で落札される。
・ゼンハイザーが真空管搭載コンデンサ型・超高級ヘッドホンシステムHE-1を発表。音質が評価される反面、無駄なギミックと法外な価格が既存のヘッドフォニアからの批判の的となる。2016年現在も詳細な仕様は公表されず。
・この頃よりヘッドホン・イヤホンの高価格化・高音質化あるいはピュアオーディオ化が加速。
・USB DACへの異論としてLAN DACとも呼ぶべきMerging NADAC発表される。音質はさておきROONとの類似性・関連性という視点からも注目。

2016年
・HE-1に対抗するようにHifimanもShagri-laシステムをほぼ同価格で発表。
・9月にアップルがヘッドホンジャックを排除したスマートフォンiPhone7を発表。
・TIDALと連携でき、多様な情報をユーザーに提供する、英の総合音楽鑑賞ソフトROONが日本に紹介される。やや高額であることなどから、日本での浸透は限定的。
・群馬のベンチャー企業Brise audioがスーパーハイエンドオーディオケーブルをヘッドホンリケーブルに持ち込む。リケーブルの世界を拡大。
・フランスのスピーカーメーカーFocalがハイエンドヘッドホンUtopia、ELEARを発売。
・米MSB Thechnologyが超弩級機Select DACに接続することを前提とし、かつSTAX の静電型ヘッドホン専用となるヘッドホンアンプを発表。総計で1500万円を越える現世界で最も高価なヘッドホンシステムとなる。HE-1、Shagri-laなどと並び富裕層をターゲットにしたヘッドホンシステムの流れが出来始める。
・Re LeafはE1の上位モデル、世界展開モデルとして曲面を多用したステンレス筐体を纏うE1Rを発表。
・ソニーがSignatureシリーズと銘打ってハイクラスなDAP・ヘッドホン(MDR-Z1R)、ヘッドホンアンプの三つ組みを発表する。ヘッドホン文化のリーディングカンパニーとしての矜持を示す。
・この頃ケーブルメーカー各社がヘッドホン用のリケーブルの開発を画策しはじめる。
・AKGが、所属するHarmanグループごとSamsungに買収される。
・ハイエンドオーディオメーカーPASSが初めてのヘッドホンアンプHPA-1を発売。


こうして年表を見てゆくと分かってくることがある。
まず、日本でハイエンドヘッドホン・イヤホンのムーヴメントが本格的に始動したのは2006年11月11日にフジヤ主宰の最初のヘッドホン祭り「ハイエンドヘッドフォンショウ」が開催された時ではないかということ。スピーカーによるハイエンドオーディオの始まりを1970年代とすると40年ほど遅れていることになる。このイベント以前にも散発的な動きはなくはないが、一つの連続的な動きとなっていったのは2006年以降と考えるべきだ。つまり今年、2016年は十年目の節目に当たっていた。
さらに、2006年をハイエンドヘッドホンオーディオ元年とすると、この動きが十年もの間続いていることから、これは単なる一時的なブームではないと考えられる。それどころか、より進んで2015年、2016年におけるハイエンド機の台頭を見ると、これはバブルではないかとさえ思う。
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次に私個人に関して、この年表内で重要な事柄を述べると、まず2006年頃にMUSIC TO GOの記事を読んでヘッドホンオーディオに興味をもったことだろうか。そのころはWilson audioやWadia、FM acoustics、Boulder等を駆使するスピーカーオーディオマニアであった。あのブログの記事を読んでから色々なHPAやヘッドホンを使ってみたが、今思い出してみても音質はいま一つであった。初めてそれなりに納得できる音が出たのは随分後の2011年あたり。HD800とMBA1 platinumの組み合わせであったが、思い返せば、それもまあそれなりにというくらいだった。
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個人的にこの年表に載せた事績の中で最も衝撃を受けたのは2012年のG ride audio GEM-1の登場。これほど強烈な個性をハイエンドオーディオの手法に載せて出してきたプロダクトは現在に至ってもほぼ記憶にない。別電源に二本の電源ケーブル、リケーブルしたHD600 Golden eraという組み合わせのインパクトはこの先も忘れない。そしてあれは恐るべきサウンドを奏でるヘッドホンシステムでもあった。ここになにかが突如現れたのを感じたが、その全体像は私には見えていなかった。

そして、それがはっきり見えたのがGOLDMUND Telos headphone amplifierと比較しながら、Re Leaf E1のプロダクトモデルを聞いた2014年秋頃。このモデルは日本のハイエンドヘッドホンアンプの原器でありシンボルである。STAX SR009が近い位置にいながら、それを十分に生かす高級なアンプが選べないことなどがあり、行けなかった場所にたどり着いたものとも解釈できる。E1は私の中にありながら、私本人にも知られなかったヘッドホンアンプのイデアを具現化した。そしてハイエンドヘッドホンオーディオとはこういうものなのだと、ビジュアルとサウンドの両方で明確に示した初めてのギアだった。あれから随分経ったように思っていたが、まだ二年ほどしか経過していないのだね。

また私は今、このRe leaf E1のベストパートナーの一つとして同じ日本製のSONY MDR-Z1Rを愛する。ごく最近あった、このヘッドホンとの出会いもまた大きい。その前に出会い、真にエバーグリーンな価値を持つと思われたHD650dmaaに匹敵するほど飽きのこないサウンドを奏でながら、既存の枠を破る先進性を備え、しかも密閉型であるというヘッドホン。元来、ヘッドホンとはその本来の用途から考えて密閉型になって初めて完結するという密かな持論を持つ私にとって、この完成された音響美、機能美は衝撃であった。

ところで、この十年はヘッドホン・イヤホンの高級化・ピュアオーディオ化、PCオーディオ・ネットワークオーディオの普及、アニソンブーム、SACDの衰退とハイレゾの登場、スピーカーを使うハイエンドオーディオの高価格化・ユーザーの高齢化とハイエンドオーディオ不況、オーディオに関するSNSの発達という互いに独立した光と影の要素が折り重なっていた時代である。そして、これらの要素が渾然一体となり、ヘッドホン・イヤホンをコアとする、独立したオーディオの流れが形成された時期であるとも言える。この独立したオーディオの流れは基本的にはその前の時代には存在しなかったものであり、2016年から先の「次の10年」へと、なだれこんでゆくものだと考えられる。

次の10年に連なる、最近の注目すべき動きとして2016年、ヘッドホン・ポータブルオーディオのリーディングカンパニーであったソニーが本格的にハイエンドヘッドホン市場に再参入したことがある。これを見ると、従来のハイエンドオーディオアンプ・スピーカーの売れ行きが頭打ちになる中、ハイエンドオーディオメーカーのヘッドホン分野への新規参入の加速が考えられる。また、ヘッドホン自体とそれ関連する様々なアクセサリー・ケーブルについても、異なる業種からの参入あるいはコラボレーションが期待される。
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例えば、BeatsのグランメゾンFendiとのコラボやFocal UtopiaのジュエラーTounaireとのコラボ(10万ユーロの史上最も高価なヘッドホンが現れた)など、服飾メーカーや宝飾メーカーとコラボしたバージョンが存在するのは周知のとおりであるが、このような従来のオーディオにはほとんど関連のなかった業界とのコラボや新規参入が実現するかもしれない。特にヘッドホン・イヤホンの持つ「身に着ける」という要素は、音質とは全く別なハイエンド、つまりハイエンドファッションとの兼ね合いで注目される可能性もある。
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ファッションとの関係について言及するまでもなく、ヘッドホンの流行は多分に音楽や出版、アニメなどのカルチャーの動きや現代の都市のライフスタイルと関連があることも年表からわかる。例えばアニソンはスピーカーにて大音量でおおっぴらに聞くような音楽ではなくイヤホンで一人で聞くものだと考えている日本人は少なくない。他人を常に憚って生きる都会の日本人の考えそうなことである。そもそもクレーム社会である現代の日本の都市において、スピーカーで、しかも大音量で音楽を愉しむことは現実的ではない場合が多い。また極めて日本の都会人は多忙であることから、退職した老人でもないかぎり、深夜の自室や電車の中や立ち寄ったカフェでしか音楽を聞く時間がない。だから、携帯可能だったり、どんな時間でも小さなスペースで楽しめるヘッドホン・イヤホンが人気なのだろう。
世界的に見ても時間と空間の有効利用が人間生活のテーマとなっており、これはハイエンドオーディオを代表するような大型のスピーカーシステムとは相いれない風潮である。そういう効率性、合理性を重んじながら、一方で癒しを求めるという観点から見ても高音質なヘッドホン・イヤホンに世界的な人気があるのは当然なのである。

無論、スピーカーを使うハイエンドオーディオがなくなることは考えられないし、ハイエンドヘッドホン・イヤホンの流れもこの先、ライフスタイルの変化、技術あるいはコストの壁に突き当たり、スタックしてしまう可能性は否定しきれない。現にハイエンドヘッドホン・イヤホンの高価格化はこのジャンルがスピーカーと同じ末路を辿る可能性を示唆している。

新しいオーディオの流れがなんであれ、既存のハイエンドオーディオは、その本質が価格・大きさ・重さは度外視で際限なく音質を追求するという態度であるがゆえに、一般大衆を置き去りにしただけでなく、結局は金持ちのオーディオマニアですら辟易するような規模と金額のものになってしまった部分がある。ハイエンドオーディオのモンスターマシーンたちを飼い馴らすために、音響的に完備された大きな部屋と専用の電源設備を用意することまで考えると、このようなハイエンドオーディオが強いる様々な負担の重みは、その対象である音楽が生活の中で持つ軽さと釣り合わなくなってきている。実は、この問題を我々オーディオマニアは常に相対化して誤魔化してきた経緯がある。いつものように結論を先送りするか、あるいは音楽の芸術的価値を美化することで、その対価が無限大であるかのように主張してきた。もっと具体的に言えばオーディオシステムにいくらカネをかけても、音楽そのものが持つ深い精神性となら、十分に釣合いが取れるかのように言い立ててきたのである。だが、時代は移り、価値観は変わりつつある。そろそろ年貢の納め時ではないのか。

この十年は従来のハイエンドオーディオの衰退とそれに代わる、新たな形のハイエンドオーディオの始まりの時代であったと位置づけるべきなのかもしれない。

もうすぐ、日本のハイエンドオーディオの新しい10年が始まる。

by pansakuu | 2016-12-08 23:06 | その他

アニソンとハイエンドオーディオの関係:“痛さ”の受容


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痛い:
非常識な様。本人は格好いいと思っているにもかかわらず、客観的にみると非常識であり、そのギャップが痛々しい様。・・・・・
byニコニコ大百科


ハイエンドオーディオの機材をズラッと揃えた試聴会に出席すると、時々フリータイムというものが設けられることがあります。出席者が持ってきたディスクをそこにある装置で自由にかけてみるというサービスの時間帯ですね。ここではディスクを差し出した本人以外は、その内容がなんであるかは事前には知らないわけで、なにがかかるのか楽しみである反面、ディスクを差し出した本人はそれが上手く鳴るだろうかと不安になっている場面でもあります。
演奏がひととおり終わると、試聴会に招かれていた評論家や代理店の方がいい演奏ですねとか、いい録音ですねとかコメントを述べることも多い。
そのコメントの瞬間にディスクを差し出した本人のオーディオのレベルが格付けされるような気分があるのも間違いない。だから試聴会のフリータイムで自分の愛聴盤を出すのはちょっと気が引けるという人もいます。

ハイエンドオーディオの概念がマークレビンソンらによって確立されはじめた頃、その対象となる音楽はクラシックかモダンジャズでした。それにややおくれてロックやポップスがハイエンドオーディオで鳴らす対象となり、試聴会でも頻繁にかけられるようになってきました。それらの中には有名な作曲家、演奏者、プロデューサー、録音技師の手になる多くのアルバムがあり、様々なタイプに分かれてはいますが、いずれも芸術性の高さは音楽評論などを通して折り紙のついたものでした。一方、それを演奏するハイエンドオーディオはすこぶる高価で、高い性能を誇る機材の集合体ですから、当然のようにそこから流れ出る音楽にはなんらかの権威により裏付けされた高い品格があったほうがよいという不文律があるように思えます。そう、ハイエンドオーディオというものは、ステータスのあるリッチな大人の趣味であって、姿も音も、どこに出しても恥ずかしくないほど格好良くなくてはならないのです。これは無言の圧力であり、試聴会のフリータイムという取るに足らない場面にすら、雰囲気として漂っているようです。その雰囲気は初心者がハイエンドオーディオに入って行きにくい心理的な敷居の高さをも演出しています。

5年ほど前からだと思いますが、私は、この試聴会のフリータイムで時折、アニメソングつまりアニソンを聞くようになりました。これは高級オーディオ専門誌では、あまりおおっぴらには語られていないようですが、デジタルファイルの普及と同じくらい大きな変化だったのではないでしょうか。
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なお、ここではアニソンの定義について、あえて細かく述べません。アニソンと一口にいってもかなり様々な傾向の音楽を含んでいて複雑だからです。私は話をできるだけ単純化したい。今回述べるアニソンとはアニメに関連した音楽一般を指しますが、もっと具体的には予備知識なしに聞いて、これはアニソンだと分かるような音楽を指していると思って欲しい。いわゆる萌えオタ向けのアニソンなどが、ここで取り上げる主なものであり、懐古的な昭和のアニソンなどはあまり眼中にないのです。

このアニソンの入ったCDをハイエンドオーディオシステムの前にまるで生贄のように差し出す人々は、大概はヤセ型か、あるいはかなり太った若いメガネ男子です。なにか堂々とディスクを出すというよりは、おずおずと恥ずかしそうに鞄の奥からディスクを出してきて、担当者にそっと渡すような仕草が共通しています。中身は若い女性の甲高い歌声の入ったアップテンポの明るい曲が多いのも共通項です。声優風の節回し、声のトーンもステロタイプ。演奏中は聞いている本人は大概ジッとしていて、足でリズムをとるわけでもない。傍で聞いている私は、それまでかかっていた音楽とあまりにも傾向の違う音調に面食らってみたり、自分の曲でもないのに、なぜか恥ずかしい気分になったりして、曲が終わるまでどうもいたたまれない。なぜなのか説明できないが、少なくとも数年前まではハイエンドオーディオシステムでアニソンをかけるのは、かなり強い違和感があったのです。
曲が終わると彼らはうやうやしく礼を述べ、腰を低くしてディスクを受け取る。これも常套的な態度です。彼らは礼儀正しい。
この礼儀正しさにも関わらず、アニソンの場合、最後の所で、参加している評論家や代理店の方が、その音楽や音質についてコメントを述べないことが多い気がします。場合によっては無言で次のディスクにかけ替えるのです。そこには、なにか異質なものがオーディオに入り込んだ偶然を、なかったことにしたいような空気が流れているのです。

こういう場面に何度も出くわすうちに馴れたのか、最近の試聴会でアニソンを聞いても、わけのわからない違和感、私が感じる必要のない羞恥心は幾分薄れてきました。ですが、それが完全になくなる気配は感じないんですね。
ロックやポップスがそうであったようにアニソンもハイエンドオーディオのソースとして自然に体制に組み込まれるものだと信じてきたが、なかなかそうはならない。
私はここ数年ずっと、この違和感に自分なりの決着をつけたいと考え続けてきました。

ところで、最近、ある有名なJポップのグループがアニメのテーマソングの製作を打診されたのに、断ったという話を聞きました。そういう音楽を作るバンドだというレッテルを貼られることを嫌がったのだと聞ましたが、本当でしょうか。音楽業界の今の苦しさから考えて、せっかく来た作曲の依頼を簡単に断るなどありえないと思うのですが、アニソンに関しては初めて聞く話でもない。こういう話があることからも、やはりアニソンという音楽は大人の男が聴くにはそぐわない音楽として見られている節があります。まだまだアニソンは日本の社会の中では“キワモノ”として捉えられています。これはアニメそのものが大人の鑑賞(み)るものとして認識されていないこととも関連がある。さらに進めて考えれば、それはアニメそれ自体だけでなく、アニメを社会人なっても楽しんでいる男女に向けられた偏見とも関連しそうです。

反面、クラシックよりもJAZZよりもロックよりも、アニソンを愛する若者たちを私は大勢知っています。彼らの多くは、知ってか知らずか、万策堂の知り合いであるからして、オーディオを愛してもいます。だから当然、アニソンをハイエンドなオーディオシステムで存分に楽しみたいという願いを抱いています。彼らは自室にこもり、アニソンを自慢のシステムで密かに鳴らすのです。スピーカーシステムであることもあれば高度なヘッドホンシステムであることもありますが、自分に出せるだけのカネを出して、知恵を振り絞って、いい音でアニソンを真面目に聞こうとしておられる。そこには嘘偽りのない純真なハイエンドオーディオ魂が見え隠れするのです。ぶっちゃけた話、若いアニソンマニアが今一番オーディオを勉強しているし、老人たちよりも大きな金額を使っている人もいます。
特にアニソンにはボーカルの美があり、それをより美しく聞くことに執心するアニソンマニアは途切れることはないのです。
だが、そういうダマシイの世界も一歩、自室の外に出れば冷たい偏見をもって迎えられる場合が少なくないようですね。
以前、私の周りに自分の職場ではアニソンについては決して語らないと言う若者がいました。それはカミングアウトするようなものだと彼は言いました。この趣味がバレるのが怖くて彼女ができないとまで言ったのです。そんな大袈裟な、と笑いながら振り返ったときに見た、彼の妙に真剣な眼差しが忘れられません。
いったい、誰が彼をそこまで迫害したのでしょうか。

とにかく、アニソンをハイエンドオーディオで聞くことは恥ずかしいことか、というのが今回の空論のテーマなのですが、まず、そんなことは考えるまでもなく、恥ずかしくないに決まっています。
だいたいオーディオシステムで何を聞こうと個人の趣味、アナタの勝手ではないか。
しかも、例を挙げる必要もなく、現代ハイエンドオーディオで頻繁に取り上げられている音楽が、最初から格調高い音楽として認識されていたわけではないことは周知のこと。全ては様々な形で後付けされた権威により、高い芸術性が担保され、安心して聞ける存在になっているに過ぎないのです。

しかし実際には、アニソンを敷居の高いハイエンドシステムで聞くことに恥ずかしさがつきまとうことは否定できない。このようなアニソンの恥ずかしさの源泉としてすぐに思い当たるのは、その宿主であるアニメ本体にまつわる恥ずかしさです。それを知るにはガルパンを見ている時に感じた、あの支持者たちの熱狂と冷たい世間の視線とのギャップについて想起すれば足りるでしょう。
しかし、これは不公平な状況ではないかと私は思います。例えばヨーロッパの文芸的な恋愛映画によくある、赤の他人だった男女が出会ってから一秒で恋に堕ち、数時間を待たずして行為に至るというようなシーン。(映画「そしてデブノーの森へ」や「ダメージ」などで見るシーンである)ここでは必ずと言ってよいほど、相手はかなりの美女です。(アナ ムグラリスが美人というのには異存ないと思うが・・・・ジュリエット ビノシュも十分に美人ということにしておいてほしい)こういうシーンは美しい異性への絶望的な願望から生まれた場面であり、通常はほぼありえないことでしょう。このような芸術映画のシュチュエーションのありえなさは、ガルパンの世界観のありえなさと基盤を同じくするものではないでしょうか。ここで片方が芸術作品と呼ばれ、もう片方はモテないオタク向けのサブカル映画として白眼視されるのは、とても不公平です。ああいうアニメが本当に恥ずかしいものなら、文芸的な恋愛映画の少なくとも一部は極めて恥ずかしいものと言えましょう。だが実際、世間ではそうは言われていない。こういう不公平な認識がまかり通っているのはおかしい。エヴァやハルヒ、けいおん、マギカ、ラブライブ!、ガルパンの大きなブームを経て、この手のアニメはネットを介して流行する重要なコンテンツとして定着し、日本の中では大きな文化の流れとなっているにも関わらず、実写とアニメの間にある不公平感はなくなっていないのです。
(エヴァ、ハルヒ、けいおん、マギカ、ラブライブ!、ガルパン全てに共通するのは少女がメインキャラクターであること。恐らくこの不公平は少女を偏愛する大人を危険視する社会の態度に由来するのでしょう。)

このようなアニメを取り巻く不公平な文化的状況はともかくとして、これだけアニソンについてハイエンドオーディオ界の受容が本格的に進まない背景には、その理由が一つではなく、数多くあって、なかなか減らないことがあると思います。
例えばハイエンドオーディオを実践しているのが圧倒的に老人が多くて、アニソンにまるで馴染みがないこと、アニソン自体にリッチな雰囲気がなくてリッチな趣味であるハイエンドオーディオに合わないこと、アニソンを高音質で聞きたいというリスナーがまだまだ少数であること、アニソンに音楽の権威による裏付けがなく文化的には格が低いサブカルな音楽と見なされていること、ステサンなどの高級オーディオ専門誌やオーディオ関係の大物ブロガーもアニソンをあまり取り上げないこと、アニソンのほとんどが音質的にハイエンドオーディオ機材で聞かれることを意識して製作されていないこと(Hi Fiで聞くとむしろ聴きづらくなってしまうものもある)、特定の時代のJAZZを得意とするオーディオシステムがあるようにアニソンになかば特化したようなシステムが登場しないこと、アニソン自体がアニメ作品なしに成り立たず、独立した音楽のジャンルとしてはまだ立場が弱いこと等々、様々な要因を挙げることができます。
アニソンには不備が多い。だから敵も多い。

でもここで、一番ディープな問題はそんなことではないと思いませんか。アニメやアニソンの本質にいわゆる“痛さ”が多かれ少なかれ、ほぼ必ず含まれることが最も根源的な問題なのではないでしょうか。
“痛さ”というものが中二病的な“恥ずかしさ”の発露であるとするなら、アニメやアニソンにまつわる行為の少なくとも一部は世間一般から見たら恥ずかしいことをあえてやることです。ハイエンドオーディオでアニソンを聞こうが、ローファイな機材で聞こうが、それは本質的に“恥ずかしさ=痛さ”を含んでいることが多い。そうでなくては恐らくアニソンはアニソンらしくならないのでしょう。“痛さ”を伴う音楽はアニメと関連がなくてもアニソンに聞こえるし、“痛さ”と決別したアニソンは、予備知識なしには最早アニソンに聞こえず、萌えない。
この法則を知らない、もしくは忘れていることが行き違いの始まりなのです。
アニソンという本質的に痛さを伴う音楽を、“痛さ=恥ずかしさ”を排除し、格好の良い音あるいは正しい音を出そうとしているハイエンドオーディオという趣味に持ち込む。その場面で我々が違和感や羞恥心を感じることは必然であるにも関わらず、ハイエンドオーディオは常に、それとは反対方向の音を求めている。この方向性の行き違いが違和感の元ではないかと。
つまり、アニソンを聞く時は、この“痛さ”を受容して楽しめるように、リスナーは頭を切り替えることが必要になるのです。この当たり前にすら見える、頭の切り替えの必要性がアニソンに不慣れなオーディオファイルに認識されていない、あるいは無視・拒否されているのが現状なのではないかと思います。

さらに、ここでハイエンドオーディオそのものを醒めた視線で見つめ直すのもいいかもしれないですね。
そもそもハイエンドオーディオファイルが“格好の良さ”や“正しさ”あるいは“原音再生”などというものにカネをかけること自体、一般人にとっては理解を超えたバカバカしさなのではないでしょうか。ウォールストリートジャーナルにマイ電柱を立てる日本のオーディオファイルの写真と記事が出ていましたが、オーディオに関心のない者から見れば、あれこそ中二病的な“恥かしさ”満載の行為と言えなくもない。これを見るとアニソンとハイエンドオーディオ、その根っこは案外と似たり寄ったりなのかもしれないと思うのです。だから彼らがアニソンに慣れることは可能であり、その“痛さ”を受容すべく頭を切り替えることも、不可能でないと私は信じています。

とかなんとか言いつつも、私は、いじめられる人間にもいじめられる理由が存在するという法則を忘れたくない。
偏見を持たれる人間には、その偏見に値するだけの理由があるのかもしれぬと考えるのがバランスの取れた見方というものでしょう。
確かにアニソンには先述した以外にも、至らぬ点があります。
私はアニソンのほとんどが音楽のプロが集結し、苦労して作りこんだ作品であると考えていますし、演奏や歌唱のレベルの高いものが少なくないと思っています。だがそれだけで、アニソンを尊敬してもらおうというのはおこがましいと思います。アニソンは音楽の内容が薄い。特に歌詞が弱いです。本当に自分の言いたいことを吐露しているように聞こえない。テレビで流すことを前提としているせいか、作品世界に制約されているのか、まるで自己規制をかけているかのように、上滑りな、言い足りない詞が圧倒的に多い。文学的なセンスやテクニックにも欠けています。まるで天才の登場を拒絶するかのような、無個性で平均化された音調も芸術性に欠けるような気がします。
さらに言えば、アニソンは、異性への願望に基づく妄想以外のテーマを作曲者、演奏者の持つ強い個性に載せてアピールしないかぎり、過去の偉大な音楽作品を超えて、ハイエンドオーデイオに馴染む資格は与えられないでしょう。この音楽に関わるアーティストには、今のアニソンの様式美の枠を壊す勢いが必要だと思うのです。

今の時代に新しい音楽を生み出す事が苦しいのは知っています。これほど膨大な過去の音楽遺産を背負い、その栄光と重みを否応なく意識しながら、新しい音楽を生み出すことに困難さがあります。最新の音楽を全く聴かなくても、過去の莫大な音楽遺産を少し掘り返すだけで、一生かかっても聴き終わらないほど多くの音楽に出会える時代です。中古レコード屋の片隅を掘削して得られる、日の目を見なかった秀曲を聞いた後、今のアニソンなりEDMなりを聞く時の手詰まり感といったら、時に息苦しい。美しい歌詞とメロディ、素晴らしくインパクトのあるビートを人類は既に使い尽くしてしまったのではないかと疑いたくなほど。そして過去の音楽を掘れば掘るほど、新しい音楽が陳腐な剽窃にしか聞こえなくなる現象が私の中に起こるのです。そういう現実はPerfumeを聞いてもBabymetalを聞いても払拭できるものではない。アニソンに限っても昭和のアニソンだけ聞いていて趣味として完結できなくはない。つまりハイエンドオーディオの存在とは関係なく、新しい音楽に過去の音楽を超える何かを求めることは難しい時代になっているのです。アニソンにかぎらず、この状況下で新しく生れ出る音楽に多くを求めることは酷かもしれない。

しかし、音楽については過去だけを見ていながら、機材については未来志向で揃えていくというのは、どうも矛盾してはいないでしょうか。
シンゴジラの後ろ三分の一を覆う希望的な雰囲気を象徴する、矢口 蘭堂の台詞「日本はまだまだやれる」ではないですが、「音楽はまだまだやれる」と私は前を向いてつぶやいてみたいものです。紆余曲折あっても前へと進もうとするハイエンドオーディオの良き伴侶として、優れた内容と音質を備えた前衛的なアニソンが生まれ、(それは見たこともない前衛的なアニメが生まれることと同意なのですが・・・)アニメファン以外の人々にも受け入れられる時代が来ることを願ってやみません。

by pansakuu | 2016-09-02 23:23 | その他

Hailey1.2を眺めながら

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つくづく思うのだが、
私のような都会に住む忙しい人間には、
高価なスピーカーなんてものは無駄じゃないのか?
今、手元に置いて試用しているYGのHailey1.2を眺めていると
そういう思いが込み上げてくる。
ここのところ、ずっとそういうことを考え続けている。

最近の私は週日、朝早く出掛けて、夜遅く帰ってくる。
つまり、このスピーカーを存分に聞けるのは上手く行って日曜の昼間だけである。
フルに休みを使えても実質、週に10時間前後である。
しかも隣近所の迷惑があるので、そんなにデカイ音は出せない。
こいつは思い切り音量を上げた時にその真価を発揮するのだが・・・。
とはいえ、クレームが来やしないか、
ビクビクしながら音楽を聞くのは御免である。
事実として、一軒家を立てた後の方が、
マンション住まいだったときよりも騒音の苦情が増えたというオーディオファイルもいる。
防音室がないと安心はできない。

しかし、何度か述べてきたように私は防音室が苦手である。
窓のない部屋、窓の小さい部屋が元来苦手なのである。
あの閉塞感には馴れることはない。
ついでに重いドアも困る。単純に開け閉めが辛い。
だから防音室は建てない。
そんなに広くなくていいので、
家族の行き来するオープンなリビングで寛ぎながら音楽が聴きたいだけだ。

この状況で、
600万のスピーカーを買っても
宝の持ち腐れに近い気がするというのはこういうことだ。
時間当たりの音楽を聴くコストを私は考えるのである。
例えば、この調子でスピーカーオーディオをやっても
一年に400時間あまりしか聞けないことになるが、
一年でスピーカーに払った代金の元を取りたいなら、
600万を400時間で割るわけで、
一時間あたり一万円以上かけていることになる。
無論、スピーカーは少なくとも2年は使うわけだから、
まあ一時間当たり7000円くらいまでの使用料に下げられるかもしれないが、
それでも、音楽を聞く対価としてはどう考えても安くない。
それにこれはスピーカーについてだけの話で、
アンプも同様のことが言えるので、さらに金額は加算される。
また、一週間の大半はリビングに
大きなスピーカーが無意味に陣取ることになる。
これも我慢できない。
こいつは音を出していなければ、
ただの真っ黒くて重たいオブジェにしかならない、邪魔っけな道具である。
スピーカー本人にしても暇を持て余しているような気分だろう。
週末しか、お呼びがかからないのだから。
Hailey1.2は、これはこれで確かに音はいいから
300万くらいなら我慢する、許せるのだが、
(でも能率が低いのはかなり困るな。アンプの代金も半端ない。)
こいつは600万円を超える機材なのである。

とにかく、いろいろと考え始めると
高価なスピーカーというものは、自分に合わないような気がしてくる。
こうなるとヘッドホンの方がよほど気楽である。
家人が静かに勉強をしていても、お構いなしに聞けるし、
徹夜で聞き続けても誰もクレームしない。
したがって毎日のようにコンスタントに聞ける。
どんなに高価なヘッドホンシステムを組んでも、
一時間あたりの対価はスピーカーシステムよりもかなり小さくなる。
またスピーカーシステムに比べて圧倒的に小さく場所を取らない。
また幾つものシステムを並列して設置し愉しむことも容易であるなんてことは言うまでもない。

だが、ヘッドホンシステムは
最重要事項である音質について
最近まで、ずっとスピーカーシステムの後塵を拝してきた。
だから、どうしてもスピーカーは必要だった。
しかし、今やハイエンドヘッドホンシステムの性能は
スピーカーと比肩できるところまで上がって来たように思うと何度も唱えているし、
それに対して、最新スピーカーの能力は
頭打ちに近い状態であるということもたまに言っている。
確かに、新型スピーカーを聞くと、測定値に出るような表立った部分については、
昔のものよりも良くなっているのだが、
その分、以前のスピーカーが持っていた愛すべき個性、独特の味わいのようなもの、
あるいは絶妙なバランスの良さが失われているような気がしてならない。
これでは結局、差し引きゼロの状態ではないか。
何かを得たが、何かを失っている。
一方、ヘッドホンに関しては、いまところ、単純に得たものの方が大きい。
つまり伸び盛りのジャンルなのである。
黄昏のスピーカーオーディオと旭日のヘッドホン・イヤホンオーディオ。
このギャップはとても大きい気がする。

こういうギャップに若い人たちは敏感だし、直感が鋭い。
そして合理的である。
だからヘッドホン・イヤホンの方に集まってくる。
そっちの方が伸びているし、素直に面白いし、合理的だからだ。
この人気が金銭的な問題のみに起因するものでないのは明らかである。
今や本当にハイエンドなイヤホンシステムを揃えるほどの財力があれば、
大きくはないが、気の利いたスピーカーシステムを揃えることは可能であるのを、
彼らは承知している。
でも、それでは全然、気分が盛り上がらないから、
あるいはどんなシュチュエーションでも楽しめろわけじゃないから、
ヘッドホン・イヤホンに大きな投資をするのだろうか。
私はよく知らないが、結局そういうことになっている人もいるらしい。

そういう私は夜な夜な、
NAGRA HD DACとRe Leaf E1x、HD650 Golden era MKを召喚し、
音楽の迷宮への出入りを繰り返す。
そこで様々なシンガー、様々な音たちに出会い、奴らと火花を散らす。
そのデジタルファイル、LPに隠された滋味を味わいつくしたら、
そこを立ち去り、また次の音楽と出会う。
オーディオファイルとは音の機械獣の召喚者であり、
彼らを使役して音楽の女神を狩り、食らうハンターのような者たちだ。
その神聖な用途に、私のヘッドホンシステムは
いままで使ったどのスピーカーシステムよりも向いているような気がすることもある。
これはかなりコンパクトなシステムだが、
さらに高価なHE-1に勝るとも劣らない、魅惑的なサウンドをいつも奏でてくれるし、
どんな静かな夜でも私の気まぐれに付き合ってくれる道具なのだ。

世話してくれた方には申し訳ないのだが、
私は明日にも、このYGのスピーカーを流してしまうかもしれない。
次はまたピエガに戻るか、マジコに行くか。
もしかしてZellaton?
はたまた、
デザインが楽しいVividに行きたい気分もあるが、
あの横っちょウーファーはこの部屋で大丈夫だろうか。
様々な考えが頭の中に渦巻いていくのだが、
その背景には常に、
今、スピーカーでオーディオをやるって本当に面白いことなのか?
という倦怠感にも似た深い疑問が居座っている。
それは、ヘッドホンやイヤホンが発達した現代においては
ハイエンドスピーカーなんてものは
無意味に難儀で不自由なだけなんじゃないかという疑問と重なる。
そして、
その疑問の向こう側には、
手の込んだヘッドホンシステムがあれば十分ではないか、
という消極的な解答があるのではない。
ヘッドホンシステムに投資する方が明らかに面白いし、
恐らく今の自分にとっては険しいけれど新しい道なのだという確信がそこに生まれつつある。
それは私が望んでいないことだったかもしれない。
考えたくもないことなのかもしれない。
だが、砕け散ってもいいから、そっちに歩いて行きたい。
そういう強い誘惑がある。
スピーカーに未知の音を見つけられなくなってから久しいのだから、
当然といえば当然か。

では自分のヘッドホンシステムを私はどうすべきだろうか。
Sennheiser HE-1についてはアンプ部が明らかに役不足だ。
このシステム単体では600万の価値はまだないから、
強力なDACや電源ケーブルをかませたりして底上げしなくちゃならない。
こいつを候補から外したわけじゃないが、乗り気にまではなってない。
それに、未聴だが、MSB Select DACと
STAXヘッドホン向けのアンプユニットも魅力的ではある。
問題は流石に高価すぎること。1700万円はすぐには出ないし、
STAXにしか対応しないのもつまらん。
アレはとにかく試聴しないと、どうしようもないのだが、
代理店様がヘッドホンオーディオに関心が無さそうに見えるので、
もしかすると日本では聞けない機材になってしまうかもしれない。
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それにひきかえ、
ステンレス製のRe Leaf E1pの鏡面仕上げのコース、
Fostex HP-V8とBispokeのプリ、TA300Bを組ませるコース、
GOLDMUND THA2を電源ケーブルやインシュレーターで
ドーピングするコースなんかは
HE-1やSelect DACよりも、ずぅーっと安上がりだが、
多少は面白い結果が得られることだろう。
これらにFocal UtopiaやGrado GS2000eなど
最新のヘッドホンを合わせて愉しむのがよかろうか。
(GS2000eの方はそのうち手に入りそうだが・・・・。)
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黒光りするHailey1.2を眺めながら、
私はあえて、このスピーカーのレビューを書かないことに決めた。
このスピーカーの音質が悪いのではない。むしろ素晴らしい。
それなのにあえて書かないのだ。
スピーカーを飽きるほど聞いたとは到底思えないし、
そんな境地に達したと思いたくもないのに・・・・。
単なる一時の気まぐれなのかもしれないが、
それほどまでに私は、
スピーカーという、
どこか時代遅れにさえ見える難物に興味を失い、
ヘッドホンというガジェットにオーディオの新たな希望を見出している。

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by pansakuu | 2016-08-09 23:15 | その他

珈琲を飲みながら:Audeze LCD-4が届いた聖夜に

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神は8日目にコーヒーを創造した
詠み人知らず



私はコーヒーは苦いモノだと思っていた。
そう思っているかぎりは、苦いコーヒー以外は認めない、
そういう立場に知らず知らずのうちになっているものだ。
だが、ある日突然に気付かされる。
コーヒーが苦くない方が自分にとっては美味しいらしいことに。

神田に行きつけになったGlitchというカフェがある。
本屋に用があった帰りは大概そこへ寄って、コーヒーかカフェオレを一杯飲んでゆく。
ここにコーヒーはまるでジュースのようにフルーティである。
苦くない。味にもその澄んだ色にも透明感がある。
焙煎法が普通と違う。豆を焦がさない。
もちろん淹(い)れ方もお湯の温度や十秒単位で決められた手順も独自のものらしいが。
あくまで結果のみにコミットする万策堂は、原料や加工法についての関心はあまりない。
できあがったコーヒーやカフェオレが美味いかどうか、
それしか気にしていない。
自分に合うかどうかしか考えていない。

そこを紹介されるまで、実はブラックコーヒーが苦手だった。
苦いのが苦手だった。
上京してから、立派な専門店で真っ黒いコーヒーを飲むたびに、
誰かに気を使っておいしいですねと言うのも苦痛だった。
連れてきてくれた方に対してか、
あるいは愛情をもって、
少し流動性の低いコーヒーを淹れてくれる店主に対してか、
礼を尽くして、お世辞を言う相手は時々で違ったかもしれない。
とにかく、コーヒーというものは苦い飲み物を大事そうに飲むのが
カッコ良いらしいと、
その作法を受け入れて過ごしてきた。
心の底では納得できなかったが。

ところが、その神田の店では
コーヒーはフルーツであると教えてくれた。
それでいいのだと。
苦くなくていいのだと。
コーヒー豆は実は果物なので、
そのエッセンスをそのまま素直に味わえばいいと言うのだ。
大事なのは、彼らが私にそういう講釈を垂れたわけではなく、
味覚そのもので、それを示したということである。
その流儀を押しつけたのではないところが良かった。

実際、あそこへ行くと、幾つかの焙煎したコーヒー豆のサンプルがあり、ラベルには産地の豆の品種、そのフレーバーが書かれている。フレーバーの文言にはストロベリーとかピーチとかラズベリーとか、果物の名前が並ぶ。手に取って香りを試すと、確かにそうだ。ワインもこんな感じで、その味や香りを表現することがあるが、コーヒーの味香についてこういう言い方をするのは初めて見た。
そうは言っても
当然、こういうコーヒーは薄くて好きじゃないという方がおられるはずである。
それはそれで、並行して在っていい考え方。
だが一方で私のような者も居るし、居てもいい。

淹れてもらったコーヒーをさらさらと飲みながら、
買ってきたマラルメの詩集に目を通す。
私は自分の指定した香りにつつまれながら、字面を追い、様々に考える。

もしかするとオーディオもコーヒーの味と同じじゃないのか。

そもそも質量はなくて、形もなく、目の前ではかなく消え去ってしまい、生存には必須ではない音楽というものをただ聴くために、大袈裟でカネのかかるオーディオシステムを維持・更新するのは苦痛じゃないのか?
別に今風でなくてもいいんだけど、
とにかく全然オシャレじゃない。
例えば、もっとアッサリとした見かけをしてるが、音楽の良さ、音の良さが十全に感じられて愉しめるスピーカーシステムは作れないものか?
実際、そんなものは、なかなかない。
でも翻(ひるがえ)って考えると、
そういうものが何故、出来てこないかはなんとなく分かる。
世界中でオーディオを創る、ほとんどの人々の頭の中身が古いからだ。
もちろん全員じゃない。
AK380なんかを企画してしまう韓国人もいるし、
Mojoなんかを作ってしまうイギリス人もいるから。
でも大半は昔のままのオーディオの観念なのだ。
そういう人間たちが作るモノから、
新しいカルチャーの息吹を感じ取ろうとしても無駄だろう。

昔は重厚長大で無駄にカネのかかるオーディオシステムでも良かった。
価格の絶対値が今ほど高くはなかったし、人々の心のゆとりも大きかった。
デカい音を出しても時に苦情が来るぐらいで、
役所に訴えられたりはしなかった。
今まで積み上がってきた
ハイエンドオーディオってこういうものだという
カタチや作法みたいなものがあるけど、
最近はなかなか、ついて行けない気がしている。
音質がそれほど良くならないのに、鰻昇りになっている価格のこともある。
大地震の時に電気が来なくなり、
こんなモノを持っていていいのかと真剣に考えた思い出にも影響されている。
(酷いことに、もう忘れそうになっているが)
しかし、そんなことだけじゃない。
そもそも今は時代精神が違う。
ハイエンドオーディオが出来た時代、
マークレビンソンがセンセーションを巻き起こした1970年代とは、
ドイツ語で言うZeitgeistが違う。
小さなスマートホン一つで、多くのことが何処に居ても済むような時代だ。
もちろん音楽だってコイツで十分聞ける。
ここで聞こえる音楽が、
MagicoのスピーカーとConstellationのフルシステムから聞こえる音楽より
劣っていると誰が断言できよう。
上手く表現できないが、
昔と同じ感覚でオーディオをするのは
もう苦(にが)いと思う者が居ても不思議はない。
もちろん、いままでの古色蒼然としたハイエンドオーディオがあってもいい。
許すも許さないも、その一部を今だって愛してるさ。
(深く深く愛してるぜ)
だけど、そればかりじゃ、つまらないのも自明。

私はコーヒーは苦いモノだと思っていた。
そう思っているかぎりは、苦いコーヒー以外は認めない、
そういう立場に知らず知らずのうちになっている者もいる。
だが、ある日、気付く者がいる。
コーヒーが苦くない方が、
自分にとっては美味しいということに。

そろそろ帰って、
またコーヒーでも飲みながら、
LCD-4とE1xでジャネット ジャクソンの新譜でも聞いてみようか。

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by pansakuu | 2015-12-25 23:47 | その他

ヘッドホン・イヤホンオーディオについての無駄な会話:中野サンモールの磯〇水産にて

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ここは異郷か これは現実か
ただの余興か
真昼の光の中へと出てゆこう

Grapevine Silveradoより


MEZ: 今回は、お店に無理を言ってGoldmundのTelos Headphone amplifierとRe Leaf E1を二台並べて、ノーマルのHD800で一対一で聞き比べるという贅沢な試聴だったんですけど、どうでしたか?
GOZ: まさに甲乙つけがたい。どっちも良かった。まず音云々の前にE1はTelos HPAに比べて圧倒的に小さかったね。E1の大きさはTelos HPAの半分以下という感じ。実物を並べてみると驚きだったよ。Re Leaf E1の凝縮度はかなりのもの。持ち歩いて聞くなんてのは無理だけど、それにしても、どうやってこんなに小さくしたのかね。これだけ音がいいDAC+HPAとなるとどうしても大きくなるじゃない。OJIのBDI-DC24Aやマス工房のModel394なんかのトップクラスのヘッドホンアンプにかなり高級なDACを合わせた音、またはそれ以上の音があの小ささで手に入っちゃうのは凄いよね。BDI-DC24AもModel394もDACなしで、あの小ささなんだからねえ。
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MEZ: 私は箱の大きさはもちろんですけど、音の違いもかなりあるなと感じました。ムンドのヘッドホンアンプは全ての音の要素で最高点をマークすることを目指しているのに、そういうエッジなアンプにありがちな音全体のバランスの破綻がないです。GEM-1みたいな、インパクトの強い部分があるけど、どこか微妙にバランスが崩れてるようなモノとは違います。逆にE1は聞いていて突出した特徴がないと思えるくらい普通の音ですけど、個々の音の要素を意識して聞くと、非常に優秀で驚くし、ヘッドホンドライブの仕方が的確で過不足ない音です。
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GOZ: Telos HPAはそれを上回るドライブ力、破格の空間性で押しまくるよ。各楽器とかパートの分離感が半端ない。全域での解像度の高さもありえないほど。あれほどの音はこれから先も他では聞けそうもない。ヘッドホンアンプの部分だけでもOJI、マス工房はもちろん、NewOpt,、EAR、Luxman 、Audio design、Aurora sound、N modeなんかと比べて基本性能自体、違うはずだよ。ドライブ力の差をかなり感じたから。過去、駆動力や力感という点ではナンバーワンだったG rideのGEM-1を超えてる。以前、かなりお高いAgaraのヘッドホンアンプなんかも聞いたことあるけど、アレも勿論超えてます。Telosはヘッドホン出力ギリギリまでデジタル信号で持って行って、変換してるのかな。なにか他社のやってないことをいくつもやってるはずだよ。
MEZ: 圧倒的ですね。でもやり過ぎかなと。本来の音楽を作ったスタッフが想定する再生音の範囲を超えちゃってます。対するRe Leaf E1は安心して聞いてられますよ。真っ当な音に身を委ねていればいいような感じ。あの大きさにしては、かなりの高価ですけどね。もともと国産で、価格に代理店のマージンは入ってなさそうだし、円安やらスイスフランの変動やらもあるし、比較の仕方によってはTelos HPAは割高と思う人もいるはず。
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GOZ: 据え置きの複合機は最近面白いものがいろいろ出てきたからね。聞いたものの中では、普及クラスのものだと、Oppo HA-1とパイオニアのU-05がいいね。HA-1は熱いけど。外見だけだとMcIntosh MHA100はカッコいいよね。音はどこにでもありそうな感じだったが。聞いてないけどChord Hugo TTはかなり期待できそうだよね。アレが来たらほとんどの複合機は駆逐されてしまうかも。Hugo TTに対抗できそうなのは近頃出たものでExogalのComet Computer DACとか、MYTEKのManhattanあたりかな。exaSoundのe22もだね。極端に高いがヘッドホンアウトも優秀っていうNAGRA HD DAC+MPSとかQualia&CoのIndigo DACと近いレベルに行くような気がする。ただNAGRAとかQualiaはスピーカーオーディオでの使用が本来だからね、全体の価値としては比較できない。
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MEZ: そうやってHugo TTなんかをはじめとする、高級な据え置き複合機が出て来ても、E1とTelosの優位は変わらないんじゃないですか。Hugo TTはHugoの強化版という位置づけで、イギリスでは3000ポンドくらいってことは日本では60万円くらいになるはずです。Hugoの今の音とその価格とを考え合わせると、E1やTelosを超えるってことはなさそう。さしあたりはRe leafかムンドか、どっちにするか迷えばいい。
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GOZ: どっちを買っても最高峰を手に入れた満足はあるはずだよ。異次元のゴージャスさでキメたいならばTelosだろうけど、どこまでも正確で真っ当な音を極めたいのであればE1だね。俺はどっちかっていうとTelos。オーディオにはやはり元の音よりさらに良くなったような気がするくらい魅惑的な部分が欲しいから。そういうプラス アルファがE1にない。
MEZ: 私は買えるなら迷わずE1。Telos HPAの音は凄すぎてついていけない感じがあります。価格や占有スペースでも明らかにE1に分があります。いわゆるバランス接続もできますし。バランスだと微妙に力強さが増す方向で。
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GOZ: なんかオーディオのニュース見てると、欧米のハイエンドメーカー各社がヘッドホン関係のアイテムに手を出し始めてるでしょPASSもAyreもユニゾンリサーチもヘッドホンアンプを試作してるようだし。さっきも出たけどCHORDは据え置き型のHugo TTを出す。それにConstellation audioは次に出すプリメインにヘッドホン出力をつけようとしてる。まだまだ追随する動きはありそうだけど、かといってE1やTELOSのクラスまでのものを作ろうっていう気運はまだ今のところない。こんなに高価なHPAは売れないだろうと考えてるのか、所詮ヘッドホンだから、この程度でいいと思ってんのか、ただの様子見か。どちらにしろ、普通に考えたら、この先、数年はこの二つがトップということだろう。仮にもし他に凄いヤツが他に出て来ても、これらどちらかを手元におけば慌てないで済むだろ。
MEZ: 今日、聞いた限りだと、据え置きヘッドホンアンプとか複合機の高級化は価格とか性能の伸びはこの辺で一休みって感じですか。
GOZ: そうあって欲しい気もする。これ以上は迷いたくないからな。
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MEZ: ところで、さっきも現物ありましたけど、LotooのPAW GoldとかAK240とか出てますね。DAPのハイエンド化が、かなり目立つようになってきてませんか?ソニーもZX2出してきた。ポータブルでもリケーブルとかバランス接続とか話題に上りますよね?
GOZ: あくまでマニアの間ではでしょ。でも確かにカスタムIEMなどという、超マニアックなモノさえ徐々に市民権を得つつある。ポータブルの世界には、据え置きよりさらに激しく高級化の波が押し寄せてる。DAPなんか最終的に50万クラスまではいくんじゃない?この前どこかに書いてあったけどZX1用のGlove audio S1が出るらしいけど、ああいう機種を限った寄生的なアイテムまで出て来るところに、ポータブルオーディオの過熱ぶりを感じる。いろいろ後付けするアイテムが出て来るけど、AK240とかPAW Goldとかはやっぱり直挿しを目指すんじゃないか。やるならリケーブルとかバランス接続で音質を上げるっていう発想になる。あのクラスだと内蔵のアンプも良くなきゃダメだという意識が買う側にあるから。
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MEZ: 実際、PAW GoldとAK240をW60で一対一で聞き比べると、こちらもやっぱ音の傾向が違いますよね。AK240は柔らかさがあってスッキリ。PAW Goldは明確なモニター的な音で重心が低くて安定してる。操作性はAK240が上回りますが、GOZさんとしては音質とか筐体デザインとか含めると、こいつらも甲乙つけがたい?
GOZ: 俺は最終的にはPAW Goldが好きになったけど。AK240ってなんか音に浅いっていうか、浮わついた傾向ない?ゴールドのダイヤル以外は質実剛健なカタチと音ってことでPAW Goldがいいな。
MEZ: ああいうものは最終的には操作性で差がつくものだと思いますし、AK240の音はまとめ方が巧いですよ。それに音は少しも浮わっついてなんかいないと思います。それから、もうすぐ出るAK240のステンレスモデルAK240SSは音自体も違うっていう話で興味あります。私はAK240派ですね。なんかPAW Goldゴツ過ぎ。
GOZ: いやいや、そこがいいんじゃないの。プロっぽいデザインのDAPでしょ。ただ個人的には、どっちももう一皮剥けてくれないと、CHORD Hugoの音質にまでは届かないと思ってるけど。接続したヘッドホンやイヤホンに対するドライブ力がどっちもまだ足りない。
MEZ: それならポタアン使えばいいじゃないですか?
GOZ: それがさ、WAGNUSのアンプくらいしか、このクラスのDAPの直の出力を上回る音を出せるポタアンがないような気がすんの。ある?いいアンプ。
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MEZ: うーむ、KH-01P以外は、これって感じのものがすぐに思い当たらないですね。
じゃ結局ポータブルの王様はHugo?
GOZ: そうとも言い切れないよね。音はいいけど電池はもたないし。もともと大きくて重くて、しかもトラポも要るからかさばって持ちにくい。設定にも問題あり。アレは使ってみると小さい据え置き複合機だったな。そいうわけで、まだ絶対王者がいないワケだから、このポータブルの分野っていうのは、もっと伸びると思うんだな、性能も価格の上限もね。
MEZ: 同感でございます。

GOZ: そうそう、今日、聞いて思ったんだけど、ヘッドホンアンプの能力は明らかに上がって来てるのに、肝心のヘッドホン本体の性能アップが止まってちゃってる気がしない?SennheiserもFostexもbeyerdynamicも新たなフラッグシップを出さないまま年月が過ぎてる。HD850とかTH1000とかT2とかそろそろ来てもいいじゃない。
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MEZ: ダイナミック型に限れば、Gradoは地味にフラッグシップモデルの改良版を出してますし、Ultrasoneもぼちぼち出してます。それならと、Sennheiser、Fostexも、そしてbeyerdynamicも出してこないと盛り上がらない。Audio questのNight hawkはそれらのメーカーのフラッグシップと対抗できるかどうかはわからんですよ。だって、あれは9万円も行かないらしいじゃないですか。
GOZ: 高けりゃいいとは思わないけど。Night hawkはポタ研で聞いてみたら、フラットな音というか、ごく普通の音だったね、アレは。TH900とかHD800なんかと比べると、なにかコレっていう売りがない音だけど、全てがバランス良く、普通に音のいいヘッドホンって感じだった。8万だったら値段相応かな。かけ心地もいいしね。だがHD800あたりにはまだ敵わないとも思う。この分野にも新しい千両役者が出て来て欲しい。Focalがベリリウム振動板を使ったハイエンドヘッドホンを開発中とか、MURMASAに続くPandoraシリーズの旗艦のリリース予定とか、色々と噂はあったのに。それからオーディオテクニカは最近なにしてんのかな。なんかパッとしないじゃない。ハイエンドなヘッドホンという意味でさ。
まあ、静電型に関しては、Hi-Fi man HE 1000だな、期待のヘッドホンとなると。HD800を上回るという噂だが、STAXのSR009をも上回るような音なのかな。
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MEZ: HE 1000がSR009を超えるのかどうかは聞いてみないとねえ。ペアを組むヘッドホンアンプEF1000の出来にもかかってる。
なにしろヘッドホンは全く新しい技術で音を出すタイプとなると、なかなか出てこないんですね。HE1000だって全く新しいタイプのヘッドホンじゃないです。ブレークスルーがない。例えばヘッドホンのほとんどはドライバーユニット一発でフルレンジスピーカーみたいな鳴らし方しかしてない。ユニットを増やして、ネットワークで管理するヘッドホンはまだ成功例を私は聞いてないんです。
そうそう、忘れてましたが、CES2015でEnigma acousticsってところからDharmaっていう画期的なヘッドホンが出てましたね。詳しい情報がないんですが、高域を静電型ドライバーに、中低域を和紙で作られたダイナミック型ドライバーに受け持たせるという、静電型とダイナミック型をハイブリッドしたヘッドホンだとか。$1200っていう予価があることからして、そのうち市販されるようですね。スケルトンのヘッドホンアンプと合わせて発表されてて楽しみです。このメーカーの外付けスーパーツィーターはもう日本で売ってますから、待ってれば日本で買えるようになるかも。
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でもまあ、革新的なのは、このヘッドホンと既存のObravo HAMT-1くらいなもんでね。
一方、イヤホンはドライバーが複数あるのはごく普通。カスタムIEMからさらに進んだ音質のオーダーメイドなんていう企画もあるし、36万もするJHのLayraがアッと言う間に売り切れたりとか。やはりイヤホンは勢いあります。
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GOZ: そう、Enigma acousticsのDharmaもHE1000もまだ来ないんだけど、今年もポタ研へ行かないと、時代に乗り遅れると思ってね。大混雑なのに行ったのよ。
JH audioのLayraは確かに凄くって、イヤホンで初めてほぼ完全な三次元空間を感じたね。各楽器の分離とかスケール感とか、凡百のヘッドホンは負けそうだったね。Angieは予想の範囲内というか高級イヤホンのバリエーションって感じだけど、Layraはホント面白かったね。個人的にこのイヤホンにTELOS HPAを合わせたらどうなるか、興味がある。その他はanalog squared paperのTR07HPとかさ、結構、個性的でそそられたね。マス工房のデカいポータブルフルバランスアンプの鮮烈だけど正確な音とかも印象深い。そいからOppoのHA2とPM-3のペアは値段を考えると完璧すぎるサウンドだったね。大家電メーカーが力を結集して作ったような音してた。音だけだとSONYかと思ったよ。
MEZ: もうこのジャンルでは日本の音響家電の大メーカーは中国や韓国のメーカーに、ほとんど負けそうなのがはっきりしましたね。そういえばAK500Nはどうでした。
GOZ: AK500Nは聞いたけど、SONY, ヤマハ、ONKYOあたりの製品とは値段も性能もデザインも格が違うわけだし、あの優秀なSforzat DSP-03と比べてさえ、あまり遜色ないなあ。それからAK500Nはヘッドホンアウトついてるんだけど、それこそ聞いてみたいな。

GOZ: ところでさ、世の中の基本的な流れとして、イヤホンとかヘッドホンは学生とか就職したての若いうちにやっていて、それなりに出世して収入が増えるにしたがって、ヘッドホン・イヤホンは卒業、スピーカーの方へというのがコースとして考えられてて、それに意識的にまたは無意識に乗っかろうとしてる人がいると思うんだよね。オーディオ雑誌とかブログ見ていると、やっぱりスピーカーで聞こうよとか聞きましょうよとか、時々書いてない?結局はスピーカーにみんな収束していくという話は分からないではないのだけど、なんか引っ掛かるんだよね。
MEZ: 何がです?それは自然の流れみたいに思ってましたけど。
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GOZ: 散々スピーカー聞いてきた感じで言うと、今の時代、実はスピーカーオーディオって、もうそんなに面白くないのよね。俺がスピーカーで面白い、凄いと心底思ったのは随分前にジャーマンフィジクスっていう会社で作っていたDDDドライバーを聞いた時が最後なんだ。その後も小さい感動とか感心はいっぱいあるけど、俺個人はスピーカーでそれこそ何年も心の底から大感動したってものに会ってない。そういうわけでもうスピーカーってものはグレードアップしようとしても、ただ高価でデカくなってゆくだけで、感動の伸びしろは、ほとんどないんじゃないかって思ってるのよ。テクニカルにも、能率は低くなる一方で、アンプに負担はかけるし、カネもかかるし。スピーカーの持ち味を出すために、アンプを強化するしかない状況さ。逆にスピーカーがアンプの良さを引き出すように働く場合がかなり少ない。誰かが言ってたけど、スピーカーが一番サボってる時代なんだよね。もっともっと能率が高くして、ワイドレンジでハイスピード、高解像度っていう現代的な音を出せるスピーカーがあってもいい。こんな感じで不満が渦巻くスピーカーオーディオっていう場所にあえて誘い込むのもねってちょっと思う。とどのつまりは余計にカネを使わせたいだけじゃないか?業界ぐるみでハイレゾとか言って騒いでるのと同じ目論見じゃないかっていう思いはなくはない。ヘッドホンとかイヤホンは耳の健康に悪いとか、音楽の全体像がわかりにくいとか、欠点は色々あるけれど、オーディオとしてはまだまだ伸びしろがあるエキサイティングな分野でることは間違いないんだ。スピーカーを始めたからって、それは忘れないで欲しい。
MEZ: 確かに、ヘッドホン・イヤホンはやっている人間を飽きさせないだけの展開がありますよね。スピーカーはマンネリズム。
GOZ: そこでTelos Headphone amplifierとRe Leaf E1を聞き比べた話に戻るけど、この二つを並べて聞いてると、ついにヘッドホンオーディオもここまで来たかという感慨がある。この音って心底面白いんだよね。Magico Q7よりも面白い。
MEZ: つまりGOZさんみたいに、スピーカーオーディオをずっとやっていて、つまらなくなってヘッドホンやイヤホンに行くっていう経路もアリってことが言いたいんですか?
GOZ: そうなのよ。似たような話だけど、ずっとデジタルオーディオを追っ駆けてきて、もうつまらなくなって、行き詰まったところで、アナログオーディオに救われたってのもある。つくづくオーディオの辿る道ってのは一直線じゃないと思う。
Telos Headphone amplifierとRe Leaf E1はスピーカーに飽き飽きしたオーディオマニアが、全く別な使い方、全く別な音を指向するセカンドシステム、サードシステムを構築するっていう寄り道としても強く推奨できる。
MEZ: そうですね、今夜は夜更かしして音楽を聞くぞって金曜の夜に決心しても、そこでスピーカーを土曜の朝まで目一杯使える人なんてほとんどいないわけで。そこで昼間に聞くオーディオとは全く性質の異なるセカンドシステムが重宝なのは当然です。だいたい、夜にしても昼にしても大音量でJazzやクラシック聞きまくるっていう趣味自体すでに終わってるというか、もう時代遅れかなって思うし。家族・近所に騒音の迷惑かけてまで趣味をやって、周りもテキトーに許してくれるっていう、大らかな気風はもう日本の都会には残ってないです。でも肝腎のヘッドホンの音のクオリティが、今まで、どんなにカネやセンスを駆使しても、スピーカーオーディオに肩を並べられなかった。それがTelos HPAとE1によって解決されようとしてます。

GOZ: カネとセンスねえ。オーディオってのはさ、カネでどうにかなる部分とカネだけじゃどうにもならない部分ってのが混在しているから、それを整理し区別して考えることができないと上達しないと思う。機材の外観の美しさとか操作感とか、音質の客観的に見たクオリティとか、あるいはリスニングルームの音響とか、そういうものは札束の重さに依存する。だけど、自分の好みをよく知ったうえでの機材の選択、機材の組み合わせの巧さとか、ちょっとした使いこなしで潜在能力を引き出すとかいうのは、カネじゃなく使い手のセンス。センスを高めるには自分を磨くしかない。それは耳がいいだけじゃダメで、様々なオーディオをいっぱい聞いて経験値を高める、オーディオ技術の教科書を読んで勉強、他の人のオーディオルームでノウハウを盗んだりして知識も豊富じゃないと。音楽自体にも詳しくて、そのうえ自分でも使いこなしのアイデアが次々湧いて、試行錯誤を億劫がらない。なによりも、今あるものを壊したり、それに新しいものを付け加えたりすることに躊躇しないこと。音が良ければNewモデルだろうと、中古だろうと、どこの国の製品だろうと、アナログだろうとデジタルだろうと差別はしないのも重要。そういう使い手の柔軟な態度の総体がオーディオのセンスだ。カネとセンスの両輪がうまく回らないとオーディオは前に進まない。
MEZ: 以前、広大で天井の高い専用のリスニングルームにお邪魔したことがあるんですけど、あずましくないって言うか。かなりカネがかかったリスニングルームなんですけど、音響調整材に四方八方囲まれて真ん中にポツンと一人掛けのリクライニングがあるような感じ。オーナーさんは私を残して外へ行っちゃうんですよ。居ると音が悪くなるからとか言って。恐ろしく殺風景で孤独でした。
GOZ: 部屋が立派過ぎて、逆になにかが違うって感じたってことか。部屋は適度に広いほうがいいとは思うけど。でもルームの音響調整にカネをかけりゃいいってもんでもないということは確かだ。近頃は海外製のオーディオの値上げが酷いから、どうしてもカネの話になりがち。しかし、それは全体の50%以下の話だ。ぶっちゃけた話、一千万オーバーの製品の多くは500万円近辺の製品と実力差はほとんど認めなかったりする。一千万円超えた場合は無意味に高いモノが多くなると思う。富豪の金銭感覚に合わせて値付けして儲けてるだけなんじゃないか。
MEZ: ムンドなんかもそうでしょうか?あの値上げ見ました?
GOZ: 見た見た。GOLDMUNDはどうしてあんな無茶な値上げするかね。下手すると元値のほぼ2倍。ムンドって日本で言われてるほど酷いメーカーじゃなく、音は素晴らしいんだけどな。ハイエンドオーディオとしての実力はあるのに。もう日本では事実上は売らないつもりかな。でもTelos Headphone amplifierだけは値段据え置きだぜ。これも何を考えてるのか。逆に言えばムンドのHPAについては最後のチャンスではある。
MEZ: 実売価格含めて検討してくと、本当にRe leaf E1とTelos Headphone amplifierは本当にいい勝負なんですよね。迷うのは分かります。
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GOZ: 君の中ではAK240SSとPaw Goldが火花散らしてるんでしょ。AK240が苦手な俺もステンレスモデルには惹かれましたよ。SSモデルはかなり重厚かつ堅牢なものだったよ。高級感は半端ない。PAW Goldもその点じゃ負けてる。音の方はノーマルとSSと比べても、微妙な違いだね。ちょっとノーマルのAK240よりも透明感が増したうえ、やや安定感があって落ち着いた音かなあ。ZX2はまたまた遅れを取った。開発がワンテンポ遅いんだ。製品企画自体にも冒険がない。AK240SSと比べたらかなりチャチなものだ。
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MEZ: なんにしてもAK240SS欲しいですね。ポタ研で聞いてみたかったです。やはり試聴はイベント頼みのところがありますよね。eイヤさんでは地方巡回イベントをやるとか。これも新たな試みですよね。とにかく聞かないことには始まらないんだから、イベントを利用して皆で聞いて、さらに盛り上げて欲しい。
あれ、ビール飲まないんですか。
GOZ: 今、禁酒してるのよ。付き合いで取っただけだよ。オレンジジュースないの?
MEZ: えー、盛り下がるのはスピーカーオーディオだけにしといてくださいよ。ビールぐらい飲んで気分良くしたらどうですか。
GOZ: いや、俺は憂いてるんだ。
MEZ: もしかして日本の将来をですか?
GOZ: それはもう諦めてる。オーディオの将来の方が心配だ。ごく僅かの大金持ちがやる、超高価なハイエンドオーディオと大したカネを持たない人達のためポータブルオーディオ、チープなスピーカーオーディオの二極が残って、その間の価格帯の中堅製品がガバッと無い。そういう構造になりゃしないかとね。これはトータルではオーディオの空洞化ですよ。
MEZ: 明日の心配なんてしないでくださいよ。なるようになります。そんな酷いことにはならんです。いざとなりゃ、老いぼれどもや臆病者たちを跨いで自分だけ先に行きゃいいんですよ。
GOZ: そうだよね。行き先がユートピアだろうがディストピアだろうか、もうどうでもいい。というか最初からどうでもよかったのかも。いろいろあってもオーディオを前に進めてゆくことだけは確かなんだからな。
じゃ、ジンジャーエールひとつ。
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by pansakuu | 2015-02-06 22:07 | その他

オーディオ評論を掘る:My point of view 2014

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「馬鹿な、みんな舌も頭もどうかしてしまったのか!?
そんな物がうまいはずがないっ!!」
海原 雄山(美味しんぼ)



オーディオ評論家の方々が書いている文章を穴が開くほど読むのが私の日課の一つである。
元来、情報が極めて少ないハイエンドオーディオに興味を持つ者にとって、オーディオ雑誌は貴重な情報源である。微に入り、細に入り読まずにはいられない。

私は、評論家の仕事は機材の音を褒めることである、などと殊更に言い立てるのでは好きではない。しかし、ほとんどの場合においてそれが主であることも間違いないと認めよう。そうでなければ、彼らに原稿の依頼が舞い込むことはないだろうから。だからやはり文章の基調として褒めていることが多いのだが、よく読むとその中に別なニュアンスの入った文章が混じっていることがある。

例えば、あるアンプのサウンドを評して、こんな記述がある。
「一聴していい音だなと思うアンプはあれど、音楽がスッと自然に入ってくるというアンプはなかなかない」
サッと読むとごく普通の褒め文句であるが、解釈によっては今まで、数々のアンプを散々いい音だと書き散らしてきたが、実は、それらのほとんどは音楽がスッと自然に入ってくることがないものばかりだった、とも取れる。揚げ足取りのようだが、オーディオ雑誌で取り上げて褒め上げている機材は多くあるけれど、実は本当に大した音と思われるものは、なかなかないとも取れる。

また、「ド迫力の凄味はあるが音質は無味乾燥に近いアンプもときにはあるが」などという記述を読むと、先生の聞いたアンプとは、一体どのアンプなのですかと尋ねたくなる。ド迫力の凄味はあるが音質は無味乾燥に近いなんて、かなり個性的ではないですか。ぜひ聞いてみたいものです。
彼らは職業として決して口を割らないのだろうが、心中にはそういう思いが渦巻いているために、上記のように口を滑らせてしまうのだろう。

「もちろん、気迫ばかり強調するリアリティ誇張タイプではない」
こういう記述もすごく気になる。気迫ばかり強調するリアリティ誇張タイプのプレーヤーの音もぜひ聞いてみたい。またこれは、この筆者の好みと正反対の音が、いわゆる“気迫ばかり強調するリアリティ誇張タイプ”の音らしいことも推察できる記述でもある。

こういう私の穿った読み取りは、単なる邪推であり、私の意地の悪さが強調されるだけで意味はないかもしれない。しかし、こうして各評論家の趣向と立場を知ったうえで、その文章の行間を読むことは、オーディオ評論を読むうえでの常識である。これが出来なければ、こういう文章を読む意味は薄くなる。彼らは本当のことをストレートに書けない立場にいる。彼らは否応なしに売る側に立っている。そこに立たなければ生計が立ち行かない。当たり前の話だが、買う側にいる読み手は彼らの立たされている状況を理解し、意味のフィルターを通して文章を読むべきだろう。
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こんな記述もある。ある老舗のオーディオメーカーの復刻アンプのレビューの冒頭である。
「この復刻が、往年を知るシニアファンの待望に応えたものなのか、あるいは停滞するオーディオ界に喝を与えるような温故知新的な動きなのか、筆者には知る由もないが」
こういう記述は珍しいので貴重である。オーディオ雑誌ではオーディオが停滞しているなどという話は、ほぼ禁句だ。皆さんでオーディオをたのしみませう、そういう基本姿勢のもとに雑誌を作るのだから、その場を盛り下げるようなことは言ってはいけない。しかし、実は皆分かっているのである、ハイエンドオーディオ界が停滞していることは。(いまさら隠すなよ)
また、このくだりの末尾、「筆者には知る由もないが」というところなんかは、さらに切なく響く。少し泣ける。ここに私は、自分の立場ではオーディオの停滞をどうすることもできないという嘆きや一種の投げ槍な態度を感じ取ってはいけないのだろうか?本音を隠し続けながら、機材を褒め上げているだけでは、この停滞をどうしようもないという嘆きをウラに読んではいけないだろうか。基本的にオーディオについてペシミスティックになっている私は、またまた邪推するのである。

「価格が2倍以上の本誌リファレンスのアキュフェーズC27に比べると、スケール感とステレオイメージこそ縮退するが、音像の実体感を色濃く描くその聞き味はたいへんすばらしかった。」
これは或るフォノイコに関する一文だ。
こういう記述はよくあるパターンの一つで、部分的には低価格機が高額機に匹敵するところがあって、お得感があると言いたいらしい。だが、スケール感とステレオイメージという項目は、オーディオではとても重要であることを忘れてはいけない。その有無と2倍の価格差を秤にかけたらどうなるのか?実は2倍カネを出してでも、それらが完備された方がいいのでは?そして添えられた「音像の実体感を色濃く描くその聞き味」はC27にはないのか?突っ込みどころはやはりある。
ここでは、このフォノは音像の実体感を色濃く描くのが特色で、聞き味はよく、その部分では価格不相応なほどだが、スケール感とステレオイメージなど空間描写は価格相応というか、より高価な機材に比べると、当たり前だがイマイチだったと翻訳できそうだ。だが、そうストレートに書くと場合によってはカドが立つし、だいたい格調高くない文章になってしまうので、無駄なレトリックを駆使して回りくどい言い方になってしまう。こういうわざわざ迂回路をくぐらせて、読者を真実から微妙に遠ざけるような言い回しはどうかとも思う。自戒をこめてではあるが。
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紹介する機材を褒め上げて買う気にさせる。少なくとも試聴する気にはさせたい。
くりかえすが、これはオーディオ雑誌の目的の一つである。しかし、様々な情報がタダで手に入る世の中となり、人々が今まで知らなかった世の中のウラまでも知ることが普通になると、耳当たりの良い褒め言葉を皆が簡単に信用しなくなってしまった。全ての褒め言葉がステマ(スティルスマケーティング)に見えると発言する人が増えた。このステマという言葉はあまりに氾濫していて、まるで掲示板に書き込むときの決まり文句のようにすら思えてくるほどだ。良い機材に対して当然あるべきポジティブな評価を、工作員のステマだと喝破すると利口に見える、そういう風潮は無意味だろうに。だいたい人を疑うということは、ネガティブなことであり、無駄なエネルギーの消費である。

これに関して、低所得者になればなるほど陰謀説(つまり、ここでは目の前の情報がステマであること)を信じやすくなるという話を私は聞いたこともある。これは、そのせいなのだろうか?ハイエンド機材を購入する財力のない人々が、このようなステマ説を語る傾向が強いのは常に感じるところだ。素人のネガティブな意見のほうが、例えそれが全く的外れ、あるいは試聴したフリをしただけの、なんちゃって発言であっても内容が否定的であるというだけで信用されてしまうほどの世の中だ。こんな時代だからこそ、真のオーディオ評論は機材の良い所と悪い所にメリハリをつけて、オーディオを表現しなくてはならない。そうしなくては現代では信用を勝ち取れまい。

また、真心からでない褒め言葉は空疎であり、すぐに見破られる傾向にある。だから、褒めるなら、その機材に本当に惚れ込んでから、褒めるのが望ましい。その場合、それは心の奥から湧き出た言葉だし、ときにそれを自腹で買って導入するという実行動さえ伴うから、必ずや読み手の心を動かす。現実にそういう評論も稀には認められる。だが、大抵の機材ではそれができていない。できない。だから信用されない。

だが、そもそも高級なオーディオに馴れ切った評論家さんが心から気に入る機材など多いはずもない。だから、本気のレビューなんて、まず読むことは難しいことになる。いつもの事だが、抜きん出た音を出せる機材は少数派である。結局自分の耳で経験を積んで、それを選り分ける他はない。やはり、オーディオ評論は深読みしたうえ、試聴のきっかけとすべきもののようだ。

人間が自然に手を加えて、形成してきた物心両面の成果のことを文化と呼ぶとか。趣味で言うなら、人間の精神的・内面的な生活に深く関わる、広範かつ多様な物質的な内容を持つ趣味が、文化と呼ぶに相応しいと思われる。
一方、オーディオが文化である必要はない。文化たりえるために趣味はあるのではない。それはあくまで結果だ。
しかしオーディオは少なくとも私にとって、もうすでに文化というレベルの代物になってしまっている。これほど多様なモノとしての側面を持ち、私の精神に深く根付いた趣味はかつてなかった。
そして、オーディオが文化であることを表現し、証明できるのは、オーディオそのもの以外では文章だけだとも私は思う。五感で感じたことを抽象概念に還元して他人に伝えることは言葉だけの持つ特殊な能力なのだと私は信じている。
では、そのオーディオが文化であると証明しうる文章、つまりオーディオの音質を表す文・オーディオのレビューはどのあるべきなのだろうか?

そもそもオーディオのアイデンティティー、すなわちオーディオという行為の源はどこにあるのかと問えば、それは自分の好きな音楽を自分の一番好きな音で聞きたいという比較的単純な欲望だと私は答える。結局、オーディオのレビューというものはいつもそれに立ち返り、痛いほど正直な気持ちで素直に書かれるべきだと思う。オーディオ文化などとエラそうに麗しい単語をひけらかしても、結局そういうシンプルでストレートな欲望がコアなのだから、オーディオのレビューというものは美しく読みやすく書いたうえで、その個人的な好き嫌いを正直に言っていいはずだ。
オーディオの哲学的な側面、すなわちオーディオとは人間にとってなんであるのかという定義に近づくことが、オーディオ文化を証明しうるレビューの姿勢だとすれば、人間の根本的な欲望に立ち返った正直さが文を読んで感じられなくてはいけない。今のオーディオ評論は、そういう前提姿勢としての正直さが感じられないことが多い。

「聞き慣れたK2S9900から新たな表情、魅力を引き出すパスの凄さに唸らされたこの日の体験をぼくは長く忘れることはないだろう」
こんな記述はどうだろう。ここには別れの挨拶の気配を感じないだろうか。そう、このくだりを書いた評論家の先生は、このパスのアンプの音は悪くないと思ったものの、自分のリスニングルームにそれを導入しようとか、もういちど聞いてみたいとまでは思わなかったのである。一通り聞いたあとで、「素敵だね、ありがとう。そして、さようなら」そう呟いたのではないか。すなわち、この先生の使っているアンプを知っていれば、そちらの方が件のアンプよりもいい音らしいと推測できる記述である。私個人はこの記述をもって、ここでレビューされているアンプを試聴する気は失せた。むしろ、この先生が目下お使いになっているドイツ製のアンプに想いを馳せた。こうして詳しく読んでいると、評論家の仕事は機材の音を褒めることであるとか、これはステマだなどと単純なことは言えない。きちんと読めば、良いモノとそれほどでもないと思ったモノとの区別が、ある程度は暗示されている場合もあるのだ。こうして、先生方の正直が、背中から出た白いシャツのように、閉め忘れたズボンのファスナーのように、ちょっとだけ見えることがある。この程度か、などと言わないで欲しい。文筆で飯を食うのはたやすいことではないのだから。

部外者が知ったように何を言うのか、とお叱りを被るかもしれない。だが、私は彼らの書いた文章を自腹で買って読み続けている。取捨選択し、ファイリングし、読み返している。評論家の方々の意見をもとに試聴に励んでもいる。それだからこそ言う。

様々な意味で担い手がどんどん減っていく、ハイエンドオーディオの世界において、それを対象とする専門誌の存続は危うい。そろそろ平静を装うのは止めて、危機感をもって、見たことも聞いたこともない斬新で突っ込んだ企画を立て、より正直でストレートな生々しい言葉でオーディオを綴るべき段階に入ったのではないか。行間を読まずとも本音が分かる。そういうレビューも読みたい。少なくともそれくらいはしないと、ベテランのファイルの耳目は奪えず、新人の参入も期待できない。あげくハイエンドオーディオといっしょにオーディオ雑誌も売れなくなってしまうのではないかと危惧する。

少なくとも、もっと他との違いを際立たせた書き方をすべきだ。評論家の方々は高齢化しつつあり、文体や言い回しは固定しがちだ。同じ分野のライバル機材が非常に類似した言葉で称賛されるのを多く認める。それから、よく言われることだが、代理店やメーカーのHPに載っているようなことにレビューの文章の半分以上を割くのはやめた方がいい。取材時に聞けた開発の裏話や、意外な側面を積極的に書くようにすべきだろう。そしてもちろん、音質についてもっと多くの行を費やすべきだ。そして写真はもう少し小さくて良い。写真を見ると結構な余白があるじゃないか。我々は余白を買いたいのではない。また、明らかに問題があるところは正直に書いて、改良を促すべきだ。評論家側から改良についての具体的な提案がもっとあってもいい。さらに言えばオーディオ評論にはもっと夢があっていい。評論家個人は、こういうオーディオ機器が欲しいとか、オーディオはこうあって欲しいとか理想を語れ、と申し上げたい。評論家はただのライターであってはつまらないと私は思っている。

とにかく最近は、読者が大々的に参加する企画を見ない。年末のランキングは読者に選ばせたらどうか。「あなたが選ぶ~」というキャッチの企画だ。代理店様にしても、ユーザーがどういう製品を求めるのか、売上のみで判断していていいのか?代理店様は時々アンケートも取っているが、規模は小さい。TIAS入場者に全員アンケートを取るとかはやってない。雑誌でそういう企画をやれば、アンケートの代わりになるかもしれない。なにを買ったのではなく、どの年齢層が、どういう機材に憧れているのか、分かるかもしれない。

私は2034年の12月9日にタイムマシンで出掛けた夢を見たことがある。幸い、書店はまだあった。だが、店に入ってあたりを見回しても、平積みになっているはずの、あの立派なオーディオ雑誌を見つけることはできなかった。先行して出ているはずの誤字脱字の多い雑誌さえも見当たらなかった。ネット上に移行したか?スマホを開いて検索しても、それらしきページはヒットしなかった。
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それはただの悪夢である。
しかし、それなりの確率で起こりうることのような気がしてならない。
また、枕元に伏せてあるこの雑誌、気のせいか、
その厚さが年々薄くなっていくような気がしてならない。
この有り難き雑誌のページを繰りながら、
私はいつものようにレコードを回す。
そこから絞り出されるように漏れ出てくる
ホセ ジェイムスの物憂い声を聞く。
彼の声にいつも感じるユーモア、洒落に加えて
軽い憂慮とささやかな祈りとが入り混じっているように聞こえるのは、
今の私の気分のせいだろう。
こうして2014年も暮れ切っていくのである。

by pansakuu | 2014-12-24 20:14 | その他

Just earによる革命についての私的見解:可能性の海で


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I’m just a dreamer.
Are you a believer?
“バラ色の日々”より


2014年の秋のヘッドホン祭りで一番輝いていたのが、このJust earというカスタムイヤホンの企画であった。
申し訳ないが、このイヤホンの具体的な音質や装着感それ自体について書くことはほとんどない。それらは全て“これから”のことだ。
私が驚いたのは、その企画内容である。
このイヤホンはメーカーが個人の好みに合わせて、音をオーダーメイドしてくれるというのである。
個人の耳型を取って、耳にぴったりの遮音性の高いイヤホンを作るカスタムIn Ear Monitor(IEM)は、既に流行の兆しがあるが、これは身体とデジタルシステムの融合という大きな現代潮流の一部と思っていた。そこに、さらに一歩踏み込んで、個人の聴感とデジタルサウンドの融和という動きが現れたのである。その詳しい内容はいくつかのブログや雑誌が、これから語りはじめるであろうから、ここでは立ち入らないが、パターンメイド、すなわち幾つかある中で選ぶだけではなく、個人の意見を聞いて、極端に言えば世界に1つだけの音質を創生し、提案するという、フルオーダーメイドの企画と私は受け取った。
ユーザー個人のためだけの音作りに、ユーザー本人が参画する。
私の知る限り、このようなものは今までオーディオの世界には、ほぼ存在しなかった。

今までオーディオには、メーカーが考える最も良い音・正しい音があり、それを追求した製品が出ていて、その中からオーディオファイルが気に入ったものを選ぶという形式がほとんどであった。つまりはソフトなお仕着せであり、まあ消極的な押し売りのようなものであった。
そして、こうやって色々な機材を試聴し続けていると分かるのは、メーカーごとに最も良い音・正しい音が違っているということだ。これはメーカーごとに音の好みがちがうということに尽きる。
一方、ユーザーであるオーディオファイルも一人として全く同じ聴感や音の好みを持つ者はいない。これも自明なのに真面目に取り上げられていない。聴感や音の好みの合わせ込みに関しては、十把一絡げ的な発想でオーディオはずっと来ていたのである。
以上のような状況から、自分の好みの音とメーカーの音を合致させるべく、場当たり的に試聴を繰り返したり、機材の組み合わせを考えたりしてユーザー側が苦労するという過程がオーディオという行為の大半を占めていた。

こういう、しょっぱい状況を知りながら、メーカーは譲らない。自分の作る機材の出す音が最上であり、それを聞いた人が幸せになることを信じて疑わない、または疑いを承知しながら無視する。あるいは嫌なら買わなくていいという態度を取る。これは人間に一人として全く同じ聴感や音の好みを持つ者がいないということを認めない、あるいは現実的にオーダーメイドに対応できないので、その事実を無視するという立場である。まあ、見ようによっては、これは奢りなのであるが1970年代にハイエンドオーディオという考え方が生まれて以来、彼らはずっとこれで通してきた。これらの人々が全くひとりよがりに提案する音が気に入らない場合は、スピーカーなりアンプなりを自作する、あるいはマルチアンプシステムを自分で構築するなどするしかなかった。

現代のように多様な素材や技術が併存するようになり、それらの専門性が高度になるにしたがって、一人の素人のマニアが作れる機材には限界があることがわかってきた。潤沢な資金とコネのあるメーカーにおいて何人もの専門家が協力して作る音よりも、その出音は遥かに矮小なものであり、ハイエンドオーディオという名称にはそぐわない。素人の自己満足のほとんどは、やはり優れたメーカーが作るものには敵わない。餅は餅屋ということである。結局、ハイエンドオーディオファイルにできることは、出来上がったお仕着せの機材の組み合わせを必死に考えて、自分の好みの音を作り出すことに、ほぼ集約される。その中で私は、購入した機材の音に自分の感性を慣らし、合わせこむような面倒はもう沢山だと思ったこともある。

色々なオーディオ関係のショウで、製作者ご本人と面談する。表面的な態度には差こそあれ、御自分の造り出したものに誇りを持たない人はいない。彼らの内面には、いつもオーディオへの熱い思いが溢れていて、その情熱に話を聞いているこちらの心が動かされ、それほど好みでもない機材を買いそうになったことさえ何度もある。
だが、彼らの情熱の在り方には欠点があったことが、2014年のヘッドホン祭りの会場で明らかになった。
彼らは自分のオーディオに対する情熱を製品という形で吐露したものの、ユーザーである個々のオーディオファイルの要望を細かく聞いて、オーダーメイドで製品を製造しようとは、ほとんど考えなかった。特に音質の中身についてはパターンメイドさえ、ほとんどなかった。高価な対価を払うユーザー側はメーカーに音質の面で、こうして・ああしてと直接働きかける術を事実上持たなかった。あるとすれば、その製品を買う・買わないという選択以外はなかった。

ところが、Just earのイヤホンはメーカーが個人の話を聞き、個人の好きな音楽を聞いて、その好みに合わせて、音をオーダーメイドし、提案してくれるというのである。自分の好みをきちんと向こうに伝えることができて、適度な忍耐力があれば、出来上がったものと自分の聴感をすり合わせながら(それこそ仮縫いしながら)、自分の最も好む音を造り出せる可能性もある。この方式はかなり行き詰まってきたオーディオという趣味の有り方をガラリと変える発想の転換を意味している。

想えばオーディオには少し可笑しなところがあった。これだけ趣味性の高いものであるにも関わらず、買う人ひとりひとりに詳しく意見を聞くということがあまりに少なすぎた。逆に言えば、オーディオメーカーはユーザーに製品を買ってもらえないかぎり生計が立ち行かないにも関わらず、いつも上から目線でユーザーを見て、我儘に音作りをしてきた。もちろん、それは技術的にオーダーメイドが難しかったからに相違ないが、その難しさを克服しようとする具体的な動きはあまり見たことが無い。オーディオメーカーとはこんなものだと不文律のようにメーカー側で勝手に決めていた節もある。評論家の方々はそういうメーカーの態度を容認どころか半ば賛美してきたように見える。ユーザー側もそれに馴れ切って、問題意識を持たなかった。そうして、事はここに至ったのである。

ずっと煽っているように、ハイエンドオーディオは危機に瀕している。本当にいい音で音楽を豊かに聞くという文化は変質してきている。そんな中、贅沢なハイエンドなスピーカーオーディオで本来やるべきオーダーメイドが、イヤホンというオーディオの世界の中では傍流の機材でなされようとしている。いや、もうイヤホンは実際のところ傍流ではない。その出荷数で見れば、既に現代において音楽を聞くという行為のメインはイヤホンによっていると分かる。そして今、イヤホンは個人ごとの耳の形だけでなく、聴感の違いさえ認め、それに柔軟に対応する態度を表した。これはオーディオの世界では革命的な出来事であると私は感じた。

問題は、実際にそんなことができるのかということだ。
ユーザーの良く聴く音楽や好みなどを聞いて、最適なチューニングを提案してカスタムイヤホンを作ろという話だが、そもそも、まず自分の好みの音というのを口で伝えることができる人がどれくらいいるのだろうか。美容院でどういう髪型にしてくれと伝えてもなかなか、その通りの髪型にならないということは、よく聞く話だ。また、それ以前に自分はどういう髪型にしたらいいか、具体的なイメージを持っていない人の方が多いとも聞く。
さすれば、これは注文するユーザー側もオーディオや音楽についてそれなりの知識や見識を持たないと始まらないのである。髪型なら、自分の目指すヘアースタイルをしているタレントさんをテレビや雑誌で見つけてそれを伝えるという方法があるが、オーディオファイルもそれに似たことをやらなければいけないかもしれない。様々な機材の音を聞いて自分の好みを探らなくてはならない。
私は、オーディオという趣味自体が自分の好みの音とは何かを知るための旅だと思っている。それを深く知るだけでも、私の場合、かなりの年月を要したし、またその探求の過程で色々な製品の音に影響されて好みが変わって行くことも体験した。さらに、私はブログを書くことを通じて、自分なりに自分の好みの音をまとめて短い言葉や長い文章で伝える術を極めようと思っているところもあるが、これがなかなか難しい。私はあくまで製品を買う側から見たブログを書いているので、評論家の方々のように売る側に立たなくてもよいという利点があって、言いたいことを自由に書ける立場にあるが、それでも難しいのである。

また、メーカー側がユーザー側の好みを理解したところで、それに合うものを現実問題として本当に製作できるのか?メーカー側にそれに対応できる技術やマンパワーがあるのか?そもそもこの企画はカスタムIEMの製作という個人の耳の形に完全に添う、世界でただ一つのイヤホンの形を作るという行為をさらに一歩進めた発想なのだろうが、型を取るように、個人の音の好みの型を取り、それとそっくりなものをイヤホン側に移植するなどなかなかできそうにない。

そういう風に考えてゆくと Just earの試みの前途は平坦ではない。この試みは上手くいかないかもしれない。しかし、オーディオの未来のために、この企画は成功して欲しいと願う。そして、特にハイエンドオーディオメーカーに、この動きの方向性に追随してほしいとも願う。今でも、オレの音を聞けぇ!という態度を取るガレージメーカーや、自分の聴感に合わない他のメーカーの音を否定する業者さんたちを散見する。彼らはもっと目線を低くして、認めるべき所を認めて、売れないものを売れるように仕向けなければ、ハイエンドオーディオは買い手が減って高価格化し、あげくに崩壊してゆくだけであろう。また、ハイエンドオーディオに対するアンチテーゼとして、ただ単に財布に優しい製品を作るとか、便利でコンパクトなだけのモノ、話題性はあるが、すぐ陳腐化するようなモノを作って売るだけでは先は見えている。ユーザーと音質について一対一で向き合うことが今、オーディオメーカー全てに求められているのではないか。
真に新しい視点から、オーディオを変える試みを皆で始めなければ、この素晴らしい趣味は、いつか消え去ってしまうに違いない。

それにしても、こういうオーダーメイドをメーカーが本当にやる気になったことだけでも凄い。ここまで来れば、首尾よく行かなかったにしても、誰かが“こころざし”を引き継いでくれる可能性だけは残るだろう。タネはまかれた。とにかく、個人個人の音に対する意識の違いを、オーディオメーカーが認め、具体的に対応しはじめた瞬間、2014年11月25日の東京は中野で起こった歴史的な瞬間に私は立ち会えた。この先、この企画がどうなるにしても、その事実だけは誇りに思っていいだろう。いい時代に生まれたものだ。

やはり新しいものは新しい場所から生まれる。
これはヘッドホン・イヤホンの世界から生まれた試みであり、
スピーカーオーディオの世界から出たものではないのだ。

太古、生命は原始の海から生まれたという。
賑わうヘッドホン祭りの雑踏、
多くの人々の活発な話し声、
そしてヘッドホンやイヤホンから漏れる音楽たち、
それら全ての活力の総体を眺めていると、
新しい試みが新種の生命のように発生する可能性の海が
目の前に大きく広がっているように、私には思えてならなかった。
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by pansakuu | 2014-10-31 23:57 | その他

ラストオーダー



窓の外の若葉について考えてもいいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えてもいいですか?
あなたが死にかけているときに
(bird  「これが私の優しさです」 より)



別れというものは急にやってくるとは限らない。
現に、その別れはゆっくりとやって来た。

彼がヴィンテージジーンズを売る、
あの洒落た店を休んでいたのは知っていたが、
入院しているとは知らなかった。
私は冬の始まり、まだそんなに寒くもなかった夕方に、
彼の病室に見舞いに行った。
すっかりボーズ頭になった彼とRoc Marcianoのニューアルバムの話や
Marc jacobsのジャケットの話をした。
彼は私が時々話すオーディオというものに興味があったらしく、
時々、基本的なことを質問をした。
ハイレゾとかプリアンプとかホーンスピーカーとか、ヘッドホンのリケーブルとか。
私は知っている限りのことを話して、
最後はいつも現物に触れなよ、で締めくくった。
元気な時に彼をオーディオショウなり、秋葉原なりにつれて行けたら良かったのだが、
そのうち、いずれね、と言っているうちに、
彼がベッドから離れられなくなったのはホントに残念だった。

何回か見舞いに行くうちに彼がこう言った。
「もう薬は効かないらしいっスね」
私は季節が深まるように、病状が深くなってゆくのを知っていた。
彼はそれほど痩せてもいなかったが、
腕の動きや表情からは力が失われていくのが分かったからだ。
そうは分かっていたものの、私は、また顔を見に来るよと言っただけだった。
それ以外に、自分できることはなにもないと思っていたからだ。
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その日は雪が降っていた。
ベッドの上で彼はお気に入りのジーンズを履いて胡坐(あぐら)をかいていた。
笑顔だった。
いきなり、
「万策さん、いい音で音楽聞くって、やっぱいいんスかね。」と訊かれた。
「そりゃ、最高だよ」と私は答えたと思う。
「ここでそういう音で聞けないっスかねえ」
彼が持っている音楽を聞くための道具はくたびれたipodと付属のイヤホンだけだった。
私が時々話すギアをさわってみたくなったらしい。
「ああ、そういえば丁度いいのがあるから、明日持ってくるよ、届いたばっかりで箱をあけてもないんだけど。恐らく、音は悪くないはずだよ。」確かそう言ったと思う。
音も聞かずに速攻で注文したが、Hugoの事があって、
箱から出してもいないAK240を私は翌日、彼の個室へ持ち込んだ。
しばらく二人でいろいろさわって、ワイワイやりつつ、音出し。
持参したAKGのイヤホンで音楽を聞いてみた。
彼はいいッスねえ~を連発した。
外は木枯らしよりも、さらに冷たい風が吹きすさんでいたが、
病室の中は長閑(のどか)であった。
AK240が流してくれる音楽がそこにあったからだ。
例のROC MarcianoやNotorious B.I.G.の音楽を
私達は他愛のない雑談をしながら聴いた。
何か救われたような気分だった。
結局その日、私はDAPとイヤホンを持ち帰らなかった。
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そうこうするうち、彼には会えなくなった。
面会謝絶というやつである。
私は彼がAK240とK3003を楽しんでくれているかどうかが、気がかりだった。
時が空しく、しかし、穏やかに流れた。

そして、さらにそうこうするうちに、
私は花粉症になり、
窓の外ではカラスのつがいが街路樹の枝を嘴で折りはじめた。
巣作りのためだ。
やっと春がきたのである。
卵を産み、新しい生命を育て出そうと動き始めたのだ。

そして4月を目前にしたある日、
彼がこの世を去ったという話を私は聞いた。
そこで、自分はもう彼の声を聞くことはできないと知った。
そして、彼とはもう、音楽を聞くことはできないとも悟った。
かくして私はクロゼットを探った。
ずっと前から予定していたことのように。
ほっぽらかされていた真っ黒いエルメスのネクタイと
昔、戯れによく着ていたランバンのダークスーツを出してきて袖を通してみた。
彼とはじめて出会ったころ、
私は、いつもこの黒いスーツを着て、青山や表参道をブラブラしていた。
そして彼はといえば、
擦り切れたジーンズとコルテの靴で根津の界隈を濶歩していた。
まだ二十歳そこそこの彼は遠くから見ても輝いていたっけな。

黒いスーツを纏ったままで、私はつくづくと考える。

人はその人生の最期を知ったとき、なにを望むのだろう。
我々はどこから来て、どこへ行くのか。何年生きるのか。
それらは、無力な一人の人間には、まるきり分からないことなのだが、
そういう旅が終わるらしいと知ったとき、人は何を望んだら良いのだろう。
彼の場合は、その望みのひとつが、いい音で音楽を聞くことだった。

これほど飽きっぽい自分にして、
何故、オーディオという趣味だけは20年以上も続けていられるのか
私自身にも分からない。
今日、つらつらと考えるうちに、
それは実は“分からない”から続けられているのだと悟った。
そう結論した。
オーディオというものの本質は、
私にとっては実に不思議で不可解なものだ。
いままでやってきた幾多の趣味といえば
10年ほど続けて時間と労力と資金を投入すれば、
不思議なものでなくなるものがほとんどだった。
しかし、私にはオーディオが分からない。未だに。
分からないから、分かりたくて続けているらしいのである。
そうだ、彼も私の話だけでは分からなかったので、
分かりたくて私に尋ねたのだろう。
「万策さん、いい音で音楽聞くって、やっぱいいんスか。」
彼の遺した何気ない言葉たちが、私の意識の奥底に沈殿してゆく。

私の“分からない”の中心にあるのは未練である。
まだ自分の知らない音があって、
それを聞いて理解し、愉しむ資格が、
まだ自分にはあるんではないかという未練がある。
そういう絶ちがたい未練がある。
“分からない”の本質はそこにある。

彼には死の淵に立っていた時に、生への未練があったと思う。
そして、一人の人間という以前に、
ひとつの生命体として断ちがたいその未練の一部が、
自分の望むスタイルで好きな音楽を聞きたいという欲求となって、私へと投げかけられた。
私はそれに応えようとしてDAPとイヤホンを持って行った図式になる。
確かに、それは彼の生への未練の一部分でしかなかっただろう。
しかし、彼がオーディオを選んだのは事実である。
今の状況下で許される、最も良い音で音楽を聞きたいという欲求は、
そういう極限状況でも心に浮かび上がってくるものなのだった。
そんなシュチュエーションにあっても、
私という人間は、どうしようもなくオーディオファイルだから、
彼が私の親切を喜ぶのではなく、
純粋にその音の良さを感じて、心を動かされて欲しいと思った。
もしかすると残酷なのかもしれないが、
オーディオは良い音を聞かせるためにあると信ずるからだ。
馴れ合いのためにオーディオはあるのでは無い。

何時の日か、誰にもお迎えが来るらしい。
その日が遠くないと知った時、私もまた彼のように音を、
オーディオを思うのだろうか。思えるのだろうか。
それは今もなお私が滞在している、
この “分からない世界”がいつまで続くのかにかかっている。
この世界の賞味期限についてのダークな興味など、
こういう感傷に浸りきっている時でなければ湧いては来まい。

私の、私に対する別れが、明日やってくるものではないと、
生き残った私は鷹をくくり、
今日もパワーアンプに灯を入れる。
いい音を探しながら、審判の日までの暇つぶしをしているというわけだ。
ネットの上をゆっくりと散歩しながら、
あるいは試聴室で誰かの会話をそれとなく立ち聞きしながら、
そして、自分のリビングで、借りた機材の音を聞きながら、
オーディオの一番高いところから低きに至るまで、
私は目を凝らし、耳を澄ます。
目の前に拡がるオーディオの風景から聞こえてくる言葉は、
頑固な誤解、絶望的な嘲笑、憂さ晴らしの誹謗中傷、
願望が投影された成りすまし、無垢な賞賛、食ってゆくための作り話などなど。
結局、それらの大概は完全な雑音なんだが、
その行間に、あるいは思いがけない一言に
キラリ、キラリと真実の欠片が見え隠れするのを私は逃さないつもりだ。

「万策さん、いい音で音楽聞くって、やっぱいいんスかねえ。」
そりゃ、最高さ。

by pansakuu | 2014-04-30 22:28 | その他