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カテゴリ:音楽ソフト( 39 )

6月の現状: 期待、失望、そして希望

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「いろいろ言い出したら切りがないので、ひとつだけいえば、あまり理屈をふりまわさないで、ご自分の耳にできるだけ素直にしたがいなさい、ということですね」
瀬川 冬樹(オーディオファンに言いたいこと より)



休日の昼下がり、私はレコードを聞くのに忙しい。

自分のシステムではもう半年ぐらい、
まともにCDやデジタルファイルを聞いていない。
それを反省する気さえ起きないのが怖いほどだ。
これはConstellation audio Perseusのせいである。
そしてTTT-compactのせいでもある。
これらの機械が来てからは私のオーディオシステムは、
本当に私の望む音を出すようになったような気がする。
逆に言えば、これ以上自分の音を追求することは難しくなった。
その意味では、逆に少しばかり困難は増しているかもしれない。

このシステムは、どんな音楽をかけても、どこか斬新な切り口を聞かせてくれる。
しかも、一切の逸脱なしに。
幾多のデジタルサウンド、アナログサウンドに接してきたが、
このような音で音楽を聞かせてくれるものはなかった。
爽やかでクリアーだが、程よく太くてキレがよく、しかもデジタルオーディオと比べて遜色ない静けさのある音。それでいて音の立ち上がりのタイミングや素早さがかつて耳にしたことがないほど絶妙な音。柔らかでニュートラルな温度感が基本だが、時に艶々と妖しく、時に激しく熱く、そして時に穏便で呑気な音。こういう変幻自在なアナログサウンドもデジタルサウンドも私は他に知らない。
そんな評価は、ただの自惚れにすぎないと人前では謙虚を装うのだが、
新たなLPに針を降ろす度に、そうきたかと驚かされ、改めてPerseusに惚れ直す。

今までどれくらいオーディオに投資してきただろうか。
この前、誰かに、フェラーリにしといた方が良かったんじゃない?と笑われた。
そうかもしれない。だが、フェラーリに乗ってまで行きたいところが何処にもない。
ライカのレンズを買いまくった方が良かったのでは?とも言われた。
そうかもしれない。だが、そんなレンズで撮るほどドラマチックな被写体なんて知らない。
それとも、ランゲとパテック、ジュルヌの時計を集めた方が楽しかったのでは?
そういう皮肉を言う方もいる。
いや、それを腕に巻いてても誰も気づかないし、
今何時かしか分からんモノにそういう投資はね・・・・・。
一方、限りなくいい音で聴きたい音楽、演奏はまだまだ山ほどあり、
そのタイトル数は一生かかっても聞ききれないほどなのは知っている。

やはり、今はConstellation audio Perseusと素敵なLPがあれば
言う事はないのである。
(勿論、そんな素敵なLPはどこにでもあるわけじゃないが)

この素晴らしいフォノイコライザーは私に教えてくれる。
本当のオーディオとは、最後は自分自身の解釈で音楽を鳴らすことだと。
それでいいのだと教えてくれる。
いい音とは自分の好きな音なのである。

もちろん、LPやCDやデジタルファイルに入っている情報を出来る限り忠実に再現することは当たり前である。しかし、それらがある程度以上に出来たとしても、満足すべきでないということだろう。オーケストラの指揮者が譜面に秘められた音楽のニュアンスを自分の感性で解釈するように、オーディオシステムとは、結果的にはそれを構築した者の解釈で音楽を鳴らす。そして、その解釈がオーナーにとって、どれくらい見事に聞こえるかが、そのオーディオシステムの価値を決めてゆく。私にとっては、音質の基礎がある程度充実してさえいれば、この解釈の部分が一番大事なことである。
結局、Perseusが聞かせる音楽の解釈・スタイル、別の言い方をすれば、枠にはまらない自然な音楽性のようなものが今の私の気分に激しくマッチしているからこそ、こんなにも満足できるのだと思う。

例えば、私がルームアコースティックに凝ることができたのは独身時代だけだったが、今はああいう実験室みたいな部屋も必要なくなった。あれは音楽の忠実性には影響があるが、解釈にはあまり関係ないと思う。私にとっては音がスピーカーから出た瞬間に解釈はほぼ決まっている。その先は概ね音楽の聞こえやすさや帯域の若干のバランス感覚に属するものであり、指揮者がカルロスクライバーからカラヤンに置き換わるような変化は起きない。逆に最新のソリッドステートアンプを選ぶか、クラシカルな真空管アンプを選ぶか、あるいはアナログプレーヤーを選ぶか、デジタルプレーヤーを選ぶかなどという選択は指揮者の交代に近い変化をもたらしかねない。特に私にとっては音の源泉になにを選ぶかということは末梢をどう整えるかという問題よりも大きい。

要するにどんな部屋、どんなセッテングでも構わない。自分の好むスタイル、解釈で音楽が聞ければよいというところに行き着く。最悪、貴方の出す音が一般的なオーディオのセオリーから多少外れていたにしても、貴方の耳に心地良ければ成功だと私は思う。実際、百人のオーディオファイルが百種類の音で音楽を聞いている状態が真実なのであり、そこには音質の優劣はなく、音の違いがあるだけだ。

私のところには沢山のLPが集まってくるようになった。
まるで、私の新しい解釈で鳴らされることを望むかのように。
そして目の前のシステムで、私はそのLPたちを回して聞いてやる。
ここでは、デジタルで聞き古したあの曲・この曲が、全く聞いたことのない新たなニュアンスで鳴るのを、目の当りにする。その未体験の驚異に私は中毒になってしまった。これはもうほとんどアナログ中毒だ。こうなると、デジタルオーディオを聞いている暇がない。アナログをじっくりと聞いているだけで、私は自分に与えられた余暇を使い切ってしまう。

実は、世の中にはそれくらい多くのアナログレコードがある。それは過去からの遺産として残されたアナログレコードについてもそうなのだが、新しく出る新譜のLPも実はかなりのタイトル数なのである。私にしては珍しく、いくつかのLPレコード店からメルマガを配信してもらっているのだが、新譜のLPのリストに関しては意外にもその内容が店どうしでダブらない場合がある。つまり、どのお店も、世界中で発売される自分の専門分野のLPですらフォローし切れていないらしい。それはDJ系のLPに最も顕著なのであるが、この中には素人がリスニングに使って面白く聞けるような新しい音楽がいっぱいまぎれこんでいる。これらを全て試聴してチェックするのは手間であるが、大抵のものはYou Tubeなどで試聴が可能なので聞かなきゃ損だ。毎晩、You Tubeでこういう音楽をチェックしまくる私。
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また、私はあまり聞かないのだがクラシックや現代JAZZの新しいLPもボチボチ出てきている。
例えば自分で買うことはないけれど、クラシックの名演を高音質なディスクで甦らせることに定評のあるALTUSの出した、チェリビダッケの東京ライブ集成8枚組LPやクレンペラーのベートーベンチクルスのモノラルLPは見事な仕事ではないか。これらに比べたら、ハイレゾのデータは発売されるタイトルの中に大掛かりな全集のようなビッグタイトルがまだ、ほとんどない。しかも、ハイレゾの配信は、限定とか売切れはないので焦って買う必要はない。何が出ようと様子見で十分。対するLPの新譜は、そういう断りがなくても大半が限定品のようなもの。今あるものを、すぐに買わなくてはならない。こういう切迫感は、財布には優しくないが、反面、ワクワクすることでもある。こういうワクワク感がデジタルファイルにはとても薄い。
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財布に厳しい、高価で困るという問題ではアナログのオリジナル盤の件がある。
折角、まともなアナログシステムを持っているのだから、というワケで、主に1950~70年代のJAZZの代表的な名演、あるいはビートルズのアナログオリジナル盤、そのステレオバージョンというものを30枚あまり買い集めて聞いてみた。悔しいが70万円以上の投資である。その結果として思ったのは、これらのオリジナル盤の音の良さというものは、あくまで限定された特殊なもの、ということだった。
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例えば状態の良い、古いJAZZのオリジナル盤においては、音の鮮度の冴え、音の飛び出しの鋭さなどは再発盤より優れるが、ダイナミックレンジの狭さ、未発達な録音技術の結果としか思えない音のエッジの丸み、音場の見通しの悪さ、奇妙な帯域バランスなどがある場合、そのあたりは改善されないことがほとんど。最近録音されたデジタルファイルの音を聞き慣れた耳にとって、こんな音を高音質というのは難しい。現代に録音された音源のLPにしても、こんな低音質ではない。これは私が当初期待していたレベルの音じゃない。試しに状態の良い盤を求めて同じタイトルを何枚買ってみても、なかなか欲しいところは聞こえてこない。
また、盤のイタミ方の評価も大事だ。中古レコード屋さんの感覚での普通の傷み方のオリジナル盤(例えば状態Bとかいう表示のレコード)というのは私の感覚ではほぼ聞けない。多くは艶が失せてキズだらけのレコードである。こんなものに5万~10万を支払うのがJAZZやビートルズのヴィンテージレコードの世界である。これらをHANNLでいくら洗っても、表面のキズは消えないのでパチパチ音が酷い。やはり状態のいい盤を自分の目でよく選ぶことは必須である。例えば、少なくともB+以上あるいはEX+以上の出物を買うべきだろうと思ったり。
さらに、有名ないくつかのBLUE NOTE盤に関してはRVGの音作りのクセっぽさにマスクされて失われたニュアンスがありそうに聞こえた。この荒っぽくて、帯域バランスの変な、どこかぼやけたような音を、古い時代の味わいとして楽しむ才能が私にはない。勿論、これらの盤の音には確かに現代の録音にはない生々しさはある。音のインパクト・音圧もある。だが、それは、録音の技術的な稚拙さや演奏の素朴さから来るものではないかと疑う。この時代のJAZZに対する深いシンパシーがない者に、この音を全面的に良い音だと思うことは難しいだろう。私個人については金銭的にムリをしてまでJAZZのオリジナル盤にこだわることはないことが、オリジナル盤を買ってみてよくわかった。もし買うなら少なくとも元の録音状態、盤の状態を注意深く確認すべきだ。
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もう一つ意外だったことがあるとすれば、今回買った全てのオリジナル盤はCDで持っていて、それらは大好きなアルバムではないにしても、普通に聞けていたということ。CDの音質については、まあこんなものだろうと思ってアドリブの展開や演奏のテクニックを愉しみながら、LPのオリジナル盤はさぞかし、いい音で鳴るのだろうなと空想していた。だが、そうではなかった。CDで難なく聞けていた音楽の印象がオリジナル盤を聞いたことによりいささか悪化した、というか実は自分の好みとはズレが場合があると気付いたことになる。オーディオにはこんな落とし穴があるのだ。
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古いJAZZやビートルズに代表される古いロックついては、僅かな例外こそあれ、ほぼオリジナル盤信仰が根付いている。しかし、虚心坦懐にその音を聞いてみて、私はオリジナル盤を単純に褒め、大枚をはたく人の気が知れなくなった。オリジナル盤は再発盤より音がいいというに過ぎない。もともと音が良くないところは直しようもないのである。あれは、その音楽の内容が大好きで、多少の瑕疵は当たり前のように聞き逃せるような心理状態にある、という前提のもとに成り立つ賞賛だ。宗教的な信仰に近いものかもしれない。本人たちはその音楽を深く愛しているという前提を時々忘れているので、普遍的な言いまわしでオリジナル盤の音が良いと発言してしまうが、鵜呑みにしてはいけない。古いオリジナル盤の音の良さは、その中にある音楽への愛に裏打ちされたものなのだ。
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と、ここまでは現代の感覚にまだ近いステレオ盤での話である。
実はよりマニアックなオリジナルのモノラル盤というのも沢山ある。ものは試しとマニアが絶賛するアルバムを買い込み、私なりに聴き込んでみた。案の定、このモノラルレコードの音は私には古いステレオ盤よりもっと違和感があるものだった。「ついて行けない」というのはこの事だろう。モノラル専用のカートリッジを、わざわざ買ってリスニングに臨んだが、この音には失望させられた。音が左右に全く広がらないということは案外と気にならない。むしろ、定位の良い音像に集中できる。問題は録音の良さが伝わってこないということ。音は太く、音圧は高く、音像は厚くになるのだが、私の聴いたどのJAZZのアルバムでも情報量がとても少なく、全く同じ方向性の濃い音になってしまっていた。こうなるともう、それぞれの録音現場での雰囲気の差がよく分からなくなってしまう。録音の良さというのはそれぞれのアルバムの音作りや録音環境の差異が見えるところが大事だと思うが、それが分からなかった。それに、経年変化というか、レコードの取扱いの問題というかHANNLでも取り去れないノイズの多さにどうしても馴れない。モノラルを手放しで褒める人は、JAZZのオリジナル盤以外ではあまりいないが、その数少ない賞賛は私の感覚からは程遠い。
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確かに状態の良いジャケットのアートワークは美しいし、その中身のレコードの外見や香り、法外な価格と合わせた錚々とした雰囲気たるや、まるで高級な骨董、または文化財のようなのだが・・・。これは私の望む音ではない。改良の余地は多分にある。
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何にしろ、私はかなり失望した。
誌上で、あれほど褒められていた古いJAZZのオリジナル盤というものが、実際に聞いてみると、自分の感覚にこれほどグリップしないものだったとはね。そういえば私の機材の出音の傾向も、現代の音楽、現代の録音に合わせたものであり、これらの50年以上前のレコードたちに全然合わないのかもしれない。自分のシステムの音の解釈の仕方が、この時代の音楽に合わないとでも言おうか。例えばスピーカーをJBLに、アンプをマッキントシュに、フォノイコをBurmester100にして、ターンテーブルをBrinkmannのOASIS+RONTに、カートリッジを別のモノラル専用のカートにすれば評価は変わるのかも知れない。デジタルと違って全く違う方向性で完成度の高い音を造り出せるのが、アナログの強みでもある。だが今更、システムの組み直しはしたくない。そういう懐古趣味はもう既に多くのリスニングルームで体験済みだし。もっと新しいモノラルレコードの聞き方はないのか?
もしかして、この不快感は私にJAZZ喫茶でのいい思い出がないことと関係があるのだろうか。オリジナル盤を褒める評論家さんの音楽の原体験としてJAZZ喫茶でJAZZを聞いていたというのがあるらしい。しかし、あそこは・・・少なくとも一見さんには優しくない場所だ。店主の態度もデカいし、ボリュウムもデカ過ぎるし。精神衛生にも耳の健康にも良くない場所に電車賃を払って行きたくない。

ただ、私はもう二度と、このジャンルに手を出すことはないとは断言したくない。まだあきらめたくない気分もある。例えば、システムのどこかを工夫すれば、情報量が増えてモノラルレコードの良さを新しい解釈で引き出せる可能性は残っているのではないか。リベンジの心あたりはなくもない。その心あたりについては、そのうち書くかもしれない。

なお、これらのオリジナル盤は少数のテスト用の盤を残し、再び売りに出された。どれも結構、いい値段で売れたのはせめてもの救いであった。
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でも良かったこともある。一枚のJAZZやビートルズのアルバムに法外な金額を疑問なく払うことはなくなった。例外はあるが、基本的にはより新しい時代の音楽のLPを適切な値段で買えばよい。もし、いわゆるオリジナル盤を体験してみなければ、ずっと間違った憧れを私は抱きつづけたに違いない。オールドライカやヴィンテージのパテック、日本刀、1970年代のフェラーリ(凄い排気ガスで喘息が悪化して呼吸困難になった)と同じく、それが憧れの対象ではあっても、実物は自分にとって無意味なものだと実体験から知ることは、自分に取って有意味なものが何かを知ることと同様に大切だと思う。

では逆に、
私が偏愛しているLPたちについて少し話そう。
それはECMというドイツのレーベルのLPである。
1970~80年代のECMのLPについては、昔のアメリカのJAZZなどとは逆にオリジナル盤を安価に手に入れることができる。これが本来の値段の付け方だと思う。
また、音質もいい。音の鮮度も勿論CDより高いのだが、もうステレオ録音が確立した後の時代の演奏が多いので、そもそも基本的な音質がかなりいい。これらのレコードには、ヤン ガルバレクやキース ジャレット、コリン ウォルコット、エンリコ ラバ、パット メセニー、ジョン アバクロンビー、そしてラルフ タウナーらの若かりし頃の瑞々しい感性のほとばしりが真空パックされている。これらは当時としても前衛的なヨーロピアンJAZZである。少しとんがった演奏が多く、今聞いても、最新の音楽の構成、演奏のように聞こえる。先ほど話題にしていた古いアメリカのJAZZの持つ、必ずしも現代的ではないあの底抜けに明るい単純さ、少し猥雑で濃密な曲想、ああいうバタ臭さはどこにもない。ECM総帥、マンフレッドアイヒャー好みのサウンド、クリスタルクリア―でクール、スピード感のある音調でほぼ一貫していると言っていい。このサウンドなら基本的にCDやハイレゾファイルから出ている音と全く同じ感覚でも聞ける。いや、レコードの状態さえ許すならば、既存のデジタルソースを上回る音が出てくると言いたい。特にラルフ タウナーのギターをフューチャーするアルバムは私のお気に入りなのだが、これらは音がいい。タウナーが弦をつまびく一つ一つの音に与えられた生命のような存在感に圧倒される。ガルバレクの甲高いサキソフォンの叫びにも言い知れない実体感があり、ゾクッとすることが稀でない。こういうプレミアムなオーディオ的快感を逃すべきでない。ECMの取り扱う音楽を深く知りたいと思うなら、アナログレコードで聞くことは避けては通れないはず。
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Notes From Big Sur Chales Lloyd ECM1465
このLPは入手したばかりである。
チャールズ ロイドの青白い横顔を闇が包んでいるジャケットを目の前にかざすと、感慨は深くなる。このLPを探し始めてから6年も経っていたからだ。アナログを再開する、はるか以前から探していた。それは単純に、この素晴らしいアルバムアートが30cm×30cmのジャケットになったら、どういうふうに見えるのか知りたかっただけなのであるが。このジャケットはカッコいい。大満足である。こういうものをミントコンデションで保存していたドイツの方に礼を述べたい。
Notes From Big Sur は20年以上前にCDを買って聴き、すぐに愛聴盤となったアルバムである。丁度、Wadia860でオーディオを始めた頃だ。このCDを何回聞いたかなんて数えてはないが、100回なんかはとっくに超えているだろう。
音はECMの録音として普通である。分離とか定位が凄くいいとかはない。ごく普通のECMの録音である。オーディオ的に特別にどうこうはないと思う。でも何故か堪らなく、このLPに刻み込まれた音が、音楽、静謐な空気が好きだ。このLPを自分の装置で聞くと、ひどく心を奪われてしまう。
例によってマンフレッド アイヒャーのプロデュースで、1991年にオスロのレインボースタジオにてヤン エリック コングスハウグの手により録音されている。
チャールズ ロイドはECMでアイヒャーと仕事をしなかったら、あまり注目されない、いわば凡百のJAZZミュージシャン、サックス吹きだったかもしれない。この北欧的に涼しくて、少しばかり憂鬱な音のトーン、ECMトーンと呼ぶべき特別な音の温度感・響きが、彼のサックスに付与されたから、彼の音楽は特別な輝きを放つのである。

このLPは元の録音はデジタルであるが、こうしてLPにトランスファーしてみるとCDよりも感慨が深い。何故だろう。冒頭にレクイエムという美麗な曲があり、これが、かなりキャッチー。美しいテーマとアドリブだと思う。LPで聞くと、なるほどサックスの響きの掘り下げが違うか。CDで聞くと、そこらへんがサラッとしていたなと思う。LPだと、フワリとした柔らかさに決意のような太い芯の部分が音に加わるのが分かる。Notes From Big SurはロイドにとってECMで二枚目のアルバムなのだが、一枚目の経験を元として、このレーベルに拠って活動すると、ついに決意しましたよぉというところが、音に出ているのだろうと勝手に想像する。これには証拠もインタビューもなく、ただの私のイマジネーションなのだが、逆に言えば、こういう様々な人間臭い想像を掻き立てる力がデジタルオーディオには薄いのである。表面的な音の良さに囚われている。綺麗だが漫然として音楽が流れるだけだ。一方、LPにはその音質、サウンドトーンに関わらず、そういうヒューマンな資質が元来備わっているような気がする。心の働きがより強く活性化されるようなのだ。

ECMというレーベルは1969年にミュンヘンで設立された当時、CDのリリースはなく、アナログレコードのみでやっていた。その後、CDで新譜をリリースするようになり、当初LPでリリースされたアルバムの多くをCDでリイシューしたのである。だが、結構な数のアルバムがCD化されないままだったし、またCD化されても、そのCD自体が入手困難になったものも多い。ECMは現在、AmazonやHD tracksを通じて売るためのデータファイル化(ハイレゾ、MP3)に力を入れているようだ。つまりCDが売れないということだ。私はそういうデータをダウンロードして聞くが、同じアルバムをLPで、私のシステムで聞くのとは随分な差異を感じる。
手前味噌かもしれないが、大概、LPで聞く方がいいのである、音が。場合によっては圧倒的に良い。
少なくとも、ここで殊更に取り上げる価値のあるハイレゾデータなんて聞いたことはほとんど無い。あれらは持ち運びや保存に便利なだけである。繰り返しになるのだが、MP3やハイレゾなんて売切れることは、まずないのだから、今は買わなくてもいいやと、うっちゃっておいて、LPをいそいそと買い急ぐ。

この音の良さは私のシステムがECMを聞くために作ってきた経緯があるから、だけではない。それならハイレゾデータやCDより、LPの音がいいことを説明できない。これはECMのLPには創生期のECMの生々しい息吹がいささかの劣化もなく封入されているからだと思いたい。

そういうわけで、初期のECMのLPを集めては、ずーっと聞いている昨今なのだ。“ECMはアナログに限る”なんて言いたくはないのだが、無責任に言い放ちたくなる瞬間が寄せては返す波のように訪れるのは事実である。

こうして色々聞いてゆくうちにデジタルに限らず、アナログもなんでも良いわけでないということも分かってきた。大きな期待を抱いていても深く失望させられることはあるのだ。だが、ECMのアナログ盤をレイドバックして聞いていると、もっと多くの音楽をレコードで聴きたいと切に願う私が居ることに気付く。そう願わざるをえないほど音はいいように感じる。こういうアナログの心地よさに対して、発展途上のデジタルオーディオが割って入る余地はまだないようだ。
ここらへんが現状の私のオーディオ生活で一番重要なところもしれない。

「デジタルなんていらない」
そんなショッキングな言葉が吐けるほど
アナログに入れ込んではいないつもりなのだが、
そう呟きそうになる唇をあわてて固く結ぶ、
この休日の昼下がりなのである。
by pansakuu | 2014-06-28 13:56 | 音楽ソフト

モノラルレコード、マルツィ、バッハ、スプーンそして蝉時雨:或る回想


「それがたとえ、全く大したオーディオになっていなくとも、
深く心に残る音となりえることを、日々の経験で我らは知っているのである。
オーディオはいつも音以外の様々な要素に助けられて鳴り立っているからである。例えば、移り変わる季節、昇っては沈む太陽と月、インテリア、部屋の匂い、一杯のコーヒーとそれに入れる砂糖の量、付け合せた一粒のチョコレート、着ている服の色、椅子の柔らかさ、目を通している手紙の言葉など。それら日常の中の些細な出来事は侮りがたい音楽再生のエッセンスになりうる。良かれ悪しかれ、オーディオはそれを聴く者のライフスタイル全てと関わりを持つものなのである。」
1990年の某日のメモより

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私には一年に何回か、オーディオというものにまるで感動しなくなる時期が来る。
これは期待して聞きに行って、あまりにもつまらない音ばかり聞かされた後に決まって起こる。

この前、出掛けた“祭り”は私にとっては、どうも寂しいイベントだった。初公開を期待していた、いくつかの重要なモデルが出てきていなかったし、既に発表済のモデルや、定番モデルの会場での出音もパッとしなかった。今回出てきたいくつかのイヤホンは、音質のうえで随分と進化したことは認めるが、まだハイエンドなヘッドホンにはまるで敵わない。イヤホンを聞いて満足するのは、まだ難しい。丸一日かけて、ほとんどのブースを回らせてもらったが、どこへ行っても、何だ、この程度か、という徒労感があった。

収穫なく帰ったあの日以来、
何を聞いてもオーディオとしてはつまらなく感じる日々が続く。
トキメキが足りない。
しかし、概して、こういう時は、音自体はともかく、音楽に纏わるエピソードとしては面白いアイテムに出会えるものだ。
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今朝、
私の目の前に三枚のレコードが差し出された。
このタッセルのジャケットには確かに見覚えがある。
ヨハンナ マルツィの弾いたバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」である。無論、モノラル録音のレコード。オリジナルは1950年代のEMIの盤である。だが、こちらは入手困難なオリジナル盤ではなく、復刻盤ならぬ復元盤だそうである。つまり可能な限り、このレコードの製作当時の機材を集めてレストアし、往時と同様に稼働させ、オリジナル盤を復元したものであり、最新の技術でマスターテープの情報を余すところなく吸い出そうとしたような、あるいは企画者のこの演奏に対する思い入れが強く入ったイコライジングを施したような、ありがちな復刻盤というものとは異なるらしい。
この盤のオーナーは、3枚組で十何万なんていうレコードを買うヤツは酔狂だ、などと自分のことを他人事みたいに吹聴しながら上機嫌である。
早速、自慢のスパイラルグルーヴの皿回しに乗っけて聞いてみようということになった。
グラハムのアームにつけられたカートリッジは最近発売されたばかりの日本製のモノラル専用のカートである。
私は例によって、クラシック音楽はあまり聞きたくない気分だったが、復元盤というところが引っかかった。どんな音がするのだろう?あの時聞いたオリジナルと比べてどう違うのか?

ちょうどオーナーに電話がかかってきた。
彼が席を外している間、私はターンテーブルの上で、針を落とされずに空回っている綺麗なレコードと鄙びたデザインのジャケットとを、代わる代わる見比べていた。
わざわざ活版印刷された克明なタイトルのアルファベットと、左端にあしらわれた柔らかなタッセルのイラストが、机の奥にしまいこまれているはずの小さな銀のスプーンと、それが私の手に落ちた経緯とを想い起こさせた。
まだ、鼓膜の外には、いかなる音も聞こえないのだが、
既に私の頭の中にだけは、あの夏の蝉時雨が微かに聞こえていた。


ある人を怒らせたせいで、私は真夏のひと月あまりの間、芦屋の親戚の家の離れの部屋に隠れていたことがある。そこは大きな中庭のある洋館のような家で、庭の隅にレンガ造りの離れ座敷があった。湿気が籠って居心地の悪い、窓が一つしかない暗い離れは、その家の主人が書斎に使っていたらしいが、私はその人の顔も覚えていない。かなり小さい頃に、その人に手を引かれて、庭を散歩していたと皆が言うのだが全く記憶にない。そこには私の知らないその人の遺したトーレンスのアナログプレーヤー、マランツのプリアンプとパワーアンプ、そしてアルテックのスピーカーが眠っていた。
当初は目の前のオーディオシステムは結線してあるのかどうかさえ不明であったし、またそれを調べたうえで、その家の女主人である老婦人に許可を取ってまで聞くような気分でもなかった。
私はまず、持ってきたガルシア マルケスの「族長の秋」を読みふけった。二回読んだが、それでも5日とはかからなった。あまりにもヒマだった。
クーラーもない蒸し暑い離れの部屋で窓を開け放つと、青空と入道雲が私を見下ろしていた。

来る日も来る日も、中庭の木々から蝉時雨が降り注いだ。
私はついに退屈に耐えかね、老婦人に許可を得て、アルテックを鳴らしてみることにした。
鳴らすにはレコードが必要である。その家にはパソコンはもちろん、テレビもなく、本もなかったが、ダンボール数箱分の古いレコードがあった。舞い上がる埃に窒息しそうになりながら、箱の中身を調べてみると古いモノラルのクラシック音楽のレコードばかりであった。

私はその頃、世の中の全てのものに食傷し、飽きたような気分であった。その勢いで、クラシック音楽という手垢の付いた譜面を辿る演奏など聞きたくもなかった。それが正しいとか間違っているとかではなく、とにかく、そういう気分だった。しかし、バッハの音楽だけは、なぜか許せるような気がした。私は英語を読むのも面倒だったので、とにかくBACHと書いてあるレコードを探した。

有った。
それが、ここで回っているヨハンナ マルツィの無伴奏のオリジナル盤だった。その頃は彼女の名前は知らなかったし、オリジナル盤の価値など知らなかった。BACHとタイトルにある音楽は、さしあたりそれしかなかったので、それをかけることにしただけであった。
このレコードについてはなんの予備知識もないが、まあ、いいだろう、これはつまらなくてもいいのだ。これはBGMで、退屈を紛らわせることが役目で、音も演奏もどうでもいい。
そう自分に言い聞かせ、まともに動くかどうかテストもしていないトーレンスに、それを乗っけてスイッチをいれた。ターンテーブルは、一応とどこおりなく回ってくれた。手の動きは慎重に、しかし心中では投げやりに私は針を落とした。

音が出た。

蝉時雨の中に、バッハが設計し、マルツィのバイオリンが紡ぎ出す形而上学のような旋律がゆっくりと、しかし確実に溶け込みはじめた。

この時に取ったメモを繰っていると、その時の光景を思い出せる。

私はクーラーのない薄暗い部屋の真ん中に一人座りのソファーを引き出して座っていた。隙だらけの格好で、滲みだらけの天井を見つめていた。私は大概のことに絶望したような気分だった。人間の抜け殻のようなものが、そこに座っていただけだった。あの年の夏は暑かった。真空管アンプの熱はなおさら部屋の気温を上げていた。流れ落ちる汗を拭う気も起らないまま、ボリュウムを上げて、マルツィの演奏に私は聞き入った。モノラルレコードが削り出す、ブロンズ像のような音像がスピーカーからせり出し、蝉時雨とブレンドされて、放心した私に覆いかぶさるように響いていた。アルテックが朗々と歌っていた。あの時の音は近かった。音場というものは、ほとんど感じられなかった。まるで手を伸ばせばマルツィの柔らかな首やしなやかな手に触れることができそうな場所で音を聞いている感覚であり、逆に録音時の部屋の広さや天井の高さなどというものは全く分からなかった。彼女の弓さばきが見えるという感じもなかった。ただ弦が擦れる接点とそれが響くバイオリンの胴の震えが見えていた。音の解像度も低かったし、ノイズも多く、歪みもあったけれど、サウンド全体としての満足度は不思議と高かったように思う。あれは目には決して見えないはずの音自体にダイレクトに迫る再生だったからだろうか。あの部屋でのレコードの演奏は精密なバーチャルリアリズムの世界ではなく、基底現実そのものを突きつけるもので、物理的に実在する、重過ぎぬ重さや熱いとは感じない熱を伴う波動に満ち溢れた音であった。再生音楽でありがら、イミテーションとしての嘘が見当たらなかった。今すぐにでも高いところから飛び降りてラクになりたいと願っている、一人の弱った男を打ちのめすのには、十分な実在感を伴う音だった。

マルツィは、私がその後に聞いた21世紀の凡百の無伴奏とは、異なる奏(かなで)を聞かせていた。現代のバイオリン弾きの歯切れよく、闊達で素早いやり方、技術も情熱も分かりやすく、そして時に過剰に演出されていたり、逆に機械のように淡白な弾き方とも異なっていた。
有名なシャコンヌの冒頭の、一聴してどこかダラッとしたような大らかな弾き方など、私にはかなり違和感があったが、これは時代の味わいであり、香りであると思い直したというか、思い過ごしたのが懐かしい。

バッハの書いた古文書を読み解くマルツィの筆致は大概は軽やかに、しかし時に厳かだった。音色に適度な芳醇さのある彼女のバイオリンの語り口は、あくまで典雅であった。あくまで高潔で、寛容に満ちていた。そして、やはり古風だった。この演奏と再生音のコンビネーションはバッハの作曲の素晴らしさを香り高く伝えるのに十分だった。
私は、その時、バッハという人に、世界はこんなに美しいのだから、まだ生きていた方がいいと言われたような気がしたことを告白する。
当時、私は弱くありたくはなかったし、弱った自分を認めたくなかった。それゆえに、あらゆる救いを求めなかった。しかし、その言葉はどう取り繕っても私にとっての救いとなった。

美しく作られた曲を美しく演奏し、その演奏を時を超え美しく再生する。この音楽体験の最後の部分を担うのがオーディオなのだが、その方法はひとつではないし、最新の方式が過去の方式を否定できるほど単純なものじゃないと、あの音を聞いていて分かった。それまで、モノラルレコードの再生などというものは過去の遺物であり、現代のオーディオにとっては否定すべき異物であるかのように思っていたが、それは間違いだった。

そうは言っても、ああいう古いモノラル録音のレコードを、ああいうヴィンテージのシステムで聴いて感動しようという時は、感性のモードを特殊なモードに切り替えなくてはならないのも確かであった。アナログ再生というのは古典的なお芝居のようなもので、その約束事にしたがったうえではじめて感動が得られるものだといった人がいたが、その通りである。ダイナミックレンジが狭いので、ちょっと大きな音が出ると出音が飽和してしまい、そこを誤魔化したみたいな音が瞬間的に出たりする。全体に微妙に歪んでいたり、バイオリンの音が遠かったり、背景のホワイトノイズが耳についたり。指摘すべきオーディオ的な瑕疵は多々あるのである。また、こういう音に色彩感があるという人がいるが、実はそれは水墨画で言う、墨に五彩ありという意味であり、つまり奏者の手錬手管に触発された聴き手の感性をもって音に色彩を付与せよということでしかないように思う。確かに音像の力強さ・太さや、楚々として清冽なバイオリンの擦れ音の味わいなどはモノラルレコードならではのものである。ただし、それは並み居る欠点を全て無視してから楽しめるものである。古いモノラルレコードを聞く時は、それらもひっくるめて味わいとして楽しめる心理状況に自分を持っていくことが必要な時なのである。とはいえ、その心境は単に寛容になるなどというものとは程遠いのは覚えておくべきだ。それはモノラルのオーディオというステレオとは別な拘りに執着するようになるだけのことである。オーディオはやはり拘りの塊であることには変わりはないのである。

事件が落着し、芦屋の家を出てよいという知らせが来るまでの4週間、私はほぼ毎日マルツィの無伴奏を汗をだらだら流しながら聞いて過ごしていた。他のいかなる音楽も受け付けなかった。

この家のただ一人の住人であった老婦人は私に気を使って、よくお茶に呼んでくれた。
居候の私は、Tシャツにジャケットを羽織り、クーラーのきいた居間に出てきて、小さなカップで砂糖をたっぷり入れたコーヒーをすすった。
こうして何もしないで離れに帰るだけでは申し訳ないと私は思い、持ってきたガルシア マルケスの本の中から、好きなシーンを選んで彼女に朗読してあげることにしていた。孤独な老婦人は大変喜んでいるように見えた。南米の独裁者である主人公が幼馴染の将軍を暗殺したりするくだりがなぜかウケがよかった。老婦人は耳は悪くなかったが、音楽には興味がなかった。一方、目が良く見えない方であり、細かい字などは読みたくても全く読めない状態であったから、この拙い朗読のサービスでさえ、彼女の退屈を紛らわせるには十分だったかもしれない。
ホテルのロビーのような広々とした居間で、毎日、私たちは二人きりで長い午後のお茶の時間を過ごした。ソファーの向こうには木と雑草が茫々に生い茂った手入れのされていない中庭がずっと見えていた。蝉時雨が降り注ぐ、その庭には夏そのものが繁茂しているように見えた。
「あなたの部屋から音楽が聞こえるので、主人が帰ってきたような気になりますよ」
彼女はそう言っていた。その言葉の時だけ、皺の奥に控えめに嵌め込まれた小さな目が輝いたような気がした。
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重たい防音ドアが、まさに重そうに開いた。
静寂は破られた。
オーナーの電話は終わったらしい。
彼は前置きもなくターンテーブルに駆け寄ると
迷うことなくアームリフターに指をかけ、
慎重に、そして無慈悲に、針を盤に降ろした。

最新のシステムと音響調整のなされた明るくて広々したリスニングルームで聞く、復元盤のヨハンナ マルツィの演奏は、あの時とは違っていた。それは、かつて芦屋の夜昼の区別がつかないような離れで、くたびれたソファーに座って私が聞いた音とは似ても似つかないものだった。おそらく、そんなはずはないのだが、私には演奏自体が確かに異なっているように聞こえた。ここで聞こえるのは悪い音ではなく、むしろかなりいい音だった。ノイズは少なく、歪みらしいものは極小、しかもマスターテープからの移行の過程で、復刻盤を作る側のエゴのようなものが載っていないと思わせる朴訥で素直な音だった。モノラル盤の良さである音像の立体的な張り出しも申し分なく、古い録音らしい、その時代特有の香りも高いものだ。にもかかわらず、その感動の段差の大きさに愕然とさせられた。片面を聞き終わっても、マルツィの演奏技術とレコードの造りの見事さ以外は、なにも感じなかった。それでいいじゃないかとオーナーは笑ったが、私は内心で狼狽していた。これだけの再生が出来ているのに、肝心のバッハの声が聞こえない。これは音が良すぎるからだろうか?

ロケハンに行った時にあった雲が、本番の撮影時には(当然)なくなっていたので、そこでの撮影をあきらめたという黒沢明監督の逸話があるが、今朝の再生では、その雲にあたるところの雰囲気が全く欠けていたので、音楽に没入できなかったのだろうと私は思っている。
実際、オーディオを聞く側の心理などというものはオーディオシステム自体にはどうすることもできないものだ。しかし、それは音楽を深く聴き込むという行為には深い影を落とすのだ、否応なく。違う場所、違う時代、違う心で音楽に向き合うのに、同じ感動を求めることはできないはずだ。その時に自分の置かれた立場や心理状況は勿論、周囲のインテリア、空気の温度や湿度、匂いなど何気ない物々さえも、十全の音楽再生の成立を危うくしかねないと知るべきなのだ。特にヴィンテージのモノラルレコードのように、それを聴くために心の準備を必要とするものはなおさらだろう。

私は失望と安堵が入り混じった気分で自分の部屋に帰り、これを書き始めた。
書き飽きると、探し出した小さな銀のスプーンを取り上げて、指でクルクル回した。
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とうとう、芦屋の家を出て、帰れることになったので、老婦人にお礼を述べに行った時のことである。
彼女は、私がお茶の時間に使っていたカップとスプーンを持ってきて、自分の歳を考えると、もう二度とお会いすることもないかもしれないので、記念に持って行ってくれと言った。私はこれだけ厄介になっておいて、なにかをもらって出てゆくのは気が引けた。それに、その日は朝から土砂降りの雨で荷物を増やすのも憚られた。しかし、ご厚意を無にするのもなにかと思い、移動中に嵩張り、かつ破損するやもしれないカップは辞退して、持ち運びやすく壊れないティースプーンだけを取り、レインコートの胸ポケットにしのばせたのである。

かくして、この銀のスプーンは私の手に落ちた。

スプーンに瓢げたような自分の顔を映しながら、あの頃を回想する。
老婦人は彼女自身の予想の通り、既にこの世の人ではなく、芦屋の家も取り壊されて今はない。
私が、あのマルツィのレコードの音を聞いたという直接の証拠はもうないが、このスプーンが間接的にその証になるだろうか?
あの時、カップを貰っておけばよかったのか?あの朝、雨さえ降っていなければ、そうなったかもしれない。今夜、あのカップを出してきてコーヒーでも焙れれば、あの思い出の中の音はさらに香り深いものになったろうか?
マルツィの無伴奏のデータならどこかにあるから、たまには聞いてみようか?
アンプはスタンバイできている。
だが、それは今日聞かされたレコードの二の舞になるのでは?

やっぱりなにも聞かず、アンプの灯は落としてしまおう。
表面上は沈黙と静寂を良しとしよう。
今はただ、あの暑苦しい部屋の中で、
なにかにすがるように必死で聞いたマルツィの無伴奏を、私の中に聞いていたい。
あの夏の蝉時雨とともに。
途切れることなく。

by pansakuu | 2013-05-29 22:34 | 音楽ソフト

さらば SACD:16枚のSACDの私的レビュー

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もう、ここらで仕舞いにしようと思うのはSACDのコレクションである。
これは、確かに細くなっているものの、
SACD自体のリリースがなくなりそうだからということではない。
SACDは、さしあたり絶滅はしないであろう。
そうではなく、私の聞くような、クラシック音楽以外のジャンルのアルバムが
SACDで潤沢に、コンスタントにリリースされる気配が、
もうなさそうだということが最大の理由である。
現在のSACDのニューリリースは大半がクラシック音楽である。
なぜ、クラシックのタイトルばかりリリースするのだろうか?
SACDを買う人がクラシックだけを聞いているとでも思っているのか。
あるいは高音質で聞くべき音楽はクラシック音楽にしかないとでもお思いか。
結局、クラシックのSACDぐらいしか売れる見込みがないということなのだろう。
購買能力や人口構成を見てビジネスをするという合理的な視点に立てば、
一番購買力があり、人口比率も高い団塊の世代をターゲットとした、
このようなクラシック優先のリリースは当然かもしれない。
しかし、この商法は未来への道筋を照らしていない。
新しい人間も、新しい音楽も地球上に次々と生まれている。
何にしろ、この依怙贔屓(えこひいき)は許せない。

しかも、クラシックに限らず、
どのジャンルもリイシューばかりで、新録音がほとんどない。
(ここで言う新録音とは、録音が最近されたかどうかではなく、録音後、初めてリリースされる際に、SACDでリリースされた録音のことを指す。つまりCDで 既にリリースされ、ロングセラーとなり定評がある“安全な”アルバムをSACD化したものではないという意味である。)
アナログレコードについては、クラシック以外のジャンルであれば、新録音のリリースはとても多い。あるお店からロック、ヒップホップ、ハウス、エレクトロニカ等のLPのリリースに関するメルマガをもらっているが、毎週チェックしきれないほど多くの、新たなLPの情報が送られてくる。SACDとは全く違う様相である。
とにかくSACDには、音楽の多様性と新陳代謝がない。

私はSACDには積年、様々な不満を抱えてきたが、
そのほとんどは、今も積み残されたままだ。

例えば、アナログレコードであれ、CDであれ、MP3であれ、ジャンルを限らなければ、その形でしか聞けない音楽ソースというものが少なからずある。しかし、SACDだけは、SACDでしか聞けない音楽というものを、ほとんど持っていない。これも、SACDの存在感が薄い原因の一つではないか。

最近、流行のSACDのデータ版とも言えるDSDのデジタルデータについては、
未だ、ダウンロード等で入手できるタイトル数はかなり少なく、全く心もとない。
そしてSACDは事実上、リッピングができない。
日本国籍を持つ者がこれをやれば、法律違反である。
だが、どんな理由をつけても、CDをリッピングしていいのに、
SACDはダメというのは、私には感覚的に理解できない。
とにかく日本では
入手したSACDをCDのように自分で合法的にデジタルファイル化できないのだ。
しかも、そのリッピングのために必要な装置も、それなりに特殊。
ここらへんもSACDを買わない理由である。
ただし、これは結局、日本人であることを捨ててまで、
オーディオに打ち込む覚悟はないということでもあり、
私のオーディオに対する情熱など、たかが知れているということにもなるが。
そういうわけでDSDのデータが私の手元で増える気配はない。

PCMのデータについては、ハイレゾはともかく、
普通の16bit,44.1KHzのデータなら
個人で、いくらでも簡単に増やすことができる状態であるが、
DSDはこういうことはできない。
最近発売されるDACの多くがDSD対応を誇らしげに謳うが、
これで一体なにを聞けというのか?
PCMをDSDに変換するソフトもあるが、
それはDSDのシンプルな変換という利点をスポイルするのではないか。
こういうDSDデータのハード先行状態はいつになったら解消されるのだろう。
DSDがPCMデータのタイトル数を追い越すことは有り得ないという見方もある。
またハイレゾPCMとDSDの質的な差は明らかではないという人もいる。
この状態が長引けばSACDと同じ道を辿りかねないのではないかと危惧する。
DSDデータの拡充に関しては音楽業界の努力にたよるのが専らで、音楽好きの一般大衆は、それを買って感想をブログに書くくらいしかできることはない。DSDデータが爆発的に売れて、音楽業界に大きな利益をもたらし、DSDデータのタイトルがさらに数を増やすという図式が成り立ちそうもない状況下では、そういう危惧も出てしかるべきだ。

評論家の方々はDSDデータの宣伝に余念がないが、
今は滅びゆくSACDについても
彼らは以前、提灯記事ばかり書いていたことを私は忘れていない。
それは職業として、また音楽業界振興のため仕方ないこととはいえ、
今となっては、あまりにも軽い言葉だったのではないか。
DSDデータの音の良さは認めるが、
これがオーディオファイル用の音源として
メインストリームになるかどうかはもっと長い目で見ていくべきだ。
まだまだ分からない。

SACDのハード面に関して言えば、
まず、SACDの再生を担うドライブメカのバリエーション不足は否めない。
ハイエンドオーディオ用としては、
実質的にエソテリック製のメカ一択にほぼ近い状態と考えられるが、
エソテリック一社で、この種のこのレベルのドライブメカを
いつまで供給しつづけることができるのか、強烈な不安を感じる。
エソテリックの工場の見学記などを見ると益々、その感を強くする。
日本の家電全体にそうなのだが、
この先、大きく売れる見込みがないものを丁寧に作りすぎている。
こういうモノ作りは感動的であるが、会社の経理を悪くさせるかもしれない。
感動するものと売れるものは別物である。
最近、ある若い人とSACDを聞いたら、音楽を聴くためにディスクを出し入れするのを初めて見て驚いたと言っていた。こういう若者は数多い。彼らはダウンロードしたデータでしか音楽を聴いた経験がないのである。
つまり、現況として、音楽そのものと関係のないオマケがついていないシルバーディスクは売れなくなっているのだから、それを回すメカの供給も抑制されるのは言うまでもない。そういう状況で採算が取れるものなのか?一般人には信じられないほどドライブメカの単価を高くしないと儲けは出ないだろう。しかも、ハイエンドオーディオ用としての使用に耐えるオリジナルのSACDドライブメカの生産は、現在、ハイエンドなアナログプレーヤーを作っているような個人企業に近いメーカーには困難なものである。すなわち、これがダメなら他があるさ、という状況にはなりにくい。
オーディオ誌ではこの手のペシミスティックな論調は禁句らしいので、全く聞かれないが、本当に彼らには危機感がないのだろうか?そんなことはあるまい。

また、実際、SACDに対応するドライブメカの耐用年数はどれくらいなのか?
CD専用のものと同じなのかどうか?
実際に、ドライブメカというものは明日にでも壊れるかもしれないもの、
ということは経験で思い知っている。高価なプレーヤーだけに、
いつまで修理、交換が可能なのかは常に気になる。
さらにセパレート型のSACDプレーヤーについては、
トランスポートとDAC間のデジタル伝送形式がメーカーごとに異なることも、
中古市場で代わりのトランスポートのみ、
あるいはDACのみを探すときのネックになっている。

実はSACDについては、今まで述べてきた意味とは、
また別な意味でも難しさを感じながらやってきた。
つまり、
SACDの難しさのひとつはSACDプレーヤーの選択の難しさであるということだ。
10年前からそうだったが、
SACDの本当の良さをリスナーに
心底から分からせてくれるプレーヤーが少ない。
今使っているのはPlaybackのMPS-5であるが、
SACDプレーヤーの入れ替え、入れ替えで三台目、
やっとめぐり合えたものである。
MPS-5は賛否両論あるプレーヤーだし、
この音が嫌いな人、飽きる人がいても仕方ないと思うが、
私にとって、彼はSACDの本当の良さを教えてくれた恩人であり、
おそらく私にとって最後のシルバーディスクプレーヤーでもあろう。

ではSACD再生に適したプレーヤーの条件は何か?
ここまで言っておいて情けないのだが、実はよくわからない。
やはり試聴を繰り返して経験を増やし、本来のSACDの音を知り、
納得ゆく音を出すSACDプレーヤーを、さらに試聴して探す以外にはないと思う。
手がかりはPCMを経由しない、DSDダイレクト変換かどうかということだろうか。
SACDの良さが出るか否かは
シンプルな過程で変換されるか否かにかかっているように思う。

さらに、SACDは、
現代的で優れたアンプ、スピーカーを擁するシステムで鳴らさないと
本当の良さが分かりにくいということもある。
そうでないと本来の感動が来ないことを、ここ数年で知った。
全体として音の鮮度の高さと空間性が両立しているシステムでなくては、
SACDの良さを表現しきれないのである。
最近、dcsのVivaldiというシステムを何度か聞く機会があった。素晴らしいSACD再生を聞かせるシステムである。しかし、あの音を飲み込んで、十分に消化して吐き出せるアンプ、スピーカー、ケーブルを考えると、もともとVivaldiシステムが高価すぎるのに、さらに半端ないオーディオへの投資を迫られることを考えて気が重かった。ある程度、これを買おうという高揚した気分のもとに試聴したのだが、これは本体以上に周りが良くないとダメだなと思い、自分のシステムではその良さを引き出せないと知ったのである。

こういう事実からして、
SACDの本当の良さは、
オーディオファイルの中でも限られた人にしか理解されていない。
私もSACDの良さを求めて10年も取り組んできて、
本当にそれが分かったような気分になれたのは、
システムがそれなりに充実してきた、ここ数年のことに過ぎない。
こんなことだから、SACDが普及しないのかもしれない。

こうして考えてゆくと、
少なくとも、今の状況ではスーパーオーディオCDというデジタルパッケージには
明るい未来がないように思う。
状況が変わらないかぎり、
私はSACDを新たに買い足すのは手控えようかと思っている。
具体的には、クラシック以外、特にロック、ポップス、R&Bの名盤の
マスターテープからのSACD化が大幅に促進されること、
新録音のSACD化が大幅に増加すること、
さらにSACDドライブメカの信頼の置ける供給元が新たに現れることが、
本格的なSACD収集を再開する最低限の条件だが、ここ10年間の流れを見ていると、
これらが満たされることは、ほとんど有り得ないことのように見える。

今回は、私がいままで集めて、聞いてきたSACDのうち、
音質・内容ともに、自分で気に入ったものを選んでレビューし、
ここ10年ほどの自らのSACD収集の一応の区切りとしようと思う。

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by pansakuu | 2013-03-23 11:46 | 音楽ソフト

What's the Story Morning Glory :OASIS(single layer SACD)SONY(2003)

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こういうSACDもあるのである。かなりメジャーなアルバムだが、SACDとなれば、OASISのコアなファンもご存知ないほどのレア盤となる。もともとCDバージョンを聞いていて、このアルバムに収められた音楽がHi-Fiを目指したように聞こえなかったので、SACDバージョンをリリースして何になるのか?と思っていた。しかし、このSACDをMPS-5に滑り込ませて、プリアンプのボリュウムをギュッと上げて見給え。CDとは桁違いの音の拡がりと、意外なほどの力強さが、部屋いっぱいに拡がる。一緒に大声で歌いたくなるほどウキウキが、このSACDには隠れている。例えばビートルズをリアルタイムに最高の音質で聞いたら、こんな感じだったに違いない。あくまで大音量で堂々と鳴らすこと、そしてDSDダイレクト変換を事とする強力なデジタルプレーヤーが必要だが、価値ある一枚である。ところで、このアルバムのジャケット写真はロンドンの中古レコード店街、Berwick Streetで撮影されている。このジャケットを眺めながらSACDを聞いていると、なぜかアナログレコードが恋しくなる。SACDからアナログへの回帰が私の中で始まっているのかもしれない。

by pansakuu | 2013-03-23 11:40 | 音楽ソフト

Never Too Much:Luther Vandross(single layer SACD)SONY(2000)

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偉大なR&Bシンガー、ルーサー バンドロスの事実上のファーストである。SACD盤は音の鮮度がCD盤とは明らかに異なり、跳ねるようなリズムから感じられる生命感に満ちた瑞々しいサウンドが、広大なサウンドステージを満たす。若き日のバンドロスの、ほとばしるようなエネルギーを備えた、しなやかな声がSACD特有のキメ細やかな音の描写法に見事にマッチする。もともと録音も良く、マーカス ミラー、アンソニー ジャクソンをはじめとするバックの演奏も最高、ボーカルは弾けていて非の打ち所のないアルバムであるがゆえにSACD化の意味はある。このアルバムに横溢するアクの強いボーカルスタイルは、歌唱に込められた喜怒哀楽を突きつけるようで、どこか脅迫的だが、最後のフレーズが消えた後に残る余韻は、いつもしんみりしている。この寂しげな余韻がいい。やがて悲しき・・・となるのはAIDSにより非業の死を遂げた彼の運命が脳裏によぎるからだろうか。なぜか、ここのところの感情移入がCD盤よりもSACD盤がしやすいのが不思議だ。

by pansakuu | 2013-03-23 11:39 | 音楽ソフト

Minimum Maximum:Kraftwerk(Hybrid SACD)EMI(2006)

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2004年4月から5月にかけてのワールドツアーのライブアルバムである。 各地の公演をからのコンピレーションアルバムである。クラフトワークは私の中ではテクノの始祖であるが、現代の音楽に彼らが与えた影響は、まだ測りきれてはいない。まだあれから10年も経っていない。この二枚組のライブアルバムは、彼らがステージの上にシンセサイザーを前にして、ズラリと横に並ぶスタイルで演奏する様子を、サウンドスケープで活写する。彼らが使っていた、あの頃のシンセサイザーの音には、不思議な軽みや丸やかさが混じりこんでおり、現在の打ち込み音楽に多い、耳を刺すような硬さがない、どこかアナログ的なテイストを感じる。SACDはこのようなシンセの音のテクスチャーの違いを雄弁に語る。また、SACDに特異的とも思える空間性の向上はライブアルバムの臨場感をより細かく伝えることは言うまでもなく、会場のエアボリューム、温度感の描写において、CDとの差は明らかだ。確かに、こういう音楽のライブを高音質で楽しむこと自体に意味がないと考える向きは多い。しかし、これについては、個人的嗜好を超えて、重要な音楽史の記録であるがゆえ、可能な限り鮮明な再生が、故きを温ね新しきを知るためにどうしても必要だと私は思っている。

by pansakuu | 2013-03-23 11:37 | 音楽ソフト

Home Girl journey (Akiko Yano)Epic(ESGB302)(SACD)2000

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このSACDは非常に入手しづらい。しかし、このSACDは聞きモノである。
もともと、CDで聞いても、カバー曲の多い、ざっくりとした飾らない雰囲気ながら、その生っぽさが際立つアルバム。SACDだと鮮度が一段以上も上がる。
昔、SONYのカセットテープレコーダーでバンド演奏を生録し、プレイバックしていたときの音の手触りが蘇る。人工的な現代風のサウンドスケープとはまるで違う宅録の世界である。素晴らしく個性的な録音で、冒頭のハンドスラップの響きから、ピアノの生成りの音、特徴的な矢野顕子のボーカルスタイルがスッピンで聞ける。まさに彼女の部屋に招かれて目の前で、彼女の弾き語りを独占するような錯覚に陥ることができるのだが、先述のようにCDとSACDでは生々しさのレベルがかなり異なる。SACDのスッピン度を体験したら、CDは売ってしまいたくなる。彼女の音楽の評価にはそのスタイルの好き嫌いで大きい差があるのだが、そんな嗜好云々をさておいて、このSACD一枚を通しで聞き終えたときの満腹感は音楽的にも、オーディオ的にも格別のものがある。生音がいいというオーディオファイルは少なくないが生音って何?と訊きたくなるアルバムでもある。このアルバムの音は、私はとても生っぽい音だと思うが、こういうサウンドは他のSACD、CDからはほとんど聞けていない。では皆さんはどんなアルバムの音を生っぽいと言うのか?結局、そういう判断に基準はなく、人それぞれなのだろう。

このSACDは手に入りにくいと言った。当然、プレミアつきで取引されている。最近、気が付いたのだが、ダウンロードされるハイレゾデータには、このような希少性はない。目ぼしいものが出ても、すぐに飛びつく必要はない。いくらでもあるものなのだ。いくらでもすぐにコピーできるもので、在庫という形はないから、いつまでもネットショップに出しっぱなしになっている。一方、このSACDのように目の前に一枚しかないものである場合、その音を聞きたければ、今すぐ大枚をはたく必要がある。誰かが買う前に。その素早い行動にはスリルもあるし、手に入れた時のワクワクも大したものである。音楽をダウンロードする時代になり、この手のスリリングな体験は少なくなってきた。こう思うとき、私はこのSACDが無性に愛しく思える。古い考えだろうか。

by pansakuu | 2013-03-23 11:35 | 音楽ソフト

Great American Song Book:Carmen Mcrae(single layer SACD)Warner(2011)

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一般にスッキリした音になるというSACD版であっても濃厚な味わいは出るものだという例である。サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドと並ぶ三大女性ジャズヴォーカリストのひとりであるカーメン マクレエである。さすがの貫録。歌以外にもジョー パスなど、バックのメンバーの演奏も素晴らしい。ロスのダンテという名前のライブ・ハウスでの録音であるが、この時代のロスの空気がリスニングルームにやってきたように感じる。
このディスクに収められている円熟味溢れるカーメン マクレエの歌と軽妙でフランクな語りは、クリアーだが色彩感としてやや淡い音調に傾くと思われているSACDの傾向を払拭しているようだ。私にはブラックミュージック特有のバタ臭さがSACDの音質を改変するなんてことは私には考えられない。実際にはSACDには音数は多いが実在感が薄いという音質的傾向などというものはなく、ディスクに刻み付けられたデータをありのままに再生する能力しかないはずだ。SACDの器そのものとは関係ない、なにかが、音質的な傾向を形作っているのだろう。おそらくそれは録音とかリマスターとかのSACDの製作過程やSACDプレーヤーでの再生プロセスの中に入り込むものなのかもしれない。大概のSACDは音は細かいが、スカスカした薄味だとお思いの方は、このSACDを試してもいい。このSACDでは広大な音場や澄んだ空気などがあまり感じられず、代わりに、それほど広くない会場での観客とミュージャンの親密な交流がよく見える。私のSACDプレーヤーはわずかにセピア色を帯びたカーメン マクレエのボーカルの音色を私のイメージどおりに出してくれる。こういうときはなぜかJBLをスピーカー持って来たくなる。

by pansakuu | 2013-03-23 11:31 | 音楽ソフト

Sleepwalk:Larry Carlton(single layer SHM SACD)Warner(2011)

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邦題は確か「夢飛行」だっただろうか。ラリーカールトンのギターの出音の心地よさが際立つアルバムである。クリーンで、少し冷たさをはらんだ空気の中に伸びやかに拡がる彼のギターサウンドは、精密な質感、音場展開を得意とするスピーカーが好適である。B&W 800Diamondによる再生では、部屋の中に音波が美しく拡がる様が目に見えるように感じた。絵にすれば、波のない夜の水面に滴下される水滴、それが作り出す輪のような波紋が、互いに干渉しながら水平に拡がるというビジュアルだ。これを引いた視点で眺める贅沢なリスニングはSACDならではの澄んだ音場あってこそだろう。音楽の傾向自体は多少古臭くて、所謂“泣き”ギターなんかも存分に聴かせるのだが、発売当時はこの音質では聞けなかったので、その美しさは充分に堪能できてなかったと確認したりする。リイシューのSACDの良さがここにある。それにしてもラリー カールトン、このアルバムのクレジットによるとアレンジとコンダクターの両方をやっているとある。こういう人は本当に才能があるのだろう。

by pansakuu | 2013-03-23 11:29 | 音楽ソフト

スターダスト・ランデヴー井上陽水・安全地帯LIVE AT 神宮:(Hybrid SACD)Universal(2004)

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時代を感じるSACD。1980年代の音楽は、今よりは呑気で、どっか雑で緻密さに欠けた感じだったが、勢いには満ちていた気がする。80年代の音楽を聞くと大抵は丁度良く色あせて見えるものだが、このSACDで聞くと昨日のことのように鮮明に聞こえる。陽水・玉置の声の伸び、活き活きとした躍動がSACDでは一層深く味わえる。
このとき安全地帯は陽水のバックバンドではなく、対バンとしてステージに上っているので、対等に渡り合うかのような堂々たる玉置の歌いが素晴らしい。
現在の陽水のちょっとクサすぎる歌いまわしとは一味違う、例のリバーサイドホテルも聞きモノである。このアルバムの録音は神宮球場ということで、音のスケールが大きい。
できれば大型システムで大音量でかけたいものだ。以前、MEGのME901KAで、これを聞いたときの音像の迫力と神宮を埋めた見渡すかぎりのオーディエンスの存在を感じる空間のひろがりの両立には一聴する価値がある。

by pansakuu | 2013-03-23 11:29 | 音楽ソフト