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アニソンとハイエンドオーディオの関係:“痛さ”の受容


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痛い:
非常識な様。本人は格好いいと思っているにもかかわらず、客観的にみると非常識であり、そのギャップが痛々しい様。・・・・・
byニコニコ大百科


ハイエンドオーディオの機材をズラッと揃えた試聴会に出席すると、時々フリータイムというものが設けられることがあります。出席者が持ってきたディスクをそこにある装置で自由にかけてみるというサービスの時間帯ですね。ここではディスクを差し出した本人以外は、その内容がなんであるかは事前には知らないわけで、なにがかかるのか楽しみである反面、ディスクを差し出した本人はそれが上手く鳴るだろうかと不安になっている場面でもあります。
演奏がひととおり終わると、試聴会に招かれていた評論家や代理店の方がいい演奏ですねとか、いい録音ですねとかコメントを述べることも多い。
そのコメントの瞬間にディスクを差し出した本人のオーディオのレベルが格付けされるような気分があるのも間違いない。だから試聴会のフリータイムで自分の愛聴盤を出すのはちょっと気が引けるという人もいます。

ハイエンドオーディオの概念がマークレビンソンらによって確立されはじめた頃、その対象となる音楽はクラシックかモダンジャズでした。それにややおくれてロックやポップスがハイエンドオーディオで鳴らす対象となり、試聴会でも頻繁にかけられるようになってきました。それらの中には有名な作曲家、演奏者、プロデューサー、録音技師の手になる多くのアルバムがあり、様々なタイプに分かれてはいますが、いずれも芸術性の高さは音楽評論などを通して折り紙のついたものでした。一方、それを演奏するハイエンドオーディオはすこぶる高価で、高い性能を誇る機材の集合体ですから、当然のようにそこから流れ出る音楽にはなんらかの権威により裏付けされた高い品格があったほうがよいという不文律があるように思えます。そう、ハイエンドオーディオというものは、ステータスのあるリッチな大人の趣味であって、姿も音も、どこに出しても恥ずかしくないほど格好良くなくてはならないのです。これは無言の圧力であり、試聴会のフリータイムという取るに足らない場面にすら、雰囲気として漂っているようです。その雰囲気は初心者がハイエンドオーディオに入って行きにくい心理的な敷居の高さをも演出しています。

5年ほど前からだと思いますが、私は、この試聴会のフリータイムで時折、アニメソングつまりアニソンを聞くようになりました。これは高級オーディオ専門誌では、あまりおおっぴらには語られていないようですが、デジタルファイルの普及と同じくらい大きな変化だったのではないでしょうか。
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なお、ここではアニソンの定義について、あえて細かく述べません。アニソンと一口にいってもかなり様々な傾向の音楽を含んでいて複雑だからです。私は話をできるだけ単純化したい。今回述べるアニソンとはアニメに関連した音楽一般を指しますが、もっと具体的には予備知識なしに聞いて、これはアニソンだと分かるような音楽を指していると思って欲しい。いわゆる萌えオタ向けのアニソンなどが、ここで取り上げる主なものであり、懐古的な昭和のアニソンなどはあまり眼中にないのです。

このアニソンの入ったCDをハイエンドオーディオシステムの前にまるで生贄のように差し出す人々は、大概はヤセ型か、あるいはかなり太った若いメガネ男子です。なにか堂々とディスクを出すというよりは、おずおずと恥ずかしそうに鞄の奥からディスクを出してきて、担当者にそっと渡すような仕草が共通しています。中身は若い女性の甲高い歌声の入ったアップテンポの明るい曲が多いのも共通項です。声優風の節回し、声のトーンもステロタイプ。演奏中は聞いている本人は大概ジッとしていて、足でリズムをとるわけでもない。傍で聞いている私は、それまでかかっていた音楽とあまりにも傾向の違う音調に面食らってみたり、自分の曲でもないのに、なぜか恥ずかしい気分になったりして、曲が終わるまでどうもいたたまれない。なぜなのか説明できないが、少なくとも数年前まではハイエンドオーディオシステムでアニソンをかけるのは、かなり強い違和感があったのです。
曲が終わると彼らはうやうやしく礼を述べ、腰を低くしてディスクを受け取る。これも常套的な態度です。彼らは礼儀正しい。
この礼儀正しさにも関わらず、アニソンの場合、最後の所で、参加している評論家や代理店の方が、その音楽や音質についてコメントを述べないことが多い気がします。場合によっては無言で次のディスクにかけ替えるのです。そこには、なにか異質なものがオーディオに入り込んだ偶然を、なかったことにしたいような空気が流れているのです。

こういう場面に何度も出くわすうちに馴れたのか、最近の試聴会でアニソンを聞いても、わけのわからない違和感、私が感じる必要のない羞恥心は幾分薄れてきました。ですが、それが完全になくなる気配は感じないんですね。
ロックやポップスがそうであったようにアニソンもハイエンドオーディオのソースとして自然に体制に組み込まれるものだと信じてきたが、なかなかそうはならない。
私はここ数年ずっと、この違和感に自分なりの決着をつけたいと考え続けてきました。

ところで、最近、ある有名なJポップのグループがアニメのテーマソングの製作を打診されたのに、断ったという話を聞きました。そういう音楽を作るバンドだというレッテルを貼られることを嫌がったのだと聞ましたが、本当でしょうか。音楽業界の今の苦しさから考えて、せっかく来た作曲の依頼を簡単に断るなどありえないと思うのですが、アニソンに関しては初めて聞く話でもない。こういう話があることからも、やはりアニソンという音楽は大人の男が聴くにはそぐわない音楽として見られている節があります。まだまだアニソンは日本の社会の中では“キワモノ”として捉えられています。これはアニメそのものが大人の鑑賞(み)るものとして認識されていないこととも関連がある。さらに進めて考えれば、それはアニメそれ自体だけでなく、アニメを社会人なっても楽しんでいる男女に向けられた偏見とも関連しそうです。

反面、クラシックよりもJAZZよりもロックよりも、アニソンを愛する若者たちを私は大勢知っています。彼らの多くは、知ってか知らずか、万策堂の知り合いであるからして、オーディオを愛してもいます。だから当然、アニソンをハイエンドなオーディオシステムで存分に楽しみたいという願いを抱いています。彼らは自室にこもり、アニソンを自慢のシステムで密かに鳴らすのです。スピーカーシステムであることもあれば高度なヘッドホンシステムであることもありますが、自分に出せるだけのカネを出して、知恵を振り絞って、いい音でアニソンを真面目に聞こうとしておられる。そこには嘘偽りのない純真なハイエンドオーディオ魂が見え隠れするのです。ぶっちゃけた話、若いアニソンマニアが今一番オーディオを勉強しているし、老人たちよりも大きな金額を使っている人もいます。
特にアニソンにはボーカルの美があり、それをより美しく聞くことに執心するアニソンマニアは途切れることはないのです。
だが、そういうダマシイの世界も一歩、自室の外に出れば冷たい偏見をもって迎えられる場合が少なくないようですね。
以前、私の周りに自分の職場ではアニソンについては決して語らないと言う若者がいました。それはカミングアウトするようなものだと彼は言いました。この趣味がバレるのが怖くて彼女ができないとまで言ったのです。そんな大袈裟な、と笑いながら振り返ったときに見た、彼の妙に真剣な眼差しが忘れられません。
いったい、誰が彼をそこまで迫害したのでしょうか。

とにかく、アニソンをハイエンドオーディオで聞くことは恥ずかしいことか、というのが今回の空論のテーマなのですが、まず、そんなことは考えるまでもなく、恥ずかしくないに決まっています。
だいたいオーディオシステムで何を聞こうと個人の趣味、アナタの勝手ではないか。
しかも、例を挙げる必要もなく、現代ハイエンドオーディオで頻繁に取り上げられている音楽が、最初から格調高い音楽として認識されていたわけではないことは周知のこと。全ては様々な形で後付けされた権威により、高い芸術性が担保され、安心して聞ける存在になっているに過ぎないのです。

しかし実際には、アニソンを敷居の高いハイエンドシステムで聞くことに恥ずかしさがつきまとうことは否定できない。このようなアニソンの恥ずかしさの源泉としてすぐに思い当たるのは、その宿主であるアニメ本体にまつわる恥ずかしさです。それを知るにはガルパンを見ている時に感じた、あの支持者たちの熱狂と冷たい世間の視線とのギャップについて想起すれば足りるでしょう。
しかし、これは不公平な状況ではないかと私は思います。例えばヨーロッパの文芸的な恋愛映画によくある、赤の他人だった男女が出会ってから一秒で恋に堕ち、数時間を待たずして行為に至るというようなシーン。(映画「そしてデブノーの森へ」や「ダメージ」などで見るシーンである)ここでは必ずと言ってよいほど、相手はかなりの美女です。(アナ ムグラリスが美人というのには異存ないと思うが・・・・ジュリエット ビノシュも十分に美人ということにしておいてほしい)こういうシーンは美しい異性への絶望的な願望から生まれた場面であり、通常はほぼありえないことでしょう。このような芸術映画のシュチュエーションのありえなさは、ガルパンの世界観のありえなさと基盤を同じくするものではないでしょうか。ここで片方が芸術作品と呼ばれ、もう片方はモテないオタク向けのサブカル映画として白眼視されるのは、とても不公平です。ああいうアニメが本当に恥ずかしいものなら、文芸的な恋愛映画の少なくとも一部は極めて恥ずかしいものと言えましょう。だが実際、世間ではそうは言われていない。こういう不公平な認識がまかり通っているのはおかしい。エヴァやハルヒ、けいおん、マギカ、ラブライブ!、ガルパンの大きなブームを経て、この手のアニメはネットを介して流行する重要なコンテンツとして定着し、日本の中では大きな文化の流れとなっているにも関わらず、実写とアニメの間にある不公平感はなくなっていないのです。
(エヴァ、ハルヒ、けいおん、マギカ、ラブライブ!、ガルパン全てに共通するのは少女がメインキャラクターであること。恐らくこの不公平は少女を偏愛する大人を危険視する社会の態度に由来するのでしょう。)

このようなアニメを取り巻く不公平な文化的状況はともかくとして、これだけアニソンについてハイエンドオーディオ界の受容が本格的に進まない背景には、その理由が一つではなく、数多くあって、なかなか減らないことがあると思います。
例えばハイエンドオーディオを実践しているのが圧倒的に老人が多くて、アニソンにまるで馴染みがないこと、アニソン自体にリッチな雰囲気がなくてリッチな趣味であるハイエンドオーディオに合わないこと、アニソンを高音質で聞きたいというリスナーがまだまだ少数であること、アニソンに音楽の権威による裏付けがなく文化的には格が低いサブカルな音楽と見なされていること、ステサンなどの高級オーディオ専門誌やオーディオ関係の大物ブロガーもアニソンをあまり取り上げないこと、アニソンのほとんどが音質的にハイエンドオーディオ機材で聞かれることを意識して製作されていないこと(Hi Fiで聞くとむしろ聴きづらくなってしまうものもある)、特定の時代のJAZZを得意とするオーディオシステムがあるようにアニソンになかば特化したようなシステムが登場しないこと、アニソン自体がアニメ作品なしに成り立たず、独立した音楽のジャンルとしてはまだ立場が弱いこと等々、様々な要因を挙げることができます。
アニソンには不備が多い。だから敵も多い。

でもここで、一番ディープな問題はそんなことではないと思いませんか。アニメやアニソンの本質にいわゆる“痛さ”が多かれ少なかれ、ほぼ必ず含まれることが最も根源的な問題なのではないでしょうか。
“痛さ”というものが中二病的な“恥ずかしさ”の発露であるとするなら、アニメやアニソンにまつわる行為の少なくとも一部は世間一般から見たら恥ずかしいことをあえてやることです。ハイエンドオーディオでアニソンを聞こうが、ローファイな機材で聞こうが、それは本質的に“恥ずかしさ=痛さ”を含んでいることが多い。そうでなくては恐らくアニソンはアニソンらしくならないのでしょう。“痛さ”を伴う音楽はアニメと関連がなくてもアニソンに聞こえるし、“痛さ”と決別したアニソンは、予備知識なしには最早アニソンに聞こえず、萌えない。
この法則を知らない、もしくは忘れていることが行き違いの始まりなのです。
アニソンという本質的に痛さを伴う音楽を、“痛さ=恥ずかしさ”を排除し、格好の良い音あるいは正しい音を出そうとしているハイエンドオーディオという趣味に持ち込む。その場面で我々が違和感や羞恥心を感じることは必然であるにも関わらず、ハイエンドオーディオは常に、それとは反対方向の音を求めている。この方向性の行き違いが違和感の元ではないかと。
つまり、アニソンを聞く時は、この“痛さ”を受容して楽しめるように、リスナーは頭を切り替えることが必要になるのです。この当たり前にすら見える、頭の切り替えの必要性がアニソンに不慣れなオーディオファイルに認識されていない、あるいは無視・拒否されているのが現状なのではないかと思います。

さらに、ここでハイエンドオーディオそのものを醒めた視線で見つめ直すのもいいかもしれないですね。
そもそもハイエンドオーディオファイルが“格好の良さ”や“正しさ”あるいは“原音再生”などというものにカネをかけること自体、一般人にとっては理解を超えたバカバカしさなのではないでしょうか。ウォールストリートジャーナルにマイ電柱を立てる日本のオーディオファイルの写真と記事が出ていましたが、オーディオに関心のない者から見れば、あれこそ中二病的な“恥かしさ”満載の行為と言えなくもない。これを見るとアニソンとハイエンドオーディオ、その根っこは案外と似たり寄ったりなのかもしれないと思うのです。だから彼らがアニソンに慣れることは可能であり、その“痛さ”を受容すべく頭を切り替えることも、不可能でないと私は信じています。

とかなんとか言いつつも、私は、いじめられる人間にもいじめられる理由が存在するという法則を忘れたくない。
偏見を持たれる人間には、その偏見に値するだけの理由があるのかもしれぬと考えるのがバランスの取れた見方というものでしょう。
確かにアニソンには先述した以外にも、至らぬ点があります。
私はアニソンのほとんどが音楽のプロが集結し、苦労して作りこんだ作品であると考えていますし、演奏や歌唱のレベルの高いものが少なくないと思っています。だがそれだけで、アニソンを尊敬してもらおうというのはおこがましいと思います。アニソンは音楽の内容が薄い。特に歌詞が弱いです。本当に自分の言いたいことを吐露しているように聞こえない。テレビで流すことを前提としているせいか、作品世界に制約されているのか、まるで自己規制をかけているかのように、上滑りな、言い足りない詞が圧倒的に多い。文学的なセンスやテクニックにも欠けています。まるで天才の登場を拒絶するかのような、無個性で平均化された音調も芸術性に欠けるような気がします。
さらに言えば、アニソンは、異性への願望に基づく妄想以外のテーマを作曲者、演奏者の持つ強い個性に載せてアピールしないかぎり、過去の偉大な音楽作品を超えて、ハイエンドオーデイオに馴染む資格は与えられないでしょう。この音楽に関わるアーティストには、今のアニソンの様式美の枠を壊す勢いが必要だと思うのです。

今の時代に新しい音楽を生み出す事が苦しいのは知っています。これほど膨大な過去の音楽遺産を背負い、その栄光と重みを否応なく意識しながら、新しい音楽を生み出すことに困難さがあります。最新の音楽を全く聴かなくても、過去の莫大な音楽遺産を少し掘り返すだけで、一生かかっても聴き終わらないほど多くの音楽に出会える時代です。中古レコード屋の片隅を掘削して得られる、日の目を見なかった秀曲を聞いた後、今のアニソンなりEDMなりを聞く時の手詰まり感といったら、時に息苦しい。美しい歌詞とメロディ、素晴らしくインパクトのあるビートを人類は既に使い尽くしてしまったのではないかと疑いたくなほど。そして過去の音楽を掘れば掘るほど、新しい音楽が陳腐な剽窃にしか聞こえなくなる現象が私の中に起こるのです。そういう現実はPerfumeを聞いてもBabymetalを聞いても払拭できるものではない。アニソンに限っても昭和のアニソンだけ聞いていて趣味として完結できなくはない。つまりハイエンドオーディオの存在とは関係なく、新しい音楽に過去の音楽を超える何かを求めることは難しい時代になっているのです。アニソンにかぎらず、この状況下で新しく生れ出る音楽に多くを求めることは酷かもしれない。

しかし、音楽については過去だけを見ていながら、機材については未来志向で揃えていくというのは、どうも矛盾してはいないでしょうか。
シンゴジラの後ろ三分の一を覆う希望的な雰囲気を象徴する、矢口 蘭堂の台詞「日本はまだまだやれる」ではないですが、「音楽はまだまだやれる」と私は前を向いてつぶやいてみたいものです。紆余曲折あっても前へと進もうとするハイエンドオーディオの良き伴侶として、優れた内容と音質を備えた前衛的なアニソンが生まれ、(それは見たこともない前衛的なアニメが生まれることと同意なのですが・・・)アニメファン以外の人々にも受け入れられる時代が来ることを願ってやみません。

by pansakuu | 2016-09-02 23:23 | その他